↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
14/25

第十四話 文化祭は、言えなかった気持ちの置き場所になる

文化祭の二日目は、一日目より少しだけ静かだ。


 人が少ないわけではない。むしろ時間帯によっては昨日より混む。けれど、初日の勢いが一段落したぶん、今日はみんな少しだけ“自分の中のこと”を意識し始める。見たい展示はもうだいたい見た。食べたいものも一通り食べた。写真も何枚か撮った。


 そのうえで残るのは、最後に誰といたいか、どこへ行きたいか、何を言いそびれたくないか、そういう話だ。


 だから文化祭の二日目は、言えなかった気持ちの置き場所になる。


 無理に口に出されることもあれば、逆に最後まで飲み込まれることもある。けれど、どちらにしても、そこに“ある”ことだけは隠しきれなくなる。


    ◇


 二日目の朝、学校へ着いたときには、もう空気が違っていた。


 昨日の高揚感に比べると、今日は少しだけ透明だ。喧騒の中に慣れが混ざっている。そのかわり、一人ひとりの顔色が見えやすい。文化祭の二日目というのは、たいていそういうものだ。


 俺は校門をくぐってすぐ、昇降口前で澪菜を見つけた。


 今日は喫茶担当らしいエプロン姿ではなく、クラスTシャツに薄手のカーディガンを羽織っている。髪は後ろで軽く結んでいて、昨日より少しだけ大人っぽく見えた。


 そして俺を見ると、いつも通りみたいな顔で手を上げた。


「おはよ」

「おはよう」

「ちゃんと早く来た」

「そっちが“朝早い?”って聞いたんだろ」

「それはそう」


 澪菜は少し笑った。


 笑い方は、遅れていなかった。


 昨日の坂道のあと、何かが少し変わったのだと思う。気まずさが消えたわけじゃない。でも、あきらめたふりのまま会話する感じではなくなった。


「今日」

 澪菜が言う。

「終わったら、話す?」

「そのつもり」

「そっか」

「何だよ」

「いや。逃げないんだなって」

「逃げると余計面倒そうだから」

「そういう言い方、ほんと透真だよね」

 

 それは褒められているのかどうかよく分からなかった。


 でも澪菜は、そのあとでほんの少しだけ目を細める。


「ありがと」

 小さく言った。

「何が」

「別に。今日、先に来てくれたこと」

「偶然だろ」

「はいはい」

 

 その“はいはい”の温度が、前より少し柔らかい。


 そこへ、廊下の向こうから柊木星彩が歩いてきた。今日も腕章、今日もクリップボード、今日も整った姿勢。だが昨日までと少し違うのは、“整っていること”の力みが減っていることだった。


 一度崩れた人は、前より少しだけ崩れることを怖がらなくなるのかもしれない。


「おはようございます」

 星彩が言う。

「おはようございます」

 俺と澪菜が同時に返す。


 星彩は一瞬だけ澪菜を見る。そして、ほんの少しだけ言いづらそうにしてから口を開いた。


「昨日は、その」

「うん?」

 澪菜が首を傾げる。

「ええと……」

 

 星彩が詰まる。


 こういうところは、まだ不器用だ。


「お互いさま、って話の続きなら、もう終わってるよ」

 澪菜が先に言う。

「だから大丈夫」

「……」

「それに、文化祭当日にまで引きずるの、ちょっと格好悪いし」

 

 その言い方で、星彩の肩から少しだけ力が抜けたのが分かった。


「ありがとうございます」

 静かに言う。

「いいえ」

 澪菜が笑う。

「その代わり、今日ほんとに倒れないでね」

「倒れません」

「昨日も似たようなこと言ってた」

 俺が挟む。

「鷹取くん」

「事実確認です」

 

 一瞬、星彩が目を細める。


 けれどそのあと、自分でも少しだけ笑ってしまったみたいに、視線を逸らした。


「……今日は気をつけます」

 

