第十九話 完璧な彼女は、嫉妬だけ隠すのがいちばん下手だ
人は、自分が何に乱れるのかを、意外と知らない。
疲れているから、忙しいから、空腹だから、そういう分かりやすい理由ならまだいい。誰にでもあるし、説明もしやすい。
でも、そうじゃない乱れ方がある。
特定の名前が出たときだけ、返事が半拍遅れるとか。どうでもいいはずの会話に、必要以上に丁寧な相槌を打ってしまうとか。見なくてもいい方向を、わざわざ見てしまうとか。
そういう乱れ方は、大抵、本人がいちばん認めたくない。
なぜならそこには、理屈で処理しづらい感情が混ざっているからだ。
そしてたぶん、柊木星彩は、嫉妬だけ隠すのがいちばん下手だ。
◇
文化祭明けの火曜日。
日常へ戻ったはずの学校は、まだ少しだけ祭りの残り香を引きずっていた。
黒板の端に消しきれないペン跡があり、教室の後ろには片づけ忘れた装飾が一つだけ残っている。話題もまだ文化祭絡みが多い。写真、打ち上げ、誰が来ていたか、どこが面白かったか。
けれど校舎そのものは、昨日よりさらに静かだった。
普通の学校に戻ろうとする力が、ゆっくり全体を押し戻している。
昼休み、俺は生活記録同好会の資料整理室にいた。
昨日保管庫から持ち出した匿名文らしき紙片を、簡単に分類していたのだ。文化祭記録由来のもの、未掲載原稿に挟まっていたもの、由来不明のもの。完全に整理できるわけではないが、置いてある順番くらいは整えたかった。
窓の外には、薄い冬手前の光。
海は見えるが、今日は少し白く霞んでいる。
「失礼します」
扉が開き、柊木星彩が入ってきた。
今日も制服はきっちりしている。ノートの端も揃っているし、髪も乱れていない。文化祭前までなら、それだけで「いつも通り」と思っただろう。今は違う。そういう外側が整っているからこそ、中のちょっとした揺れが前より見える。
「どうぞ」
俺が言う。
「昨日の資料、少し見てもいいですか」
「もちろん」
星彩は机の向かいに立ち、紙束を手に取った。
視線が動く。速くはない。だが読むのはかなり速い。内容、書き癖、紙質、たぶん全部同時に見ている。
「……やはり」
小さく言う。
「“今”の観測を、“過去からあった言葉”に見せている感じがありますね」
「うん」
「しかも、恋そのものというより」
「近くで見ている誰かの記録」
「はい」
星彩は一枚の紙を机へ置いた。
『正しい人は、順番を守りすぎて最後に一人になる。』
それだ。
文化祭のあと、あの人が少しだけ不機嫌になった文でもある。
「これ」
俺が言う。
「嫌だろ」
「嫌です」
星彩は即答する。
「非常に」
「そこ、もう隠さないんですね」
「隠す必要がありますか」
「前なら、もっと整えて言ってた」
星彩は少しだけ視線を上げた。
「そうかもしれません」
静かに言う。
「でも、嫌なものを嫌だと言う程度には、文化祭で学習したので」
その言い方が少しだけ面白くて、口元が緩みそうになる。
「何ですか」
「いや」
「今、少し笑いましたね」
「少し」
「不本意です」
「そこは不本意なんだ」
「はい」
言いながらも、星彩の口元もほんの少しだけ緩んでいる。
こういう会話の軽さが、以前より増えた。
それはいい変化だと思う。たぶん本人にとっても。
そのとき、廊下の向こうから軽い声がした。
「透真ー、ちょっといい?」
澪菜だ。
資料整理室の扉は半分開いている。そこから顔だけを覗かせて、手に持ったプリントを軽く振っている。
「何」
「二年三組の会計表、文化祭の売上計算これで合ってるか見てほしい」
「今?」
「今」
俺が立ち上がりかけると、
「私が見ます」
と星彩が言った。
「え」
「会計表なら、わたしでも」
「いや、でも」
「鷹取くんは今この資料を見ていたのでしょう」
言い方は自然だ。自然なのだが、少しだけ速い。
澪菜もそれに気づいたらしく、扉のところで一瞬だけ目を瞬く。
「えーと、委員長さんが見てくれるなら助かるけど」
「見ます」
星彩ははっきり言う。
「……」
「何ですか」
「いや」
澪菜が笑う。
「なんか、ありがとうございます?」
その疑問形が、妙に場を揺らす。
星彩は紙束を整えてから立ち上がる。
その動作はきれいだ。きれいだが、普段よりほんの少し角が立っている。
「では、見せてください」
「はーい」
澪菜がプリントを差し出す。
星彩はそれを受け取り、内容へ視線を落とした。
俺は二人を見ていた。
澪菜は別に何もしていない。ただ、いつもの調子で俺を呼びに来ただけだ。星彩も、会計表を見ると言っただけ。会話としては何もおかしくない。
なのに、部屋の空気にわずかな張りがある。
その正体が分かってしまう。
嫉妬だ。
あからさまではない。
