第四話 無口な後輩は、見られることに慣れている
静かな場所ほど、人の癖はよく見える。
喋ってごまかせないからだ。
教室なら、笑い声や椅子を引く音に紛れて、ちょっとした間違和感は流れていく。廊下なら、通り過ぎる足音が気まずさを持っていってくれる。駅前はもっと簡単だ。ざわめきのほうが感情より先に耳へ入る。
けれど図書室は違う。
ページをめくる音、椅子の脚が床を擦る音、貸出処理の小さな電子音。そこでは人の沈黙が、ただの空白じゃなく、ちゃんと意味を持ち始める。
だから図書室は少し苦手だ。
見たくないものまで、静かに見えてしまうから。
◇
乙部玻乃先輩と駅前で別れた翌日、放課後の生活記録同好会の部室には、珍しく依頼が何も来ていなかった。
来ていない、というより、机の上の付箋の束に新しい字が増えていない。文化祭準備が本格化したせいで、校内の小さな困りごとまで手が回らなくなっているのかもしれないし、逆にみんなそれどころではなくなっているのかもしれない。
澪菜は今日、クラスの準備で遅くなると言っていた。星彩も文化祭実行委員の会議に呼ばれている。つまり今この資料整理室にいるのは俺ひとりだ。
窓の外では、海風に押された雲がゆっくり流れている。校舎の向こうに見える海は薄く銀色で、夕方手前の光が眠そうに揺れていた。
俺は机の上に広げた文化祭アンケートのコピーをもう一度見返す。
差し替えられた用紙。弱い筆圧。整えたいようで整えきれていない字。乙部先輩の言った「勝ちたい人の字じゃない。責任だけ取りに来た字」という表現が、妙に頭に残っていた。
責任。
誰が。何に対して。
考えても今の段階では決めきれない。決めきれないものを前にしていると、少しだけ落ち着かなくなる。俺は紙を重ね直し、端を揃えた。
そのとき、部室の扉が控えめに二度叩かれた。
「どうぞ」
言うと、少し間が空いてから扉が開いた。
入ってきたのは、一年の女子生徒だった。
肩の少し下で切り揃えた黒髪。制服はきっちり着ているが、どこか全体の印象が静かだ。派手さがないというより、最初から目立たない場所に自分を置くのがうまい人間の静けさがある。
見覚えがあった。図書室で、何度か見たことがある。
「失礼します」
声も小さい。けれど聞き取りにくいわけではない。
「生活記録同好会、ここで合ってますか」
「合ってます」
「……相談したいことがあります」
「どうぞ」
彼女は部屋の中へ入り、扉を後ろ手に閉めた。閉め方が静かだ。音を立てるのを避けているというより、音を立てないのが習慣になっている手つき。
机の前まで来る。その途中で、室内を一度だけ見回した。ロッカー、窓、積まれた段ボール、俺の手元の紙。それをほんの数秒で見て、必要な情報だけ拾っているみたいな視線だった。
「座りますか」
「いえ、大丈夫です」
「そうですか」
「先に名前を言ったほうがいいですか」
「どっちでも」
「一年の篠浜結月です。図書委員をしています」
「鷹取透真。二年」
「知ってます」
「……そうですか」
即答だった。
彼女――篠浜結月は表情をほとんど動かさないまま、手に持っていた透明ファイルを差し出した。中には数枚の紙。貸出記録のコピーらしい。
「図書室で、なくなったはずの貸出カードが戻ってきています」
「なくなったはずの?」
「本来、年度替わりで旧式のカードは全部処分済みです。でも今月に入ってから、返却本に混ざって三枚見つかりました」
「誰かが持ってた?」
「たぶん」
「それだけなら、昔のをたまたま挟んでいたとか」
「わたしも最初はそう思いました」
「違うと」
「三枚とも、同じ場所に印がついていたので」
ファイルを受け取って見る。
確かに、古い貸出カードの右上に、黒いボールペンで小さな点が打ってある。偶然とも言える程度の印だが、三枚とも同じ位置だ。
「わざとか」
「はい」
「図書室で何か隠してるやつがいる?」