 その言い方を聞いて、澪菜が小さく「よし」と呟いた。


 この二人のあいだにも、昨日までとは違う空気が生まれている。どちらも完全に本音をさらしたわけじゃない。でも、お互いが“相手の見えていない部分”を少しだけ知ったぶん、前より雑に扱えなくなっている。


 文化祭二日目の朝にしては、悪くない始まりだった。


    ◇


 午前中の学校は、昨日よりうまく回っていた。


 二年二組の展示は、昨日の“混ざりもの”の件があってから、担当がかなり慎重になっている。案内文も目立ちすぎず、見た人の思い出を勝手に煽るような作りではない。そのぶん派手さは減ったが、少なくとも誰かの言葉を雰囲気の飾りにする感じは薄まった。


 結月は図書室前の案内と展示補助の間を静かに移動していた。文化祭の喧騒の中でも、あの静けさは逆に目立つ。いや、目立つというより、“そこで勝手に大きい音を出しにくくする”種類の存在感だ。


 乙部先輩はというと、相変わらず自由に動いているくせに、校内新聞の特設コーナーだけはきっちり面白くしていた。昨日追加していた駅前コラムも好評らしく、何人かが足を止めて読んでいる。


 そしてその前を通ったとき、玻乃先輩はちらりとこちらを見て、指で軽く「あとで」と合図をした。


 昨日、海の近くで足を止めた言葉が頭をよぎる。


 冗談三割、本音七割。


 今日はそれを意識しないわけにはいかなかった。


 だが、その前に片づけるべきことがある。


 澪菜だ。


 いや、片づけるという言い方は違う。でも少なくとも、“後回しにしない”と決めた相手だ。


「透真」

 昼過ぎ、二年三組の喫茶企画の裏方で、澪菜が紙皿を抱えながら言った。

「ちょっと手貸して」

「何」

「こっち、在庫の数合わない」

「何で俺」

「こういうとき、“困ってる子を放っておけない人”だから」

 

 からかっている。


 けれど、その言い方には昨日までみたいな痛さがなかった。


「便利に使うなよ」

 俺は言う。

「便利だもん」

「否定しろ」

「しない」


 そう言って笑う澪菜の横顔を見て、少しだけ安心する。完全に平気になったわけではないだろう。でも少なくとも、今はちゃんと同じ場所に立てている感じがある。


 在庫表を見直しながら、小声で聞く。


「今日の夜」

「うん」

「ほんとに話せるか」

「話せるよ」

「逃げない?」

「逃げたらたぶん透真、追ってくるでしょ」

「最近はそうかも」

「それなら大丈夫」

 

 澪菜は、紙皿の束を机へ揃えながら、ほんの少しだけ真面目な声になる。


「昨日さ」

「うん」

「言っちゃったら、思ったより楽になったんだよね」

「……」

「もちろん、全部すっきりしたわけじゃないけど」

「うん」

「でも、“平気なふりしなきゃ”が一枚減った」

 

 その言い方が、妙に良かった。


 平気なふりしなきゃ、が一枚減った。


 たぶん人の気持ちって、本当にそんなふうに軽くなったり重くなったりするのだろう。なくなるわけじゃない。でも、一枚薄くなるだけで、ずいぶん息はしやすくなる。


「だから今日は」

 澪菜が言う。

「ちゃんと文化祭楽しみたい」

「それがいい」

「うん」

 

 そして少しだけ、悪戯っぽく目を細めた。


「そのかわり、委員長さんとか先輩とか後輩ちゃんとか、あちこちで拾いすぎないでね」

「最後にそれ言うのか」

「だってほんとだもん」

「善処します」

「しない顔だ」

「うるさい」

 

 軽口の終わりに残る感じも、昨日までよりずっと自然だった。


    ◇


 午後の後半、文化祭の熱が少し落ち着き始めた頃、乙部先輩に捕まった。


 場所は校内新聞コーナーの裏、窓の外に海が少しだけ見える廊下の角だ。昨日の“あとで”の合図を無視するほどの度胸は、俺にはなかった。


「後輩くん」

 先輩は相変わらず、どこか楽しそうな顔で言う。

「ちゃんと来た」

「無視すると後が面倒そうなので」

「その判断、だいぶ正しい」

 

