第十三話 静かな後輩は、誰にも聞こえない形で怒っている
怒りにも、音量がある。
大きな怒りは分かりやすい。声が強くなる。言葉が短くなる。机に置く手が少し荒くなる。周囲もすぐ気づくし、たいてい本人も自覚している。
でも、小さい怒りは違う。
声を荒げない。表情もほとんど変わらない。ただ、普段なら流すはずのことを流さなくなる。必要最小限で済ませていた言葉の輪郭が、少しだけ鋭くなる。沈黙の置き方が変わる。
そういう怒りは、慣れていないと見落とす。
けれど篠浜結月は、たぶんそういう怒りの持ち方をする人間だ。
そして、その静かな怒りは、意外と一番深いところに届く。
◇
文化祭の一日目が終わりに近づく頃には、校舎全体が少し疲れていた。
朝の勢いで笑っていた顔が、夕方にはやや乾いている。呼び込みの声も少し掠れる。模擬店の紙コップは減り、展示の前に立つ生徒たちは説明を繰り返しすぎて、最初より言葉が雑になっていく。
それでも文化祭は終わらない。終わらないどころか、夕方に近づくほど、別の熱が出てくる。
回りきれていない展示を見に行く人。今さら写真を撮りたくなる人。閉会前に話したい相手を探す人。日中の喧騒の中でごまかしていた何かを、最後にどうにかしたくなる人。
そういう、表向きの企画とは関係のない熱だ。
そしてたぶん、いちばん面倒なのはそこからだ。
俺は二年棟の廊下を急ぎ足で歩いていた。
原因は、二年二組の展示でまた小さな問題が起きたからだ。匿名掲示から変更した「文化祭へのひとこと」コーナーに、提出されていない紙が一枚混ざっていた。派手な内容ではない。だが、書き方が明らかに他の掲示と違う。しかも、それが“昔の文章を引用したように見える”という話が出て、展示担当が微妙な顔をしている。
最悪ではない。
でも、このタイミングでは十分に嫌な予感がする。
昇降口側の階段を上がり切ったところで、ちょうど柊木星彩と鉢合わせた。
「鷹取くん」
「聞きました?」
「聞きました」
お互い、余計な説明を端折れる程度には、この手の“少し嫌なこと”に慣れてきている。
「紙、もう回収したんですか」
俺が聞く。
「はい。いま二年二組の担任預かりにしています」
「誰が混ぜたかは」
「まだ」
「展示担当は?」
「少し浮き足立っています」
星彩は短く言う。
「“文化祭らしい一枚”くらいに思っている人もいる」
それは厄介だった。
文化祭らしい。エモい。雰囲気がある。そういう軽い言葉で、個人的な温度がすぐ公共物にされる。それを星彩が嫌うことはもう知っているし、俺も今はその嫌さが少し分かる。
「結月は?」
俺が聞く。
「図書室側の案内をしているはずですが」
「呼んだほうがいい」
「そう思います」
星彩は即答した。
「彼女なら、あの“紙の扱い方”に反応すると思うので」
「柊木さん、それ褒めてます?」
「ええ」
「珍しい」
「必要な評価はします」
その返し方が少しだけ以前より柔らかい。
だが今は、その変化を見ている余裕はあまりない。
「じゃあ俺、呼んできます」
「お願いします」
星彩は言い、少しだけ言葉を足した。
「それと」
「はい」
「一人で全部何とかしようとしないでください」
不意打ちみたいな釘の刺し方だった。
「それ、前にも誰かに」
「知っています」
星彩は淡々と言う。
「最近のあなたは、言われるべき顔をしているので」
「厳しいな」
「必要なので」
結月の口調に少し似ている、と思いながら、俺は図書室側へ向かった。
◇
図書室前の廊下は、文化祭の日でも少しだけ静かだった。
展示や模擬店へ向かう流れから外れているせいだろう。掲示の前に立つ人はいても、足を止める人は多くない。そんな場所で、結月は案内係の腕章をつけたまま立っていた。
静かな場所に、静かな人間がいると、そこだけ少し空気の速度が変わる。