「隠している、というより」
結月は少しだけ言葉を選んだ。
「……居場所にしている人がいます」
その表現が耳に残る。
「居場所」
「放課後、閉室ギリギリまでいる人がいて。たぶん、その人が古いカードを挟んだまま本を借りていた」
「何でそんな回りくどいことを」
「それはまだ分かりません」
「困ってるのは?」
「図書委員の仕事としては、カードの管理が曖昧になるのが困ります」
「それだけ?」
聞いた瞬間、自分でも少し踏み込みすぎたと思った。
だが結月は気を悪くしたふうもなく、静かに俺を見た。
「それだけではないです」
「……ですよね」
「でも、どこまで話していいかは迷っています」
そこで初めて、彼女の右手の指先がわずかに動いていることに気づく。親指の爪を人差し指で、ほんの小さく触れる。強い緊張ではない。だが、迷いはある。
「話せる範囲でいいです」
「生活記録同好会は、秘密を全部暴く場所ですか」
「違います」
「では、困りごとをなくす場所?」
「それも違う気がします」
「何ですか」
返事に詰まる。
改めて聞かれると難しい。なくなったクリームパンの件も、机の飲み物の件も、アンケート差し替えも、俺たちは全部を綺麗に片づけたわけじゃない。大事にしないほうがいいこともあるし、全部を白日の下に出せばいいとも限らない。
少し考えてから答える。
「放っておくと、誰かが少し困ることを、少しだけましにする場所、ですかね」
「少し」
「大げさに言うと違う気がするので」
「……」
「変ですか」
「いえ」
結月はわずかにまばたきをした。
「思ったより、ちゃんと考えているんですね」
「何だと思ってたんですか」
「人を見て、勝手に答えを作る人」
思わず黙る。
図星に近い。
「その言い方、どこかで」
「似たことを言われましたか」
「何人かに」
「たぶん事実だからです」
容赦がない。
でも口調は平坦で、責めているという感じではない。ただ事実を置いていく。
「篠浜さん」
「はい」
「俺のこと、前から知ってたんですか」
「図書室で何度も見ています」
「それだけでそんな評価になります?」
「人の本棚を見ている視線と、人を見ている視線は少し違います」
「……」
「先輩は、両方していました」
静かに言われると、妙に効く。
俺は咳払いをひとつして、話を戻した。
「で、その居場所にしてる人っていうのは」
「二年生です」
「上級生」
「名前は言えません」
「まだ」
「はい」
「本人が困るから?」
「たぶん」
たぶん、という言い方だった。断定ではない。そのたぶんの重さが、かえって慎重さを感じさせる。
「わたしは、その人が図書室にいる理由を知っています」
結月が言う。
「でも、その理由をそのまま他人へ渡すのは違うと思っています」
「じゃあ、なぜ相談に」
「放っておくと、別の委員が気づいて、もっと雑に扱うかもしれないからです」
「……」
「それは嫌です」
その“嫌です”だけ、少しだけ温度があった。
なるほど、と思う。彼女は規則を守りたいわけでも、違反者を捕まえたいわけでもない。雑に扱われる前に、被害の少ないところへ持ち込みたいのだ。
その判断はかなり大人びている。
「今日、図書室行ってもいいですか」
俺が聞くと、結月はうなずいた。
「はい。あと二十分で閉室準備です」
「その人、今日も来てる?」
「います」
「何で分かるんですか」
「今日、返却棚の本の並びが少し変わったので」
「……」
「居場所にしている人は、いつも同じ本棚の前で立ち止まります」
俺は少しだけ笑いそうになる。
「見てますね」
「仕事です」
「俺よりよっぽど」
「わたしは必要な分だけです」
「その言い方だと、俺は不必要な分まで見てるみたいですね」
「たぶんそうです」
本当に容赦がない。
◇
図書室は校舎の北側、少し人通りから外れた位置にある。