 今日はクラスTシャツの上に薄いシャツを羽織っている。昨日より少しだけラフだ。文化祭二日目の空気が、先輩の肩の力も少し抜いているのかもしれない。


「昨日の続き?」

 俺が聞くと、先輩は少しだけ肩をすくめた。

「半分」

「また便利な」

「便利なんだよ」

「知ってます」


 先輩は窓の外を見た。高台の学校から見える海は、今日は昨日より青く見える。天気のせいか、時間のせいか、その両方かもしれない。


「後輩くんさ」

 玻乃が言う。

「今日は誰を後回しにしてない?」

 

 結月と同じ問いだ。


 でも先輩が言うと、少しだけ響きが違う。もっと柔らかくて、でも逃げ道も少ない。


「……澪菜」

 俺は答えた。

「うん」

「少なくとも、今日は」

「よろしい」

「上からだな」

「年上なので」

 

 最強の肩書きだ。と言おうとして、やめる。


 代わりに聞く。


「先輩は」

「何」

「今日は誰かを後回しにしてないんですか」

 

 玻乃は一瞬だけ黙って、それからふっと笑った。


「うわ」

「何ですか」

「今のだいぶ鋭い」

「そういうつもりじゃ」

「いや、そういうつもりじゃなくても鋭い時が一番危ないんだよ」

 

 危ない、という言い方の温度が少しだけ低い。


 先輩は手すりに背を預ける。


「私はね」

 静かに言う。

「今日、ちゃんと後回しにした」

 

 その答え方に、胸のどこかが少し痛む。


「何を」

 分かっていながら聞く。

「私のほう」

 先輩は笑う。

「だって文化祭だし。今日、後輩くんの頭の中をこれ以上混ぜるの、ずるいでしょ」

 

 冗談みたいな口調なのに、目だけが軽くない。


 昨日と同じだ。いや、昨日より少しだけ静かで、少しだけ逃げていない。


「……先輩」

「ん?」

「それ、やっぱりずるいです」

「知ってる」

「自分で引いてるみたいに見せて、ちゃんと残すから」

「うわ、言うね」

 

 玻乃は感心したみたいに目を細める。


「でもそれ、ちょっと嬉しい」

「何が」

「君がちゃんと“残る”って分かってること」

 

 その言い方に、息が詰まりかける。


「私はさ」

 先輩は続ける。

「たぶん、年上だから引くんじゃなくて、引く理由に“年上”を使ってるだけなんだよね」

 

 その自己分析が、びっくりするくらい正確で、びっくりするくらい痛かった。


「怖いから?」

 俺が聞く。

「そう」

 即答だった。

「答えが出ないまま近づくの、普通に怖い」

「……」

「でも、怖いって言うには年上っぽくないじゃん」

「そんなことないと思う」

「後輩くん、それ今の私にはだいぶ効くやつ」

 

 先輩は笑う。けれど、その笑いはやっぱり冗談だけじゃない。


「だから今日は」

 玻乃が言う。

「自分の話はここまで」

「半分」

「うん。半分」

「残りは」

「明日以降、生きてたら」

「大げさだな」

「文化祭終わった直後の失恋って、ちょっと死ぬ感じするから」

「失恋って決めてる」

「そこもずるい?」

「だいぶ」

「便利なんだよ、最初に負けとくと」

 

 その言葉を聞いた瞬間、俺は少しだけ目を見開いた。


 負けヒロイン、なんて言葉は、本人の前で使うものじゃない。だけど、先輩は今たぶん、それに近い自覚を自分で冗談へ逃がしている。


 そして、その逃がし方がうますぎるから余計につらい。


「後輩くん」

「はい」

「今の顔、たぶんかなり優しい」

「そうですか」

「うん。でも」

 先輩はこっちを見る。

「そういう優しさ、時々残酷だから気をつけて」

 

