第六話 正しい人は、間違える練習をしていない
完璧に見える人間ほど、失敗の音が大きい。
実際に大きな音がするわけじゃない。むしろ逆だ。ペン先が止まるとか、言葉の順番をひとつ間違えるとか、そういう静かな綻びのほうが目立つ。普段が整いすぎているから、たったひとつの乱れでも、その人の中ではかなり大きな事故になる。
そして、そういう人はだいたい、間違えたあとにどう振る舞えばいいかを知らない。
ずっと正しくあろうとしてきたからだ。
◇
文化祭準備が、本格的に「本格的」になってきた。
これまでの準備は、要するに前哨戦だったのだと思う。担当を決めて、案を出して、必要なものを洗い出して、手をつけた気になる。けれど一週間を切ると違う。段ボールが廊下へ出てきて、ポスターの絵の具が乾かず、放課後の校舎がやけに騒がしくなる。誰かが張り切り、誰かが逃げ、誰かが文句を言い、誰かが無理に明るくする。
つまり、感情が全部表に出やすくなる。
そういう時期は苦手だ。
見えなくていいものまで、見えるから。
放課後の二年棟の廊下を歩きながら、俺は手元のクリップボードに目を落とした。文化祭企画の進捗確認表。クラスごとの準備状況、必要備品、危険箇所の有無、アンケート反映の再確認。生活記録同好会の仕事というより、気がついたら柊木星彩の補助になっている気もする。
その星彩が、廊下の向こうから早足で歩いてくるのが見えた。
今日も資料の束を抱えている。今日も姿勢がいい。今日もたぶん忙しい。
ただ、少しだけ違うところがあった。
いつもなら一歩ごとの間隔がきっちり揃っているのに、今日は二歩に一度、ほんのわずかに歩幅が狭くなる。疲れているときの癖だ。鞄を持つ手も、普段より内側へ寄っている。防御が強い。
「お疲れさまです」
俺が言うと、星彩は顔を上げた。
「鷹取くん」
「だいぶ忙しそうですね」
「忙しいです」
即答だった。
「知っていましたが、今年の二年は想像以上に自由です」
「自由」
「聞こえのいい言葉に言い換えただけです」
「実質?」
「まとまりがない」
それは少し面白かった。
だが星彩は笑わない。笑う余裕がないらしい。
「何かありました?」
「あります」
「いっぱい?」
「いっぱいです」
珍しい。ここまで素直に言うのは。
俺が少しだけ目を見開いたのに気づいたのか、星彩はすぐに咳払いをひとつした。
「いえ、訂正します。対処可能な範囲です」
「今の“いっぱいです”のほうが信用できた」
「そうでしょうね」
それを認めるのも珍しい。
星彩は手元のファイルをめくり、一枚のコピーを抜き出して俺へ差し出した。
「これ、見ていただけますか」
「アンケート?」
「ええ。昨日、再回収した分です」
受け取る。文化祭企画希望の再集計用紙。だが問題は集計結果の数字より、その横に赤ペンで書かれた修正メモだった。
『二年二組分、集計表と原票が一致していない可能性あり』
『記入欄の筆跡に不自然な重複あり』
『再確認要』
「また差し替えか」
「その可能性が高いです」
「同じ人?」
「そこまでは分かりません」
「でも似てる」
「似ています」
星彩は言いながら、コピーの端を指で揃える。
「問題は、これがもう“数字の問題だけ”ではなくなっていることです」
「どういう意味ですか」
「二年二組、企画内容を一度変更したそうです」
「変更?」
「もともとは展示中心でしたが、途中で“思い出を書いて貼るコーナー”を入れる案が出たらしいんです」
俺は少し黙る。
思い出を書く。貼る。匿名でも、文面でだいたい誰かが分かることはある。しかも文化祭のテンションの中では、少し個人的な言葉が簡単に“面白いもの”として消費される。
乙部先輩が言っていたことを思い出す。
学校ってさ、ちょっとした好意が、急に見世物みたいになることあるじゃん。
「それで」
俺が促す。
「二年二組の誰かが、その企画が通るのを嫌がった?」
「あるいは、通る形を変えたかった」
