第七話 先輩は、冗談の顔で引き際を探している
古い商店街には、恋に似たものが残りやすい。
もう使われなくなった看板、閉まったままのシャッター、誰も座っていない喫茶店の窓際席。そういうものは別に恋愛のためにあるわけじゃないのに、なぜか“言いそびれた何か”と相性がいい。たぶん、時間が少し遅れて流れているからだ。
駅前の新しい店は、感情を回転の速さで処理する。流行りの飲み物、すぐ消えるポスター、期間限定の文字。そこでは気持ちも「今」の顔をしていないと置いていかれる。
でも古い商店街は違う。置いていかれたものの置き場所が、まだ残っている。
だから、乙部玻乃先輩みたいな人はあそこが似合う。
◇
文化祭前の校内は、日に日に騒がしさの種類が変わっていく。
準備が始まったばかりの頃は、みんなまだ余裕があって、騒いでいるというより浮き足立っているだけだった。だが一週間を切ると違う。誰かが本気で焦り始め、誰かが今さら手を抜き始め、誰かが「私ばっかりやってない?」という顔をし始める。
そういう時期になると、校内新聞部――正確には、今はほとんど機能していない新聞委員の仕事まで、妙に忙しくなるらしい。
昼休みの終わり際、生活記録同好会の資料整理室へ顔を出した柊木星彩が、少し疲れた顔で言った。
「今日の放課後、古い商店街の取材へ行っていただけませんか」
「俺がですか」
「できれば」
「できれば、ってことは本来は別の人?」
「本来は三年の新聞委員が担当です」
「じゃあその人が」
「捕まりません」
「逃げたな」
「ええ」
星彩はさらりと認めた。
今日の彼女は、ここ数日の中では少し落ち着いて見えた。第六話のあと、何かが少し変わったのかもしれない。相変わらず忙しそうではあるが、全部を一人で抱え込んだまま硬くなっている感じは、前ほどではない。
「取材内容は?」
俺が聞く。
「文化祭の特集で、“日立の昔と今”というページを作る予定なんです。駅前再開発の話と、残っている商店街の聞き取りを」
「地味ですね」
「地味です。でも必要です」
「嫌いじゃないですけど」
「そう言うと思いました」
星彩はファイルから簡単なメモを取り出した。
「喫茶店《風見鶏》の店主が、昔の写真を持っているそうです」
「あそこか」
「知っているんですか」
「たまに行きます」
「一人で?」
「はい」
「珍しいですね」
「そうですか?」
「もっと、観察に向いた場所へ行くかと思っていました」
「喫茶店は十分観察に向いてると思います」
「……それもそうですね」
少しだけ、星彩の口元が緩む。
「で、誰と行けば」
「その件ですが」
星彩は少しだけ間を置いた。
「三年の乙部先輩が手伝ってくださるそうです」
「乙部先輩が」
「ええ」
「何で」
「顔が広いから、とご本人が」
「絶対それだけじゃない」
「私もそう思います」
そこまで言うなら断ればいいのに、と思うが、星彩はたぶん乙部先輩の扱い方を知っているのだろう。正面から止めても、あの人は面白がって別の角度から入ってくる。
「鷹取くん」
「はい」
「乙部先輩は」
「はい」
「少し、いや、かなり掴みにくい方ですが」
「知ってます」
「そうでしょうね」
「でも、嘘はあんまりつかないですよ」
そう言うと、星彩は少しだけ意外そうな顔をした。
「そういう見方をするんですね」
「冗談で逃がすだけで、嘘をつく感じはない」
「……」
「何ですか」
「いえ」
星彩はファイルを閉じながら言った。
「そういうところは、やはりよく見ているんだなと」
「褒めてます?」
「評価を保留します」
「そこは保留なんだ」
「最近、あなたへの評価は忙しいので」
言い方が、ほんの少しだけ前より柔らかい。
俺がそんなことを思っていると、星彩はすぐにいつもの調子へ戻った。
「では、よろしくお願いします。取材メモはここに」
「了解」
「あと」