 その一言で、また呼吸が浅くなる。


 困ってる子を放っておけないのと、その子を特別にしたいのは違う。


 先輩はたぶん、最初からずっと同じ話をしている。


    ◇


 夕方前、校内放送で閉会まで残り一時間の案内が入った。


 その頃には、校舎全体が「終わる」ほうへ傾き始めていた。名残惜しさの混じった笑い声。写真を撮り直す人。最後に回っておきたい展示を急ぐ人。模擬店の値引きの声。片づけの相談。どこも少しだけ終わりの色をしている。


 生活記録同好会の資料整理室に戻ると、結月がいた。


 珍しい。文化祭中にここで結月と会うのは初めてかもしれない。


「先輩」

 彼女は椅子に座ったまま言う。

「今日は少し顔が違います」

「何その言い方」

「昨日より、迷ったまま前へ進んでる顔」

 

 自分でもよく分からない顔だなと思う。


「褒めてる?」

「半分」

「やっぱ便利だな」

「便利です」


 結月は机の上の付箋の束を軽く揃えながら言う。


「二年二組の件、今日これ以上は何もありませんでした」

「よかった」

「でも、見ている人はいました」

「……」

「だから、結局は“どう扱うか”の問題なんです」

 

 その静かな言い方に、やっぱりこの子は怒りをまだ終わらせていないのだと分かる。


「篠浜」

「はい」

「おまえ、ほんとに今日はよく怒ったな」

 

 結月は少しだけ首を傾げた。


「怒るべき時に怒らないと」

 静かに言う。

「言葉の扱いが雑な人だけが得をするので」

 

 その答えが、いちばん今日らしかった。


「で」

 結月はふいにこちらを見る。

「先輩、今日は誰のことを一番持ちましたか」

 

 またその問い。


 でも今は、昨日より少しだけ答えやすい。


「……まだ途中だけど」

 俺は言う。

「澪菜かもしれない」

 

 結月は少しだけ瞬きをした。


「そうですか」

「何だよ」

「いえ」

 ごくわずかに口元が緩む。

「今日の先輩は、少しだけ正しい順番で迷っているので」

 

 それは結構な褒め言葉なのかもしれなかった。


    ◇


 閉会の少し前、俺は二年三組の喫茶教室の裏で澪菜を見つけた。


 人目の少ない、搬入口寄りの廊下。喫茶の看板を片づけるために一時的に物が積まれていて、その陰に近い場所だ。文化祭の喧騒から半歩だけ外れたところ。


 澪菜は紙コップの段ボールを畳んでいた。手は動いているのに、顔は少し遠くを見ている。


「澪菜」

 声をかけると、すぐに顔が上がる。

「お、来た」

「約束だからな」

「うん」

 

 そこで澪菜は手を止め、段ボールを脇へ寄せた。


「今?」

「今」

「閉会前だけど」

「閉会前だから」

 

 少しだけ沈黙が落ちる。


 どこかで拍手が起こる音がした。たぶん別の教室で、何かの企画が終わったのだろう。笑い声も遠くにある。文化祭の終わりへ向かう音だ。


「昨日の続き、でいい?」

 澪菜が聞く。

「いい」

「じゃあ、先に言っとくけど」

 澪菜は少しだけ笑う。

「今日はちゃんと楽しんだよ」

「それはよかった」

「うん。喫茶も忙しかったし、友達とも写真撮ったし、変に一日中しょぼくれてたわけじゃない」

「うん」

「でも」

 そこで一拍。

「それとこれとは別」

 

 分かる。


 文化祭を楽しめることと、個人的な気持ちが片づくことは違う。むしろ、楽しい日の終わりほど、余計に残るものもある。


「昨日さ」

 澪菜が言う。

「透真、正直でいてくれたじゃん」

「どのへん」

「“今ここで綺麗に言えない”ってとこ」

 

