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第十七話 文化祭のあと、日常は少しだけ元に戻らない

文化祭が終わると、学校は急に普通の顔をする。


 昨日まであれだけ騒がしかったのに、月曜の朝には教室の机が元の位置へ戻り、廊下の装飾はほとんど剥がされ、模造紙の切れ端とガムテープの跡だけが「たしかにここで何かあった」と証明している。先生たちは授業を始め、生徒たちは眠そうな顔で教科書を開く。笑い声の高さも、歩く速度も、だいたいいつもの学校だ。


 でも、全部が元通りかと言われると、たぶん違う。


 少なくとも、俺に見える景色は少し変わっていた。


 文化祭の二日間で、浮かび上がってしまったものがある。


 澪菜はもう“ただの幼なじみ”ではいられない場所まで来た。星彩は感情を順番の外へ出すことを、一度知ってしまった。玻乃先輩は冗談の顔で本音を置いていって、結月は静かな怒りで言葉を守った。


 そして俺は、それを全部見つけたまま、前みたいに何でもないふりをするのが少し難しくなっている。


 だから文化祭のあとの日常は、元に戻ったように見えて、ほんの少しだけ戻らない。


    ◇


 月曜の朝、教室へ入ると、文化祭の後遺症がそこかしこに残っていた。


 机の横にかけられたままのクラスTシャツ。黒板の隅に薄く残る「大成功!」の文字。文化祭で撮った写真をスマホで見せ合う女子。椅子に座ったまま寝そうな男子。朝から妙にテンションの高いやつと、反対に完全に電池が切れているやつ。


 俺も眠かった。


 だが眠さとは別に、神経のどこかだけがやけに起きている。文化祭のあとで片づくはずだったものが、きれいに片づかないまま頭の中へ置かれているからだろう。


「おはよ」


 声のしたほうを見ると、澪菜が立っていた。


 いつもの制服。いつもの明るい顔。いつもの自然な距離。けれど昨日の坂道の会話を経たあとだと、その全部が“前と同じ”には見えない。


「おはよう」

 俺が返す。

「眠そう」

「そっちも」

「私は文化祭の片づけの夢見た」

「嫌な夢だな」

「段ボールが無限に出てくるの」

「ホラーじゃん」

「しかも全部、透真が“これまだ使うから捨てないで”って言ってくる」

「ひどい役回りだな」

「わりとありそうでしょ」

 

 そう言って笑う。


 その笑い方を、つい見てしまう。昨日までならそこに半拍の遅れがあった。平気なふりの隙間みたいなものが。でも今朝は少し違った。遅れが消えたわけではないが、少なくとも“隠している最中の笑い”ではなくなっている。


「……何」

 澪菜が言う。

「また見てる」

「見てる」

「開き直るの早くない?」

「最近はそういう方針なので」

「方針なの?」

「もう“見てない”で押し通すの無理だから」

 

 澪菜は少し目を丸くして、それから小さく笑った。


「いいかもね」

「何が」

「その方針」

 

 短いやり取りなのに、少しだけ胸の力が抜ける。


 文化祭前なら、こういう会話のあとに気まずさがひとつ残ったかもしれない。今は違う。残るものは残る。でも、それを残したまま普通に話せる程度には、昨日の会話で前へ進んだ。


 そのとき、教室の入口から別の声がした。


「おはようございます」


 柊木星彩だ。


 今日は腕章もファイルの束もない。ただの制服姿で、ホームルーム前の教室へ用事があって来たらしい。それなのに、相変わらず姿勢が良くて、何となく周りの空気まで少し整って見えるのだから不思議だ。


「おはようございます」

 俺が返し、澪菜も「おはよー」と軽く手を上げる。


 星彩はそれに小さくうなずいてから、教卓へ近づいた。担任への伝言だろう。だがそこでふと、こちらへ視線が流れる。ほんの一瞬。文化祭前なら気づかなかったかもしれない。今は分かる。あの視線は、ただ挨拶のついでではない。


