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第五話 幼なじみは、だいたい自分から一歩引く

 雨の日の坂道は、人の本音を少しだけ近づける。


 晴れている日は、空が広いぶん、言葉にも逃げ場がある。海を見ろとか、雲が低いとか、風が強いとか、どうでもいい話題をいくらでも挟める。けれど雨の日は違う。傘の内側に入ったぶんだけ、会話の距離も体温の距離も縮まる。逃げようと思えば逃げられるが、逃げたこと自体が相手に伝わりやすい。


 だから雨の日の幼なじみは、たぶん少しだけ厄介だ。


    ◇


 朝から空が低かった。


 日立の海の上に灰色の雲が重なって、いつもなら坂の途中から見える水面が、今日は最初から霞んでいる。風もある。春とも初夏ともつかない湿った空気が、登校前から街の色を全部少しだけ鈍くしていた。


 玄関を出た瞬間、俺は空を見上げて小さく息をつく。


 傘は持っていた。折りたたみではなく、ちゃんとしたやつ。昨日の夜のうちに母親から「明日かなり降るらしいから」と玄関に立てかけられていた。ありがたい。


 坂の上のほうから、見覚えのある声がしたのは、その十分後だった。


「透真ー! ちょっと待って!」


 振り向くと、名塚澪菜がこちらへ駆けてくるところだった。


 水色の傘を差している。が、その差し方が少し危なっかしい。急いでいるせいで肩が半分濡れているし、通学鞄も傘の端からはみ出していた。いつもより髪がきちんとまとまっていない。前髪の端に細かい水滴がいくつか残っている。


「何してんだおまえ」

「見れば分かるでしょ、追いかけてるの」

「遅い」

「今日に限って母が『ごめん澪菜、洗濯物だけ中入れといて!』って」

「それ昨日も似たこと言ってなかったか」

「うちの家、私を便利に使いすぎなんだよ」

「便利だからな」

「否定して?」


 澪菜は俺の横に並ぶと、ひとつ息をついてから歩調を合わせた。


 坂道に雨が細く筋を引いている。アスファルトの色が濃い。側溝へ流れる水の音と、傘を叩く雨粒の音が一定で、朝なのに少し眠くなる。


「傘、小さいな」

「これしか見つからなかったの」

「いや、俺のと比べて」

「透真の傘がでかすぎるんだよ。あれでしょ、お父さんのとか借りてきたでしょ」

「違う。普通サイズ」

「男子の“普通サイズ”信用ならない」

「何の話だよ」

「別に深い意味はないですー」


 そう言って澪菜が笑う。けれど今日は、その笑い方をよく知っている。


 半拍遅い。口元が先に動いて、声があとから乗る。明るくしようとしているときの笑い方だ。


「澪菜」

「はいはい、今『また笑うの遅かった』って言うんでしょ」

「言おうと思ってた」

「やめて。雨の日にそれ言われると湿度まで気まずくなる」

「湿度は元から高い」

「うわ、そういう返し嫌い」


 嫌い、と言いながらも、本気で怒ってはいない。ただ、踏み込まれる前にこちらを押し返そうとしている。


 ここ数日、澪菜はそういう瞬間が少し増えていた。


 昨日の夜もそうだ。図書室からの帰りに、坂の下で待っているとメッセージが来て、実際に澪菜はコンビニの屋根の下に立っていた。少しだけ話をして、静かな後輩のことは説明しなくていいと言われた。代わりに、なぜか「透真、最近いろんな女の子に図星刺されてない?」と笑われた。


 笑っていたが、そこにも少しだけ妙な硬さがあった。


 今も同じだ。


 雨の日の傘は、隣の人間の手元がよく見える。


 澪菜の左手。傘の柄を持つ指先が少し白い。強く握っている。右手は鞄のベルトをつかんだまま離していない。落ち着いているときは、もう少し手が自由だ。


「……何かあったのか」

 また聞いてしまう。

「また言う?」

 澪菜は前を見たまま言った。

「透真、最近ほんとそればっか」

「だって」

「だって、じゃないの。毎回『何かあったのか』って言われる側の気持ちにもなってみて」

「気づくから」

「気づくのは知ってる」

「じゃあ」

「じゃあ、じゃなくてさ」


 澪菜はそこで一度言葉を切った。傘の先を少しだけ持ち上げ、水たまりを避ける。雨音がその分だけ強くなる。


「気づかれると、言わなきゃいけない感じになることあるんだよ」

 

