第十六話 海の見える坂道で、恋に遅れる彼女たちのこと
文化祭が終わったあとの月曜日は、何もかもが少しだけ遅い。
チャイムの音も、廊下を歩く足音も、窓から入る風の匂いも、全部が一拍遅れて届く気がする。祭りの熱を二日分使い切った校舎は、表向きにはいつもの学校へ戻っているのに、中にいる人間だけがまだ戻りきれていない。
教室の後ろには片づけ忘れた色紙が一枚残っている。
黒板の端には消しきれていない「文化祭おつかれ!」の文字が薄く残っている。
スマホの中には撮った写真が何十枚も増えている。
そして、人の気持ちだけが、いちばん片づかない。
文化祭の二日間で置きそびれたもの。勢いで浮かび上がったもの。言ってしまったこと。言えなかったこと。冗談の形で置かれた本音。戻りたくない場所。もう“いつも通り”ではいられない距離。
そういうものが、祭りの終わったあとの学校にはそのまま残る。
たぶん、ここから先のほうが長い。
◇
翌日の朝、俺は少しだけ早く家を出た。
特別な理由があったわけではない。いや、たぶんあった。けれど、それをひとつの名前で呼ぶにはまだ早い気がした。
文化祭が終わっても、坂道は同じだ。
海の匂いも、家並みの高さも、通学路の電柱の位置も、ガードレールの白さも変わらない。変わらないのに、昨日までそこで交わされた言葉のせいで、風景の見え方だけが少し違う。
坂の途中で、聞き慣れた声がした。
「透真」
振り向くと、名塚澪菜が立っていた。
今日はいつもの制服姿だ。文化祭のクラスTシャツでも、喫茶のエプロンでもない。髪も自然に下ろしている。なのに、昨日までとは少しだけ違って見える。たぶん俺の目のほうが変わったのだろう。
「早いな」
俺が言う。
「透真が」
「おまえもだろ」
「私はまあ、ちょっと」
「ちょっとって何だ」
「気分?」
少し笑う。
その笑い方は、遅れていなかった。
「一緒に行く?」
澪菜が言う。
「行く」
それだけ。
でも、それだけで十分だった。
並んで坂を上る。文化祭前のあの気まずさとも、昨日までの重さとも少し違う、静かな朝だった。気持ちが片づいたわけじゃない。むしろ片づかないまま、ちゃんとそこにある。でも、それをなかったことにしないまま一緒に歩けるくらいには、昨日の会話で何かが変わった。
「ねえ」
澪菜が言う。
「何」
「昨日さ」
「うん」
「変なこと言ったかな」
「たくさん言った」
「ひど」
「俺も言ったし」
「それはそう」
澪菜は少しだけ空を見た。
「でも、後悔はしてない」
静かに言う。
「うん」
「透真は?」
「してない」
「そっか」
その“そっか”の温度が、前よりずっと安心している感じだった。
「ただ」
俺が言う。
「まだ、上手くはない」
「知ってる」
「答え出せてるわけでもない」
「知ってる」
「そこ、全部知ってるで受け止めるな」
「だって昨日ちゃんと聞いたし」
澪菜はそう言って笑う。
「でもさ」
少しだけ真面目な声になる。
「“もう幼なじみだけの場所には戻さない”って、あれだけで結構違うんだよ」
「そんなに?」
「そんなに」
きっぱりしていた。
「私たぶん今まで、そういうの何回も自分で押し戻してたから」
澪菜は続ける。
「近いからいいじゃん、って。今さらでしょ、って。変に空気悪くするくらいなら黙っとこ、って」
「……」
「でも、それやるたびに、何かがちょっとずつ減る感じあった」
その言い方が、結月の「言葉の尊厳」に少し似ている気がした。
大きな言葉じゃない。けれど、その人の中では確かに削られていくもの。
「だから」
澪菜が言う。
「今は、減らさないでいようかなって思ってる」
「いいんじゃないか」
「うん」