「篠浜」
声をかけると、結月はすぐにこちらを見た。
「先輩」
「今いい?」
「内容によります」
「二年二組の展示」
それだけで、彼女の目が少しだけ細くなった。
怒っているわけではない。だが“ああ、来た”という顔だった。
「何がありましたか」
「提出されてない紙が一枚混ざってた。しかも、過去の文章を引いたっぽい」
「……」
「思い当たる?」
「あります」
即答だった。
「何」
「誰、ではなく、どういう種類かなら」
「種類?」
「“文化祭だから、少しくらい雰囲気があるほうがいい”と考える人の手つきです」
その言い方に妙に納得してしまう。
「今、見に来られますか」
俺が聞く。
「来られます」
「案内は」
「交代を頼みます」
結月は近くの一年女子へ短く声をかける。必要なことだけ、簡潔に。説明が長くならない。そういうところは相変わらずだ。
二人で二年二組へ向かう途中、結月がぽつりと聞いた。
「先輩」
「何」
「今日、ちゃんと選べていますか」
何のことか分からないふりはできた。だが、しなかった。
「……誰を後回しにしないか、って話?」
「はい」
「覚えてるな」
「言ったのは乙部先輩でしょうけど、必要なことだったので」
結月らしい言い方だ。
「まだ、ちゃんとできてるとは言えない」
正直に答える。
「でも、前よりは」
「そうですか」
結月はそれ以上何も言わない。
ただ、その横顔が少しだけ硬い。静かな人間は、何かに怒っているときほど無駄に喋らない。
◇
二年二組の教室前には、すでに小さな輪ができていた。
展示担当の女子が二人。様子を見に来たらしい三組の生徒が一人。そこへ星彩がいて、少し離れた位置に三島もいた。大ごとになってはいない。だが、誰もが“何かあった”顔をしている。
「来ました」
星彩が言う。
「これです」
渡されたクリアファイルの中に、一枚の紙。
他の掲示と同じサイズ。だが紙質が少し違う。字も違う。整えてあるようでいて、妙に“それらしい”文体だ。
『言えなかったことほど、文化祭のあとに残る。
笑って終わるはずの日に、
ほんとうのことだけが取り残されることがある。』
短い。
短いが、十分にいやな感じがする。
文化祭の雰囲気だけを借りた、誰かの未消化の感情みたいな文だ。しかも“昔の原稿っぽさ”がある。たぶんわざとだ。
「これ、いつ見つかった」
俺が聞く。
「十五分くらい前です」
展示担当の女子が言う。
「さっきまでなかったと思うんだけど、急に」
「誰かが足した?」
「たぶん」
「見た人は」
「……いない、と思う」
“と思う”の弱さが、すでに空気の曖昧さを示している。
誰かが悪意でやったのか。ちょっとした演出のつもりか。面白半分か。昔の原稿を引っ張ってきたのか、それとも“そう見えるもの”を今書いたのか。
どれにしても、ここで大きく扱うと面倒だ。
「篠浜さん」
星彩が結月へ向く。
「どう思いますか」
結月は紙を見て、少しだけ黙った。
長い沈黙ではない。だが、見て分かる。怒っている。
いや、正確には、“この手の雑さ”に対して、はっきり不快を覚えている顔だった。
「先輩」
結月が言う。
「これ、今ここで“誰がやったか”にすると、たぶん負けます」
「負ける?」
展示担当の女子が戸惑った声を出す。
「何に?」
「空気に」
その答え方は、いかにも結月らしい。
「こういうのは」
結月は淡々と続ける。
「“文化祭だから”“雰囲気だから”“誰かを傷つけるつもりはないから”で、簡単に流されます」
「……」
「でも、その流し方自体が雑です」
教室前にいた数人が、少しだけ黙る。
声を荒げていないのに、空気がぴたりと締まる。これがたぶん、結月の静かな怒りなのだろう。
「じゃあ、どうする」
俺が聞く。
「回収して、何もなかったことにする?」