 その言い方は、前に聞いたことがあった。


 見つかったら、ちゃんとしなきゃいけない気になる。


 第一話の朝、澪菜が言った言葉だ。


「別に言わなくてもいいだろ」

「透真はそういうふうに言うけどさ」

「うん」

「その“言わなくてもいい”って、言える人と、言われても結局気にする人がいるの」

「澪菜は後者?」

「……たぶんね」


 雨の中で聞くその声は、いつもより少し低かった。


 俺は何も返せず、ただ傘を持つ手を少しずらす。風に煽られて、雨粒が横から入ってくる。澪菜の肩が少し濡れる。俺が傘を寄せると、今度はこっちの肘が濡れた。


「うわ、狭」

「おまえの傘が小さいんだって」

「だから言ったじゃん」

「今からでもこっち入るか」

「は?」

「どうせその傘、半分しか仕事してない」

「言い方」

「実際そうだろ」

「……」

「何だよ」

「いや、そこまで言うなら入れてもらおうかなって」

「最初からそうしろ」

「素直に言えないタイプなので」


 そう言って澪菜は自分の傘を畳んだ。さっと水を払って、それを手に持ったまま、俺の傘の中へ寄る。


 途端に距離が近くなる。


 雨の日は、こういうのが厄介だ。


 肩が触れるか触れないか。制服の袖の湿り気。シャンプーの匂いと、外気に濡れた布の匂いが混ざる。子どもの頃なら何でもなかった距離が、高校生になると妙に情報量を持つ。


「……近い」

 澪菜が言う。

「自分で入ったんだろ」

「いやでも、改めて」

「じゃあ戻るか」

「戻らない」

「どっちだよ」

「もうちょっと詰めてよ、肩濡れる」

「注文多いな」

「幼なじみなので」

「最強の肩書きだな、それ」

「今さら気づいた?」


 それで少しだけ、いつもの感じに戻る。


 でも完全には戻らない。近いからだ。近すぎると、冗談の逃げ場が減る。


 坂を上る途中、澪菜がふと空を見上げる。傘の縁から見える灰色の雲。その視線の先に本当に雲を見ている時と、ただ俺から目を逸らしている時とでは、まばたきの数が違う。


 今は後者だった。


「透真さ」

「ん」

「委員長さんと最近よく一緒にいるよね」

「文化祭の件でな」

「知ってる」

「じゃあ何だよ」

「別に。大変そうだなって」

「まあ忙しそうではある」

「仕事できる人だよね」

「かなり」

「綺麗だし」

「そうだな」

「へえ」

「何だそのへえ」

「いや、素直に言うんだって」

「綺麗なものを綺麗と言うのは普通だろ」

「普通だけどさ」


 澪菜はそこで笑う。今度は、さっきより遅れが大きい。


「透真、そういうとこあるよね」

「どういう」

「変に正直」

「嘘つく意味ないだろ」

「そうなんだけど」

「何」

「何でもない」


 何でもない、の直前に一瞬だけ唇の端が下がる。


 これも知っている。飲み込む顔だ。


 言いたいことを、飲み込むときの顔。


 俺はまた口を開きかけて、閉じた。ここで追えば、たぶん澪菜はまた笑って逃げる。そうなったら、ほんとのところはもっと見えなくなる。


 代わりに、違う方向から聞く。


「おまえ、柊木さんのこと苦手なのか」

「えっ」

「いや、何となく」

「なにそれ。急に」

「この前も、俺に“面白がらないでね”って言っただろ」

「……」

「言ったよな」

「言ったけど」

「何で」


 澪菜は少しだけ歩く速度を落とした。


 坂道の途中、雨で色の深くなった紫陽花の葉が、塀の向こうで揺れている。まだ花は早いが、葉だけでも雨には似合う。


「苦手っていうか」

 澪菜が言う。

「ちゃんとしてる人、ちょっと怖いんだよね」

「柊木さん?」

「うん。ああいう、ちゃんとしすぎてる人」

「別に怖くはないだろ」

「透真から見るとそうなんだろうね」

「どういう意味」