 少し恥ずかしい。


「うん」

 俺は答える。

「それで、今日一日考えたんだけど」

 澪菜は壁に軽く背を預ける。

「私、たぶん今すぐ答えほしいわけじゃないんだよね」

「……」

「いや、ほしいはほしいよ?」

「だろうな」

「でも、“じゃあ今ここで好きって言って”みたいなことをしたいわけじゃない」

 

 その言い方が、いかにも澪菜だった。


 真っ直ぐなのに、相手の逃げ道を全部は塞がない。けれど、自分の気持ちも消さない。


「ただ」

 澪菜が言う。

「もう“幼なじみだから”だけの場所には戻りたくない」

 

 その一言に、息が少し詰まる。


 そうだ。そこがいちばん大事なのだ。


 好きかどうか、付き合うかどうか、その前に。


 この気持ちを見つけたあと、何もなかった頃と同じ位置へ戻されるのが、一番つらい。


「分かった」

 俺は言う。

「それは、しない」

「ほんとに?」

「ほんとに」

「……」

「少なくとも、俺の中でおまえを“いつもの幼なじみ”だけで処理するのは、もう無理だ」

 

 澪菜の目が少し揺れる。


 それから、すごく小さく息を吐いた。


「それ」

 掠れた声で言う。

「だいぶ、効く」

 

 笑った。けれど目元は少し赤い。


 泣くほどではない。でも、泣かなくて済むぎりぎりのところみたいな顔だ。


「透真」

「何」

「今のとこ、今日はそれで許してあげる」

「上からだな」

「今日くらいはね」

 

 そして澪菜は、少しだけ悪戯っぽく目を細める。


「でも」

「うん」

「委員長さんとか先輩とか後輩ちゃんとか」

「そこへ戻るのか」

「戻るよ」

「何だよ」

「全員、透真のことちょっと特別扱いしてる顔してるから」

 

 図星ではない、とは言い切れない。


 だが、だからこそ軽く返せない。


「……」

「今の沈黙、だいぶ危ない」

 澪菜が言う。

「分かってる」

「分かってるならいいけど」

「よくないだろ」

「よくないよ」

 

 それなのに、澪菜は少しだけ笑った。


「でもさ」

 小さく言う。

「それでも今日、ここで透真がちゃんと私を後回しにしなかったの、うれしい」

 

 その言葉で、たぶん今日の文化祭の一番大事なところは決まったのだと思う。


    ◇


 閉会の拍手が、校内に響いた。


 文化祭が終わる。ざわめきが少しずつ後片付けの音へ変わっていく。笑い声も、写真も、呼び込みも、全部“終わったもの”の顔になる。


 でも、終わったから消えるわけではない。


 言えなかった気持ちの置き場所になったものは、そのままちゃんと残る。


 片づけの前、資料整理室に一度戻ると、星彩が最後の書類をまとめていた。結月はすでに図書室の施錠確認へ行っているらしい。乙部先輩はたぶん、どこかで最後の写真を撮っている。


「お疲れさまです」

 俺が言う。

「お疲れさまです」

 星彩は顔を上げる。

「終わりましたね」

「そうですね」

「大丈夫でした?」

「何が」

「いろいろです」

 

 その聞き方は、たぶん単なる文化祭の運営についてだけではない。


 俺は少しだけ考えてから答える。


「途中です」

「途中」

「でも、後回しにはしなかった」

 

 星彩はほんの一瞬、まばたきを止めた。


 それから、静かにうなずく。


「それなら」

 小さく言う。

「たぶん、今日はそれで十分です」

 

 その言い方が少しだけ優しくて、少しだけ距離のあるもので、だからこそ逆に胸へ残る。


 乙部先輩の七割の本音も、結月の静かな怒りも、澪菜の“もう戻りたくない”も、全部が今日のどこかに置かれたままになっている。


 文化祭は、言えなかった気持ちの置き場所になる。


 今日、それを少しだけ実感した。


 そしてたぶん、その置かれたものを、明日からどう持っていくのかが本当の問題なのだろう。


 終わったばかりの校舎の窓から、夕方の海が少しだけ見えた。


 光はもう弱い。


 でも、消えてはいなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。