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第十一話 完璧な彼女が、たった一度だけ順番を間違える夜

 正しい人間は、崩れ方まできれいだと思われがちだ。


 実際には逆だ。


 ずっと正しさの形を保ってきた人ほど、崩れる瞬間の扱い方を知らない。どこまで見せていいのか、どこで止めればいいのか、どこから先が「迷惑」になるのか、その境目を経験で覚えていないからだ。


 だから、ほんの小さな順番違いでも、自分の中では大事故になる。


 言うべき言葉より先に息が漏れるとか、持ち替えるはずの資料を落とすとか、平静な声のまま目だけが追いつかないとか。


 他人から見れば大したことじゃない。


 でも本人にとっては、たった一度の失敗が、その日全部を塗りつぶすこともある。


 文化祭前夜の学校は、そういう“たった一度”が起きやすい。


    ◇


 文化祭前日。朝から、学校全体が浮き足立っていた。


 もう授業どころではない。教科書は開いているが、先生ですら半分は諦めている顔をしている。黒板に書かれる数式も文法事項も、たぶん今日は教室の外へ出た瞬間に半分以上蒸発する。頭の中に残るのは、あと何が終わっていないか、どこに何を運ぶか、誰が買い出しへ行くか、誰と回ることになるのか、そんなことばかりだ。


 俺は一時間目の終わりからずっと、生活記録同好会という名の何でも屋として校内を歩き回っていた。


 二年一組の説明パネル修正。二年二組の展示動線確認。三組の装飾の貼り位置見直し。四組の延長コードが足りない件。生徒会からの掲示追加。校内新聞用の写真確認。ついでに、誰かが勝手に持ち出した脚立がどこへ行ったか探す仕事まで回ってくる。


 文化祭前は、学校の中のあらゆる“ちょっと困る”が一斉に湧く。


 そして今、そのすべての中心近くにいるのが柊木星彩だった。


 昼休み、実行委員会の進行表を持って廊下を曲がったところで、ちょうどその本人に会った。


 会った、というより、ぶつかりかけた。


「あ」

「……すみません」

 

 星彩が反射的に一歩引く。抱えていたファイルの角が、俺のクリップボードに軽く当たった。紙は落ちなかった。落ちなかったが、彼女の顔に一瞬だけ焦りが走る。


「大丈夫です」

 俺が言う。

「すみません、前を」

「見てないの、珍しいですね」

 

 半分冗談で言ったつもりだった。


 だが星彩はそれに、小さく間を置いてから答えた。


「……そうですね」

 

 その“そうですね”が、妙に弱い。


 前を見るのを忘れるくらい、今は頭の中が詰まっているのだろう。


「何かありました?」

「あります」

 即答だ。

「具体的には多すぎて、今うまく言語化できません」

「それはだいぶ末期ですね」

「末期かもしれません」

 

 そこまで素直に認めるあたり、かなり来ている。


「三組の展示パネル、固定位置が変わったのに担当が誰も把握していなくて、二組は写真の貼り直し、四組は材料不足、それから生徒会が今さら注意事項の文面を増やしてきて、校内新聞はレイアウト未確定で――」

 そこで一度、星彩は息を止めた。

「……すみません」

「謝ることじゃない」

「話しすぎました」

「話しすぎってほどでもない」

「わたしにとっては話しすぎです」

 

 それは何となく分かる。


 この人は、普段なら自分の“処理中の混乱”を、できるだけ他人の前へ出さない。出すとしても、整えた形だけだ。


 でも今日は違う。


 整える手前のものが、少しずつ零れている。


「昼、ちゃんと食べました?」

 気づけば聞いていた。

「え」

「さっきから資料の持ち方おかしいです」

「……」

「重さじゃなくて、持ち方のバランスが」

 

 星彩は自分の手元を見る。


 確かに、いつもの持ち方ではない。左手に寄せすぎていて、右肩が少し上がっている。余裕がないときの身体の偏りだ。


「食べてないです」

 小さく言う。

「やっぱり」

「時間が」

「あるだろ、少しは」

「なかったです」

「作れ」

「無理です」

 