「透真、ちゃんとしてる人の“ちゃんとしてないとこ”見つけるの好きじゃん」

「好きって」

「好きだよ、絶対」

「言い方が悪い」

「でもそうでしょ。委員長さんがちょっとペン止めただけで、すぐ『あっ』って顔するし」

「顔に出てたか」

「出てた出てた。びっくりするくらい」


 図星だった。


 澪菜はそれを見て、小さく肩をすくめる。


「透真はさ」

「うん」

「誰かの“ちゃんとしてる外側”がちょっと割れた瞬間に、妙に真剣になるんだよ」

「そうか?」

「そう。で、私はそういうの見てるとたまに思う」

「何を」

「ずるいなあって」

 

 その言葉に、思わず足が止まりそうになる。


「ずるい?」

「うん」


 澪菜の声は軽かった。けれど軽いふりをしているのが分かる軽さだった。


「だって透真、ちゃんと見つけるでしょ」

「……」

「委員長さんが無理してるのとか、先輩が冗談で逃げてるのとか、静かな後輩が言わないで済ませてるのとか」

「何で知ってる」

「何となく雰囲気」

「何となくで当てるなよ」

「幼なじみなので」

「またそれ」

「最強だからって言ったでしょ」


 澪菜はまた笑う。けれどすぐに、その笑いが薄くなる。


「でもさ、幼なじみって」

「……」

「最初から近すぎるから、そういう“見つける”の対象になりにくいんだよね」

 

 雨音が少し強くなる。


 俺は返す言葉を探したが、うまく見つからない。


「透真にとって私は、最初から近くにいる人じゃん」

 澪菜は前を見たまま続ける。

「だから、何か変わったことが起きないと、ちゃんと見てもらえない感じある」

「そんなこと」

「あるよ」


 今度は、はっきり言った。


「だって透真、私が何かあっても、最初に“幼なじみだから”って処理するでしょ」

「してない」

「してる」

「……」

「もちろん、それが悪いって言ってるわけじゃないんだよ。近いのは事実だし」

「澪菜」

「でも、たまに思うの。最初から近くにいる人って、恋の登場人物になりにくいんだなあって」


 その言い方は、冗談みたいに軽いのに、笑えない種類の重さがあった。


 雨の日の傘の内側は狭い。狭いから、こういう言葉が逃げない。


 俺はしばらく黙って歩くしかなかった。


 校門が見えてくる。傘の列ができ始めている。制服の色が雨に濡れ、校舎の白い壁がいつもより冷たく見える。


 そこでようやく、俺は言う。


「……おまえ、何でそんなふうに思うんだ」

「何が」

「登場人物になりにくいとか」

「そういう空気あるじゃん」

「誰の中に」

「いろいろ」

「俺の中に?」

 

 澪菜はそこで答えなかった。


 答えない代わりに、少しだけ口元を上げる。もう何度も見てきた、逃げる前の笑い方だ。


「はいはい、重い話終わり!」

「おい」

「雨の日にこんな会話してたら湿気で腐るでしょ」

「さっきも湿度とか言ってたな」

「今日は湿度に敏感なので」

「話逸らすな」

「逸らしてませんー。登校しましたー。学校ですー」

「雑だな」

「雑でいいの。ちゃんとすると疲れるから」


 そう言って、澪菜は俺の傘から半歩だけ外へ出た。たちまち肩が濡れる。


「戻れよ」

「大丈夫。もう着くし」

「いや、傘」

「平気平気」


 だが平気な人の動きではない。わざと離れた。たぶん、もうこれ以上近い状態で話したくなかったのだ。


 俺は黙って澪菜のほうへ傘を寄せる。


「透真」

「何」

「そういうとこだよ」

「どこが」

「分かんないならいい」

「よくない」

「でも説明すると長い」

「じゃあ長く説明しろ」

「今はやだ」


 そして澪菜は、校舎の昇降口へ駆け込む直前、振り返って言った。


「透真、私のことは心配しなくていいから」

 