 何かを確認するみたいな視線だ。


 俺と澪菜が今、どういう距離で話しているかを。


 すぐに視線は外れた。けれど、その半拍の寄り道がやけに鮮明に見えた。


「……」

「何」

 澪菜が小声で言う。

「いや」

「いやじゃない顔」

「最近おまえもよく見るな」

「幼なじみなので」

「最強の肩書きだな」

「知ってる」


 そのとき、星彩が用事を終えてこちらへ来た。


「お二人とも」

「はい」

 澪菜が返す。

「昨日の文化祭の報告、生活記録同好会で今日まとめる予定ですが」

「うん」

「放課後、時間ありますか」

「あるよー」

 澪菜が答える。

「俺も」

「そうですか。助かります」

 

 その言い方は事務的だ。事務的なのに、文化祭前より少しだけやわらかい。必要なときに頼ることを、前ほど隠さなくなっている感じがある。


「じゃあ、また放課後に」

 星彩はそう言って去りかけ、

「あ」

 と小さく言った。

「鷹取くん」

「はい」

「昨日、お疲れさまでした」

 

 その“昨日”が何を指しているのか、一瞬では分からなかった。


 文化祭全体か。後夜の報告整理か。それとも、別の何かか。


 たぶん星彩自身も、あえて曖昧なまま置いたのだろう。


「そっちも」

 俺は答える。

「だいぶ疲れてたみたいだったし」

 

 言ったあとで、少し踏み込みすぎたかと思った。


 だが星彩は怒らなかった。ほんのわずかに目を細めてから、静かに言う。


「……今朝は、昨日ほどではありません」

「ならよかった」

「はい」

 

 そこで少しだけ空気が止まる。


 長くはない。だが澪菜も、その一拍を見逃していない顔をしていた。


 星彩はすぐに「では」と会釈し、教室を出ていった。


 その背中を見送りながら、澪菜がぽつりと呟く。


「委員長さん、文化祭前よりちょっと素直になった?」

「そうかも」

「へえ」

「何だそのへえ」

「別に」

 

 その“別に”は、結月ほど静かでも、乙部先輩ほど便利でもない。ただ、少しだけ複雑な音がした。


    ◇


 授業は、まあ、授業だった。


 数学の先生は文化祭の写真を見せられても一切ぶれずに数列へ入ったし、英語の先生は「祭りの翌日こそ頭を使います」と言って小テストを配った。ひどいと思う。


 ただ、教室の空気はやはりどこか浮いている。文化祭の写真を消そうとしない笑い声、教科書の裏へ書かれるメモ、いつもより長い窓の外への視線。普段の学校に見せかけて、まだ誰も完全には戻っていない。


 昼休み、俺は生活記録同好会の資料整理室へ向かった。


 いつもの旧校舎端の小部屋。古いロッカー、積まれた段ボール、海が少しだけ見える窓。ここは文化祭中も散々出入りがあったが、祭りが終わるとまた静かな場所へ戻る。


 扉を開けると、予想より先に人がいた。


 乙部玻乃先輩だ。


「いらっしゃい」

 と、さも自分の部屋みたいに言う。

「何でいるんですか」

 俺が聞く。

「新聞部の文化祭特集、まだ終わってないから」

「ここで?」

「ここ静かで落ち着くし」

 

 机の上には、校内新聞のラフ、文化祭で撮った写真、そしてなぜか駅前の古い商店街の写真まで広がっている。相変わらずやることの範囲が自由だ。


「手伝って」

 先輩が言う。

「嫌です」

「即答」

「だって絶対、仕事半分で余計な話するでしょう」

「半分じゃないよ」

「何割ですか」

「仕事六、余計な話四」

「だいぶ多いな」

「文化祭明けだからね」

 

 そこで先輩は、わざとらしく俺の顔を見る。


「後輩くん、ちょっと疲れた顔してる」

「文化祭明けなので」

「それだけじゃない顔」

「便利な言い方だな」

「便利なので」


 もうこの返し方が全員に広がってきている気がする。


「で、何」

 俺が聞く。

「何が」

「その顔」

「ひどいなあ。先輩の親切な観察を“その顔”って」

「親切か?」

「八割くらい」

「残り二割は」

「趣味」

 