「責任だけ取りに来た字」
思わず呟くと、星彩が目を細める。
「何ですか、それ」
「いや、前に言われた言葉です」
「誰に」
「情報の出し方がずるい先輩に」
「曖昧ですね」
「曖昧にしたいので」
星彩は少しだけ何か言いたげな顔をしたが、追及はしなかった。
「とにかく」
彼女は言う。
「二年二組の件は、早めに確認したいです。今日はクラス展示の進捗も見る予定でしたし、できればそのまま」
「分かりました」
「助かります」
そう言って歩き出しかけた星彩の足が、ほんの一瞬だけ止まる。
廊下の向こう。階段近くで、あの男子――文化祭実行委員の名前が記されていた彼が、別の男子と談笑していた。たいしたことのない光景だ。なのに星彩は、その瞬間だけ表情の切り替えが遅れた。
いや、遅れたというより、切り替えようとして、半拍だけ間に合わなかった。
「……」
「何か」
星彩がこちらを見る。
「いえ」
「今、見ましたね」
「見ました」
「最近そればかりですね」
「最近そればかり言われるので」
「学習したんですか」
「少し」
「なら結構です」
星彩はそれだけ言って、今度こそ先へ歩き出した。
だが背中が少し硬い。さっきまでの“忙しい”とは別の緊張が混ざっている。
やっぱり分かりやすい。
分かりやすいのに、本人はたぶんそれをかなり隠しているつもりなのだろう。
そして、たぶんそういうところに俺は妙に目が行く。
澪菜に言われた通りだ。
◇
二年二組の教室は、二年三組より少し騒がしかった。
展示用の模造紙が床に広がり、女子が数人で色紙を切っている。男子は教室後方で段ボールを組んでいるが、作業より喋っている量のほうが多そうだ。窓際には、クラス企画の仮ポスターが立てかけられている。
『記憶のかけら展』
少し気取った題名だが、文化祭ならこういうのも珍しくない。問題はその横に貼られた説明文のラフ案だった。
『みんなの忘れられない思い出を、短い文章にして自由に掲示しよう!』
『名前を書いても匿名でもOK!』
『恋の思い出、部活の思い出、友達との思い出、何でも歓迎!』
星彩が説明文を見た瞬間、わずかに眉を寄せたのが分かった。
それ自体は不自然ではない。展示の管理をする側なら、匿名の文章掲示には当然リスクを感じるだろう。
だが今の顔は、それ以上のものを含んでいる。
「すみません」
星彩が二年二組の実行委員らしい女子へ声をかけた。
「文化祭実行委員の柊木です。進捗確認に来ました」
「あ、柊木さん! ごめん、今ちょっと散らかってて」
「構いません。それと、企画内容の変更について少し確認したいことが」
「変更?」
「もともとの案から、文章掲示の比重が増えていますよね」
「ああ、うん」
女子はハサミを置いて頷く。
「最初は写真展示メインだったんだけど、途中で“文章のほうが参加しやすいんじゃない?”ってなって」
「誰が提案したんですか」
「えーと、たしか……」
女子は周囲を見回す。
「三島くんだったかな」
その名前に、星彩の視線がほんの一瞬だけ揺れる。
三島。あの男子だ。
廊下で何度か見ている、自然に人の輪の中へいるタイプの男子。
「今、いますか」
星彩が聞く。
「いるよ、後ろ」
女子が指した先で、三島が段ボール箱を持ち上げながら友人と話していた。こちらに気づくと、軽く手を上げる。
「あ、委員長。お疲れ」
「お疲れさまです」
星彩の返事は整っていた。整っていたが、少しだけ速い。
「企画変更の件で確認があります」
「お、何?」
「文章掲示案を出したのはあなたですか」
「え? ああ、まあ」
三島は段ボールを下ろして笑う。
「面白そうじゃん。みんな参加できるし」
「匿名可にした理由は」
「そっちのほうが気楽かなって」
「気楽」
「ほら、名前出すの恥ずかしい人もいるし」
そのやり取りを聞きながら、俺は教室内の空気を見ていた。
