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第二十話 先輩は、昔の原稿をまだ捨てられない

 捨てられないものには、だいたい二種類ある。


 もう使わないのに取ってあるものと、使わないからこそ取ってあるものだ。


 前者は単純だ。片づけるのが面倒だったとか、いつか使うかもしれないとか、そういう理由で棚の奥へ押し込まれていく。学校の倉庫の段ボールなんて、大半はそれだろう。


 でも後者は少し違う。


 もう使わない。たぶんこれからも使わない。表へ出すつもりもない。なのに捨てない。むしろ、使わないからこそ手放せない。そういうものがある。


 言いそびれた言葉とか、未掲載の原稿とか、間に合わなかった気持ちとか。


 乙部玻乃は、たぶんそういうものを捨てられない人だ。


    ◇


 火曜日の放課後、校内新聞の旧資料を洗い直すことになった。


 昨日、保管庫から見つかった匿名文に近い短文の出どころをもう少し絞るためだ。文化祭の熱が引ききらないうちにやっておいたほうがいい、という柊木星彩の判断だった。たぶん正しい。


 資料整理室には、珍しく星彩も結月もいなかった。二人とも、それぞれの持ち場で遅れているらしい。


 先にいたのは乙部玻乃先輩だけだった。


「いらっしゃい、後輩くん」

 いつもの調子で手を上げる。

「何でまた先にいるんですか」

 俺が聞く。

「新聞部だから」

「それ、最近だいぶ便利な肩書きになってません?」

「便利だよ。年上より使いやすい」

「年上も十分使いやすいでしょう」

「うわ、今のちょっと好き」

「褒めてません」

「でも残す」

 

 先輩はそう言って、机の上に積んであったファイルを軽く叩いた。


「今日見るのはこのへん」

 指したのは、校内新聞の過去ラフと未掲載原稿の箱だ。

「文化祭号の作りかけ、没原稿、投稿文、メモの束、あとは“そのうち整理する”って書かれたまま放置されてる封筒」

「学校の悪いところ煮詰めたみたいな箱だな」

「ね。だから楽しい」

「楽しそうに言うな」

「こういうの好きだから」

 

 好きだろうとは思っていた。


 古いもの、残っているもの、使われなかったもの。玻乃先輩はそういうものに自然と寄っていく。


「で」

 先輩が言う。

「今日は仕事七、余計な話三でいこうと思います」

「昨日より仕事増えましたね」

「文化祭明けは真面目なので」

「信用できないな」

「信用して」

 

 結局、俺は先輩の向かいへ座った。


 古い封筒を一つずつ開けていく。コピー原稿、手書きメモ、取材の下書き、行事の感想、没になったコラム。紙の色も字の濃さもまちまちだ。


 その中には、昨日見たのと似た短文も混ざっていた。


『終わったあとだけ、急に本当らしい顔をする人がいる。』


『近い人ほど、変わったことをなかったことにしたがる。』


『言わなかったほうがきれいに残ることもある。』


 どれも嫌な感じがする。


 恋文というより、やはり観測記録だ。しかも、ただ観測しているだけではなく、少しだけ“意味づけ”しようとしている。


「これ」

 俺が言う。

「やっぱり、“誰かを好きです”じゃない」

「うん」

 玻乃先輩が答える。

「“誰かたちを見て、勝手に要約してる”感じ」

「ひどいな」

「ひどいよ」

 

 先輩はそう言って、一枚の紙を裏返した。


 そこには別の短文が書かれていた。


『好きになった順番と、言える順番は、だいたい一致しない。』


 昨日見たやつだ。


「これ、やっぱり嫌ですね」

 俺が言う。

「嫌?」

「いや、内容がどうこうじゃなくて」

「うん」

「分かったみたいな顔で置いてある感じ」

 

 玻乃先輩は小さく笑った。


「後輩くん」

「何ですか」

「それ、ちょっと前の君ならもう少し他人事っぽく言ってた」

「……」

「今はだいぶ、自分の周りの話として聞いてる」

 

 図星だった。


 文化祭の前までなら、こういう短文を“嫌な文体だな”で処理して終わったかもしれない。でも今は違う。澪菜の言葉、星彩の一拍、結月の怒り、先輩の七割の本音。そういうものが頭の中にある以上、これはもうただの文学趣味では済まない。


