第十二話 冗談では済まない言葉が、海の近くで足を止める
文化祭当日の学校は、少しだけ嘘くさい。
飾りつけられた廊下、いつもより大きい声、普段は見せない笑顔、クラスTシャツだの腕章だの、そういう“特別です”の印が校舎中に溢れている。べつに嫌いじゃない。むしろ、そういうわざとらしい高揚感込みで文化祭なのだろうと思う。
ただ、その嘘くささの中では、本音のほうも普段より輪郭を持つ。
冗談で流していた言葉が、妙に本当らしく聞こえたりする。
いつもなら笑って済ませられる距離が、今日は少しだけ近く感じたりする。
文化祭は、そういう日だ。
◇
朝から校内は人でいっぱいだった。
在校生の家族、近隣の中学生、卒業生らしい大人、先生の知り合いまで混ざっているのではと思うくらい、とにかく人が多い。受付前には列、階段は渋滞、模擬店の前にはすでに行列、展示教室の前には呼び込みの声。いつもの学校の面影はほとんどない。
生活記録同好会は、朝の時点で半壊していた。
いや、同好会としての形は保っている。けれど実態は、校内全体の穴埋め要員だ。案内表示が剥がれた、パンフレットが足りない、写真パネルの位置がずれた、飲み物の補充が必要、写真撮影の人手がない。そういう全部が、結局こちらへ回ってくる。
そしてその中心にいるのは、今日も柊木星彩だった。
「二年二組の展示前、少し詰まっています」
「今行きます」
「新聞部の写真担当がいません」
「乙部先輩は」
「さっき理科室展示へ行ったきりです」
「自由だな、あの人」
「ええ、とても」
星彩は腕章をつけ、クリップボードを抱え、いつもより少しだけ声を張っていた。
昨日、一度崩れたからだろうか。今日は逆に、無理な完璧さを少し手放しているように見える。もちろん忙しいし、緊張もしている。だが、全部を自分ひとりの責任として抱え込んでいる感じは前より薄い。
たぶん、昨日の校舎裏での十五分が効いている。
「鷹取くん」
「はい」
「案内板、階段下へ一枚追加できますか」
「やります」
「あと」
星彩はほんの少し迷ってから言う。
「無理そうなら、無理と言ってください」
その一言に、思わず顔が上がる。
「……珍しいこと言いますね」
「学習しました」
「昨日?」
「昨日です」
小さく、でも確かに笑う。
そんな会話をした直後、廊下の向こうから「透真ー!」と澪菜の声が飛んできた。
見ると、クラスTシャツの上にエプロン姿の澪菜が、紙コップの箱を抱えて走ってくる。今日は自分のクラスの喫茶企画担当らしい。髪は少し高い位置で結んでいて、いつもの制服姿より活動的に見えた。
「走るな」
俺が言う。
「走るよ、だって忙しいもん!」
「持ち方危ない」
「大丈夫だって――あっ」
言ったそばから箱が傾く。
とっさに俺が手を伸ばえた。紙コップの束が床に散る前に、どうにか支える。
「ほら」
「……はい、すみません」
澪菜が妙に素直に言う。
「今日の名塚さん、落としがちですね」
星彩が静かに言った。
「委員長さんまで」
「事実確認です」
澪菜は少しだけ笑った。
その笑い方を見て、昨日の坂道を思い出す。
星彩さんみたいな子のほうが合うんじゃない。
言ったあとで、自分でも驚いたみたいに笑った顔。
でも今の澪菜は、昨日より少しだけまっすぐだった。少なくとも、あきらめたふりのままではない。
「それ、二年三組の喫茶の?」
俺が聞く。
「うん。予備のコップ足りなくなって、物品庫まで取りに来た」
「手伝う?」
「いい、というか」
澪菜は箱を持ち直しながら、少しだけ視線を逸らす。
「透真は今日、委員長さんの手足でしょ」
冗談っぽい言い方だ。
でも完全な冗談ではない、と分かるくらいには、最近の俺は澪菜を“いつもの明るい幼なじみ”だけで見なくなっていた。
「手足って言い方やめろ」
「だってそうじゃん」
「違います」
星彩が口を挟む。
「鷹取くんは、必要な時に必要なところへいるだけです」
それはたぶんフォローなのだろう。
けれど“必要な時に必要なところへいる”という言い方は、少しだけ危うい。俺自身にも、澪菜にも。
澪菜がそれをどう受け取ったかは分からない。ただ、彼女は箱を抱え直して、明るい声を作った。
「はいはい、じゃあ必要なところへどうぞー。私は自分の持ち場戻りまーす」
「澪菜」
「何」
「後で」
「分かってる。終わったらね」
それだけ言って、澪菜は廊下の人波へ戻っていった。