話を聞いている女子たちの表情。気にしていないふりをして、実は少しずつ反応している。匿名の文章掲示なんて、文化祭では火薬みたいなものだ。誰かの気持ちが滲む。周囲が勝手に読む。盛り上がる。面白がる。たとえ悪意がなくても、そうなりやすい。
星彩はたぶん、その危うさを最初から分かっている。
「匿名可の企画は、内容確認の方法を慎重にしないとトラブルになりやすいです」
星彩が言う。
「個人が特定できる内容や、他人のプライバシーに関わる記述が混ざる可能性もあります」
「でも、チェック入れれば大丈夫じゃない?」
三島は気軽に返す。
「そこまで重く考えなくてもさ、文化祭だし」
その言葉のあと、星彩の指先が持っていたファイルの端に少しだけ食い込んだ。
分かりやすい。明らかに分かりやすい。
けれど教室の誰もそこまでは見ていない。俺が見る必要も本来はないのかもしれない。だが見えてしまう。
「“文化祭だから”で済まないこともあります」
星彩の声が少し低くなる。
「文章は、思っている以上に人の事情を持ち込みやすいので」
「いや、でも」
三島が少しだけ戸惑ったように笑う。
「そこまで神経質にならなくてもよくない?」
「神経質、ではなく、事前の配慮です」
「別に誰かのラブレター貼るわけじゃないんだし」
その瞬間だった。
星彩の表情が、ほんの一拍だけ動きを止めた。
目元。口元。呼吸。
全部が一度止まり、それから無理に元の位置へ戻る。
見ていない人には分からない。だが俺にははっきり見えた。今の一言が、彼女の中で何かに触れた。
「……柊木さん?」
さすがに相手も気づいたらしい。三島が首を傾げる。
「大丈夫?」
「大丈夫です」
その返事が少しだけ早すぎた。
星彩はすぐに続ける。
「とにかく、匿名文章の扱いは再考してください。少なくとも提出後に、内容確認の責任者を明確にしたいです」
「え、ああ……うん」
「それから、再集計したアンケートの数字と元票が一部一致していない件ですが」
切り替え方が、少し乱暴だった。
普段の星彩なら、もっと自然に話題を移す。だが今は違う。揺れたことを自分で打ち消そうとして、順番がずれた。
教室内の空気が微妙に変わる。三島も少し戸惑っている。言い方が悪いわけではない。ただ、固い。必要以上に固い。
「アンケート?」
「はい。こちらで確認したところ、用紙の一部に不自然な点が」
「あー……」
三島が頭を掻いた。
「それ、俺じゃないよ?」
「犯人探しをしたいわけではありません」
「でも疑ってる感じじゃん」
「そうは言っていません」
「言ってないけど、雰囲気はそうだよ」
空気が少しだけ張る。
星彩の肩が、目に見えない程度に強張った。
まずい、と思う。
今の星彩は、正しいことを言っている。だが正しい順番では言えていない。相手が受け取りやすい温度に落とせていない。つまり、それは彼女にとって珍しい“失敗”だ。
俺は一歩前へ出た。
「すみません」
自分でも驚くくらい自然に声が出た。
「言い方が悪かったです」
星彩がこちらを見る。明らかに一瞬驚いている。
「俺たちが確認したいのは、数字の話だけじゃなくて、企画変更と集計のズレが偶然かどうかなんです」
俺は三島へ向き直る。
「責めたいわけじゃない。文化祭前に変な誤解が残るのが面倒だから、先に潰したいだけです」
「……」
「匿名の文章企画って、面白いけど、少し扱いが難しいだろ。だから確認したい。そこに変な意図が混ざってないか」
「変な意図って」
「誰かを笑いものにするとか、逆に守るために変な細工するとか、そういうやつ」
三島は少しだけ表情を曇らせた。
「そこまで考えてなかった」
「なら今考えたほうがいい」
「……」
「文化祭って、テンション上がってるぶん、雑になりやすいから」
しばらくして、三島は息を吐いた。
「……分かった。そこまで言うなら、一回クラスでも確認するよ」
「助かります」
「アンケートの件も、もう一回見直す」
「お願いします」
そこでようやく、教室の空気が少し戻った。
