第十四話 文化祭は、言えなかった気持ちの置き場所になる
文化祭の二日目は、一日目より少しだけ静かだ。
人が少ないわけではない。むしろ時間帯によっては昨日より混む。けれど、初日の勢いが一段落したぶん、今日はみんな少しだけ“自分の中のこと”を意識し始める。見たい展示はもうだいたい見た。食べたいものも一通り食べた。写真も何枚か撮った。
そのうえで残るのは、最後に誰といたいか、どこへ行きたいか、何を言いそびれたくないか、そういう話だ。
だから文化祭の二日目は、言えなかった気持ちの置き場所になる。
無理に口に出されることもあれば、逆に最後まで飲み込まれることもある。けれど、どちらにしても、そこに“ある”ことだけは隠しきれなくなる。
◇
二日目の朝、学校へ着いたときには、もう空気が違っていた。
昨日の高揚感に比べると、今日は少しだけ透明だ。喧騒の中に慣れが混ざっている。そのかわり、一人ひとりの顔色が見えやすい。文化祭の二日目というのは、たいていそういうものだ。
俺は校門をくぐってすぐ、昇降口前で澪菜を見つけた。
今日は喫茶担当らしいエプロン姿ではなく、クラスTシャツに薄手のカーディガンを羽織っている。髪は後ろで軽く結んでいて、昨日より少しだけ大人っぽく見えた。
そして俺を見ると、いつも通りみたいな顔で手を上げた。
「おはよ」
「おはよう」
「ちゃんと早く来た」
「そっちが“朝早い?”って聞いたんだろ」
「それはそう」
澪菜は少し笑った。
笑い方は、遅れていなかった。
昨日の坂道のあと、何かが少し変わったのだと思う。気まずさが消えたわけじゃない。でも、あきらめたふりのまま会話する感じではなくなった。
「今日」
澪菜が言う。
「終わったら、話す?」
「そのつもり」
「そっか」
「何だよ」
「いや。逃げないんだなって」
「逃げると余計面倒そうだから」
「そういう言い方、ほんと透真だよね」
それは褒められているのかどうかよく分からなかった。
でも澪菜は、そのあとでほんの少しだけ目を細める。
「ありがと」
小さく言った。
「何が」
「別に。今日、先に来てくれたこと」
「偶然だろ」
「はいはい」
その“はいはい”の温度が、前より少し柔らかい。
そこへ、廊下の向こうから柊木星彩が歩いてきた。今日も腕章、今日もクリップボード、今日も整った姿勢。だが昨日までと少し違うのは、“整っていること”の力みが減っていることだった。
一度崩れた人は、前より少しだけ崩れることを怖がらなくなるのかもしれない。
「おはようございます」
星彩が言う。
「おはようございます」
俺と澪菜が同時に返す。
星彩は一瞬だけ澪菜を見る。そして、ほんの少しだけ言いづらそうにしてから口を開いた。
「昨日は、その」
「うん?」
澪菜が首を傾げる。
「ええと……」
星彩が詰まる。
こういうところは、まだ不器用だ。
「お互いさま、って話の続きなら、もう終わってるよ」
澪菜が先に言う。
「だから大丈夫」
「……」
「それに、文化祭当日にまで引きずるの、ちょっと格好悪いし」
その言い方で、星彩の肩から少しだけ力が抜けたのが分かった。
「ありがとうございます」
静かに言う。
「いいえ」
澪菜が笑う。
「その代わり、今日ほんとに倒れないでね」
「倒れません」
「昨日も似たようなこと言ってた」
俺が挟む。
「鷹取くん」
「事実確認です」
一瞬、星彩が目を細める。
けれどそのあと、自分でも少しだけ笑ってしまったみたいに、視線を逸らした。
「……今日は気をつけます」
その言い方を聞いて、澪菜が小さく「よし」と呟いた。
この二人のあいだにも、昨日までとは違う空気が生まれている。どちらも完全に本音をさらしたわけじゃない。でも、お互いが“相手の見えていない部分”を少しだけ知ったぶん、前より雑に扱えなくなっている。
文化祭二日目の朝にしては、悪くない始まりだった。
◇
午前中の学校は、昨日よりうまく回っていた。
二年二組の展示は、昨日の“混ざりもの”の件があってから、担当がかなり慎重になっている。案内文も目立ちすぎず、見た人の思い出を勝手に煽るような作りではない。そのぶん派手さは減ったが、少なくとも誰かの言葉を雰囲気の飾りにする感じは薄まった。
結月は図書室前の案内と展示補助の間を静かに移動していた。文化祭の喧騒の中でも、あの静けさは逆に目立つ。いや、目立つというより、“そこで勝手に大きい音を出しにくくする”種類の存在感だ。