その背中を見送る一瞬、何となく胸の奥がざわつく。
誰かを助けたいのと、その人を特別にしたいのは違う。
乙部先輩に言われた言葉が、また頭をよぎった。
◇
午前中の文化祭は、ほとんど走りっぱなしで終わった。
二年二組の展示は思った以上にうまく回っていた。匿名の一文掲示は“文化祭へのひとこと”という形に落ち着き、個人的な温度が前面に出すぎないように調整されている。そのぶん派手さは減ったが、変に誰かの事情が晒される感じもない。星彩の修正は正しかったと思う。
一年の教室前では結月を見かけた。図書委員の当番を抜けて手伝いに来ているらしく、案内係の腕章をつけていた。人波の中でも、あの静かな立ち方は変わらない。ただ、近づくと「先輩、今日こそ全部拾わないでください」と小声で言われた。
だいぶ慣れてきた口調だった。
乙部先輩は相変わらず自由で、新聞部用の取材のはずが、気づけば商店街特集の写真の横に“文化祭の日の駅前の空気”についての短いコラムを書き足していた。やっていることは勝手だが、書く文章はなぜかちゃんとしているから困る。
昼前、ようやく少しだけ時間が空いた。
校内の喧騒を抜けて、中庭側の渡り廊下へ出る。屋台の匂い、焼きそば、クレープ、フランクフルト、わたあめ。そういう文化祭らしい匂いに混ざって、海風が少しだけ涼しい。
そのとき、背後から声がした。
「後輩くん」
振り向くと、乙部玻乃先輩だった。
今日は三年のクラスTシャツに、首からカメラを下げている。いかにも文化祭の“記録係っぽい人”の格好なのに、その実、好きに動いているだけだということを俺は知っている。
「珍しいですね、真面目な格好」
俺が言う。
「失礼だな。私はいつも真面目だよ」
「冗談の比率高めの真面目ですね」
「今日は冗談四割」
「本音増えてる」
「文化祭だからね」
先輩はそう言って、隣へ並ぶ。
「少し歩ける?」
「今ですか」
「今」
「忙しいんじゃ」
「忙しいけど、君も少し顔を冷ましたほうがいい」
そう言われて、ようやく自分でも気づく。たしかに頭が少し熱い。人混みと喧騒で、無意識に呼吸が浅くなっていたのかもしれない。
「どこへ」
「海の見えるほう」
「学校の中ですけど」
「知ってる」
先輩はそれ以上説明せず歩き出した。
俺もついていく。
◇
校舎の北側、理科準備室のさらに奥に、小さな非常階段がある。そこは来客の動線から少し外れていて、文化祭の日でも人が少ない。高台に建つ学校だから、その踊り場からは海が少しだけ見える。
午後の光が水面に薄く反射していた。
「いい場所でしょ」
玻乃が言う。
「知ってたんですか」
「知ってるよ。学校の“ちょっと外れた場所”を把握するのは、文化祭を楽しく過ごす基本だから」
「それ、楽しいの定義がだいぶ危ない」
「でも君も嫌いじゃない顔してる」
否定しづらい。
人の少ない場所は、見たいものが見やすい。同時に見たくないものも見えるが、少なくとも整理はしやすい。
「で」
先輩が手すりにもたれて言う。
「文化祭どう?」
「ざっくりしてますね」
「ざっくりでいいの。今日はみんな細かすぎるから」
たしかに、今日は朝から細かいことばかり見てきた。
二組の展示。三組の喫茶。星彩の進行。澪菜の箱の持ち方。結月の静かな釘刺し。全部、小さくて、でも見過ごすとあとで効いてくるものばかりだ。
「……みんな少しずつ、変です」
俺は言った。
「うん」
「文化祭前だからってだけじゃなくて」
「うん」
「遅れてたものが出てきてる感じがする」
乙部先輩は、そこで小さく笑った。
「やっと自分で言った」
「何が」
「それ、前に私が言ったやつ」
「先輩、割とすぐ“私が先に言った”って顔する」
「年上特権」
「嫌な特権だな」
「でも当たってるでしょ」
「……まあ」
風が吹く。海の匂いが少し強くなる。
「で」
先輩が言う。
「委員長ちゃんはどう?」
やはりそこへ来る。
「どう、って」
「最近ちゃんと崩れた?」
「崩れたって言い方」
「でもそうでしょ」
「……一回」
「うん」
「順番間違えて」
「うん」
「でも昨日より今日のほうがマシそうでした」
「へえ」
先輩はそれを聞いて、少しだけ目を細める。
「助けた?」
「助けたってほどじゃ」
「そういう言い方する時は、だいたい少し助けてる」
「……」
「図星」
返しに困る。
たぶん先輩は本気でからかっているわけではない。ただ、こっちがどこまで自覚しているかを見ているのだ。
「澪菜は?」