「完全にはできません」
結月が言う。
「見た人が少しでもいるなら、もう“何もなかった”にはなりません」
「……」
「でも、これ以上“意味”を増やさせないことはできます」
その言い方に、星彩が小さくうなずく。
「具体的には」
「展示担当から、“未提出物の混入があったため回収しました”とだけ案内を出してください」
結月は言う。
「内容の説明はしない。誰がやったかも探さない」
「探さない?」
三島がそこで初めて口を開いた。
「でも、それで終わるか?」
「終わりません」
結月は即答した。
「でも、“面白い何かが起きた”ことにはしません」
その言葉は、思っていたより鋭かった。
教室前の空気がさらに静かになる。
「たしかに」
星彩が言う。
「今ここで犯人探しをしても、余計に“意味”が増えるだけですね」
「はい」
「じゃあ、それでいきましょう」
展示担当の女子は少し不安そうだったが、星彩が短く説明すると、どうにか納得したようだった。
「未提出物の混入により一部回収しました、でいいですか」
「はい」
結月が言う。
「短く。それだけで」
その間にも、結月の表情はほとんど変わらない。
でも分かる。今この子はかなり怒っている。誰か個人というより、“誰かの言葉っぽいものを、雰囲気の小道具にする視線”そのものに。
「篠浜」
人が少し散ったあと、俺は小声で言った。
「怒ってる?」
「はい」
即答。
「珍しいな」
「珍しくないです」
「いや、こんなにはっきり言うの」
「今日は言わないほうが失礼なので」
その返しが、妙に胸へ残る。
「何に対して?」
俺が聞く。
「“言えなかったことっぽいもの”を、言ったかどうかも分からないのに、みんなで共有していい空気にしていること」
結月は言う。
「そういうのが一番嫌いです」
そこまではっきり言うのは、ほんとうに珍しかった。
◇
いったんその場は収まった。
展示前には小さな案内が貼られ、紙は回収された。大きく騒がれることもなく、少なくとも文化祭の場で“面白い一件”にはならずに済んだ。
だが俺には、まだ少し引っかかることがあった。
「過去の原稿っぽい」
俺は資料整理室へ戻りながら言う。
「でも本当にそうか?」
「断定はできません」
星彩が答える。
「ただ、狙ってそう見せている可能性は高い」
「誰かが、わざと“古い言葉”っぽくした」
「はい」
結月が横から言う。
「“過去から出てきた感じ”にすると、本人の責任が薄く見えるので」
「責任が薄く見える?」
「自分が今ここで言ったわけじゃなく、“昔からあったもの”みたいにできる」
それはかなり本質だった。
今の自分が言うのではなく、時間へ逃がす。個人の手つきではなく、雰囲気の演出に見せる。そうすれば、傷つけるつもりはなかった、と言いやすい。
「卑怯だな」
思わず言うと、結月が少しだけこちらを見た。
「そうですね」
静かに言う。
「卑怯です」
その言い方には、いつもの平坦さより一段深い温度があった。
「先輩」
結月が俺へ向く。
「さっき、展示前で何を考えましたか」
「何を、って」
「“誰がやったか”を少し追いたかったでしょう」
図星だった。
「……少し」
「それは悪くないです」
「でも?」
「今の場では、優先順位が違いました」
はっきり言う。
「何を優先した?」
俺が聞く。
「言葉の尊厳です」
その一言に、思わず足が止まりそうになる。
結月は続ける。
「誰が書いたかも、誰の気持ちかも分からない」
「……」
「でも、“そういうふうに扱っていいものではない”という線だけは、先に守らないといけないので」
静かな後輩が、誰にも聞こえない形で怒っている。
その怒りは、たぶんこういうところに向いているのだ。
誰かの言葉が、誰のものとも確定しないまま、雰囲気の材料になること。そこにあるはずの個人的な体温が、場の演出に吸い取られること。