少し笑う。
「その代わり、透真も適当に誤魔化したら許さない」
「厳しいな」
「そういう日なので」
「それ便利だな」
「便利だよ」
その会話が心地よかった。
まだ恋人じゃない。告白したわけでもない。何も確定していない。なのに、“確定していないままちゃんと残す”というやり方があるのだと、ようやく少しだけ分かってきた気がした。
◇
学校へ着くと、文化祭明けらしい空気が校舎全体に漂っていた。
眠そうな教室。片づけきれていない荷物。先生たちの緩い注意。どこか間延びしたホームルーム。だが、その中でも人の気配だけは少し鋭い。祭りのあとで、みんなまだ少しだけ周囲を意識している。
昼休み、生活記録同好会の資料整理室へ行くと、結月がいた。
窓際で、文化祭中に使った備品の数を確認している。いつも通り静かで、いつも通り姿勢がいい。けれど、前よりこの静けさの中にあるものを少しだけ読めるようになってきた。
「お疲れ」
俺が言う。
「お疲れさまです」
結月は顔を上げる。
「今日は少し普通の顔です」
「何だよそれ」
「文化祭中の先輩は、迷っている顔に疲れが混ざっていたので」
「今は?」
「迷いだけ残ってます」
容赦がない。
「褒めてる?」
「半分」
「やっぱりその半分便利すぎる」
「便利なので」
少しだけ、笑いそうになる。
結月は手元のリストを閉じて、こちらを見る。
「二年二組の件、完全に収まりました」
「そうか」
「はい。少なくとも“あれ何だったんだろう”を面白がる流れにはなっていません」
「おまえが怒ったおかげだな」
結月は少しだけ目を細めた。
「怒ったのは、たぶん必要だったので」
静かに言う。
「黙っていると、“文化祭だから”で全部飲み込まれる感じがしたので」
「うん」
「でも、先輩たちがあの場で“犯人探し”にしなかったから、そこまでで止まりました」
「……」
「なので、怒ったのはわたしだけじゃないです」
そういう言い方をする。
自分の働きを一人で抱え込まないところも、この子の静かな賢さなのだろう。
「結月」
名字ではなく名前で呼んでしまってから、少しだけ間が空いた。
「……」
「悪い」
「別に」
前と同じ返しだが、前より丸い。
「今はそれでいいです」
「今は?」
「慣れてきたので」
その言い方の少しだけ柔らかいところに、文化祭前までにはなかった距離の変化を感じる。
「先輩」
結月が言う。
「文化祭、どうでしたか」
「ざっくりしてるな」
「ざっくりで聞いてます」
少し考えてから答える。
「大きく何かが解決した感じではない」
「はい」
「でも、見えなかったものを見た感じはある」
「はい」
「見つけたあと、何を持つかも少しは考えた」
結月はその答えを聞いて、小さくうなずいた。
「それなら、前よりはいいです」
「前よりは、なんだ」
「前は、見つけるだけで満足していたので」
痛いところを、やっぱりきっちり刺してくる。
でも今は、それが嫌じゃない。
◇
放課後、廊下で柊木星彩とすれ違った。
文化祭が終わり、腕章もクリップボードもない彼女は、久しぶりに“ただの女子生徒”の顔をしていた。もちろん姿勢はきちんとしているし、持っているノートの角まで揃っている。でも、あの二日間の強張った責任感は少し薄れている。
「お疲れさまです」
俺が言う。
「お疲れさまです」
星彩は少しだけ微笑む。
「今日、結局報告書、一人でまとめました?」
「ええ」
「大丈夫でした?」
「途中で篠浜さんが一度見てくれました」
その言い方が、以前より自然だ。
誰かに見てもらったことを、前ほど特別なことみたいに隠さない。
「助かった?」
俺が聞くと、星彩は少しだけ考えてからうなずいた。
「はい。かなり」