星彩は何も言わない。ただ、ファイルを持つ手の力が少しだけ抜けたのが見えた。
◇
二年二組を出たあと、廊下の端で星彩が足を止めた。
「鷹取くん」
「はい」
「さっきの」
「はい」
「……助かりました」
その声は小さい。いつものように整えてはいたが、少しだけ掠れていた。
「別に」
「“別に”ではありません」
「じゃあ」
「助かりました、と言いました」
「分かりました」
星彩は窓の外を見る。雨はまだ続いているが、午前ほど強くはない。校庭の端にたまった水が、鈍く光っていた。
「私」
星彩が言う。
「さっき、少し感情的になりました」
「少し?」
「……かなり、かもしれません」
そこまで認めるのは珍しい。いや、初めてかもしれない。
「誰だってそういうときあるでしょう」
俺は言う。
「ありません」
「あるだろ」
「ないようにしています」
「それが無理だった」
「そうです」
星彩は短く答えた。
その横顔は悔しそうだった。自分が“崩れた”ことに対する悔しさ。三島への怒りではなく、自分の制御のずれに対する苛立ち。
「ラブレターって言葉に反応した?」
気づいたら口にしていた。
星彩の肩がぴたりと止まる。
「……」
「すみません。今のは」
「いいえ」
星彩は静かに言った。
「図星です」
今度はこちらが黙る。
星彩は少しだけ視線を落とした。
「昔、似たようなことがあったんです」
「……」
「文化祭ではありませんが、校内で、誰かの書いた文章が“それっぽい”というだけで勝手に騒がれたことが」
乙部先輩が言っていた話だろうか。あるいは、似た別件か。
「本人にそのつもりがあったかどうかなんて、たぶん周りはどうでもよかったんです」
星彩は続ける。
「面白いか、面白くないか、それだけで」
「それで嫌になった」
「はい」
「……知ってる人が巻き込まれた?」
星彩は少しだけ目を細めた。
聞きすぎたかもしれない。だが彼女は怒らなかった。
「そこまで話す必要は、まだありません」
「まだ」
「今、そこに反応しました?」
しまった、と思う。
星彩はほんの僅かに、口元を緩めた。
「本当に、そういうところですね」
「すみません」
「今日は何回目ですか」
「二回目」
「少ないほうですね」
少しだけ空気が和らぐ。
だが彼女はすぐに真面目な顔へ戻った。
「さっきの件、私が悪かったです」
「悪いってほどじゃ」
「いいえ。順番を間違えました」
「順番」
「はい。確認より先に、個人的な感情が出た」
その分析が、いかにも星彩らしかった。
怒った、ではなく、順番を間違えた、という言い方。たぶん彼女にとって感情の乱れは、“手順の失敗”として認識されるのだろう。
「間違える練習してないんですね」
思わず言う。
「……何ですか、それ」
「いや」
「ちゃんと説明してください」
「正しい人って、失敗したあとにどうしていいか分からない感じがあるなって」
星彩はしばらく黙った。
責めたつもりはなかったが、言い方がまずかったかもしれない。
だが彼女は少し考えるようにしてから、小さく息をついた。
「その通りです」
静かに認めた。
「私は、間違えたときの振る舞いが下手です」
「……」
「正しくいられない瞬間があることは知っています。でも、そのときどうすれば被害を最小限にできるか、毎回少し遅れる」
その言葉は、思っていたよりずっと素直だった。
俺は少しだけ驚く。
柊木星彩は完璧そうに見える。だが、その完璧さは生まれつきの余裕ではなく、“間違えないようにしてきた積み重ね”の上にあるのかもしれない。だから一度ずれると、戻し方が分からなくなる。
「でも」
俺は言う。
「さっきはちゃんと戻した」
「あなたが入ってきてくれたからです」
「それも含めてだろ」
「……」
「全部一人で戻せなきゃ失敗って考えてるなら、それはだいぶ厳しい」
星彩は窓の外を見たまま、しばらく何も言わなかった。