 言い切ったあと、自分で少し驚いたように黙る。


 たぶん普段の星彩なら、「後で食べます」とか「大丈夫です」とか、もう少し整った言い方をしただろう。でも今日はその余裕がない。


「購買、何か残ってるか見てきます」

 俺が言う。

「え」

「その顔で午後入るの危ない」

「危ない?」

「いろんな意味で」

「いろんな意味」

「はい」

 

 星彩は少しだけ迷う顔をした。


 断るか、受け取るか、そのあいだの顔だ。こういうとき、この人は“迷惑をかけるくらいなら断る”を選びがちだ。


 だが今日は、ほんの少しだけ迷ったあとで、目を伏せる。


「……お願いします」

 

 その言い方が、少しだけ低い。


 悔しいのか、助かったのか、自分でも整理しきれていない声だった。


    ◇


 購買には、奇跡的にまだパンが少し残っていた。


 あんぱん、焼きそばパン、クリームパン、それから妙に大きいメンチカツパン。迷った末、あんぱんと牛乳にした。忙しいときにメンチカツは胃へ重いし、焼きそばパンは手が汚れる。あんぱんなら最悪、歩きながらでも食える。


 戻ると、星彩は階段の踊り場の窓際にいた。


 人気の少ない場所だ。休み時間でも、ここを通るのは急いで移動する生徒くらい。踊り場の窓からは海が少しだけ見える。昼の光を反射して白っぽく光っていた。


「はい」

 紙袋を差し出す。

「……ありがとうございます」

「とりあえず食べてください」

「ここで」

「ここで」

 

 星彩はためらったが、結局紙袋を受け取った。


 細い指が袋の口を開く。開いたあと、一瞬だけ止まる。


「どうしました」

「……」

「嫌いなもの入ってました?」

「いえ」

「じゃあ」

「こういうふうに何かを渡されるの、少し久しぶりで」

 

 その言い方に、妙な引っかかりがあった。


 ただの感想なのに、少しだけ個人的な余白がある。


「別に大したことじゃないです」

 俺は言う。

「昼抜かれるほうが面倒なんで」

「あなた、最近“面倒”を便利に使いすぎでは」

「そうかもしれません」

「乙部先輩の影響ですか」

「半分」

「便利ですね、その言い方」

「便利なので」

 

 そこでようやく、星彩がほんの少しだけ笑う。


 その笑いが、昨日までより自然に見えたのは、たぶんこっちの気のせいじゃない。


 彼女はあんぱんの袋を開ける。だが食べる前に、窓の外を見た。


「文化祭前夜って」

 ぽつりと言う。

「昔から苦手なんです」

「前夜って、まだ前日ですけど」

「気分の問題です」

 

 その返しに少しだけ安心する。普段の調子が、完全ではないにしろ戻ってきている。


「何が苦手なんですか」

「全部です」

「ざっくりしてるな」

「ざっくりでいいんです」

 星彩は言う。

「人が浮つく感じも、普段なら言わないことを急に言い始める感じも、少しだけ無責任になる空気も」

「無責任」

「明日で終わるから、今日くらいはいいか、みたいな」

 

 それはよく分かる。


 文化祭前は、良くも悪くも“特別な日だから”が免罪符になりやすい。いつもなら言わない冗談。いつもならしない接触。普段なら笑えないことまで、場の空気で流される。


 楽しい一方で、それが嫌な人間もいるだろう。


 たとえば星彩みたいに、言葉や順番の重みをちゃんと考える人間には。


「昔、何かあったんですか」

 気づけば聞いていた。


 星彩はパンを口にする直前で止まる。


 また踏み込みすぎたか、と思ったが、彼女は怒らなかった。


「……ありました」

 小さく答える。

「文化祭そのものではないですけど、似た時期に」

「似た時期」

「“特別な空気だから”で、人が雑になるのを見たことがあります」

 

 乙部先輩が言っていた話の延長だろうか。


 あるいは、星彩にとってはそれがもっと個人的な記憶なのかもしれない。


「だから、嫌なんです」

 彼女は続ける。

「盛り上がること自体が悪いわけではなくて、その勢いで誰かの気持ちまで勝手に共有物みたいに扱われる感じが」

「……」

「わたしはあれが苦手です」

 