 その一言だけ、妙に嫌だった。


 心配しなくていい。


 そう言う人間は、だいたい何かある。


    ◇


 一時間目と二時間目のあいだの休み時間。廊下で柊木星彩とすれ違った。


 彼女は両手に資料を抱え、相変わらず姿勢がいい。雨の日でも制服の乱れがほとんどないのは、ある意味才能だと思う。


「おはようございます」

 俺が言う。

「おはようございます」

 星彩は小さく会釈して、すぐに立ち去りかけ――その直前で足を止めた。

「鷹取くん」

「はい」

「昨日お渡しした進行表、確認していただけましたか」

「しました」

「どうでした」

「抜けがなかったです」

「そうでしょうね」

「自信あるな」

「あります」

 

 即答だ。


 その会話自体はいつも通りだった。だが、そこで彼女の指先が資料の端を少し強く押さえる。廊下の向こう、窓際に誰かが見えたからだ。視線で追うと、昨日見たあの男子――文化祭実行委員の名前が記されていた彼――が、別クラスの女子と何か話していた。


 ああ、と思う。


 分かりやすい。


 いや、分かりやすいというより、見ようとすると見える程度の揺れだ。


 普段の星彩はそれをかなりうまく隠している。ただ、完全には隠しきれない。完璧な人ほど、自分の乱れを認めたくないから、かえって小さなほころびが目立つ。


「……何か」

 星彩が言う。

「いえ」

「今、見ましたね」

「見ました」

「正直で結構です」

「でも言いません」

「結構です」


 このやり取りも、もう何度目だろう。


 星彩は少しだけ口元を和らげた。ほんの小さな変化。だが、それを見た瞬間、朝の澪菜の言葉が蘇る。


 ちゃんとしてる外側がちょっと割れた瞬間に、妙に真剣になる。


 ずるいなあって。


 俺は一瞬だけ、変な気まずさを覚える。


「どうしました」

 星彩が聞く。

「いや」

「最近、“いや”で済ませすぎです」

「すみません」

「何回目ですか」

「今日は一回目です」

「把握が早い」

「数えられるの慣れてきたので」

「それはあまり良い慣れではありませんね」


 星彩はそう言って、やはりきっちりした足取りで去っていく。


 その背中を見送りながら、俺は自分でも少し考える。


 俺は本当に、“ほころび”が好きなのだろうか。


 好き、というと語弊がある。でも、そこにその人らしさが強く出るのは事実だ。完璧な委員長が一瞬だけペンを止めるとき。冗談みたいな先輩がふと黙るとき。静かな後輩がほんの少しだけ語尾を丸くするとき。そういう瞬間を見つけると、確かに俺は真剣になる。


 だが、幼なじみは違う。


 澪菜は昔から近くにいて、明るくて、よく喋って、気を回して、人の前で空気を軽くするのがうまい。つまり“見つけるべきほころび”より先に、“いつもの澪菜”がある。


 その“いつもの”が、たぶん俺の目を鈍らせている。


 そう考えると、少し嫌だった。


    ◇


 昼休み。教室の窓に細かい雨粒がついている。外は相変わらず灰色で、グラウンドはもう使い物にならない色をしていた。


 弁当を広げようとしたとき、澪菜が俺の机の横に立った。


「屋上は無理だから、今日は階段の踊り場でいい?」

「いいけど」

「じゃ、移動」

「急だな」

「急じゃないと透真、今ここで聞いてきそうだから」


 何を、とは聞かなかった。


 聞かなくても分かる。朝の続きだ。


 俺たちは人の少ない東側階段の踊り場へ行った。窓の外に植え込みが見える位置で、普段はあまり人が通らない。雨の日は特に静かだ。


 澪菜は階段の一段上に座り、膝の上に弁当箱を置く。俺はその下の段に座った。高さの差で、視線がちょうど合いにくい。たぶんそれを狙っている。


「で」

 澪菜が卵焼きを箸でつつきながら言う。

「朝の続き、する?」

「するなら」

「いやそうだねえ」

「おまえが振ったんだろ」

「そうだけど」


 澪菜は一口食べてから、少しだけため息をついた。


「私ね」

「うん」

「たぶん、幼なじみって役、便利すぎるんだと思う」

「役って」

「だってさ、最初から近い、気安い、家のこと知ってる、昔話ある、変な気遣いいらない」

「まあ」

「つまり“いて当然”なの」

「……」

「いて当然の人って、恋愛のドキドキと少し相性悪くない?」


 その言い方は、妙に客観的だった。まるで自分のことではなく、何かの構造を説明しているみたいに。


「そう決めつけるの早くないか」

 俺は言う。

「決めつけじゃないよ。経験則」

「経験?」

「見てきた」

「誰を」

「いろいろ」


 澪菜はまた曖昧に逃げる。でも今度は、それが完全な逃げではない気がした。おそらく彼女は本当に、他人の恋をいくつも近くで見てきたのだろう。誰かの背中を押したり、誰かの愚痴を聞いたり、そのたび自分は一歩引く側へ回ってきた。