それを、この子は許さない。
◇
日が暮れはじめた頃、文化祭一日目の終了準備が始まった。
来場者は少しずつ減り、校内には疲れた笑い声が残る。片づけの段取りを確認する声。明日の出し物の話。今日撮った写真の見せ合い。文化祭の終わりに近づく時間特有の、少し浮ついて、少し寂しい空気。
資料整理室では、俺と星彩と結月で、今日のトラブルを簡単にまとめていた。
「二年二組の件、記録にはどう残しますか」
星彩が聞く。
「“未提出物混入のため一部回収、展示担当にて再確認済み”くらいが妥当かと」
「それで十分です」
結月が言う。
「内容は?」
「書かないほうがいいです」
「理由は」
「残すと、あとから“何だったんだろう”でまた意味を増やすので」
結月は今日、ずっとこうだ。
静かなのに、言葉が少しだけ強い。普段よりはっきり線を引く。
星彩もそれを感じているらしく、少しだけ様子を見ていた。
「篠浜さん」
星彩が言う。
「今日は、だいぶ明確に言いますね」
「必要なので」
「怒っていますか」
その質問が妙にまっすぐで、俺は少し驚く。
だが結月は隠さなかった。
「はい」
短く言う。
「怒っています」
星彩が少しだけ目を細めた。
「珍しい」
「よく言われます」
結月が答える。
「でも、黙っているほうが雑になる場面だったので」
星彩はその言葉を聞いて、ほんの少しだけ口元を和らげた。
「……そうですね」
静かに言う。
「今日は、言わないことのほうが失礼だった」
「はい」
二人のあいだで、何か理解が通った感じがした。
たぶん星彩も、今日の“回収された一枚”にかなり嫌なものを見ていたのだろう。だが結月ほどはっきり怒るやり方を、彼女は持っていない。だから、その代わりに結月の言葉を必要としていたのかもしれない。
そして俺は、その間でまだ“誰を、何を、どう持つか”の選び方に迷っている。
「鷹取くん」
星彩が言う。
「はい」
「今日の件」
「はい」
「一度、ちゃんと考えておいたほうがいいです」
「何を」
「“守る”と“暴く”の境目を」
それは、ここ数日ずっと別の形で言われてきたことだった。
見つけるだけで満足するな。先に持つものを選べ。言葉の尊厳を先に守れ。
全部、少しずつ同じ話へ繋がっている。
◇
片づけが終わり、二人と別れて一人で校門を出る。
夕方の風は冷たく、文化祭の熱が抜けた学校は少しだけ静かだった。まだ明日があるのに、今日だけでもう一回分の季節が過ぎたみたいな疲れがある。
スマホが震えた。
澪菜からだ。
『おつかれ。明日も朝早い?』
短い文面。
昨日のことがあってから、むしろ前より簡単なメッセージが増えた気がする。変に探り合うより、必要なことだけ言うようにしているのかもしれない。あるいは、言葉を増やしすぎるとまた何かが零れると分かっているのか。
『少し早い』
と返す。
少し迷ってから、もう一文打つ。
『終わったら話せる』
送ってすぐ、既読がつく。
『うん』
『話せる』
それだけ。
だけど、その短いやり取りに少しだけ安心する自分がいる。
結月は言った。
全部拾おうとしすぎるな。誰かを守るときに、全部守るのは無理だ。なくさないのが下手なら、何を先に持つか選べ。
たぶん明日も、文化祭はまた別の何かを浮かび上がらせる。
そのとき俺は、今日より少しましに選べるだろうか。
海の見える坂道へ向かいながら、ふと後ろを振り返る。
高台の校舎の窓には、もうほとんど灯りが残っていない。文化祭の熱も、今日の怒りも、そこで全部終わったわけじゃない。むしろ明日へ持ち越されるもののほうが多いだろう。
それでも今日、静かな後輩が誰にも聞こえない形で怒ってくれたおかげで、守られたものが確かにあった。
それを、忘れないでいたいと思った。