「で」

 先輩が封筒の底を覗き込む。

「本題なんだけど」

「まだ本題じゃなかったんですか」

「今までは導入」

「長い」

「必要だから」


 そして先輩は、一番下から折りたたまれた紙を取り出した。


 今までの雑多なメモとは少し違う。紙質がいい。原稿用紙をコピーしたみたいな下地があり、字は丁寧だが、どこか途中で止めた感じがある。


「これ」

 先輩が言う。

「見覚えある?」

「ないです」

「そりゃそうだ」

「何なんですか」

 

 先輩は、その紙をすぐには渡さなかった。


 手元で一度だけ整える。角をそろえる。その動きが、少しだけ遅い。


 嫌な予感がした。


「乙部先輩」

「うん」

「それ、もしかして」

「もしかしなくても、私が前に拾ったやつ」

 

 あの“使われなかった原稿”だ。


 文化祭のとき、喫茶店で先輩が見せた一枚。

 最後に、**『ほんとうは、あの日、言えなかったことのほうが覚えている。』**と書かれていた紙。


「持ってきたんですか」

 俺が聞く。

「持ってきた」

「何で」

「比べたかったから」

「何と」

「最近見つかってる匿名文と」

 

 ようやく先輩は、その紙を机の上へ置いた。


 俺は慎重に開く。


 前に見たときより、少しだけ紙の黄ばみが気になった。文化祭の余韻の中で見たときは“古い紙”くらいにしか思わなかったのに、今日はその“残り続けた時間”のほうが前へ出ている。


 文章自体は、やはり大きく派手なものではない。学校行事の感想文に見える。準備の大変さ、当日の賑わい、終わったあと少し静かになったこと。そういうありふれた内容だ。


 でも、よく読むと温度がある。


 行事そのものというより、そこにいた“誰か”の気配に引っ張られている文章だ。


「……似てる」

 俺は言った。

「でしょ」

 先輩が言う。

「文体そのものは違う。でも、“言いそびれた気持ちを行事の感想に紛れ込ませる”ってやり方が近い」

「これ、先輩が書いたんですか」

 

 聞いた瞬間、先輩は少しだけ笑った。


「そこ、聞くんだ」

「聞くでしょう」

「まあ、そうか」

 

 先輩はすぐには答えない。


 代わりに、アイスティーのストローで氷を小さく鳴らした。考え事をしているときの音だ。


「……違う」

 やがて言う。

「私が書いたんじゃない」

「じゃあ」

「拾った」

「前にもそう言ってた」

「うん」

「誰のかは?」

「聞いてない」

「ほんとに?」

 

 つい疑うような声になった。


 でも先輩は怒らない。

 その代わり、少しだけ寂しそうに笑った。


「聞いてないよ」

 静かに言う。

「聞けなかった、のほうが近いかな」

 

 その言い方で、こっちも黙るしかなかった。


「後輩くん」

「はい」

「人の言えなかった言葉ってさ」

「……」

「名前を知ると、急に勝手に持てなくなるじゃん」

 

 それはたぶん、先輩なりの誠実さなのだろう。


 拾った。残した。たぶん何度も読み返した。

 でも、名前を知らないままだからこそ、その人の“言えなかったこと”として保存できた。


 名前を知ってしまえば、自分がそれを持っていること自体が違う意味になってしまう。


「だから」

 先輩は言う。

「私はたぶん、わざと聞かなかった」

「……」

「で、捨てられなかった」

 

 そう言われると、この紙の黄ばみ方まで、少し違う意味を持って見える。


 もう使わないのに取ってあるんじゃない。

 使わないからこそ、捨てられない。


「それ」

 俺が聞く。

「文章として好きだから、じゃないですよね」

 

 先輩はすぐには答えない。


 そしてその沈黙が、そのまま答えみたいだった。


「……」

「やっぱりそういうこと聞くんだ」

 少しだけ苦笑する。

「嫌でした?」

「嫌じゃない」

「じゃあ」

「ただ」

 先輩は窓の外を見る。

「今日の君、だいぶ鋭い」

 

 風が窓の隙間を鳴らした。

 海の匂いが少しだけ強くなる。


「たぶんさ」

 玻乃が言う。

「“文章として好き”も本当なんだよ」

「うん」

「でも、それだけなら、もう少しきれいに保存してると思う」

 

 手元の紙へ視線を落とす。


 たしかに端は折れているし、少しだけ雑に開いた跡がある。何度も読んだ人の紙だ。けれど、資料として丁寧に保管された感じではない。


 鞄に入れて、出して、またしまって、気が向いたら読む。

 そういう“個人的な持ち方”をされた紙だ。


「じゃあ何で」

 俺は聞いた。

「何でまだ持ってるんですか」

 