「はい」
「乙部先輩に巻き込まれすぎないように」
「難しい注文ですね」
「だと思います」
そう言って、彼女は去っていった。
去り際、廊下の向こうから三島の声が聞こえたとき、星彩の足がほんの少しだけ速くなるのが見えた。まだ完全には、あのあたりの感情を整えきれていないのだろう。
でも少なくとも、前よりは“見つかってしまっている”ことを受け入れている気配があった。
それが良い変化なのかどうかは、まだ分からない。
◇
放課後、駅前の喫茶店《風見鶏》へ行くと、乙部玻乃先輩はすでに窓際の席にいた。
制服の上に薄いカーディガンを羽織っている。机の上にはアイスティーとメモ帳、それから昔の駅前写真集みたいな分厚い本。相変わらず、その場にいるだけで「この人はここにいるために来たんだろうな」と思わせる空気を持っている。
「遅い」
先輩は言った。
「五分前です」
「先輩を待たせるのは、時間の長さじゃなくて気分の問題なんだよ」
「理不尽」
「でも来たから許す」
向かいに座ると、玻乃は本を閉じた。
「委員長ちゃんから聞いた?」
「だいたい」
「文化祭の特集用に、古い商店街の話を取る」
「はい」
「地味でしょ」
「嫌いじゃないです」
「知ってる」
即答される。
「何で」
「君、古いものに向いてる顔してるから」
「どんな顔ですか」
「残ってるものに意味を見つけたがる顔」
またそんなことをさらっと言う。
だが、当たっている気がして嫌だ。
「で」
先輩はメモ帳を開く。
「今日は二軒。まず《風見鶏》のマスターから昔の写真を借りる。そのあと、通りの奥にある文具店のおばあちゃんに少し話を聞く。商店街が賑やかだった頃の文化祭シーズンとか、駅前の変化とか」
「手際いいですね」
「私、こういうの得意だから」
「何でも得意って言いますよね」
「言う言う。言っとかないと、やる気あるように見えないじゃん」
「それで実際できるの、ちょっとずるい」
「褒めてる?」
「半分」
「うれしい」
そんなやり取りをしていると、マスターがコーヒーを持ってきた。
「乙部さん、もう説明しちゃった?」
「だいたい」
「じゃあ写真、裏から持ってくるね」
「お願いします」
マスターが奥へ引っ込む。
その背中を見送りながら、玻乃がストローをくるりと回した。
「委員長ちゃん、どう?」
「どうって」
「最近よく一緒にいるんでしょ」
「仕事で」
「そういう意味の“どう”じゃないよ」
「じゃあ何ですか」
「ちゃんとしすぎてる子って、息苦しくない?」
思っていたより直球で、少し返事に詰まる。
「……息苦しいときもあります」
「正直だ」
「でも、あの人はあの人なりに大変なんだろうなとも思う」
「うわ」
「何ですか」
「今の、だいぶ好感度高い後輩の返し」
「別に」
「“別に”って言いながら、その人の事情まで考えるの、かなり君っぽい」
そこでマスターがアルバムを抱えて戻ってきた。
話は一度中断される。
アルバムには、昔の駅前の写真がたくさん入っていた。昭和の終わり頃のものらしい。今より人が多く、看板の色も派手で、商店街のアーケードがまだ元気そうだ。制服姿の学生たちが写り込んでいる写真もある。文化祭帰りなのか、ポスターを丸めて持っている子もいる。
「わあ」
思わず声が出た。
「いい反応」
玻乃が言う。
「こういうの好きでしょ」
「……まあ」
「ほらね」
写真を見ながら、マスターに簡単な話を聞く。昔は駅前の人通りがもっと多かったこと、商店街の店が文化祭の時期に学生向けのセールをしていたこと、今は減ったけれど、それでも毎年ちらほら高校生は来ること。
玻乃は聞き方がうまい。相手が話しやすいところへ自然に水を向けるし、話が逸れても、それを無理やり戻さない。必要な情報だけ後から拾い上げるタイプの聞き方だ。
俺はメモを取りながら、その横顔を見ていた。
