第十八話 幼なじみは、平気な顔の練習をやめ始める
人は、慣れた顔をしているときほど厄介だ。
無理しているように見えない。笑っている。ちゃんと返事をする。いつも通りの軽口を叩く。だから周りも、その人が本当に平気なのだと思い込みやすい。
でも実際には、平気な顔というのは案外練習でどうにかなる。
笑うタイミング。目を逸らす位置。冗談に逃がす速さ。何でもないふうに話題を変えるコツ。
そういうものを覚えてしまうと、人はしばらくのあいだ“平気そうな人”として生きられる。
問題は、その練習をやめ始めたときだ。
隠しきれていたものが、急に全部こぼれるわけじゃない。むしろ逆で、ほんの小さなところから変わる。約束を曖昧にしなくなるとか、聞きたいことを後回しにしなくなるとか、“別にいいよ”で逃がしていた場所を、少しだけ逃がさなくなるとか。
名塚澪菜は、たぶん今、その段階にいる。
◇
旧校舎端の保管庫は、思っていたよりずっと埃っぽかった。
扉を開けた瞬間、古い紙と湿った木の匂いが混ざった空気が流れ出てくる。薄暗い室内には、段ボール箱と書類ケースが積み上がり、棚の端には文化祭の過去ポスターまで丸めて立てかけられていた。
「うわー」
澪菜が言う。
「ザ・何か出そうな部屋」
「出るだろ」
乙部玻乃先輩が平然と返す。
「言えなかった言葉とか、未練とか、そういうのが」
「ホラーの種類が文芸寄りすぎる」
俺が言う。
「でも嫌いじゃないでしょ」
「まあ」
結月は入口で一度だけ室内全体を見回し、静かに言った。
「足元、気をつけてください」
「はいはい」
澪菜が答える。
「こういう時に一番転びそうなの、たぶん私」
「自覚あるのか」
「あるよ。だってこういう雰囲気ある場所だと、つい奥のほう見たくなるじゃん」
「分かる」
俺が言う。
「透真まで」
「先輩もですね」
結月が小さく言う。
「何で分かる」
「今、足より先に棚を見てたので」
容赦がない。
星彩はというと、入口近くの棚へ手をかけながら、少しだけ眉を寄せていた。
「ここ、本当に整理されているんですか」
「されてないと思う」
俺が答える。
「だよね」
澪菜が言う。
「こういう場所って“あとでちゃんとやる”の代表選手だもん」
「名言っぽく言うな」
「でも真実でしょ」
たしかにそうだった。
保管庫という場所は、片づけたつもりのものを先送りにして積み上げる。しかも学校という組織は、その“先送り”を年単位でやる。だからここには、過去の紙だけじゃなく、過去の判断まで溜まっている感じがする。
「とりあえず」
星彩が言った。
「文化祭関連、校内新聞関連、旧文集関連で棚を分けて見ましょう」
「了解」
俺が答える。
「私は文化祭ポスター箱いく」
澪菜が言う。
「じゃあ私は新聞部側」
玻乃先輩。
「図書室から回ってきた廃棄前資料、見ます」
結月。
「では、わたしは文集と生徒会関係を」
星彩。
自然に役割が決まる。
前の俺なら、こういうとき全部に目を配ろうとしていたかもしれない。でも今は、まずは自分の棚を見て、それから必要なところへ行くと決めていた。
誰を、何を、先に持つか。
それはたぶん、こういう小さな段取りにも出る。
◇
俺は校内新聞と文化祭記録の中間みたいな棚を見ていた。
薄い冊子、写真の束、未掲載原稿、印刷前のラフ。どれも時間のにおいがする。何年分か分からないが、少なくとも数年単位で積もっているのは確かだ。
ぱらぱらと紙をめくる。
文化祭の感想文。閉会後の記事。校内新聞の没原稿。記事になりきらなかった短文メモ。
そういう中に、ときどき妙に引っかかる一文が混ざる。
短い。けれど“誰かの内側”に触れている言葉。
『終わったあとに、急に静かになる廊下が苦手だ。』
『片づけの音の中でだけ、本音みたいな顔をする人がいる。』
こういうのだ。
記事としては弱い。だが弱いからこそ、書いた人間の目の位置が見える。
「透真」
振り向くと、澪菜が段ボールを抱えるみたいな格好で立っていた。
「何」
「これ見て」
「重そうだな」
「重い。助けて」
「結局そこか」
「だって中身が“平成二十九年度文化祭記録・雑”って書いてある」
「最後の雑って何だよ」
「知らないよ、でも怖いじゃん」
抱えている段ボールを一緒に机へ下ろす。たしかに重い。中には記録写真や感想カードの余りだけでなく、何に使ったか分からないメモの束まで突っ込まれていた。