 先輩はそこで、本当に少しだけ困った顔をした。


 珍しい顔だった。冗談の余地を探しているのに、うまく見つからないときの顔。


「……」

「言いにくい?」

「かなり」

「じゃあ」

「でも、今日ここで誤魔化すと、後輩くんあとでまた聞くでしょ」

「たぶん」

「だと思った」

 

 先輩は息をついて、文庫本を閉じるみたいな手つきでその紙の端をなぞった。


「残るから」

 小さく言う。

「え?」

「これ、残る言葉なんだよ」

 

 それだけだと意味が分からない。


 たぶん先輩も分かっていて、少しだけ言い直す。


「行事の感想なんて、普通は流れるじゃん」

「うん」

「読まれて終わる。載るか載らないかで終わる」

「うん」

「でも、こういうのは終わらない」

 

 先輩は俺を見た。


「言えなかったことが、そのまま残ってるから」

 

 胸の奥が少しだけ熱くなる。


「だから捨てられない?」

「そう」

「誰のか知らなくても?」

「知らないから、かも」

 

 そこで先輩は少しだけ笑った。


 寂しいのに、柔らかい笑い方だった。


「私はね」

 静かに言う。

「言えなかった気持ちが、ちゃんと“言えなかったまま残る”ことに弱いんだよ」

 

 それはたぶん、文化祭の日に言っていた“古くなる紙”の話と同じだ。


 言わないまま放っておいた気持ちは、時間が経つと紙みたいに黄ばんでいく。


 でも黄ばんだからといって、価値がなくなるわけじゃない。

 むしろ、時間を引き受けたぶんだけ、その人にしか持てない温度になる。


「先輩」

 俺は言う。

「それ、だいぶ危ない趣味ですね」

「ひど」

「だって、残る言葉ばっかり拾ってたら、自分も残るじゃないですか」

 

 言ったあと、自分で少し驚いた。


 でも先輩は怒らなかった。

 むしろ少しだけ目を細めて、面白そうにこっちを見る。


「今の」

 言う。

「だいぶ好き」

「褒めてない」

「でも的確」

 

 そして、少しだけ肩の力を抜く。


「たしかに危ないよ」

 先輩は認めた。

「残る言葉に弱い人間が、自分の言葉まで残そうとしたら、ろくなことにならない」

「ろくなことって」

「冗談で逃がせなくなる」

 

 その答え方が、妙に胸へ刺さる。


 文化祭の日の七割の本音。

 遅れているまま、なかったことにはならない気持ち。

 先輩は今、それを自分でもちゃんと分かっているのだろう。


「……」

 俺が黙っていると、先輩が少しだけ笑う。


「何その顔」

「いや」

「今たぶん、“だからあの時ああ言ったのか”って顔した」

「しました」

「素直」

 

 そこで先輩は、紙を丁寧に折りたたんだ。


「でもね」

 言う。

「これ、私の話だけじゃないと思う」

「どういう意味ですか」

「最近見つかってる匿名文も、同じ方向なんだよ」

 

 机の上の別の紙片を指で弾く。


「恋文じゃない」

「うん」

「告白でもない」

「うん」

「でも、残る言葉にしたい」

 

 その分析は、たしかにしっくりくる。


 誰かを好きだとまっすぐ言うには弱い。

 でも何もなかったことにしたくはない。

 だから、観測という形で残す。過去に紛れ込ませる。自分の責任を薄めたまま、でも“そこにあった”ことだけは消さない。


「だいぶ面倒ですね」

 俺が言う。

「でしょ」

 先輩が笑う。

「でも、だからこそ見つけたくなる」

「そこなんですよ」

「何が」

「先輩が厄介なの」

「知ってる」


    ◇


 資料整理室に、少し遅れて結月が入ってきた。


「失礼します」

「おつかれ」

 俺が言う。

「お疲れさまです」

 結月は机の上の紙を見て、すぐに状況を察したらしい。

「出ましたか」

「出た」

 玻乃先輩が答える。

「しかも、だいぶ厄介なやつ」

 

 結月は先輩の手元にある折りたたまれた紙を見る。

 視線の動きが少しだけ慎重になる。


「それは」

「前に拾った未掲載原稿」

 先輩が言う。

「文化祭の感想文っぽい顔をしてるくせに、中身はだいぶ個人的」

 

