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第十五話 坂の上で、まだ失恋にならない気持ちが立ち止まる

 文化祭のあと、学校は少しだけ広く見える。


 同じ廊下、同じ階段、同じ教室の並びなのに、祭りの熱が抜けたぶんだけ空間に余白が戻るからだろう。昨日まで人で詰まっていた渡り廊下も、呼び込みの声で賑やかだった昇降口前も、今日はどこか拍子抜けするほど普通の顔をしている。


 でも、普通に戻ったからといって、何もなかったことにはならない。


 文化祭の二日間で浮かび上がったものは、片づけの段ボールと一緒には消えてくれない。むしろ熱が引いたあとの静けさのほうが、それをよく見せる。


 誰が誰を見ていたか。


 誰が、冗談じゃない言葉を冗談の形で置いていったか。


 誰が、戻りたくない場所をちゃんと選んだか。


 そういうものが、祭りの翌日の学校には残る。


    ◇


 月曜日の朝。文化祭明けの校舎は、妙に眠たそうだった。


 ホームルーム前の教室には、週末に撮った写真を見せ合うやつ、机に突っ伏しているやつ、文化祭で余ったお菓子を配るやつがいる。先生も先生で、「今日は眠い人が多いと思いますが」と言いながら、自分が一番眠そうな顔をしていた。


 俺も眠かった。


 だが眠さとは別に、頭のどこかがずっと起きている感じもあった。


 文化祭で置いてきたはずのものが、全部きれいに教室までついてきているからだ。


 澪菜との会話。


 玻乃先輩の七割の本音。


 星彩の、見られるのは悔しいけれど少し救われるという声。


 結月の、言葉の尊厳という線の引き方。


 どれも消えていない。


 いつもの授業、いつもの机、いつものチャイムの中に、そのまま残っている。


 昼休み、俺は教室を出たところで澪菜に呼び止められた。


「透真」

「何」

「今日さ、帰り、少し遅くなる?」

「別に」

「じゃあ、いつもの坂」

「分かった」

 

 それだけ。


 でも、その短いやり取りの中に、前よりはっきりとした約束の感じがあった。


 “あとで話す”が、その場しのぎの先延ばしではなく、ちゃんとその時間へ向かうものになっている。


 そこが少し違った。


    ◇


 放課後、生活記録同好会の資料整理室へ行くと、珍しく人が揃っていた。


 柊木星彩は文化祭後の簡易報告書をまとめていて、篠浜結月は返却された備品リストを確認している。乙部玻乃先輩は新聞部の記事の最終レイアウトをいじっていた。なぜ三年の先輩がここにいるのかは、もう深く聞かないことにした。


「お疲れ」

 俺が言うと、

「お疲れさまです」

 星彩と結月がほぼ同時に返した。

「後輩くん、お疲れ」

 玻乃先輩が少し遅れて言う。

 

 部屋の空気は、文化祭前ほど張っていない。けれど静かに何かが変わったあとの感じがある。


 星彩は前より少し自然に人へ頼るようになった。結月は相変わらず静かだが、必要なときに言葉を引かなくなった。玻乃先輩は冗談の比率を自由にいじりながら、でも完全には逃げていない。


 そして俺も、前より“見つけたあと”を意識するようになっている。


「二年二組の件、完全に収まりました」

 星彩が言った。

「展示担当にも余計な尾ひれはついていません」

「よかった」

「はい」

 

 そこで星彩は一度、ペンを置いた。


「鷹取くん」

「はい」

「今日は、帰りに予定がありますか」

 

 不意打ちだった。


「え」

「いえ、その」

 星彩は一瞬だけ言葉を探した。

「文化祭の報告書、一人で最終確認するより、もう一度だけ客観的に見てもらえたらと思って」

 

 それはたぶん、ただの仕事の依頼だ。


 でも、言い方の中に“あなたに見てもらいたい”が少し混ざっているようにも聞こえる。


 だから余計に、返事が難しい。


「今日は」

 俺は言う。

「先に約束があって」

 

 それを口にした瞬間、星彩の表情がほんの少しだけ止まった。


 だがすぐに整える。


「そうですか」

 静かな声。

「分かりました。では、また明日」

 

 何でもないふうに言った。いつもの彼女なら、それで終わりだろう。


 でも今は、止まったほんの一拍を俺が見逃せない。


「悪い」

 思わず言う。

「謝る必要はありません」

「でも」

「ありません」

 

 その返しは正しい。正しいけれど、少しだけ他人行儀だった。


 前にも見たことがある。


 感情が動いたときほど、星彩は丁寧になる。


 敬語が増え、音が整い、壁が薄く一枚増える。


 それを見てしまうのも、やっぱり少しつらい。


「柊木先輩」

 結月がふいに口を開く。

「今日はわたしが一緒に見ます」

 

 星彩が少し目を瞬く。


「え」

「客観性の確保なら、たぶん問題ないので」

「……そうですね」

 