夕方の光が斜めに入る時間帯でも、そこだけは少し温度が低い。扉を開けると、紙の匂いとワックスの薄い匂い、それに閉じた空気特有の乾いた静けさがある。
数人の生徒がまだ残っていた。参考書を開いている三年、雑誌コーナーを流し見している一年、窓際で文庫本を読んでいる男子。みんなそれぞれ静かだ。
結月はカウンターの内側へ入り、返却本を整え始めた。手つきに無駄がない。貸出処理の音も小さい。いかにも図書委員らしいというより、そこにいることが周囲の騒がしさをひとつ下げている感じがする。
俺はカウンターの外から室内を見回す。
どの生徒が“居場所にしている人”なのか。結月は名前を出さない。だからこちらで見るしかない。
こういうとき、静かな場所は助かる。人は喋らないと、代わりに手元や視線がよく動く。
窓際で本を読んでいる男子。頁をめくる速度が一定すぎる。読んでいるというより、読んでいるふりに近い。だが視線はちゃんと文字の上にある。これは本当に読んでいる。
参考書を開いている三年。ペン先で机を叩く癖がある。帰りたいが帰れない。図書室が居場所というより、受験生の避難所だ。
雑誌コーナーの一年女子。これはただ時間を潰している。足先が出口の方向を向いているから、すぐ帰る。
そして、奥の本棚の影。
文庫棚の前に立っている男子生徒。二年。制服の袖口が少し擦り切れている。鞄は床に置かず、ずっと肩にかけたまま。借りる本を探しているようでいて、視線はたまに文字ではなく空いた空間へ落ちる。
そこにいることに慣れていない人間の立ち方ではない。むしろ、長くそこにいたいのに、そう思っている自分を隠したい人間の立ち方だ。
「……あの人か」
小声で言うと、カウンターの内側で本を整えていた結月が、こちらを見ずに答えた。
「たぶん」
「たぶん?」
「本人が言っていないので」
「慎重ですね」
「言葉にすると壊れるものもあります」
結月の視線はまだ本の背表紙に向いていた。
その言い方に、昨日の乙部先輩の“黄ばんでいく紙”の話が少し重なる。
言わないまま残るもの。
図書室にはそういうものが集まりやすいのかもしれない。言葉にならなかった気持ちとか、帰る場所が少しだけ足りない時間とか。
俺がそう考えているうちに、文庫棚の前の男子が一冊を抜き取った。ページをぱらぱらめくる。読んでいない。時間を稼いでいる。
「家、帰りたくないのかな」
俺が言うと、結月がようやくこちらを見た。
「そういう聞き方は嫌いです」
「……悪い」
「帰りたくない、と言うと、家が悪いみたいに聞こえるので」
「違うんですか」
「違わないかもしれません。でも、教室にいたくないだけかもしれない。部活の前に一人になりたいだけかもしれない。理由をひとつにすると、雑になります」
また刺さる。
この子は静かな顔で、ずいぶん正確に切ってくる。
「篠浜さん」
「はい」
「俺、嫌われてます?」
「別に」
「その“別に”信用できない感じありますね」
「嫌ってはいません」
「はいない」
「観察して決めつけるのが早いところは、少し苦手です」
「やっぱり嫌われてる」
「嫌ってはいません」
言い直す。その音が少しだけ柔らかかった。
「でも、ここでは先に答えを作らないでください」
「……努力します」
「努力で済ませないでください」
「厳しいな」
「図書室なので」
理屈はよく分からないが、なぜか納得した。
そのとき、貸出終了を告げるチャイムが小さく鳴った。館内放送ではなく、図書室の中だけで鳴る簡素な電子音だ。
残っていた生徒が少しずつ動き出す。参考書を閉じる三年。雑誌を戻す一年。窓際の男子も読んでいた本を閉じる。
だが、文庫棚の前の二年だけがすぐには動かなかった。
時計を見る。壁際の掲示を見る。カウンターを見る。出口を見る。全部一度見てから、ようやく本を持ってこちらへ歩いてくる。
結月がカウンターで受け取る。
「貸出、お願いします」
「はい」