乙部先輩はというと、相変わらず自由に動いているくせに、校内新聞の特設コーナーだけはきっちり面白くしていた。昨日追加していた駅前コラムも好評らしく、何人かが足を止めて読んでいる。
そしてその前を通ったとき、玻乃先輩はちらりとこちらを見て、指で軽く「あとで」と合図をした。
昨日、海の近くで足を止めた言葉が頭をよぎる。
冗談三割、本音七割。
今日はそれを意識しないわけにはいかなかった。
だが、その前に片づけるべきことがある。
澪菜だ。
いや、片づけるという言い方は違う。でも少なくとも、“後回しにしない”と決めた相手だ。
「透真」
昼過ぎ、二年三組の喫茶企画の裏方で、澪菜が紙皿を抱えながら言った。
「ちょっと手貸して」
「何」
「こっち、在庫の数合わない」
「何で俺」
「こういうとき、“困ってる子を放っておけない人”だから」
からかっている。
けれど、その言い方には昨日までみたいな痛さがなかった。
「便利に使うなよ」
俺は言う。
「便利だもん」
「否定しろ」
「しない」
そう言って笑う澪菜の横顔を見て、少しだけ安心する。完全に平気になったわけではないだろう。でも少なくとも、今はちゃんと同じ場所に立てている感じがある。
在庫表を見直しながら、小声で聞く。
「今日の夜」
「うん」
「ほんとに話せるか」
「話せるよ」
「逃げない?」
「逃げたらたぶん透真、追ってくるでしょ」
「最近はそうかも」
「それなら大丈夫」
澪菜は、紙皿の束を机へ揃えながら、ほんの少しだけ真面目な声になる。
「昨日さ」
「うん」
「言っちゃったら、思ったより楽になったんだよね」
「……」
「もちろん、全部すっきりしたわけじゃないけど」
「うん」
「でも、“平気なふりしなきゃ”が一枚減った」
その言い方が、妙に良かった。
平気なふりしなきゃ、が一枚減った。
たぶん人の気持ちって、本当にそんなふうに軽くなったり重くなったりするのだろう。なくなるわけじゃない。でも、一枚薄くなるだけで、ずいぶん息はしやすくなる。
「だから今日は」
澪菜が言う。
「ちゃんと文化祭楽しみたい」
「それがいい」
「うん」
そして少しだけ、悪戯っぽく目を細めた。
「そのかわり、委員長さんとか先輩とか後輩ちゃんとか、あちこちで拾いすぎないでね」
「最後にそれ言うのか」
「だってほんとだもん」
「善処します」
「しない顔だ」
「うるさい」
軽口の終わりに残る感じも、昨日までよりずっと自然だった。
◇
午後の後半、文化祭の熱が少し落ち着き始めた頃、乙部先輩に捕まった。
場所は校内新聞コーナーの裏、窓の外に海が少しだけ見える廊下の角だ。昨日の“あとで”の合図を無視するほどの度胸は、俺にはなかった。
「後輩くん」
先輩は相変わらず、どこか楽しそうな顔で言う。
「ちゃんと来た」
「無視すると後が面倒そうなので」
「その判断、だいぶ正しい」
今日はクラスTシャツの上に薄いシャツを羽織っている。昨日より少しだけラフだ。文化祭二日目の空気が、先輩の肩の力も少し抜いているのかもしれない。
「昨日の続き?」
俺が聞くと、先輩は少しだけ肩をすくめた。
「半分」
「また便利な」
「便利なんだよ」
「知ってます」
先輩は窓の外を見た。高台の学校から見える海は、今日は昨日より青く見える。天気のせいか、時間のせいか、その両方かもしれない。
「後輩くんさ」
玻乃が言う。
「今日は誰を後回しにしてない?」
結月と同じ問いだ。
でも先輩が言うと、少しだけ響きが違う。もっと柔らかくて、でも逃げ道も少ない。
「……澪菜」
俺は答えた。
「うん」
「少なくとも、今日は」
「よろしい」
「上からだな」
「年上なので」
最強の肩書きだ。と言おうとして、やめる。
代わりに聞く。
「先輩は」
「何」
「今日は誰かを後回しにしてないんですか」
玻乃は一瞬だけ黙って、それからふっと笑った。
「うわ」
「何ですか」
「今のだいぶ鋭い」
「そういうつもりじゃ」
「いや、そういうつもりじゃなくても鋭い時が一番危ないんだよ」
危ない、という言い方の温度が少しだけ低い。
先輩は手すりに背を預ける。
「私はね」
静かに言う。
「今日、ちゃんと後回しにした」
その答え方に、胸のどこかが少し痛む。
「何を」
分かっていながら聞く。
「私のほう」
先輩は笑う。
「だって文化祭だし。今日、後輩くんの頭の中をこれ以上混ぜるの、ずるいでしょ」
冗談みたいな口調なのに、目だけが軽くない。