「そうですか」
「あなたに見てもらえなかったのは残念でしたが」
さらっと言われて、一瞬だけ言葉を失う。
星彩自身も少し言いすぎたと思ったのか、すぐに視線を逸らす。
「いえ、その、仕事の意味で」
「分かってます」
「……」
「たぶん」
そこで星彩はわずかに息を漏らす。
「最近、そういう返しが増えましたね」
「乙部先輩の影響かもしれません」
「困ります」
「でも似てきたの、そっちもじゃないですか」
「何が」
「“残念でしたが”って言い方」
今度ははっきりと、星彩の足が止まる。
「……」
「図星ですか」
「そうですね」
ごく小さく言う。
「図星かもしれません」
文化祭前なら、こんなふうに認めなかっただろう。
悔しい。でも少しだけ救われる。
そう言った夜から、この人の中でも何かが少し変わったのだと思う。
「柊木さん」
「はい」
「この前の“見られるのは悔しいけど少し救われる”ってやつ」
「……」
「まだ有効ですか」
聞いたあとで、踏み込みすぎたかと思った。
だが星彩は怒らなかった。
少しだけ視線を伏せて、それから静かに言う。
「有効です」
「そっか」
「でも、今日は前より悔しさが減っています」
「何で」
「たぶん、見られることに少し慣れたので」
その答えが、妙にうれしいような、少し寂しいような気持ちになる。
たぶん俺は、この人の“ほころび”を見ることに意味を持たせすぎていたのかもしれない。けれど彼女にとって大事なのは、見られること自体ではなく、見られても崩れきらない関係のほうなのだろう。
「それと」
星彩が続ける。
「昨日、名塚さんと少し話しました」
「え」
「喫茶の片づけのときに」
「何を」
「大したことではありません」
少し間を置いて、
「ただ、“近い人ほど扱いが難しい”という話を」
心臓が、少しだけうるさくなる。
澪菜が何をどこまで話したのかは分からない。でも星彩は、その意味を軽くは受け取っていない顔をしていた。
「鷹取くん」
「はい」
「文化祭前までのあなたは、たぶん人の感情を“見つける側”に寄りすぎていたと思います」
「……」
「でも今は、少しだけ“関わる側”に寄った」
その評価は、厳しいのに、どこか優しかった。
「それ、褒めてます?」
「半分」
「やっぱそこ便利だな」
「便利です」
そして星彩は、ほんの少しだけ口元を和らげる。
「では、また明日」
そう言って、彼女は廊下を去っていく。
その背中を見送りながら思う。
完璧な委員長、ではなく、正しさに慣れすぎて間違える練習をしていなかった一人の女の子として、この人が少しずつ見えてきている。
それはたぶん、文化祭前にはなかった変化だ。
◇
昇降口を出たところで、乙部玻乃先輩が待っていた。
「なんでいるんですか」
俺が言う。
「ひど」
先輩は笑う。
「待ち伏せみたいに言わないでよ」
「だいたい合ってる」
「今日はただの偶然」
「信用できない」
「でも半分は本当」
便利すぎる。
先輩は制服の上に薄いパーカーを羽織り、片手に文庫本を持っていた。文化祭の熱がすっかり引いた放課後に、なぜかこの人だけは少しだけ祭りの余韻をまとっている。
「昨日の続きとかですか」
俺が聞く。
「それも少し」
先輩は答える。
「でも今日は、確認」
「何を」
「後輩くんがちゃんと“後回しにしない”をできたかどうか」
その言い方に、少しだけ苦笑する。
「どう見えます」
「昨日よりはちゃんとしてる」
「ざっくりしてる」
「ざっくりでいいの。だって恋愛の途中って、細かく言い出すと全部言い訳になるから」
先輩は歩き出した。駅前のほうへではなく、校門脇の低い塀のところへ。そこからは少しだけ海が見える。