乙部先輩は、他人の話を聞いているとき、妙に静かだ。普段は冗談ばかり言うのに、相手が話している間はきちんと黙る。口を挟まない。その分だけ、視線がよく動く。写真、手元、相手の顔、窓の外、また相手の指先。
人を面白がる人間の視線と、ちゃんと敬意を持っている人間の視線は違う。
先輩はたぶん、その両方を持っている。
◇
喫茶店を出て、商店街のほうへ歩く。
雨は昼のうちに上がったらしく、路面はまだ少し濡れていた。古いタイルの歩道に空が鈍く映っている。閉じたシャッターの前を、買い物帰りの人が数人通るだけ。時間が少し遅れているような空気だ。
「ここ、好きなんですか」
俺が聞くと、玻乃は「好きだよ」とあっさり答えた。
「だって、なくなりかけてるものがちゃんと残ってる感じするじゃん」
「なくなりかけてるもの」
「店とか、人の習慣とか、言わないまま残ってる会話とか」
「最後のは商店街関係ないですよね」
「あるよ。場所には、そこで交わされた会話が染みるから」
「詩人ですか」
「違うよ、ただの後輩好きの先輩」
「危ない言い方しないでください」
「そこ反応するんだ」
文具店へ向かう途中、玻乃は古い写真館の前で足を止めた。ショーウィンドウに、もう営業していないらしい色褪せた見本写真が並んでいる。成人式、家族写真、七五三、卒業式。どれも少し前の時代の顔だ。
「ねえ」
玻乃が言う。
「君、文化祭のアンケート差し替え、まだ追ってるんでしょ」
「まあ」
「何となく見えてきた?」
「少しだけ」
「どんなふうに」
「通したい案があるというより、通る形を変えたい感じです」
「うん」
「それも、誰かを得させたいというより、誰かが雑に扱われるのを防ぎたいような」
「うん」
「でも、それをやる本人も、表立って止めると角が立つから、数字で遠回りした」
玻乃は聞きながら、ショーウィンドウのガラスに映る自分を少しだけ見ていた。いや、自分を見ているというより、ガラス越しに昔の写真と今の街を重ねているような目だった。
「かなり見えてるじゃん」
「見えるだけです」
「そこからどうするかは?」
「まだ」
「だよね」
先輩は笑う。
「君、その“まだ”が多い」
「悪いですか」
「悪くはないけど、そこで止まってると誰かが勝手に決めるよ」
「……」
「学校ってそういうとこあるから」
文具店へ着くと、店番のおばあさんが店の奥から出てきた。丸眼鏡をかけ、エプロン姿で、いかにも昔からそこにいる人という雰囲気だ。
乙部先輩が手際よく取材の趣旨を説明する。文化祭特集で、昔の駅前や学生の様子について少し伺いたいこと。おばあさんは最初少し不思議そうだったが、すぐに笑って応じてくれた。
話の内容は多岐にわたった。昔は文化祭シーズンになると色紙や模造紙がよく売れたこと。学生が放課後に集まる店が今よりずっと多かったこと。好きな子のために便箋を買いに来る男子もいたこと。
「今の子もラブレターとか書くのかねえ」
おばあさんが懐かしそうに言う。
「最近はみんなスマホなんでしょう」
「まあ、そうですね」
玻乃が答える。
「でも、文字で残すのが好きな子もいますよ」
「そうかい」
「います。残すから困ることも、たまにありますけど」
先輩の言い方が少しだけ変わる。
おばあさんはそこまでは気にせず、昔の便箋の流行りや、卒業シーズンによく出る封筒の話を続けた。
取材を終えて店を出ると、空はすっかり夕方だった。海のある方角が薄く金色で、商店街の影が長く伸びている。
「おばあちゃん、いい人だったね」
玻乃が言う。
「話うまかったです」
「だよね。人って、昔話になると急に語り手になる」
「先輩もそうなりそうです」
「私?」
「“昔ね、後輩がいて”とか言いそう」
「うわ、それちょっとやだな」
「自覚あるんですね」
「あるよ。年上の過去語りって、だいぶ危険物だから」
そう言いながら、玻乃は笑った。