男子の声は小さい。けれど、結月に対してだけは少しだけ自然だ。何度もこのやり取りをしている声だった。
結月がバーコードを通す。貸出処理の音が鳴る。
「返却予定日は来週火曜です」
「……はい」
「延長したい場合は、期限前に言ってください」
「はい」
そこで男子の視線が、ふと俺へ向いた。
一瞬だけ表情が固くなる。
知らない先輩がいる。いつもと違う。そういう警戒だ。
結月はそれを見て、何でもない声で言う。
「生活記録同好会の先輩です」
「……」
「なくなった貸出カードの件で」
「え」
男子の顔色が分かりやすく変わる。
あ、と思ったときにはもう遅い。口に出した言葉が、必要以上に当人を追い詰める形になっていた。
だが結月は慌てない。
「大丈夫です」
とても静かに言った。
「責めるために呼んだわけではないので」
男子は手にした本の端をぎゅっと握った。
「……すみません」
「何が」
結月が聞く。
「その、カード……」
「古いカードを本に挟んでいたことですか」
「はい」
「どうして」
男子はすぐには答えなかった。
俺も黙って待つ。ここで余計な言葉を足すと、たぶん全部だめになる気がした。
数秒。図書室の空気がさらに静かになる。
「……しおり、みたいに使ってました」
男子がようやく言った。
「新しいのだと目立つから」
「何が」
「ここに、長くいるのが」
結月は一度だけまばたきした。だが驚いた顔はしない。やっぱりある程度は知っていたのだろう。
「本当にそれだけですか」
結月が聞く。
「……」
「他に、閉室後も少しだけ残ることがありましたよね」
「……すみません」
「謝らなくていいです。理由を聞いているだけなので」
男子は唇を噛んだ。
「教室、うるさくて」
ぽつりと落ちる声。
「部活も、行く前にちょっとしんどくて」
「家は」
結月がそこまで聞いて、少し止まる。自分で雑になる一歩手前だと気づいたみたいに。
男子はその続きを待たずに首を振った。
「家は……別に」
その“別に”が、いちばん別にではなかった。
「ただ、帰る前に少しだけ静かなとこにいたかったです」
結月はそれ以上追わなかった。
代わりに貸出処理を終えた本をそっと返す。
「古いカードは、もう使わないでください」
「はい」
「必要なら、しおりを渡します」
「……はい」
「閉室時間は守ってください」
「はい」
「でも、図書室に来ること自体は、別に悪いことではありません」
男子が顔を上げた。
「迷惑じゃ、ないですか」
「ルールを守るなら」
結月は平坦に言う。
「わたしは、迷惑だと思っていません」
その言葉に、男子の肩から少しだけ力が抜けたのが分かった。
たぶん今必要だったのは、事情を暴かれることじゃなく、“ここにいていい”の線をちゃんと引いてもらうことだったのだろう。
男子が帰っていく。扉が閉まる。
図書室の中には、もう俺と結月しかいない。
「……先輩」
結月が言った。
「今、何を考えましたか」
「え」
「顔」
「そんなに出ます?」
「出ます」
つい苦笑する。
「放っておいてよかったのかって」
正直に言う。
「たぶん、もっと根っこがあるだろうなって思った」
「あります」
「でも聞かないんですね」
「聞いてほしいようには見えなかったので」
「それでいいのか」
「よくないかもしれません」
結月は本棚のほうを見たまま答える。
「でも、言葉にすることで、本人が急に“問題”になることもあります」
「……」
「この人は助けなきゃいけない、って周りが思った瞬間に、その人が自分で選べるものが減ることがあります」
図書室の静けさの中、その言葉は妙に重く響いた。
俺は昨日までのことを思い出す。机に置かれた飲み物。アンケートの差し替え。誰かの気持ちが勝手に机の上に置かれることへの星彩の嫌悪。黄ばんだまま残る原稿の話をした乙部先輩。
見つけたからといって、全部を光の下へ出せばいいわけじゃない。