 星彩は小さくうなずいた。


 その横顔を見ながら、結月は書類へ視線を落とす。何も言わない。だがたぶん、今この場で必要な形を選んだのだろう。


 誰かを後回しにしない、というのは、こういう小さな行動のことでもあるのかもしれない。


「後輩くん」

 玻乃先輩が言う。

「今日の君、ちょっとちゃんとしてるね」

「何ですか、その言い方」

「いや、前なら“断ったこと”のほうに気を取られてた顔してた」

「……」

「今は、“誰を先に持つか”を分かったうえで言ってる顔」

 

 返事に困る。


 けれど、その通りだと思った。


 以前の俺なら、星彩の一拍や澪菜との約束や先輩の冗談や結月の沈黙、その全部を同時に気にして、結局どれにもちゃんと応えられなかったかもしれない。


 今もまだ上手くはない。


 でも少なくとも、“何となく全部”でごまかさないほうへは向いている。


    ◇


 校門を出る頃には、空はすっかり夕方だった。


 文化祭明けの月曜のせいか、坂を下る生徒たちの足取りも少し重い。部活へ向かうやつ、駅へ急ぐやつ、コンビニでたむろするやつ。そういう日常の流れの中で、俺はいつもの分かれ道より少し上、海の見えるガードレールのあたりへ向かった。


 澪菜は、先に来ていた。


 制服の上に薄手のパーカーを羽織って、ガードレールにもたれている。海を見ているようで、実際にはたぶん何も見ていない顔だった。


「待った?」

 俺が聞くと、

「ちょっと」

 と澪菜は言った。

「でも大げさに待った感じではない」

「その言い方いる?」

「気分」

 

 少しだけ笑う。


 それから二人で並んで、海のほうを見る。


 今日は風が少し強い。坂の上まで潮の匂いが上がってきている。海は夕方の光を鈍く返していて、遠くに灯台みたいな白い点が見えた。


「文化祭、終わったね」

 澪菜が言う。

「終わったな」

「なんか、あっけない」

「毎年そんなもんじゃないか」

「そうだけど」

 

 そこで一度、沈黙が落ちる。


 悪い沈黙ではない。何かを言うための助走みたいな沈黙だ。


「昨日さ」

 澪菜が先に口を開いた。

「透真、“幼なじみだけの場所には戻さない”って言ったじゃん」

「言った」

「覚えてる?」

「覚えてる」

「そっか」

 

 澪菜は少しだけ下を向く。


「それね、すごくうれしかった」

 小さい声で言う。

「ほんとに」

「うん」

「でも同時に、ちょっと怖かった」

 

 その言い方に、俺はすぐには返せない。


「怖い?」

「うん」

 澪菜はガードレールに指をかけたまま言う。

「だって“戻さない”って、じゃあどこへ行くの、って話になるじゃん」

「……」

「で、その先に進めるかどうかは、まだ分かんないわけでしょ」

「そうだな」

「それが、怖い」

 

 正直だった。


 あまりにも正直で、言葉が軽く返せない。


「でも」

 澪菜が続ける。

「戻されるよりは、ずっといい」

 

 その一言が、たぶん今日の根っこだった。


 好きかどうか、付き合うかどうか、そこへ行く前に、“なかったことにされない”ことがまず大事なのだ。


 近すぎる関係は、変化をなかったことにしやすい。


 幼なじみなんだから。今さらでしょ。いつも通りでいよう。


 そういう言葉で、気持ちを元の箱へ押し戻してしまう。


 でもそれをしないと決めた以上、今はまだ曖昧でも、前より先へ進むしかない。


「澪菜」

 俺は言う。

「昨日の続きになるけど」

「うん」

「俺、まだ答えを綺麗に言えない」

「うん」

「でも、おまえのことを“ただの幼なじみ”として見られなくなってるのは、たぶん本当だ」

 

 澪菜は黙って聞いている。


「それが今すぐ“じゃあ好きだ”って一直線になるのかは、まだ分からない」

「うん」

「でも、気づいたものを気づかなかったふりしたくない」

 

 そこまで言って、少し息をつく。


「……たぶん俺、今までそういうの多かった」

「何が」

「見えても、すぐ答えを出せないから、とりあえず元の位置へ戻すやつ」

「……」

「でも、おまえにはそれやりたくない」

 

 夕方の風が、少しだけ強く吹く。


 澪菜の結んだ髪が揺れ、頬にかかった毛先を指で払う。その仕草のあと、彼女は少しだけ笑った。


「それ」

 掠れた声で言う。

「ずるいくらい、ちゃんと響く」

「ずるいかな」

「ずるいよ。だって今の、ちゃんと希望になるから」

 

 その言い方に、胸が少し熱くなる。


「希望にしていいのか」

 俺が聞く。

「いいよ」

 澪菜は言う。

「だって、勝手に絶望されるより百倍いい」

 

 そこで二人とも少しだけ笑った。


 笑えるのが、不思議だった。


 もっと重くなると思っていた。あるいは、もっと曖昧なまま終わると思っていた。けれど今は、重いままでもちゃんとここに置ける感じがある。


「ねえ」

 澪菜が言う。

「聞いていい?」

「何」

「委員長さんのこと、どう思ってる?」

 