「雑だな……」
俺が呟く。
「でしょ」
澪菜が言う。
「学校ってたまにこういう本気の雑さある」
そのまま一緒に中身を見始める。
写真、短冊、見学者アンケートの余り、没ポスター案、展示説明文の下書き。その中に、明らかに分類からはみ出している紙片が混じっていた。
『近いから、ずっと先送りにした。』
たった一行。
「……」
「ね」
澪菜が静かに言う。
「あるでしょ、こういうの」
ある。
しかも今の文は、最近の匿名文とも、昨日見つけた旧資料の短文とも響きが近い。
「字は?」
俺が聞く。
「違うっぽい」
澪菜が紙を光にかざす。
「でも、言い回しの方向は似てる」
「うん」
「“近い”“先送り”“言えない”“残る”あたりを、ぐるぐる回ってる感じ」
その分析が妙に正確だった。
そして、それを澪菜がこんなふうに言葉にするのが少し新鮮だった。
前ならたぶん、「なんか嫌な感じ」とか「似てる気がする」くらいで止めていたかもしれない。今は違う。自分で見て、自分で言葉にしている。
「何」
澪菜が顔を上げる。
「また見てる」
「見てる」
「最近ほんと開き直るね」
「前より分かりやすくなったから」
「うわ、言う」
「事実だろ」
澪菜は少しだけ目を細める。
「それ、悪い意味?」
「違う」
「じゃあ?」
「平気な顔の練習やめ始めた感じがする」
言った瞬間、少し静かになった。
保管庫の中はもともと静かだ。でも今のは、それとは別の静けさだった。
澪菜は紙片を指で持ったまま、こちらを見る。
「……」
「嫌なら撤回する」
「しなくていい」
小さい声だった。
「そうだと思う」
澪菜は言う。
「私、たぶん」
「うん」
「文化祭前までは、結構ちゃんとやってた」
「何を」
「平気な顔」
そこで少し笑う。
でも、その笑い方にはもう“隠してる最中”のぎこちなさがない。
「いや、今もやってるよ?」
澪菜が続ける。
「完全にやめたわけじゃないし」
「うん」
「でも前より、“しなくていい時”を選べるようになった気がする」
それはかなり大きい変化だった。
平気な顔をやめる、ではない。平気な顔をするかどうか、自分で選べるようになる。
たぶんそれが、澪菜にとっての“引かない”の第一歩なのだろう。
「透真に対しては」
澪菜が言う。
「最近ちょっと、それやめてる」
「知ってる」
「知ってるの?」
「だいぶ」
「……」
「だから見てる」
その答え方に、澪菜は少しだけ困ったみたいに笑った。
「それ、だいぶ照れる」
「今さら?」
「今さらだよ。だってさ」
紙片を机へ置きながら、少しだけ視線を逸らす。
「“見てる”って言われるの、文化祭前までは嫌だったけど」
「今は?」
「嫌っていうより」
少し考えてから言う。
「……逃げにくい」
その言葉に、妙に納得してしまう。
見つけられることは、時々しんどい。でも、見つかったあとでごまかしきれなくなることが、必ずしも悪いだけではないのかもしれない。
◇
しばらくすると、星彩が「こちらにもありました」と声を上げた。
全員がそちらへ寄る。
彼女の手元には、昔の生徒会文集の間に挟まっていたらしいメモが二枚あった。
『正しい子は、好きより先に迷惑を考える。』
『応援ばかりしている子ほど、自分の番で黙る。』
部屋の空気が、また少しだけ変わる。
その二文は、内容そのものより、“分かっている感じ”が嫌だった。まるで誰かの輪郭を勝手に説明しているみたいで。
「これ」
星彩が言う。
「もはや偶然ではありませんね」
「うん」
俺が答える。
「明らかに、特定の人間関係を下敷きにしてる」
「でも」
結月が静かに言う。
「今ここで書いたものではなく、“前からあったみたいに”混ぜている」
玻乃先輩が肩をすくめる。
「過去へ逃がすの、上手いねえ」
「上手くはないです」
星彩がぴしゃりと言う。
「卑怯です」
その一言は、かなりはっきりしていた。
前なら星彩は、もう少し整えた言い方をしたはずだ。今は違う。嫌なものを嫌だと言うことに、前より躊躇がない。
「同感」
澪菜が小さく言う。
「こういう“分かってる側”の顔、ほんとむかつく」
結月も静かにうなずく。
「はい」
「珍しく三人一致」
玻乃先輩が言う。
「先輩は?」
俺が聞く。
「私はまあ、ちょっと分かる側でもあるから」
その返しに、全員の視線が集まる。
「いや」
先輩はすぐ笑った。