今度は先輩が聞く。
「……」
「その顔、分かりやす」
「最近、みんなそれ言いますね」
「だって分かりやすいもん」
先輩は少しだけ身を乗り出した。
「何かあったんだ」
「昨日」
「うん」
「坂道で」
「うん」
「星彩さんのほうが合うんじゃない、って言われました」
言った瞬間、自分で少しびっくりする。
何で俺は今、これを乙部先輩に話しているんだろう。
でも、先輩は笑わなかった。珍しく、すぐには軽口も挟まない。
「そっか」
静かに言う。
「それ、だいぶ本音だね」
「やっぱりそう思いますか」
「うん。だってさ」
先輩は海を見たまま言う。
「自分から引く子ほど、“あの子のほうが合うよ”って言い方するから」
胸の奥が少し痛む。
澪菜の顔が浮かぶ。あきらめたふりをする横顔。自分で自分を脇へ置くような言い方。平気じゃないくせに、平気なほうを選ぼうとする癖。
「後輩くん」
先輩が言う。
「君さ」
「はい」
「今のままだと、誰のことも傷つけないようにした結果、一番近い子から順番に置いていくよ」
直球だった。
風が、少し冷たくなる。
「……」
「図星」
先輩が言う。
「その顔は」
「先輩、そういう言い方ほんと好きですね」
「便利だからね」
でも今は、その便利さに逃げていないのが分かる。
言葉の芯が、冗談より深いところへある。
「困ってる子を助けるのはいい」
玻乃は続けた。
「ちゃんとしてる人のほころびを見つけるのも、まあ君らしい」
「ひどい言い方だ」
「でも事実でしょ」
「……否定しきれない」
「でしょ」
先輩は小さく笑って、それからまた真面目な声に戻る。
「でも、それと“その人を特別に見てる”のは別」
「分かってます」
「分かってるつもり、かな」
図星だ。
「君、たぶんまだ」
先輩が言う。
「困ってるから気になるのか、気になるから困ってるのが見えるのか、その境目が曖昧なんだよ」
その一言は、今まででいちばん正確だったかもしれない。
俺は今まで、自分が誰かの何に反応しているのか、そこまで考えずに来た。見えてしまうから見ている。放っておけないから動く。そういう順番だと思っていた。
でも本当にそうなのか。
星彩の崩れ方を見て、俺はただ“助けなきゃ”と思っただけだろうか。澪菜の遅れた笑い方に最近よく気づくようになったのは、幼なじみとしての心配だけだろうか。乙部先輩の冗談の比率をいちいち気にするのは、単なる観察癖だろうか。
結月の静かな沈黙に、ここまで言葉を探してしまうのはなぜだ。
「……先輩」
「ん?」
「それ、今の俺に答え出ますか」
「出ないよ」
あまりにもあっさり言われて、逆に拍子抜けする。
「出ないんですか」
「出ない出ない。文化祭の日に恋愛の答え出るやつなんて、だいたい翌日には恥ずかしくなる」
「夢のないこと言うな」
「夢はあるよ。あるけど、今日は空気が強すぎる」
たしかに。
文化祭という日は、感情の輪郭を強調する。でもその輪郭が、そのまま“答え”とは限らない。むしろ、浮ついた空気のぶんだけ、普段ならもっと静かに見えるものまで、大きく見えたりする。
「じゃあ、どうすれば」
俺が聞くと、先輩は少しだけ笑った。
「一個だけ決めればいい」
「何を」
「今日、誰のことを後回しにしないか」
その言い方は、妙に結月っぽかった。
全部は守れない。だから、先に持つものを選べ。
あれと似ている。
俺が黙ったのを見て、先輩は少しだけ目を細めた。
「ほら」
「何」
「ちゃんと今、顔変わった」
「またそれ」
「図星だから」
そして、先輩は不意に手すりから離れた。
「私の話もしよっか」
「え」
「今日はサービス多めの日だから」
嫌な予感がする。
でも逃げるには遅い。
「後輩くん」
先輩は海のほうを見ながら言う。
「今のままだと、君はたぶん誰のことも好きになりきれないよ」
前にも聞いた言葉だった。
でも今日は、場所と空気のせいか、前よりずっと本気に聞こえる。
「困ってる子を放っておけない」
先輩は続ける。
「それは君のいいところ」
「はい」
「でも、“見つけたから助ける”だけで全部やってると、そのうち誰の前でも同じ顔になる」
「……」
「それって、見つけられた側からすると少し苦しいんだよ」
その言葉に、澪菜の「見つけてほしかった」という声が重なる。
星彩の「見られるのは悔しいけど少し救われる」も。
たぶん乙部先輩は、そこまで見て言っている。
「先輩は」
俺が聞く。