 苦手、という言葉にしているが、実際にはもっと強い感情があるのだろう。


 嫌悪。警戒。あるいは恐れに近いもの。


 でも今は、それ以上深く聞かないほうがいい気がした。


「じゃあ」

 俺は言う。

「今日、あんまり一人で抱えないほうがいいですね」

「何でそうなりますか」

「文化祭前夜が苦手で、空気も嫌いで、しかも昼抜いてる人は、たぶん夜になると順番間違える」

 

 星彩の目が少しだけ大きくなる。


「……順番」

「この前、自分で言ってたでしょう」

「言いました」

「そういう日です、今日は」

 

 しばらく、彼女は何も言わなかった。


 そしてやがて、観念したみたいに小さく息を吐く。


「本当に」

 低い声で言う。

「最近のあなたは、そういうことを平気で言いますね」

「嫌ならやめます」

「嫌ではありません」

 即答だった。

「……たぶん」

「最後にたぶんついた」

「便利なので」

 

 今度は明らかに、こちらの言い方を真似したのだと分かる。


 そういう小さな変化が、妙にうれしい自分がいる。


    ◇


 午後は、予想以上にひどかった。


 二年四組の展示でガムテープが足りない。三組の装飾の一部が剥がれる。一組の説明パネルがインク切れ。二組の写真貼りが歪んで見えると誰かが言い出す。校内新聞は締切直前で、乙部先輩はどこかから古い写真をさらに持ってきて、記事の差し込みを提案し始める。澪菜は自分のクラスを手伝いながら、なぜか二組の装飾まで一緒に直している。


 そして星彩は、その全部の間を走り回っていた。


 いや、走ってはいない。彼女は校内を走らない。そこはきっちりしている。だが、歩く速度はほとんど走るのと変わらなかった。


 夕方が近づくほど、彼女の顔色は薄くなっていく。


「委員長さん、これこっちで留めたほうがいい?」

 澪菜が二年二組の前で聞く。

「はい、お願いします」

 星彩が返す。

「あと写真の余白、少し詰めたほうが」

「分かってます」

 

 今の返事は少し強かった。


 澪菜が一瞬だけ目を瞬く。


 星彩自身も、すぐに気づいたらしい。


「……すみません」

 言い直す。

「いえ、こっちこそ口出ししすぎた」

 澪菜が軽く流す。

「違います、わたしが」

「ほんとに大丈夫」

 

 そのやり取りを少し離れたところから見ていた俺は、何となく嫌な予感がした。


 今のは、かなり危ない。


 星彩はすでに自分の“強く返した”ことを必要以上に気にし始めている。こうなると、次のミスが連鎖しやすい。


 夕方の校舎は、窓の外からオレンジ色の光が差していた。廊下の床へ長く影が伸びる。文化祭前日の、いちばん疲れが出る時間帯だ。


 案の定、その数分後だった。


「柊木さん、これどこに――」

 誰かに呼ばれ、星彩が振り向く。

「それは理科室前の」

 言いながら、手元の資料を持ち替えようとして、

「あ」

 

 ファイルが落ちた。


 前みたいに一冊じゃない。今日はクリアファイル、進行表、メモ、赤ペンまで一緒に落ちた。廊下に紙が散る。何人かが反射的にそちらを見る。


 静かではなかった。


 でも、星彩にとっては、静かなほうがよかっただろうと思った。


 彼女は一瞬、しゃがむ動作さえ遅れた。


 それが一番まずい。


 周囲から見れば、ただ紙を落としただけだ。だが本人にとっては、“見られながら崩れた”ことが大きい。


「拾います」

 俺がすぐにしゃがむ。

「俺も」

 近くにいた三島も手を伸ばす。

「……ありがとうございます」

 星彩が言うが、その声が少し掠れている。


 紙を拾い集める間、彼女の手が一度だけ空を切った。いつもなら絶対にしない動きだ。


 やばいな、と思う。


 これはたぶん、もう“今日は大丈夫”のラインを越えている。


 紙をまとめ終えたあと、星彩は立ち上がった。だが表情は元に戻りきっていない。目元だけが少し強張っている。


「柊木さん」

 三島が少し気遣うように言う。

「大丈夫?」

「大丈夫です」

 すぐ返す。

「すみません、続きお願いします」

 