昨日と同じだ。いや、昨日より少しだけ静かで、少しだけ逃げていない。
「……先輩」
「ん?」
「それ、やっぱりずるいです」
「知ってる」
「自分で引いてるみたいに見せて、ちゃんと残すから」
「うわ、言うね」
玻乃は感心したみたいに目を細める。
「でもそれ、ちょっと嬉しい」
「何が」
「君がちゃんと“残る”って分かってること」
その言い方に、息が詰まりかける。
「私はさ」
先輩は続ける。
「たぶん、年上だから引くんじゃなくて、引く理由に“年上”を使ってるだけなんだよね」
その自己分析が、びっくりするくらい正確で、びっくりするくらい痛かった。
「怖いから?」
俺が聞く。
「そう」
即答だった。
「答えが出ないまま近づくの、普通に怖い」
「……」
「でも、怖いって言うには年上っぽくないじゃん」
「そんなことないと思う」
「後輩くん、それ今の私にはだいぶ効くやつ」
先輩は笑う。けれど、その笑いはやっぱり冗談だけじゃない。
「だから今日は」
玻乃が言う。
「自分の話はここまで」
「半分」
「うん。半分」
「残りは」
「明日以降、生きてたら」
「大げさだな」
「文化祭終わった直後の失恋って、ちょっと死ぬ感じするから」
「失恋って決めてる」
「そこもずるい?」
「だいぶ」
「便利なんだよ、最初に負けとくと」
その言葉を聞いた瞬間、俺は少しだけ目を見開いた。
負けヒロイン、なんて言葉は、本人の前で使うものじゃない。だけど、先輩は今たぶん、それに近い自覚を自分で冗談へ逃がしている。
そして、その逃がし方がうますぎるから余計につらい。
「後輩くん」
「はい」
「今の顔、たぶんかなり優しい」
「そうですか」
「うん。でも」
先輩はこっちを見る。
「そういう優しさ、時々残酷だから気をつけて」
その一言で、また呼吸が浅くなる。
困ってる子を放っておけないのと、その子を特別にしたいのは違う。
先輩はたぶん、最初からずっと同じ話をしている。
◇
夕方前、校内放送で閉会まで残り一時間の案内が入った。
その頃には、校舎全体が「終わる」ほうへ傾き始めていた。名残惜しさの混じった笑い声。写真を撮り直す人。最後に回っておきたい展示を急ぐ人。模擬店の値引きの声。片づけの相談。どこも少しだけ終わりの色をしている。
生活記録同好会の資料整理室に戻ると、結月がいた。
珍しい。文化祭中にここで結月と会うのは初めてかもしれない。
「先輩」
彼女は椅子に座ったまま言う。
「今日は少し顔が違います」
「何その言い方」
「昨日より、迷ったまま前へ進んでる顔」
自分でもよく分からない顔だなと思う。
「褒めてる?」
「半分」
「やっぱ便利だな」
「便利です」
結月は机の上の付箋の束を軽く揃えながら言う。
「二年二組の件、今日これ以上は何もありませんでした」
「よかった」
「でも、見ている人はいました」
「……」
「だから、結局は“どう扱うか”の問題なんです」
その静かな言い方に、やっぱりこの子は怒りをまだ終わらせていないのだと分かる。
「篠浜」
「はい」
「おまえ、ほんとに今日はよく怒ったな」
結月は少しだけ首を傾げた。
「怒るべき時に怒らないと」
静かに言う。
「言葉の扱いが雑な人だけが得をするので」
その答えが、いちばん今日らしかった。
「で」
結月はふいにこちらを見る。
「先輩、今日は誰のことを一番持ちましたか」
またその問い。
でも今は、昨日より少しだけ答えやすい。
「……まだ途中だけど」
俺は言う。
「澪菜かもしれない」
結月は少しだけ瞬きをした。
「そうですか」
「何だよ」
「いえ」
ごくわずかに口元が緩む。
「今日の先輩は、少しだけ正しい順番で迷っているので」
それは結構な褒め言葉なのかもしれなかった。
◇
閉会の少し前、俺は二年三組の喫茶教室の裏で澪菜を見つけた。
人目の少ない、搬入口寄りの廊下。喫茶の看板を片づけるために一時的に物が積まれていて、その陰に近い場所だ。文化祭の喧騒から半歩だけ外れたところ。
澪菜は紙コップの段ボールを畳んでいた。手は動いているのに、顔は少し遠くを見ている。
「澪菜」
声をかけると、すぐに顔が上がる。
「お、来た」
「約束だからな」
「うん」
そこで澪菜は手を止め、段ボールを脇へ寄せた。
「今?」
「今」
「閉会前だけど」
「閉会前だから」
少しだけ沈黙が落ちる。
どこかで拍手が起こる音がした。たぶん別の教室で、何かの企画が終わったのだろう。笑い声も遠くにある。文化祭の終わりへ向かう音だ。