やがて、ほんの少しだけ肩の力を抜く。
「そうかもしれません」
小さな声だった。
「でも、そういうふうに考えてきたので」
「知ってます」
「何を」
「何でも一人で処理しようとする人の顔」
「そんな顔をしていますか」
「してます」
「不本意です」
「そうでしょうね」
そこで初めて、星彩は本当に小さく笑った。
無理のない笑いだった。
◇
問題は、そこで終わらなかった。
放課後になって、二年二組のアンケート集計表をもう一度見直していたときだ。星彩が急に手を止めた。
「おかしい」
「何が」
「これ」
彼女が指したのは、集計表の片隅にあるメモ欄だった。票数とは直接関係ない、提出時の確認用に書かれた短いメモ。
『文章掲示、過去の提出物から参考可』
たったそれだけ。
だが、その「参考可」という書き方に、星彩の顔色が変わった。
「これ、誰が書いたんですか」
「知らない」
「知らないでは困ります」
「いや、メモ欄だし」
「困ります」
声が少し強い。
俺は集計表を覗き込む。
「過去の提出物って」
「以前の文化祭や校内新聞の原稿類です」
「それの何が」
「勝手に混ぜられる可能性があります」
その言葉が出た瞬間、星彩は自分で自分の声に気づいたように黙った。
そして次の動作を、明らかに一つ間違えた。
本来なら閉じるはずのファイルを取り落としたのだ。
ばさり、と紙が床に散る。
静かな部屋には、それだけで十分大きな音だった。
星彩は一瞬、動けなかった。
その顔を見て、こっちの胸が少し痛くなる。
たぶん彼女の中では、今のはかなり大きな失敗なのだろう。大したことではないのに、自分ではそう思えない。
「拾います」
俺はすぐにしゃがみ込んだ。
「……すみません」
星彩も続いてしゃがむ。だが手つきが少し乱れている。紙の端をうまく揃えられない。珍しい。
「大丈夫ですよ」
「大丈夫ではありません」
「いや、紙落としただけだし」
「それでもです」
「柊木さん」
「……」
「こういうときに“紙を落としました、以上”で終われないの、かなり生きづらそうですね」
一瞬、言いすぎたかと思った。
だが星彩は、散らばった紙を一枚拾いながら、ふっと息を漏らした。
「そうですね」
苦笑に近い声だった。
「かなり」
俺たちは床の紙を拾い集める。指先が何度か触れそうになって、でも触れない。その微妙な距離を、今は妙に意識する余裕がこっちにもあった。
「……さっきの“過去の提出物から参考可”」
俺が言う。
「そんなにまずいんですか」
「まずいです」
「理由は」
星彩は紙を揃え終えて、しばらく黙った。
そして、いつもより少しだけ低い声で言う。
「昔、誰かの書いた文章が、本人のいないところで“恋文っぽいもの”として扱われたことがあると言いましたよね」
「はい」
「たぶんそれと同じことが起こり得るからです」
「過去の文章を参考にするってだけで?」
「“参考”の範囲が曖昧です」
「……」
「展示の雰囲気作りのために、昔の提出物から気の利いた文を抜いて混ぜる、みたいな発想をする人はいます」
なるほど。
確かに、それは起こり得る。悪意がなくても。「いい感じの文だから使おう」で、誰かの個人的な温度が勝手に共有物になる。
面白い、綺麗、エモい。そういう軽い言葉で、本人の事情ごと消費される。
「だから嫌なんですね」
俺が言う。
「……はい」
星彩ははっきり認めた。
「わたしはああいうのが嫌いです」
その声は静かだが、もうごまかしていなかった。
「誰かの言葉が、その人の手を離れた瞬間に、別の意味で騒がれる感じが」
「……」
「だから、さっきも順番を間違えました」
俺はしばらく彼女を見ていた。
完璧で、きっちりしていて、正しいことしか言わないように見える人が、実はこういう“個人的な嫌悪”を強く持っている。そしてそれを、普段はきちんと隠している。隠しているからこそ、触れたときの揺れが大きい。
見てしまう。