「で」
玻乃が言う。
「澪菜ちゃんは?」
「まだ失恋してない」
俺がそう言うと、先輩は一瞬だけ目を丸くした。
そして、少しだけ寂しそうに笑う。
「そっか」
小さい声だった。
「じゃあ私も、まだかな」
その一言に、胸の奥が少しだけざわつく。
冗談みたいに言うのに、今のはかなり本音に近い。
「乙部先輩」
「ん?」
「そういう言い方」
「うん」
「ずるいです」
「知ってる」
先輩は笑う。
「でもね、後輩くん」
海のほうを見ながら言う。
「私はたぶん、ちゃんと遅れてる」
「遅れてる?」
「うん。君の中で、今いちばん先に持たれてる人たちのあとに来た」
返事ができない。
否定できるほど鈍くはないし、肯定するにはまだ残酷すぎる。
「そういう順番って、あるでしょ」
先輩は静かに続ける。
「近さとか、時間とか、言った言わないとか、そういうの全部込みで」
「……」
「だから、私はたぶん、遅れてる」
その自己分析は、相変わらず鋭い。
そして鋭いからこそ、痛い。
「でも」
先輩は少しだけ笑う。
「遅れてるからって、なかったことにはならないんだよね」
それは、今日一日ずっと考えていたことに少し似ていた。
幼なじみだけの場所には戻らない。見られることに慣れた委員長。静かな怒りで言葉を守る後輩。冗談で引き際を探しながらも、まだ失恋していない先輩。
誰の気持ちも、簡単には“なかったこと”にならない。
「……先輩」
俺は言う。
「今の、かなり残りますよ」
「残して」
即答だった。
「文化祭終わったし。これくらいは置いてく」
置いていく。
言えなかった気持ちの置き場所になる。
文化祭の延長みたいな言い方だった。
「後輩くん」
先輩が最後に言う。
「今日はたぶん、ちゃんと誰かを先に持った」
「……」
「それでいいよ」
そしていつものように手を振る。
「じゃ、またね」
引き際を探しているくせに、完全には退かない背中だった。
◇
海の見える坂道を一人で上りながら、俺はようやく少しだけ分かった気がした。
この物語は、誰か一人が“勝つ”話ではない。
少なくとも今は、まだそうじゃない。
近すぎて今さら前へ出られなかった幼なじみ。
完璧であろうとしすぎて、崩れる練習をしていなかった委員長。
冗談の顔で引き際を探しながらも、本音が止まらない先輩。
言わないことでしか守れないものを知っている静かな後輩。
みんな少しずつ遅れている。
言うタイミングに。自分の気持ちに。関係が変わる速さに。相手の中での順番に。
でも、遅れているからといって、終わっているわけじゃない。
まだ失恋にならない気持ちが、ちゃんと立ち止まっている。
海の見える坂道で、恋に遅れる彼女たちのこと。
たぶんこれは、そういう物語なのだ。
そして、その遅れに少しずつ気づいてしまう俺自身のことでもある。
坂の上まで来ると、風が少し強かった。
潮の匂いがして、遠くで電車の音がして、空はもう夕方から夜へ変わりかけている。
スマホが震えた。
澪菜からだった。
『透真、明日いつもの時間?』
短い文。
でも、その短さの中に、もう戻らない昨日までとは違う“続き”の感じがある。
『いつもの時間で』
と返す。
すぐに既読がついて、
『了解』
と返ってくる。
それだけで、少しだけ息が抜けた。
日常は続く。
海も坂も変わらない。
でも、その同じ日常の中で、見えてしまったものはもう簡単には消えない。
だからたぶん、この先も面倒だ。
でも、前より少しだけ、その面倒を引き受けてもいいと思えた。
海の見える坂道の上で、俺は一度だけ立ち止まり、暗くなりかけた街を見下ろした。
誰もまだ、終わっていない。
それでいいのだと、ようやく思えた。