「ほら、昔からいたでしょ。友達の恋、全力で応援する子」

 澪菜が言う。

「自分のことは後回しで」

「おまえ、まさか」

「何」

「そういうの、結構やってきた?」

 

 澪菜は黙った。


 箸でブロッコリーをつつく。二回。三回。食べない。


 やっぱりそうだ、と思う。


 これまで何度か感じていた。“人の恋を手伝うことに慣れている”手つき。大貫への言い方もそうだったし、普段の何気ない気回しもそうだ。


 澪菜はたぶん、自分で前に出るより、人の背中を押すほうを選び続けてきた。


「……楽なんだよ」

 しばらくしてから、澪菜が小さく言った。

「応援してる側のほうが」

「楽?」

「うん。自分が当事者じゃないほうが、ちゃんとできるから」

「ちゃんと?」

「ほら、傷ついたり、変な期待したり、空気悪くしたりしなくて済むし」

「それ、おまえが勝手に背負ってるだけじゃ」

「そうだよ」

 

 あまりにもあっさり認めるので、言葉が詰まる。


「でもね」

 澪菜は続ける。

「そうやってると、だんだん“自分は応援側の人間なんだ”って思うようになるの」

「……」

「で、そのうち、前に出るタイミングが分かんなくなる」

 

 踊り場の窓に、雨が少し強く打ちつけた。外は薄暗いのに、階段の蛍光灯だけが妙に白い。


 俺は黙って弁当の唐揚げを一つ食べる。味がよく分からない。


「透真」

「何」

「たとえばさ」

 澪菜は俺を見ないまま言う。

「私が誰かのこと好きだったとして」

「……」

「それで、でも応援側に回るほうを選びそうだなって思わない?」

 

 その問いは、冗談っぽく聞こえる一歩手前で止まっていた。


 だから、こちらも冗談で返せない。


「思う」

 正直に言う。

「ひどくない?」

「いや」

「ちょっとは否定してよ」

「無理な否定はしたくない」

「そこだけ誠実だよね、ほんと」


 澪菜は笑う。今度の笑いも遅い。だが、さっきより少しだけ震えが少ない。


「でも、それって私が悪いだけなんだよね」

 澪菜が言う。

「勝手に引いて、勝手に平気なふりして、勝手に“幼なじみだから”って安全圏に逃げてる」

「安全圏じゃないだろ」

「え?」

「安全なら、そんな顔しない」

 