そして見てしまった以上、放っておくのも難しい。
「……柊木さん」
「何でしょう」
「今の、たぶんだいぶ本音ですよね」
星彩の睫毛が止まる。
ほんの少しだけ目を逸らし、それからまた戻す。
「そうです」
「じゃあ、見られて悔しいやつですか」
「かなり」
「でも、少し楽なやつでもある?」
言った瞬間、自分でも踏み込みすぎたと思った。
だが星彩は怒らなかった。
むしろ少しだけ困った顔をした。完璧な人の、そういう顔は珍しい。
「……」
「違ったらすみません」
「違わない、かもしれません」
そう言うまでに、彼女はかなり時間をかけた。
「あなたに見られるのは」
星彩が言う。
「悔しいです」
「はい」
「でも、ほんの少しだけ」
そこで言葉を探すように止まり、
「……楽です」
部屋の空気が、その一言で静かに変わった気がした。
外ではまだ雨が降っている。窓ガラスに細い線を引くような雨だ。文化祭前の校舎はどこか騒がしいはずなのに、この資料整理室だけ時間の流れが少し遅い。
俺は何も言えなかった。
星彩も、もう続けなかった。
ただ自分で言ってしまったことに少し驚いているみたいに、手元の紙へ視線を落としている。
やがて彼女は一度深く息を吸った。
「……今のは忘れてください」
「無理だと思う」
「そう言うと思いました」
「すみません」
「三回目です」
「ちゃんと数えてる」
「今日は特に」
そこで、ようやくほんの少しだけ笑いが戻る。
無理に整えた笑いじゃない。ぎこちないが、本物のほうだ。
「とりあえず」
俺は言う。
「二年二組の件、匿名文章企画は見直しですね」
「ええ。少なくとも提出物の扱いルールを明確にします」
「過去の文章は使わない」
「絶対に」
「強い」
「強いです」
「知ってます」
星彩は頷き、それから少しだけ首を傾げた。
「鷹取くん」
「はい」
「さっき」
「はい」
「間違える練習をしていない、と言いましたよね」
「言いました」
「たぶん、そうです」
彼女は静かに言った。
「でも、今日少しだけ分かりました」
「何が」
「間違えたときに、一人で取り返そうとしなくてもいい場合があること」
その言い方に、胸の奥が少しだけあたたかくなる。
「いい学習ですね」
俺が言うと、星彩は即座に返した。
「上からですね」
「そういうつもりは」
「でも、少しだけ」
彼女はわずかに視線を外してから言った。
「……ありがとうございます」
今度の“ありがとう”は、最初に廊下で言われた“助かりました”よりずっと個人的な響きがあった。
だから、余計に返事に困る。
「どういたしまして」
結局、それしか言えなかった。
◇
帰り道、雨はかなり弱くなっていた。
昇降口を出ると、澪菜からメッセージが入っていた。
『今日、どうだった?』
『委員長が間違えた』
『えっ、世界終わる?』
『終わってない』
『じゃあかなりレアじゃん』
『レアだった』
『透真、今ちょっと楽しんでる?』
『……少し』
『ほらそれ!』
思わず苦笑する。
楽しい、という言い方は違う。でも、見えなかったものが少し見える瞬間に、心が動くのは否定できない。
それがずるいと澪菜は言った。
たぶん、その通りだ。
けれど今日の星彩の「楽です」は、面白がっていい種類のものではなかった。あれはたぶん、かなりの勇気を使って言った言葉だ。
だから俺は、スマホに短く返す。
『楽しんでるわけじゃない』
『じゃあ何』
少し考えてから打つ。
『たぶん、見失いたくないと思った』
送ってから、自分で少し驚いた。
澪菜からの返信はすぐには来なかった。
代わりに、雨上がりかけの坂道の向こうで、街の灯りが少しずつ点き始める。海はもう見えない。けれど、あの向こうにあることは分かる。
正しい人は、間違える練習をしていない。
でも今日、柊木星彩はたった一度だけ順番を間違えて、たぶんそのぶんだけ、少しだけ人間らしく見えた。
そして俺は、そのことを忘れないだろうと思った。