分かっているつもりで、たぶん俺はまだ、分かり方が雑だ。
「篠浜さん」
「はい」
「相談しに来たのって、俺じゃなくてもよかったんじゃ」
「よくないです」
即答だった。
「え」
「別の委員だと、もっと大きくします」
「何でそう思うんですか」
「先輩は」
結月が少しだけ考えるように言葉を切る。
「……見つけるのは上手です。でも、壊すつもりで暴く人ではないので」
予想していなかった評価で、返事に詰まる。
「褒めてる?」
「半分」
「半分は」
「なくさないのは下手そうです」
その言い方に、昨日の澪菜のメッセージが重なった。
拾うのは得意だけど、捨てるの下手だからね。
なくさないのは下手。
同じことを違う方向から言われている気がして、少しだけ笑ってしまう。
「何で笑うんですか」
結月が聞く。
「いや、似たこと言われたなって」
「誰に」
「いろいろ」
「曖昧ですね」
「曖昧にしたいので」
「そうですか」
結月はそれ以上聞かなかった。
◇
図書室の閉室作業を手伝うことになった。
返却棚の整理、机の位置直し、窓の確認。結月は黙々と作業を進める。必要なことしか言わない。だが、言葉が少ないぶん、動きの意味がよく見える。
雑に本を積まない。机を直すとき、音が立たないように脚を少し浮かせる。窓の鍵を閉めたあと、一度だけ手で押して確認する。慎重で、無駄がない。
この子はたぶん、自分の周りのものが不必要に乱れるのが嫌いなんだろう。だから喋りすぎないし、必要以上に人へ踏み込まない。
作業の途中、俺は返却棚の隅に一枚の古い貸出カードを見つけた。昨日まで相談のあったものと同じ型だ。
「これ」
差し出すと、結月はそれを受け取って少しだけ目を細めた。
「四枚目ですね」
「まだあったのか」
「たぶん、もう少し」
「全部あの人?」
「分かりません」
「でも」
「でも、かもしれません」
曖昧さを残す。
それがこの子のやり方だ。
「篠浜さん」
「はい」
「見られるの、平気なんですね」
結月の手が止まった。
いきなりだったかもしれない。でも、ずっと気になっていた。
彼女は俺が図書室で見ていることを最初から気づいていた。気づいていたのに、慌てもしないし、露骨に避けもしない。普通は少し嫌がるか、警戒を強めるか、そのどちらかになることが多い。
なのに結月は違う。
彼女は古い貸出カードを透明ケースへ入れながら言った。
「慣れているので」
「何に」
「見られることに」
「図書委員だから?」
「それもあります」
「それだけじゃない?」
結月は答えない。
ただ、窓の外へ目を向ける。夕方の海はもう見えない位置なのに、そこに何かあるみたいな顔で。
「無口だと」
しばらくしてから、彼女は言った。
「人は勝手に見ます」
「……」
「何を考えてるんだろう、とか。怒ってるのかな、とか。暗い子なのかな、とか」
「そういうの」
「説明して回るのも面倒なので」
「放っておく」
「はい」
「嫌じゃないんですか」
「嫌です」
今度はすぐ答えた。
「でも、全部に反応すると、もっと見られるので」
「……」
「だから慣れました」
その言葉は淡々としていた。でも、その淡々とした言い方自体が、慣れるしかなかった時間の長さを感じさせた。
俺は少しだけ喉の奥が詰まる。
「先輩」
結月が言う。
「今、変に同情しました?」
「してない」
「嘘です」
「……少し」
「そういうの、いらないです」
「ごめん」
「謝るのも違います」
「難しいな」
「はい」
でもその“はい”は、これまでより少しだけ丸かった。
◇
閉室を終え、図書室を出る。廊下にはもう人が少ない。窓の外の空は青から灰色へ移る途中で、校舎の端だけがまだ少し明るい。
昇降口まで一緒に歩くことになった。
結月は相変わらず静かだが、沈黙が気まずい感じはしない。不思議なことに、彼女といると“喋らない時間”そのものが会話みたいになる。