 先輩は笑う。


「でもさ」

 少しだけ声の温度を下げる。

「文化祭、終わったあとって一番いろいろ出るじゃん」

「……」

「昨日まで楽しかったものが、急に“その後どうする?”に変わるから」

 

 昨日のことを思い出す。海の見える階段、冗談では済まない言葉、引き際を探しながらも遅れているまま残る本音。


 あれもまだ、終わったわけじゃない。


「何かあった?」

 先輩が聞く。

 

 聞き方は軽い。だが、こっちがどこまで言うか選べる余白をちゃんと残している。


「朝、澪菜と一緒に来た」

 俺は言った。

「ほう」

「星彩も少しだけ素直だった」

「ほう」

「それを、おまえみたいに“ほう”だけで返すのやめろ」

「だって、その“ほう”の中にだいぶ情報あるじゃん」

「嫌な先輩だな」

「知ってる」


 そこで先輩は、机の上の紙を一枚ひっくり返した。


「で、本題」

「あるんだ」

「あるよ。文化祭特集のついでに、旧資料の保管箱を整理してたら、ちょっと変なの見つけた」

「変なの?」

「これ」

 

 差し出されたのは、古びたA5サイズの紙だった。コピー用紙ではなく、何かの下書き用紙らしい。端が少し黄ばんでいる。


 そこに短い文章が書かれていた。


『好きになった順番と、

 言える順番は、

 だいたい一致しない。』


 俺は思わず黙る。


「……」

「嫌な感じするでしょ」

 玻乃先輩が言う。

「最近、校内の何カ所かで見つかってる匿名文と、雰囲気が近い」

「これ、昔の?」

「たぶん。正確な日付はなし。でも保管箱の位置的に、ここ数年の未掲載原稿かメモ」

「誰のか分かる?」

「そこまでは」

 

 先輩は肩をすくめる。


「ただ、これ一枚だけじゃなくて」

 もう数枚、紙を差し出した。

「似たようなのがいくつか」

 

 どれも短文だ。


『近すぎる人は、最後まで“変わらない”と思われる。』


『正しい人は、好きになるより先に迷惑を考える。』


『静かな人は、怒っても“そういう子”で片づけられる。』


 ぞっとする、というほどではない。だが嫌な感じがした。


 最近、文化祭中に校内のあちこちで見つかった匿名文と近い。いや、近いというより、もっと直接的だ。観測した感情を、そのまま短文へ押し込めた感じがある。


「これ」

 俺が言う。

「誰かが俺たち見て書いてる、じゃなくて」

「うん」

「もともと近い言葉を持ってたやつが、今の俺たちを見て“繋げてる”感じする」

「えらい」

 先輩が言う。

「今の、だいぶ正解に近いと思う」

 

 そこで扉が開いた。


「失礼します」

 星彩だ。


 後ろから澪菜も入ってくる。


「もう集まってた」

「委員長さんも」

「名塚さんも」

 

 四人が揃う。そこに結月はいないが、たぶんあとで来るだろう。


「ちょうどよかった」

 玻乃先輩が、例の紙束を見せる。

「旧資料の中から、最近の匿名文と近いものが出た」

 

 星彩の顔つきが一瞬で変わった。


「見せてください」

 

 先輩から紙を受け取り、目を通す。澪菜も横から覗き込む。


 沈黙が落ちる。


 やがて澪菜が、小さく息を吐いた。


「……これ」

「うん」

 俺が言う。

「嫌だね」

 

 その“嫌だ”が、ずいぶんまっすぐだった。


 星彩も低い声で言う。


「文化祭の件、まだ終わっていませんね」

「そうかも」

 俺が答える。

「これ、誰かがわざわざ今の私たちに重ねられる形で残してる」

 

 澪菜が紙の一枚を指で押さえる。


「“近すぎる人は、最後まで変わらないと思われる”って」

 苦い笑い方をする。

「ひどいくらい分かってる感じする」

 

 その言葉に、誰もすぐ返せない。


「でも」

 星彩が言った。

「分かっているふりをされるのは、やはり気分が悪いです」

「うん」

 澪菜が頷く。

「分かる」

 