 結月は少しだけ黙り、俺を見た。


「先輩、また深いところまで聞きましたね」

「またって何だ」

「そういう顔です」

 

 容赦がない。


「でも今回は」

 結月は紙片を一枚手に取りながら言う。

「必要だったかもしれません」

「何で」

「匿名文の方向性が分かるからです」

 

 結月は例の一文を指で押さえる。


『好きになった順番と、言える順番は、だいたい一致しない。』


「これ」

 静かに言う。

「誰か一人の告白じゃなく、“みんな少しずつ遅れている”ことを観測してる」

「……」

「つまり犯人は、自分が当事者でない可能性もあります」

 

 その言い方で、部屋の空気が少しだけ変わる。


 たしかにそうだ。

 自分の恋を隠しているだけではなく、他人の遅れや迷いを観測して文章にしている。なら、それは“参加したいけど参加できない観測者”の可能性が高い。


「ややこしいな」

 俺が言う。

「はい」

 結月が頷く。

「かなり」

 

 そこへ、さらに星彩が入ってきた。


「遅くなりました」

 とだけ言って、机の上の様子を見て、すぐに気配を読む。


「何かありましたか」

「だいぶ」

 俺が答える。

「乙部先輩が、昔拾った未掲載原稿を出してきた」

 

 星彩が少しだけ目を見開く。


「それは」

「匿名文と方向が近い」

 玻乃先輩が淡々と言う。

「“行事の感想”に見せかけた個人的な残り方」

 

 星彩はその紙を受け取り、黙って読む。


 読み終えたあと、少しだけ息を吐いた。


「……嫌ですね」

 静かに言う。

「文化祭の感想の顔をしているのに」

「うん」

「まるで違うものを残している」

 

 その表現が、妙に正確だった。


「でも」

 星彩は少しだけ視線を伏せる。

「分かる気もします」

「え」

 俺が見る。

「何が」

 

 星彩は少しだけ言いづらそうにしたが、逃げなかった。


「正面から書けないときに」

 言う。

「別の形式の中へ、ほんの少しだけ混ぜる気持ち」

 

 部屋が静かになる。


 玻乃先輩が何か言いかけて、やめる。

 結月も何も言わない。

 澪菜はいない。けれどたぶん、いたら同じように黙っただろう。


「……」

「それ」

 俺がやっと言う。

「だいぶ本音では?」

 

 星彩は一瞬だけこちらを見て、それから小さくうなずいた。


「だと思います」

 静かな声だった。

「少なくとも今は、否定しきれません」

 

 文化祭を経て、この人もまた、ずいぶん変わったのだと思う。


 完璧な委員長だった頃なら、そんなことは絶対に言わなかった。


 結月が静かに言う。


「だからこそ、雑に扱われると余計に嫌なんですね」

「はい」

 星彩が即答する。

「非常に」

 

 その返事は、驚くほどはっきりしていた。


    ◇


 その日の帰り道、駅前のほうへ下る玻乃先輩と別れたあと、俺は一人で坂を上っていた。


 スマホが震える。


 澪菜からだ。


『今日、どうだった?』


 短い文。


 少し考えてから返す。


『先輩が昔の原稿をまだ捨ててなかった』


 すぐに既読がついて、

『うわ、重い』

 と返ってくる。


 その返しに少し笑ってから、もう一文打つ。


『でも、たぶんそういうのが今の匿名文と繋がってる』


 澪菜の返信は少し遅れた。


『そっか』

『じゃあやっぱり、誰かが“なかったことにしたくない”んだね』


 その一言が、妙に胸へ残る。


 そうだ。


 たぶん犯人は、言いたいわけでも、暴きたいわけでも、壊したいわけでもない。

 ただ、“なかったこと”にしたくないのだ。


 好きになった順番と、言える順番は、だいたい一致しない。


 その遅れを、そのまま残したい。自分の責任を薄めたままでも、そこにあったと分かる形にしたい。


 卑怯で、切実で、かなり面倒だ。


 でもたぶん、今の俺たちの周りにある感情の多くも、似たようなものなのかもしれない。


 海の匂いが強くなる。

 坂の上には、いつもの街灯が見える。


 先輩は、昔の原稿をまだ捨てられない。

 そしてたぶん、それは彼女だけの話じゃない。


 誰もまだ、きれいには終わっていないのだと思った。

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