「そういうの、苦しいですか」
玻乃は一瞬だけ目を閉じた。
ほんの短い沈黙。
そのあとで、少しだけ笑う。
「苦しいよ」
あっさり言う。
「冗談で逃がせるくらいには大人ぶれるけど、本音のところでは普通に苦しい」
心臓が少しうるさくなる。
風の音が遠い。
「君が誰にでも優しいの、嫌いじゃない」
先輩は言う。
「でも、自分がその“誰でも”の中にいるかもしれない時は、笑ってられない」
今のは、冗談では済まない。
少なくとも、俺にはそう聞こえた。
「……先輩」
「なに」
「それ」
「うん」
「かなり本音ですよね」
先輩はこっちを見た。
目元だけが少し笑っている。でも、その笑いは軽くない。
「冗談三割、本音七割」
「増えてる」
「文化祭だし」
「便利だな、それ」
「便利だよ。後戻りしやすいから」
その言い方が、少しだけ痛い。
後戻りしやすい。
つまり、本当は後戻りしたくない線まで来ているということだ。
「……私はね」
玻乃が静かに言う。
「後輩くんの青春の中に、本気で入るには少し遅いと思ってる」
前にも似たことを言われた。
でも今日は、続きがある。
「でも」
先輩は言う。
「遅いと思ってても、気持ちが止まるわけじゃないんだよ」
そこで初めて、俺は言葉を失った。
風が吹く。海の光が少し揺れる。遠くで校内放送の音がかすかに聞こえる。文化祭の、たぶん昼下がりの賑わいの真ん中で、ここだけ時間が少し止まったみたいだった。
「今の」
やっとのことで言う。
「だいぶ、ずるいですね」
先輩はふっと笑った。
「知ってる」
「逃げ道作ってる」
「作ってる」
「年上ってそういうとこあるんですね」
「あるよ。だって怖いから」
その“怖い”の響きが、思ったより素直だった。
年上だから引き際を探す。冗談で逃がす。後戻りしやすい割合にする。
でも、それでも本音は止まらない。
そういう人の言葉を、今の俺はどう受け取ればいいのか分からない。
「答えなくていいよ」
先輩が言う。
「今日はまだ」
「……」
「ただ、冗談では済まないくらいには、本音だって知っといて」
その一言で、逃げ道がひとつ減る。
俺だけじゃない。先輩にとっても、たぶん。
◇
戻る時間になった。
校内の騒がしさが、また少し近づいてくる。非常階段を下りると、文化祭の続きがそこに待っている。笑い声、呼び込み、写真撮影、模擬店の匂い。さっきまでの静かな時間が嘘みたいだ。
でも、嘘じゃなかった。
「先輩」
階段を下りながら、俺は言った。
「さっきの話」
「うん」
「ちゃんと覚えておきます」
先輩は少しだけ目を丸くした。
それから、いつもの少し眠たげな笑い方をする。
「えらい」
「子ども扱いしないでください」
「年上なので」
「最強の肩書きだな」
「知ってる」
昇降口近くまで戻ったところで、先輩は足を止めた。
「じゃ、私は新聞部のふりしてくる」
「ふりなんですか」
「七割本物」
「また便利な割合」
「便利でしょ」
そう言って手を振り、先輩は人混みのほうへ消えていった。
その背中を見送りながら、しばらく動けない。
文化祭のざわめきが急に遠く感じる。心臓の音だけがやけに近い。
冗談では済まない言葉が、海の近くで足を止めた。
たぶん、本当にそういうことだった。
◇
昇降口前まで戻ると、そこに澪菜がいた。
「遅い」
開口一番それだった。
「どこ行ってたの」
「少し」
「少し、の顔じゃない」
見透かされる。
いや、最近はもう隠せていないのかもしれない。
「委員長さんに呼ばれた?」
澪菜が聞く。
「いや」
「じゃあ」
「乙部先輩」
その瞬間だけ、澪菜の表情が少し止まった。
でもすぐに笑う。
「へえ」
「何だよ」
「いや、人気者だなあって」
「そういう言い方やめろ」
「冗談だって」
その冗談の温度を、今の俺はちゃんと測ってしまう。
前ならたぶん、軽く受け流していた。けれど今日は違う。
「澪菜」
「何」
「終わったら、少し話せるか」
今度は、澪菜のほうが少しだけ目を見開いた。
「……うん」
短く答える。
「話せる」
その返事の裏にあるものは、まだ分からない。
でも少なくとも、後回しにしないと決めることはできる。
今日、誰のことを後回しにしないか。
乙部先輩に言われたその問いが、まだ胸の中に残っていた。
文化祭のざわめきの中で、遅れていたものがまた少し浮かび上がる。
それを見つけたまま、今日はもう見なかったことにはできなかった。