 直球だ。


 けれど逃げるわけにもいかない。


「ちゃんとしてる人だと思う」

「知ってる」

「でも、そのままじゃないとも思ってる」

「うん」

「見られるのは悔しいのに、少しだけ楽だって言うくらいには、不器用」

 

 澪菜が少しだけ目を細める。


「それ、結構見てるね」

「そうだな」

「先輩は?」

「冗談で逃がすのが上手い」

「それも知ってる」

「でも、本音が止まらないまま引き際を探してる感じがする」

 

 澪菜は黙る。


 そして少しだけ笑って言う。


「後輩ちゃんは?」

「静かだけど、一番怒ると怖い」

「それは分かる」

 

 少し笑いが戻る。


 だが、そのあと澪菜はちゃんと俺を見る。


「で」

「うん」

「その中で、私は?」

 

 また心臓が変な打ち方をした。


 でも今は、逃げるべきじゃない。


「……一番近い」

 俺は言う。

「それはずっとそう」

「うん」

「でも、近いから見えてなかったものが、一番多かったのもおまえかもしれない」

 

 澪菜のまばたきが一度止まる。


「今は?」

 小さく聞く。

「今は、見ようとしてる」

「それ、かなり大事なやつだよ」

「知ってる」

「知らなそうだったのに」

「最近いろいろ言われたからな」

 

 玻乃先輩、結月、星彩、そして澪菜自身。たぶん全員に。


 見つけるだけで満足するな。誰を先に持つか選べ。戻さないなら、その先を怖がるのも込みで進め。


 言われてきたことは、結局全部そこへ向かっている。


「……そっか」

 澪菜が静かに言う。

「じゃあ私、もうちょっとだけ待てる」

「待たせるのか」

「待たせるよ」

 澪菜は笑う。

「だって今の透真、たぶん嘘はついてないもん」

 

 その信頼の置き方が、少しこわい。けれど、うれしくもある。


「でも」

 澪菜が続ける。

「ずっと待つ気もないからね」

「だろうな」

「そこはちゃんと焦って」

「注文が多い」

「幼なじみなので」

 

 それを聞いて、思わず息が漏れる。


 最強の肩書きだ。本当に。


    ◇


 坂の上の風は、夕方になると少し冷える。


 話し終えたあとも、二人ですぐには動かなかった。海の向こうが少しずつ暗くなっていくのを見ている。言葉にしたものが空気になじむまで、少し時間がいるのかもしれない。


「ねえ」

 澪菜が、ふいに言う。

「私さ」

「うん」

「今日まだ、失恋してないんだなって思った」

 

 その言葉が、静かに胸へ落ちる。


 失恋していない。


 つまり、もう始まっているのだ。少なくとも“なかったこと”ではない。答えがまだ出ていなくても、勝手に終わらせられる段階ではない。


「……そうだな」

 俺が言う。

「まだ失恋じゃない」

「うん」

 澪菜は笑った。

「よかった」

 

 少し泣きそうな顔だった。でも泣かなかった。


 その代わり、澪菜はガードレールから離れて一歩踏み出す。


「じゃ、帰ろっか」

「おう」

「明日からまた普通の学校だ」

「普通か?」

「普通っぽい顔した学校」

「それはそう」

 

 坂を下り始める。


 途中で、駅前のほうへ向かう道が見える。その方向から、制服の影が一つ上がってくるのが見えた。少し離れているが、歩き方で分かる。乙部先輩だ。


 向こうもこちらに気づいたらしく、立ち止まる。


 少しだけ距離のあるところから、軽く手を振る。


 その仕草に、澪菜が小さく息を吐いた。


「出た」

「何が」

「タイミングのいい先輩」

「悪い人みたいに言うな」

「悪いとは言ってない」

 

 玻乃先輩は、こちらへ近づいてくるでもなく、遠くから笑った。


「お邪魔だった?」

 風に乗るくらいの声で言う。

「少し」

 澪菜が返す。

「うわ、正直」

 先輩が笑う。

「今日はそういう日なので」

「そっか」

 

 そこで先輩は、俺を見た。ほんの一瞬だけ。


 何かを聞きたそうで、でも聞かない目。


 それから、冗談の比率を少し上げた顔で言う。


「じゃあ私は今日はこのへんで負けとくね」

「……」

「後輩くん、またね」

 

 そう言って、先輩は駅前のほうへ下っていった。


 その背中を見送りながら、澪菜がぽつりと言う。


「先輩も、まだ失恋してない顔してた」

 

 返事ができなかった。


 たぶん、その通りだったから。


 坂の上で、まだ失恋にならない気持ちが立ち止まる。


 今日の夕方は、まさにそういう時間だったのだと思う。


 終わっていない。


 誰の気持ちも、まだ終わっていない。


 だからたぶん、この物語はここで終われないのだ。

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