 その返答は、たぶん彼女の中ではいつも通りの“正解”なのだろう。


 でも今日は、その正解が少しだけ痛々しかった。


    ◇


 日が落ちきる頃には、大半の準備はどうにか終わっていた。


 少なくとも“明日、形にならない”という最悪の事態は避けられたらしい。先生たちの顔にも少しだけ安堵が戻り、生徒たちもそれぞれのクラスへ最後の確認に散っていく。


 その中で、星彩の姿が見えないことに気づいたのは、たまたまだった。


 二年三組の前で掲示位置を直していた澪菜が、何気なく言う。


「あれ、委員長さんどこ行った?」

 

 その一言で、俺の中にあった嫌な予感がはっきり輪郭を持った。


 階段、踊り場、資料整理室、職員室前――いくつか当たりをつけて探す。


 見つけたのは、校舎裏だった。


 体育館へ続く渡り廊下の陰。表からは見えにくい場所。夕方の名残もほとんど届かず、白い外壁だけがぼんやり光っている。


 星彩はそこに立っていた。


 座り込んでいるわけではない。泣き崩れているわけでもない。ただ、壁に背を預けて、片手で目元を押さえていた。


 近づく音に気づいて、彼女はすぐに手を下ろす。


「……見ないでください」

 第一声がそれだった。

 

 それなのに、こっちの足は止まらない。


「見たあとに言うの、ずるいですよ」

 俺が言う。

「ずるいのは、今のあなたです」

 星彩の声は低かった。

「戻ってください」

「嫌です」

 

 沈黙。


 夜の入口の空気が冷たい。遠くで誰かの笑い声が聞こえる。校舎裏だけが、その全部から少し外れている。


「わたし」

 星彩が言う。

「今日、最低でした」

「何が」

「順番も言い方も全部」

「そこまでじゃない」

「いいえ」

 

 彼女は首を横に振る。


「名塚さんに強く返しました」

「一回だろ」

「一回で十分です」

「紙も落とした」

「それは別にどうでもいい」

「さっきは大事故みたいな顔してた」

「それも最低です」

 

 返ってくる言葉が全部、自分を責める方向へ向いている。


 こういうときの星彩は、たぶん“慰められる”より“正しく整理したい”のだと思う。だが今は、それを一人でやろうとすると、たぶん余計に沈む。


「柊木さん」

「何ですか」

「今日、一番まずかったのは」

「はい」

「昼を抜いたことです」

 

 思わぬ方向から切ったせいか、星彩が一瞬だけ黙る。


「……は?」

「空腹で文化祭前夜に全部抱えて、しかも順番を間違えたら、そりゃこうなる」

「そういう問題では」

「あります」

 俺は言う。

「もちろんそれだけじゃない。でも、今日のあなた、自分を責める材料を全部“性格のせい”に寄せすぎです」

 

 星彩は何か言い返そうとして、言葉を失った。


「忙しかった」

「はい」

「苦手な空気だった」

「はい」

「それで疲れて、余裕なくして、一回強く返した」

「……」

「それで今、全部が最低みたいに見えてる」

「……はい」

「たぶん、そこまでじゃない」

 

 しばらく、彼女は黙っていた。


 やがて、ほんの少しだけ息を吐く。


「あなたに」

 低い声で言う。

「そうやって整理されるの、悔しいです」

「知ってます」

「でも」

 そこで、また言葉が止まる。

「……少しだけ、楽です」

 

 その言い方は、第六話のときよりも、もう少し素直だった。


 たぶん今は、それだけ切羽詰まっている。


「名塚さんには、後で謝ります」

 星彩が言う。

「それはしたい」

「するべきだと思う」

「ええ。でも」

 壁に寄りかかったまま、彼女は少しだけ目を伏せる。

「今は、少しだけ、立て直す時間がほしいです」

「分かりました」

「すぐ戻ります」

「五分」

「短いです」

「十分」

「……」

「十五分」

「それで」

「限界です」

 

 星彩はほんの少しだけ、呆れたような顔になる。


「あなた、こういうときだけ妙に強引ですね」

「こういうときだからです」

「普段からそうなら、もう少し楽だったかもしれないのに」

「何の話ですか」

「何でもありません」

 