だが、その笑いのあとに少しだけ黙る。
いつもの先輩なら、ここでもう一つ何か軽口を足す。なのに今日は、その次が来ない。
沈黙の質が変わった。
「先輩」
「ん?」
「どうしました」
「何が」
「今、少し黙った」
「それ、観察結果の報告?」
「事実確認です」
「うわ、委員長ちゃんっぽい」
「嫌な言い方だな」
「でも似てる」
先輩は少しだけ肩をすくめてから、商店街の脇道へ目を向けた。
「ねえ後輩くん」
「はい」
「年上ってさ」
「急ですね」
「急だよ。今思ったから」
「で、年上が?」
「本気になると、ちょっと引き際を探しちゃうんだよね」
足が止まりそうになる。
玻乃はこっちを見ていない。前を向いたまま、冗談みたいな軽い口調で続ける。
「だってほら、高校って二年差でも結構でかいじゃん」
「この前も言ってましたね」
「言ったっけ」
「猫と犬くらい違うって」
「言った言った。雑でよかったでしょ」
「よくはないです」
「でも分かりやすかったでしょ」
「まあ」
先輩はそこで小さく笑う。
「だから、後輩の青春の中に自分が本気で入るのって、ちょっとためらう」
「……」
「眩しいし」
「眩しい?」
「そう。年下の恋って、まだこれから増えてく感じがあるじゃん」
その言い方は、少しだけ遠い。
冗談の顔をしているのに、声だけが本音に近い。
「自分がそこに入ると、邪魔かなって思う瞬間あるんだよ」
玻乃が言う。
「後から来たくせに、先に場所取りするみたいで」
「そんなこと」
「あるよ。年上は勝手にそういう理屈を作る」
俺は返事に困る。
これはたぶん、先輩自身の話だ。過去形なのか現在形なのかまでは分からない。でも少なくとも、ただの一般論ではない。
そしてこういうとき、先輩は自分からは“誰に対して”とは言わない。
言わないことで、冗談の余白を残す。
「先輩」
「なに」
「それ、今の話ですか」
聞いた瞬間、少し踏み込みすぎたと思った。
けれど玻乃は怒らなかった。代わりに、足を止めてこちらを見る。
夕方の商店街。閉まりかけた店の前。古い街灯。濡れたタイル。
その中で先輩は、いつものように少し眠たそうな目をしていた。
「半分くらい」
そう言う。
「半分」
「残り半分は、昔の自分の話」
「都合よく混ぜるんですね」
「便利だから」
「ずるい」
「知ってる」
それから、先輩は少しだけ首を傾げた。
「でも君さ」
「はい」
「それ聞いて、何て言うつもりだったの」
「何て」
「“そんなことないです”とか?」
「……」
「言わないでしょ、たぶん」
図星だった。
俺は曖昧な慰めを口にするのが下手だ。特に、相手が自分で引き際を探しているときに、それを簡単に否定するのは違う気がする。
「ほら」
玻乃が言う。
「そういうとこ、ほんと変に誠実」
「褒めてます?」
「半分」
「その半分好きですね」
「便利なんだよ」
先輩はまた歩き出した。
「だから私は、君のそういうとこ嫌いじゃない」
「嫌いじゃない」
「うん。好き、と言うにはちょっと重くなるから」
さらっと言われて、今度こそ足が止まる。
玻乃はそれに気づいて、振り返って笑った。
「何その顔」
「いや」
「今の、冗談六割、本音四割ね」
「割合を言うな」
「言ったほうが親切かなって」
「余計分かりにくいです」
「そう?」
「はい」
でもその“四割”が、冗談で処理できない程度には胸に残る。
◇
駅へ戻る途中、夕焼けはさらに深くなっていた。
商店街から駅前へ抜ける道は、古い街と新しい街の境目みたいで、歩いていると少しだけ現実へ引き戻される。コンビニの灯り、ロータリーを回る車、電車の到着を告げるアナウンス。ああ、今日もこのまま終わるんだなと思わせる音ばかりだ。
玻乃は駅前広場の手前で足を止めた。
「じゃ、今日はここで」
「古本屋は?」
「行くよ。このあと一人で」
「一緒じゃないんですか」