 澪菜の箸が止まる。


 やっとこっちを見る。


「……どんな顔」

「言わせるな」

「そこは観察してるくせに」

「してるから言いたくない」

「なにそれ」

「知らない」


 しばらく、二人とも喋らなかった。


 雨音だけが続く。


 やがて澪菜が、小さく息を吐く。


「透真って、たまに変なところで優しいよね」

「たまに?」

「うん。たまに」

「常時じゃないんだ」

「常時だと疲れるじゃん」

「基準が雑」

「でも、そういうとこ」

 澪菜は弁当箱の端を指でなぞりながら言った。

「ほんとずるい」

「さっきからずるいずるいって」

「だってそうなんだもん」

「何が」

「私が引いたときだけ、引いたことに気づくとこ」


 その一言に、息が詰まる。


 澪菜は続ける。


「委員長さんとか先輩とか後輩ちゃんとか、そういう“今から知っていく相手”には、透真、ちゃんと見つけるじゃん」

「……」

「でも私には、“いつも通り”でいようとしてる部分が最初に来る」

「悪いことみたいに言うなよ」

「悪いって言ってないよ」

「じゃあ」

「ただ、ちょっと」

 澪菜は視線を落とした。

「……寂しいだけ」


 静かだった。


 大袈裟な告白ではない。ただ、雨音の中にそのまま置かれたみたいな言葉だった。


 それが妙に重く響く。


 俺はすぐには何も言えなかった。


 言えないでいるうちに、澪菜が顔を上げて、いつもの調子に戻ろうとする。


「はい、この話終わり!」

「またそれ」

「お昼休みなくなる!」

「まだある」

「空気が重い!」

「おまえが始めた」

「そうだけど、終わらせるのも私の仕事だから!」


 それで無理やり笑う。


 でも今は分かる。その笑いが、何を隠すためのものか。


 そして、その“隠す”の上手さに、俺はこれまで甘えていたのかもしれないとも思う。


    ◇


 放課後、生活記録同好会の机には新しい付箋が一枚置かれていた。


『雨の日だけ、誰かが毎回違う傘を貸しているみたいです。忘れ物なのか親切なのか分かりませんが、ちょっと気になります』


 澪菜がそれを読んで、吹き出した。


「なにこれ。タイムリーすぎる」

「最近、天気ネタ多いな」

「しかも“毎回違う傘を貸している”って、だいぶ世話焼きの匂いする」

「おまえみたいな」

「やだー、そんなに褒められても困る」

「褒めてない」

「知ってる」


 今日は澪菜しかいない。星彩は委員会。結月は図書室当番。玻乃先輩は当然いない。こうして二人きりで部室にいるのは、そういえば少し久しぶりだった。


 机の上の付箋を前に、澪菜が顎に指を当てる。


「でも、これさ」

「うん」

「貸してるほう、たぶん自覚ないよね。親切のつもりでやってる」

「そうか?」

「だって“毎回違う傘”だよ? ちゃんと返してもらう前提ですらない」

「言われてみれば」

「つまり“困ってるから貸す”が先に来てる。誰にどう見えるかは後回し」

 

 言いながら、澪菜は少しだけ苦い顔をした。


 それを見て、俺は朝と昼の会話を思い出す。


 応援側の人間。引くことに慣れている。前に出るタイミングが分からなくなる。


「澪菜」

「何」

「そういうの、おまえもやりがち?」

「え、傘貸すの?」

「傘に限らず」

 

 澪菜は少しだけ目を丸くして、それから「うわ」と呟いた。


「今日の透真、容赦ない」

「聞いてるだけだ」

「聞き方がだいぶ本気」

「さっきの続きだから」

「まだ続いてたんだ」

「終わってない」

 

 部室の窓に雨が当たる音がした。昼より少し弱い。けれどまだ止む気配はない。


 澪菜は椅子に深く座り直して、天井を見上げる。


「……やるよ」

 ぽつりと言う。

「たぶん、かなり」

「何で」

「だって、そのほうが楽だから」

「またそれか」

「またそれ」

「楽、って言い方で片付けるなよ」

「片付けてないよ。ほんとは片付いてないから」


 そこで澪菜は視線を下ろした。


「好きってさ」

 急に言う。

「ちゃんと“私が好きです”って前に出るの、すごい怖いじゃん」

「……」

「でも“応援してるよ”とか“手伝うよ”とか“困ってるなら貸すよ”って言い方なら、傷つきにくいの」

「それでいいのか」

「よくないよ。でも、そうやってると、よくないままでも日常は進むから」


 その言葉は、びっくりするくらい静かだった。


 俺は何も言えない。


 気の利いたことなんて、たぶん今は全部薄い。


「透真」

「ん」

「たとえば、私がそういう人間だったとして」

「……」

「それ、ちょっと面倒だなって思う?」

 

 今度は、笑っていなかった。


 まっすぐこっちを見ている。雨の日の朝みたいに逃げ場がない。


 俺は考える。


 面倒かどうかで言えば、面倒だ。きっと分かりにくいし、周りを優先して自分を後回しにする人間は、見ているほうも困る。こちらが気づかなければそのまま笑っているし、気づいても本人は大丈夫なふりをする。


 でも。


「……面倒ではある」

 俺が言うと、澪菜の口元がわずかに引きつる。

「最低」

「最後まで聞け」

「はいはい」

「面倒だけど、嫌ではない」

「……」

「気づいたなら、放っておくのはもっと面倒だ」

 