 そこまで言って、彼女は少しだけ顔を横へ向けた。


 街灯の薄い光の中で、その横顔が見える。


 完璧な委員長。崩れない人。いつも正しい順番で動く人。


 そう見えていた誰かが、今はちゃんと疲れていて、ちゃんと悔しくて、でもそれを誰かに見られるのは少しだけ楽だと言う。


 そのことに、胸の奥が少しだけ熱くなる。


「柊木さん」

「何ですか」

「さっきの紙落としたの」

「はい」

「別に大したことじゃないですよ」

「……」

「でも、それで今ここにいるなら」

 一度だけ息をついてから言う。

「俺は、大したことないとは思わないです」

 

 星彩が、ゆっくりこちらを見る。


「どっちなんですか」

 小さく言う。

「大したことないのか、あるのか」

「他人から見れば小さい」

「はい」

「でも、あなたにとって大きかったなら、それは大したことです」

 

 言ったあと、自分でも少し気恥ずかしい。


 けれど星彩は、笑わなかった。


 代わりに、すごく短く、でも確かな声で言う。


「……ありがとうございます」

 

 その“ありがとう”は、今日の中で一番弱くて、一番本音だった気がした。


    ◇


 結局、星彩は十五分より少し長く校舎裏にいた。


 戻る頃には、いつもの顔へかなり近いところまで整えていたが、完全ではない。完全ではないまま戻ることを選んだ、ということ自体が、前ならなかった変化だと思う。


 昇降口近くで澪菜と会った。


「あ」

 澪菜が言う。

「委員長さん」

「名塚さん」

 

 一瞬、空気が止まる。


 だが星彩は、そこで逃げなかった。


「今日、さっき」

 まっすぐ澪菜を見る。

「強い言い方をしました。すみません」

 

 澪菜は少し目を丸くした。


 それから、すぐに肩の力を抜く。


「いえ、こっちも口出ししすぎたし」

「違います」

 星彩が言う。

「わたしの問題です」

「……」

「ただ、余裕がありませんでした」

 

 その言い方に、澪菜は一瞬だけ俺を見る。


 たぶん、こっちが校舎裏で何か言ったのだろうと察したのかもしれない。だが余計なことは言わない。


「分かった」

 澪菜は言う。

「じゃあ、今日はお互いさまってことで」

「……ありがとうございます」

「いやいや」

 

 そのやり取りで、ひとまずの空気は戻った。


 だが戻りきらない何かが、文化祭前夜の廊下にはまだ残っている気がした。


 澪菜は俺の横を通り過ぎるとき、小さく囁く。


「透真」

「何」

「委員長さん、ちゃんと崩れたんだ」

 

 その言い方に、少しだけ引っかかる。


「何だよ、それ」

「いや」

 澪菜は少し笑う。

「前より、人間っぽいなって思って」

 

 それはたぶん、悪い意味ではない。


 でも、その一言の裏にあるものまでは、まだはっきりしない。


 文化祭前夜の学校は、こういう曖昧な感情をそのまま宙へ残したまま、時間だけが進んでいく。


    ◇


 帰り際、校門を出るときに星彩が足を止めた。


「鷹取くん」

「はい」

「明日」

「文化祭本番ですね」

「ええ」

「大丈夫そうですか」

 

 星彩は少しだけ考えてから答える。


「大丈夫、ではないと思います」

「正直」

「でも」

 ほんの僅かに視線を上げて、

「今日、一度崩れたので、たぶん昨日までよりはマシです」

 

 その言い方に、思わず笑いそうになる。


「それ、前向きなんですか」

「前向きです」

「だいぶ変な前向きさですね」

「でも事実なので」

 

 そこまで言って、星彩は少しだけ口元を緩めた。


「それと」

「はい」

「あなたに見られるのは、やっぱり悔しいです」

「知ってます」

「でも」

 一拍置いて、

「……少しだけ、救われます」

 

 街灯の下、その言葉だけがやけに静かに響いた。


 俺はすぐに何も返せなかった。


 星彩もそれ以上は言わず、小さく会釈して歩き出す。


 その背中を見送りながら、俺はようやく息を吐いた。


 完璧な彼女が、たった一度だけ順番を間違える夜。


 でもたぶん、その一度で何かが少しだけ変わった。


 正しいままではいられない瞬間を、誰かに見られたまま、それでも戻ってくること。


 それを知った人は、前と同じ崩れ方はもうしないのかもしれない。

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