「だからって擁護してるわけじゃないよ。言えないから過去へ逃がしたくなる気持ちは分かる。でも、それを他人の気持ちの上に置いたらだめでしょって話」
たしかにその通りだ。
言葉が出ない。今の形では出せない。自分の責任のままでは置けない。そういう気持ちは分かる。でも、だからといって他人の輪郭を勝手に文章へしていいわけじゃない。
「これ」
星彩が言う。
「校内全体の資料を洗う必要があるかもしれません」
「大仕事だな」
俺が言う。
「そうですね」
「でも、やる?」
星彩は迷わなかった。
「やります」
きっぱり言う。
「これ以上、“前からあったみたいな言葉”が勝手に増えるのは嫌です」
澪菜もすぐに頷く。
「私もやる」
「わたしも」
結月。
「付き合うよ」
玻乃先輩。
それぞれの声が重なる。
前巻の頃より、全員が“自分の理由”でここに立っている感じがした。
◇
保管庫での作業は思ったより長引いた。
古い資料の整理なんて、やり始めれば終わりがない。けれど収穫はあった。匿名文に近い文体の断片が、年次も場所もばらばらに散っていること。そして、それらが純粋な恋文ではなく、むしろ“観測記録”に近いことが、さらに明確になった。
日が傾き始めた頃、星彩がさすがに区切りをつけた。
「今日はここまでにしましょう」
「賛成」
澪菜が言う。
「さすがに頭が文体でいっぱい」
「人間の感想としてだいぶ変だな」
俺が言う。
「ほんとでしょ」
「ほんとです」
結月が淡々と同意する。
それで少し笑いが起きる。
保管庫を出ると、廊下には夕方の光が差していた。高台の校舎の窓から見える海が、少しだけ赤くなっている。
澪菜は廊下の途中で立ち止まり、伸びをした。
「はー」
「どうした」
「いや」
こっちを見て、少しだけ笑う。
「平気な顔の練習、今日はあんまりしなかったなって」
不意打ちだった。
「そうかもな」
俺が言う。
「でしょ」
「悪い感じじゃない」
「うん」
澪菜はそこで少しだけ目を細める。
「透真」
「何」
「ちゃんと見てる?」
「何を」
「今の私」
昨日までなら、たぶんこの問いは出なかった。
でも今は、逃げずに聞いてくる。
「見てる」
俺は答えた。
「前より」
「そっか」
「うん」
「じゃあ今日は、それでいいや」
その言い方に、少しだけ安心したような、でももっと欲しいものをまだ持っているような響きがあった。
それでいい、ではなく、それでいいや。
仮置きみたいな答えだ。
でも、それで十分なのかもしれない。少なくとも今は。
◇
校門を出るころには、星彩と結月は先に帰っていた。玻乃先輩も駅前のほうへ消えている。
結局、坂を下るのは俺と澪菜の二人だけになった。
夕方の風は少し冷たい。文化祭の熱が消えたあとの、普通の放課後の風だ。なのに、普通の放課後という感じはしない。
「ねえ」
澪菜が言う。
「今日の保管庫、だいぶ嫌だったね」
「嫌だった」
「でもちょっと分かった」
「何が」
「私、前までならああいう“分かってるふうの文章”見たら、たぶん笑って流してた」
「……」
「“うわ何これ、きもーい”とか言って終わらせてたと思う」
「今は?」
「終わらせたくない」
澪菜は前を見たまま言う。
「だって、あれに書かれてることの中に、ほんとの私がちょっと混ざってるから」
静かな声だった。
「混ざってるのに、“はいはい分かってますよ”みたいな顔で置かれるの、むかつく」
それはかなり本音だと思った。
「それで」
俺が聞く。
「さっきの“平気な顔の練習やめ始めた”に繋がる?」
「うん」
澪菜は頷く。
「私、もうああいうふうに誰かに書かれるくらいなら、自分で言いたい」
坂道の途中で、その言葉が少し長く残る。
「言いたいって」
「だから」
澪菜は少しだけ照れたみたいに笑った。
「ちゃんと聞いてよ、ってこと」
その言い方が、今の澪菜らしかった。
大きな告白ではない。けれど、自分の言葉の持ち主は自分だと、ちゃんと取り戻そうとしている。
結月が怒った“言葉の雑な扱い”の話とも、どこかで繋がっている気がした。
「聞くよ」
俺は言う。
「今度はちゃんと最後まで」
澪菜は少しだけ黙って、それから小さくうなずく。
「うん」
と言った声は、昨日までよりずっと軽かった。
平気な顔の練習をやめ始める。
たぶんそれは、こういう小さな約束から始まるのだろう。
海の見える坂道を下りながら、俺はそのことをぼんやり考えていた。