「何であなたが呼ばれるんですか」とか「わたしが見ます」とか、そういう直接的なものでもない。
でも、星彩は今、澪菜が“自然に”俺を呼びに来る距離に対して、少しだけ乱れている。
そして自分でもたぶん、それを認めたくない。
「数字自体は合っています」
星彩が言う。
「ただ、この支出欄、端数処理が雑です」
「うわ、そこまで見る?」
澪菜が言う。
「見るべきです」
「さすが委員長さん……」
そこで澪菜はちらりと俺を見た。
何か言いたい顔だ。
でも今は言わない。たぶんこの場の空気を察している。
「あと」
星彩が続ける。
「この欄は、打ち上げ費用ですか」
「えっ」
澪菜が変な声を出す。
「いや、あの、それはクラスで話してるだけで、まだ確定じゃ」
「なら、会計表に入れるのは早いです」
「はい」
ぴしゃり、というほどではない。
だが、必要以上にきっちりしている。
澪菜は一拍だけ止まり、それから笑った。
「すみません、そこは私が雑でした」
「……」
「じゃ、ありがと。助かった」
そう言ってプリントを受け取り、ひらりと手を振って去っていく。
扉が閉まる。
資料整理室の中が静かになる。
その静けさが数秒続いてから、俺は言った。
「柊木さん」
「何でしょう」
「今の」
「はい」
「だいぶ分かりやすかったです」
星彩の手が止まった。
「何がですか」
「会計表を見る気合いの入り方」
「必要な確認でした」
「必要以上でした」
「……」
「あと、澪菜の打ち上げ欄への反応」
そこでようやく、星彩は小さく息を吐いた。
「あなた」
静かな声で言う。
「本当にそういうところ、容赦がありませんね」
「最近、隠すより言ったほうがましな場面が多いので」
「便利な理屈です」
「便利です」
たぶん今の返しは、少しだけ乙部先輩に似ていた。
星彩は椅子に座り直し、視線を机へ落とした。
「……」
「嫌なら撤回します」
「嫌ではありません」
即答だった。
「ただ」
「ただ?」
「今のは」
少しだけ言葉を探して、
「認めると、かなり恥ずかしいです」
そこまで言うとは思わず、一瞬黙る。
「恥ずかしい?」
「はい」
星彩は紙の角を揃えながら言う。
「だって、あれではまるで」
「まるで?」
「……」
「言えよ」
「言いたくありません」
「そこまで来て」
「言いたくありません」
頑なだった。
でも、その頑なさ自体が答えみたいなものでもある。
「嫉妬したみたいだ、ってこと?」
俺が代わりに言うと、
「……」
星彩は本当に数秒黙ったあと、
「そうです」
と、小さく認めた。
資料整理室の空気が、その一言で少し変わる。
前の星彩なら、たぶんここまで素直に認めなかっただろう。
認めたくない感情を“理屈”の形へ置き換えて終わらせたはずだ。
「最近」
星彩が言う。
「自分でも少し、分からなくなる時があります」
「何が」
「どこまでが正当な不快で、どこからが個人的な感情なのか」
その言い方は、とても星彩らしかった。
好きとか嫌いとか、嫉妬とか寂しいとか、そういう言葉より先に、“正当かどうか”で整理しようとする。
でも、今はそれがうまくいかない。
「さっきのは?」
俺が聞く。
「後者です」
即答だった。
「かなり」
「かなりなんだ」
「かなりです」
そこで初めて、少しだけ笑ってしまう。
「何ですか」
「いや」
「今、面白がりましたか」
「違う」
「違わない顔です」
「だって、完璧そうな人が“かなりです”って言うの、だいぶ人間らしい」
言った瞬間、また少し踏み込みすぎたかと思う。
でも星彩は怒らなかった。
むしろ、少しだけ困ったような顔をした。
「……それを言われるのは」
「うん」
「悔しいです」
「知ってる」
「でも」
そこで声が少し落ちる。
「前ほど嫌ではありません」
胸の奥が少しだけ熱くなる。
見られるのは悔しい。でも少し救われる。
あの夜の延長みたいな言葉だった。
◇
午後、校内の保管資料を追加で洗う作業は、思ったより地味で、思ったより疲れた。
放課後までに見つかった新しい短文は三枚。どれも“今ここで書いた”より“前からあったものみたい”な顔をしている。紙の色、折れ跡、置かれた位置。全部が自分の責任を少しだけ薄める方向だ。
乙部先輩はそれを見て「ずるいねえ」と言い、結月は「卑怯です」と静かに怒り、澪菜は「むかつく」とかなり率直に言った。
星彩は、何も言わなかった。
ただ、いつもより無言の時間が少し長かった。
放課後の終わり、資料整理室に人がいなくなりかけた頃、星彩がふいに口を開いた。
「鷹取くん」
「何」
「今日のわたし、だいぶ機嫌が悪いです」
唐突すぎて、思わず手が止まる。
「え」
「分かってはいましたが」