「一緒に行ったら、私が余計な本まで勧めるから」
「それは別に」
「あと」
先輩は少しだけ笑う。
「今の空気で古本屋まで引っ張ると、さすがに年上がずるい」
その言い方が妙に先輩らしくて、少しだけ息が抜けた。
「乙部先輩」
「ん?」
「さっきの話」
「どのへん」
「引き際探すとか、そのへん」
「うん」
「それ、いつもそうなんですか」
玻乃は少しだけ考える顔をする。
「いつもではないよ」
やがて言った。
「でも、察しがよすぎると、自分の入る余地を勝手に計算しちゃう」
「……」
「で、“ここは退いたほうが綺麗だな”って理屈を作る」
「綺麗かどうかは別じゃないですか」
「そうだよ」
「じゃあ」
「じゃあ、たぶんずるいんだよ。傷つく前に、自分で物語っぽくまとめちゃうから」
その言葉は、夕方の駅前にしては静かすぎた。
俺はしばらく何も言えなかった。
「でも」
玻乃が続ける。
「そういう引き方が似合う年齢ってあるじゃん」
「高校三年で?」
「高校三年は十分そういう顔できる年だよ」
「大げさだな」
「君、ほんとそこは譲らないね」
先輩は笑った。
そのあと、少しだけ真顔になる。
「後輩くん」
「はい」
「君は、誰かのことを“助けたい”と“特別にしたい”の区別、まだ曖昧でしょ」
またそれだ。
第六話までのどこかで、似たことを言われた気がする。たしか駅前の喫茶店で、先輩自身に。
「……そうかもしれません」
「うん」
「でも最近、少し分からなくなってきた」
「それは前進だよ」
「前進なんですか」
「分かった気でいるよりは」
玻乃はそう言って、駅前の向こうを見た。
「そのうち、誰か一人だけ、見つけたからじゃなくて見ていたいって思うよ」
「……」
「そのとき、たぶん今よりだいぶ厄介になる」
「楽しそうに言いますね」
「他人事だから」
「最悪だ」
「でしょ」
そこで、電車の発車ベルが鳴った。
先輩は手をひらひら振る。
「じゃあね、後輩くん」
「はい」
「今日はわりと、本音多めだったから」
「四割じゃなくて?」
「六割くらい」
「増えてる」
「サービス」
それから、ほんの少しだけ目を細めた。
「私はもう、君の青春の中に本気で入るには少し遅いから」
冗談みたいな口調のまま、その言葉だけが重かった。
返事をする前に、先輩は踵を返して商店街とは逆の、駅ビル横の古本屋へ向かって歩いていった。
止めない。
止められない。
そういう引き際の作り方を、たぶんこの人は最初から知っている。
駅前の人波の中で、その背中だけが少し遠く見えた。
◇
家へ帰る坂道の途中で、スマホが震えた。
澪菜からだ。
『取材どうだった?』
『商店街行ってきた』
『乙部先輩と?』
『何で知ってる』
『委員長さんが言ってた』
『情報回るの早いな』
『狭い街だからね』
その一言が、妙にこの作品の全部みたいだった。
近い街。狭い生活圏。同じ駅、同じ坂、同じ店。だから誰かの気持ちは簡単に消えてくれないし、うまく距離を取ったつもりでも、結局またどこかで見えてしまう。
『で、乙部先輩はどうだったの』
メッセージが続く。
俺はしばらく考えてから打つ。
『冗談みたいに本音を言う人だった』
『なにそれ、かっこいい』
『かっこいいかは分からない』
『でも透真、ちょっと気にしてる感じする』
『そうかも』
『そっか』
澪菜からの返信は、それだけだった。
その短さが少し気になったが、今は深追いしないほうがいい気もした。
スマホをしまい、俺は坂の上を見る。
夕方の雨上がりの街は、光が少し滲んでいる。海は見えない。でも、見えないだけでそこにあるのは分かる。
乙部玻乃は、冗談の顔で引き際を探している。
それがずるいのか、大人なのか、優しいのか、まだ俺には判断がつかない。
ただひとつ分かるのは、今日のあの六割は、たぶん簡単には忘れられないということだった。