 その同意が自然だったことに、少し驚く。


 文化祭前なら、この二人はもっと互いを牽制するような空気をまとっていただろう。今は違う。少なくとも“この気持ちを勝手に文章にされるのは不快だ”という点では、一度ちゃんと並べる。


 そこで、結月が現れた。


 今日は図書室当番だったらしく、少し遅れて資料整理室へ入ってくる。机の上の紙を見た瞬間、顔つきは変わらないまま、空気だけが少し硬くなった。


「見つかったんですね」

 静かに言う。

「うん」

 俺が返す。

「どう思う」

 

 結月は紙を一枚ずつ見た。


 時間をかける。雑に読まない。文章を“内容”だけで処理しない。そういう読み方だ。


「……観測ですね」

 やがて言う。

「でも、恋文ではない」

「そこも同じ感想か」

 玻乃先輩が言う。

「はい」

 結月が頷く。

「これは“誰かを好きです”ではなく、“誰かたちを見ています”の言葉です」

 

 それはたぶん、かなり大事な区別だった。


 好きの告白ではない。けれど感情がないわけではない。むしろ、近すぎるからこそ歪んだ“参加”の仕方だ。


「生活記録同好会の仕事、増えたねえ」

 玻乃先輩が、半分冗談みたいに言う。

「増えました」

 星彩は真面目に答える。

「これは放置できません」

「そうだな」

 俺も言う。

「文化祭終わったからって、終わらないやつだ」

 

 結月が紙から目を上げる。


「先輩」

「何」

「これ、たぶんもっとあります」

 

 部屋が静かになる。


「どこに」

 俺が聞く。

「校内の、昔の資料箱や掲示物のすき間、あと図書室の廃棄前ファイルの中」

「何で分かる」

「こういう人は」

 結月は言う。

「“今ここで置いた”より、“前からあったみたいに見せる”ほうを選ぶので」

 

 文化祭中に感じた嫌な感じが、そこで一つの形を持つ。


 今の気持ちを、自分の言葉として出せない。だから過去へ逃がす。昔からあったみたいに見せる。自分の責任を少し薄めて、でも誰かには見つけてほしい。


 卑怯で、切実で、かなり面倒だ。


「……やるしかないか」

 俺が言う。

「何を」

 澪菜が聞く。

「校内の“残ってる言葉”探し」

 

 玻乃先輩が笑う。


「うわ、だいぶこの作品っぽい流れになってきた」

「自分で言うな」

「でも嫌いじゃないでしょ」

「……まあ」

 

 そこで星彩が、静かに紙を揃えた。


「放課後、旧資料保管箱を改めて確認しましょう」

 言う。

「生活記録同好会として」

「了解」

 俺が答える。

「うん」

 澪菜が頷く。

「わたしも」

 結月。

「もちろん」

 玻乃先輩が言う。

 

 こうして自然に全員が揃うのは、たぶん偶然じゃない。


 文化祭が終わっても、日常は少しだけ元に戻らない。


 それは関係だけじゃなく、物語そのものも、たぶんそうなのだ。


    ◇


 放課後。旧校舎端の保管庫の前で、俺たちは立ち止まっていた。


 錆びた鍵。少しだけ歪んだ扉。中には古い資料、文集、未掲載原稿、校内新聞の下書き、文化祭の記録、そういう“残ったもの”が雑然と積まれている。


 海から来る風が、廊下の奥で小さく鳴っていた。


 澪菜が言う。


「ねえ透真」

「何」

「なんか、文化祭終わったのに、むしろここから始まる感じしない?」

 

 その問いに、すぐ返事はできなかった。


 でも、たぶんそうだ。


 文化祭は終わった。


 なのに、そこで浮かび上がった気持ちも、残された言葉も、全部がこれからの話をしている。


「……する」

 俺は言った。

「だいぶ、する」

 

 そして扉を開ける。


 暗い保管庫の中には、古い紙と、少し湿った空気と、まだ誰にも見つかっていない言葉の気配があった。


 日常は少しだけ元に戻らない。


 その続きを、俺たちはたぶん今から見つけにいくのだ。

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