星彩は真面目な顔で言う。
「一応、自分で言っておいたほうがいいかと思って」
文化祭前の彼女なら、絶対にこんなことは言わなかった。
機嫌が悪いときほど整えて、何でもない顔をしようとしていたはずだ。
「……それ」
俺が言う。
「かなり進歩じゃないですか」
「進歩というより」
星彩は少しだけ視線を逸らす。
「隠しきれないので、先に申告しているだけです」
「それでもだいぶ違う」
「そうですか」
「そうです」
少し沈黙が落ちる。
夕方の光が窓から細く差して、机の端だけを明るくしていた。
資料整理室は文化祭前より静かだ。でも静かだからこそ、今の言葉の重みがはっきり残る。
「何に対して機嫌が悪い?」
俺が聞く。
「複合的にです」
「便利な言い方」
「便利なので」
そこで少しだけ口元が緩む。
「ただ」
星彩は言う。
「名塚さんのことではないです」
「ほんとに?」
「ほんとに、とは言い切れません」
「それはだいぶ入ってるな」
「入っています」
きっぱりしていた。
「でも、それだけではありません」
彼女は続ける。
「“分かっているふうの言葉”が嫌なのも本当です」
「うん」
「過去に逃がす感じも嫌いです」
「うん」
「そのうえで」
一拍置く。
「あなたが誰かに自然に呼ばれるたび、少しだけ腹が立つのも本当です」
まっすぐだった。
ここまで言うとは思っていなかった。
「……」
「何ですか」
「いや」
「引かないでください」
「引いてない」
「今、少し黙ったので」
「そりゃ黙るだろ」
星彩は少しだけ眉を寄せたあと、でも自分でもそれが言いすぎではないと分かっている顔をする。
「すみません」
「それは違う」
「違いますか」
「今のは、謝るより覚えておくほう」
「……」
「たぶん」
星彩はしばらく黙ったあと、ほんの少しだけ目を細める。
「待たれるのも困ると言いましたが」
「うん」
「今は、待たれるより」
少しだけ言葉を探して、
「……忘れられるほうが嫌です」
それは嫉妬より、もっと深いところの言葉だった。
資料整理室の中で、その一言だけが妙に静かに響く。
俺は何か言おうとして、やめる。
ここで簡単な慰めみたいなことを言うのは、違う気がした。
「分かった」
結局そう言う。
「忘れない」
星彩は目を伏せて、でも小さくうなずいた。
「それなら」
静かに言う。
「今は、それで十分です」
◇
帰り道、校門の前で澪菜と合流した。
「おつかれ」
いつもの調子で言う。
「おつかれ」
「今日どうだった」
「いろいろ見つかった」
「それ、資料の話?」
「半分」
「便利だな」
「便利なので」
そう言うと、澪菜は少しだけ笑った。
そして、その笑顔のまま聞く。
「委員長さんと何かあった?」
直球だった。
「何で」
「顔」
「最近みんなそれ言うな」
「だって分かるんだもん」
幼なじみなので、というやつだろう。
嘘をつくこともできた。
でも今の関係で、それはやらないほうがいい気がした。
「少し」
俺は答える。
「何が」
「機嫌悪いって、自分で言われた」
澪菜が目を丸くする。
「え」
「だいぶ珍しいだろ」
「だいぶだね」
「うん」
少しの沈黙。
それから澪菜は、ちょっと困ったみたいに笑った。
「そっか」
小さく言う。
「何」
「いや」
視線を海のほうへ逸らして、
「委員長さんも、もう“ちゃんとしてる人”だけじゃいられないんだなって」
その言い方に、少しだけ胸がざわつく。
「それ、嫌か」
聞くと、澪菜は首を横に振った。
「嫌じゃない」
静かに言う。
「むしろ、そのほうがちゃんと相手になるでしょ」
「相手?」
「うん」
「前までは、ちょっと役職っぽかったから」
家具扱いの延長みたいなことを言う。
でも、言いたいことは分かる。
“完璧な委員長”という役から降りて、一人の女の子として感情を持ち始めたなら、それはもう同じ土俵だ。
「だから」
澪菜が続ける。
「負けたくないな、って思う」
その言い方に、少しだけ足が止まりそうになる。
けれど澪菜は、すぐに軽い声へ戻した。
「まあ今のは半分冗談」
「残り半分は」
「聞く?」
「聞く」
「言わない」
そう言って笑う。
でも今の澪菜は、文化祭前みたいに自分を脇役へ置いて笑ってはいなかった。
ちゃんと“自分がそこに立っている”ことを認めたうえでの笑いだ。
平気な顔の練習をやめ始める。
たぶん、それはこういうことなのだろう。
坂を下りながら、俺は思う。
完璧な彼女は、嫉妬だけ隠すのがいちばん下手だ。
そして幼なじみは、平気な顔の練習をやめ始めている。
どちらも、もう“何も変わっていない”場所へは戻らない。
そのことだけが、夕方の海の匂いみたいに、妙にはっきり残っていた。