「昨日の続き、でいい?」
澪菜が聞く。
「いい」
「じゃあ、先に言っとくけど」
澪菜は少しだけ笑う。
「今日はちゃんと楽しんだよ」
「それはよかった」
「うん。喫茶も忙しかったし、友達とも写真撮ったし、変に一日中しょぼくれてたわけじゃない」
「うん」
「でも」
そこで一拍。
「それとこれとは別」
分かる。
文化祭を楽しめることと、個人的な気持ちが片づくことは違う。むしろ、楽しい日の終わりほど、余計に残るものもある。
「昨日さ」
澪菜が言う。
「透真、正直でいてくれたじゃん」
「どのへん」
「“今ここで綺麗に言えない”ってとこ」
少し恥ずかしい。
「うん」
俺は答える。
「それで、今日一日考えたんだけど」
澪菜は壁に軽く背を預ける。
「私、たぶん今すぐ答えほしいわけじゃないんだよね」
「……」
「いや、ほしいはほしいよ?」
「だろうな」
「でも、“じゃあ今ここで好きって言って”みたいなことをしたいわけじゃない」
その言い方が、いかにも澪菜だった。
真っ直ぐなのに、相手の逃げ道を全部は塞がない。けれど、自分の気持ちも消さない。
「ただ」
澪菜が言う。
「もう“幼なじみだから”だけの場所には戻りたくない」
その一言に、息が少し詰まる。
そうだ。そこがいちばん大事なのだ。
好きかどうか、付き合うかどうか、その前に。
この気持ちを見つけたあと、何もなかった頃と同じ位置へ戻されるのが、一番つらい。
「分かった」
俺は言う。
「それは、しない」
「ほんとに?」
「ほんとに」
「……」
「少なくとも、俺の中でおまえを“いつもの幼なじみ”だけで処理するのは、もう無理だ」
澪菜の目が少し揺れる。
それから、すごく小さく息を吐いた。
「それ」
掠れた声で言う。
「だいぶ、効く」
笑った。けれど目元は少し赤い。
泣くほどではない。でも、泣かなくて済むぎりぎりのところみたいな顔だ。
「透真」
「何」
「今のとこ、今日はそれで許してあげる」
「上からだな」
「今日くらいはね」
そして澪菜は、少しだけ悪戯っぽく目を細める。
「でも」
「うん」
「委員長さんとか先輩とか後輩ちゃんとか」
「そこへ戻るのか」
「戻るよ」
「何だよ」
「全員、透真のことちょっと特別扱いしてる顔してるから」
図星ではない、とは言い切れない。
だが、だからこそ軽く返せない。
「……」
「今の沈黙、だいぶ危ない」
澪菜が言う。
「分かってる」
「分かってるならいいけど」
「よくないだろ」
「よくないよ」
それなのに、澪菜は少しだけ笑った。
「でもさ」
小さく言う。
「それでも今日、ここで透真がちゃんと私を後回しにしなかったの、うれしい」
その言葉で、たぶん今日の文化祭の一番大事なところは決まったのだと思う。
◇
閉会の拍手が、校内に響いた。
文化祭が終わる。ざわめきが少しずつ後片付けの音へ変わっていく。笑い声も、写真も、呼び込みも、全部“終わったもの”の顔になる。
でも、終わったから消えるわけではない。
言えなかった気持ちの置き場所になったものは、そのままちゃんと残る。
片づけの前、資料整理室に一度戻ると、星彩が最後の書類をまとめていた。結月はすでに図書室の施錠確認へ行っているらしい。乙部先輩はたぶん、どこかで最後の写真を撮っている。
「お疲れさまです」
俺が言う。
「お疲れさまです」
星彩は顔を上げる。
「終わりましたね」
「そうですね」
「大丈夫でした?」
「何が」
「いろいろです」
その聞き方は、たぶん単なる文化祭の運営についてだけではない。
俺は少しだけ考えてから答える。
「途中です」
「途中」
「でも、後回しにはしなかった」
星彩はほんの一瞬、まばたきを止めた。
それから、静かにうなずく。
「それなら」
小さく言う。
「たぶん、今日はそれで十分です」
その言い方が少しだけ優しくて、少しだけ距離のあるもので、だからこそ逆に胸へ残る。
乙部先輩の七割の本音も、結月の静かな怒りも、澪菜の“もう戻りたくない”も、全部が今日のどこかに置かれたままになっている。
文化祭は、言えなかった気持ちの置き場所になる。
今日、それを少しだけ実感した。
そしてたぶん、その置かれたものを、明日からどう持っていくのかが本当の問題なのだろう。
終わったばかりの校舎の窓から、夕方の海が少しだけ見えた。
光はもう弱い。
でも、消えてはいなかった。