 しばらく、澪菜は黙っていた。


 それから、ふっと笑う。


 今度の笑いは、少しだけ自然だった。


「透真」

「何」

「それ、たぶんだいぶずるい慰め方」

「慰めてない」

「そこもずるい」


 でもそのあと、澪菜の肩から少しだけ力が抜けたのは分かった。


 俺たちは付箋の件を軽く整理する。どうやら特定の女子が、雨の日になると忘れた人へ傘を貸しているらしい。しかも自分の傘ではなく、家から余分に持ってきたものを。善意のつもりなのだろうが、貸される側が毎回違うと、周囲から見ると妙な親切に見える。


「これも、本人に悪気はないやつだな」

「うん。しかもたぶん、貸してる本人は“みんな困ってるから”くらいでやってる」

「好きな相手とかじゃなく?」

「……そういうのが混ざると、もっとややこしくなる」

「詳しいな」

「経験則です」

 

 朝と同じ言い方だった。


 けれど今度は、そこに少しだけ自嘲が混ざっている。


    ◇


 帰り道、雨は少し弱くなっていた。


 校門を出て坂を下る。行きと違って、帰りの雨はなんとなく人の気を抜かせる。今日がもう終わったというだけで、言葉の重さも少し軽くなるからだろうか。


 俺と澪菜はまた一つの傘に入って歩いていた。今度は最初からだ。澪菜の傘は結局最後までほとんど使われなかった。


「ねえ」

 澪菜が言う。

「今日のこと、忘れていいよ」

「何を」

「朝とか昼とか、いろいろ」

「無理だろ」

「そこは頑張って」

「頑張る方向が違う」

「じゃあ半分だけ」

「半分だけ忘れるってどうやるんだ」

「器用に」

「無茶言うな」

 

 澪菜はくすっと笑う。


 少し沈黙が落ちる。


 坂の途中、ガードレールの向こうにある低い木の葉から、溜まった雨がまとめて落ちた。音が少し大きい。傘に当たった雨粒が跳ねる。


「透真」

「うん」

「私さ」

「何」

「たぶん、誰かの恋を手伝うの、向いてるんだよね」

「……」

「空気読むの得意だし、近づけそうなら背中押せるし、タイミング見るのもたぶん下手じゃない」

「そうだな」

「でも、だからって」

 澪菜は少しだけ言葉を探して、

「……自分の番が来ないままでも平気、ってわけじゃないんだなって、今日ちょっと分かった」

 

 俺は横を見る。


 澪菜は雨の向こうを見ていた。俺ではなく、坂の下でもなく、もっと曖昧な先。たぶん、自分でもまだはっきり見えていない場所。


「そっか」

 それしか言えなかった。

「うん」


 澪菜は短くうなずく。


 会話はそこで途切れた。


 けれど、その沈黙は朝より悪くなかった。言えなかったことがまだ残っていても、とりあえず同じ傘に入って坂を下りられるくらいには、持ち直している沈黙だった。


 家の近くの分かれ道で、澪菜が足を止める。


「じゃ、私こっち」

「おう」

「傘、ありがと」

「どういたしまして」

「あと」

「ん?」

「……今日、ちょっとだけ見つけてもらえた感じした」

 

 そう言って、澪菜は笑った。


 今度は遅れていない。少なくとも、朝よりはずっと。


「少しだけね」

 付け足して、くるりと背を向ける。

「全部じゃないから、調子乗らないで」

「はいはい」

「その“はいはい”腹立つ」

「先に行けよ」

「行きますー」


 澪菜は小走りで自分の家のほうへ向かっていく。雨の中、鞄を抱え、結局開かなかった傘を肩に乗せて。


 その背中を見送りながら、俺は思う。


 幼なじみは、だいたい自分から一歩引く。


 近いからだ。近いまま壊れるのが怖いから。いて当然の位置から、恋の当事者へ移るのは、たぶん最初から遠い相手に近づくより難しい。


 でも今日、少なくとも俺は一つ知った。


 澪菜は平気なふりがうまいだけで、本当に平気なわけじゃない。


 そして俺は、そのことをこれまで“いつもの澪菜”の中へ雑にしまい込んでいたのかもしれない。


 雨の坂道を一人で下りながら、傘の内側で小さく息をつく。


 見つけるのは上手い。なくさないのは下手。


 静かな後輩に言われたその言葉が、今日もまた耳の奥に残っていた。


 たぶん、見つけたあとのほうが難しい。


 幼なじみなら、なおさらだ。

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