階段を下りながら、俺は聞いた。
「図書室、好きなんですか」
「好きです」
「即答」
「静かなので」
「それだけ?」
「本もあります」
「図書委員として百点の答えだ」
「褒めても何もないです」
少しだけ、乙部先輩を思い出す返し方だった。人によって静けさの種類は違うのに、言葉の置き方が少し似ている瞬間がある。
「でも」
結月が続けた。
「静かな場所は、うるさいところから逃げてきた人にやさしいので」
「……」
「だから、好きです」
昇降口の手前で、外から強い風が吹き込んできた。海のほうからの風だ。ガラス戸がかすかに鳴る。
結月が靴を履き替える。ローファーのつま先を揃え、立ち上がる。その仕草まで静かだ。
「先輩」
「はい」
「今日のことは、記録に残しますか」
「残したほうがいい?」
「残さないほうがいいです」
「じゃあ残さない」
「即答ですね」
「さっき言っただろ。全部を明るいところへ出せばいいわけじゃないって」
結月は俺を見た。ほんの少しだけ、驚いたように。
「覚えていたんですね」
「忘れるほど器用じゃない」
「そうですか」
外へ出る。校門へ向かう坂は、夕方の気温をゆっくり失い始めていた。街の向こうに海が見える。建物の隙間から覗く水面が、もう青ではなく鈍い銀色になっている。
昇降口前で、結月は足を止めた。
「先輩」
「ん」
「見つけるだけで満足しないでください」
その一言に、足が止まる。
「どういう意味」
「そのままです」
「もう少し説明を」
「先輩は、見つけた瞬間に少し安心する顔をします」
「そんな顔してる?」
「しています」
「初耳だな」
「たぶん、見つかったことで理解した気になるんです」
夕方の風が、結月の髪をほんの少しだけ揺らした。
「でも、見つけたあとにどうするかのほうが、たぶん大事です」
彼女は言う。
「言わないで守るのか、言って守るのか、何もしないのか」
「……」
「そこを選ばないまま“分かった”で終わるの、ずるいです」
胸の奥を静かに叩かれた感じがした。
乙部先輩には“困ってる子に優しくするのと、その子を特別にしたいのは違う”と言われ、結月には“見つけたあとにどうするかを選ばないのはずるい”と言われる。
たぶん俺はここ数日で、かなりいろんな方向から図星を突かれている。
「……厳しいな、篠浜さん」
「図書室なので」
「それまだ使うんだ」
「便利なので」
ごくわずかに、口元が動いた。
笑った、と呼ぶには小さい。でも確かに、さっきまでより柔らかい。
そこで初めて、この子はただ無表情なんじゃないのだと改めて思う。表情の出方が少ないだけで、ないわけじゃない。たぶん本人が出さないようにしているだけだ。
「じゃあ」
結月が言う。
「失礼します」
「お疲れ」
「先輩」
「何」
「見つけるのは上手です」
「……うれしいような、そうでもないような」
「でも、なくさないのは下手そうです」
「昨日も似たこと言われた」
「そうですか」
「そうです」
「では、本当に下手なんですね」
容赦がない。
結月は小さく一礼して、海とは反対側の坂を下りていった。歩幅は一定。振り返らない。けれど、完全に壁を作ったままの背中でもなかった。
俺はしばらくその後ろ姿を見送る。
無口な後輩は、見られることに慣れている。
でも、それは見られて平気だからではなく、いちいち傷つかないために慣れるしかなかったからだ。
そういう種類の静けさに、俺はまだ慣れていない。
ポケットの中でスマホが震えた。
澪菜からだった。
『今日、帰り遅い?』
『今から帰る』
『また何か拾った?』
『静かなやつを』
『なにそれ』
『説明しにくい』
『じゃあ坂の下で待ってる。説明しにくいの、説明しなくていいから』
その文面を見て、少しだけ息が抜ける。
説明しにくいものを、説明しなくていいと言ってくれる相手がいるのは、たぶんありがたいことなんだろう。
俺はスマホをしまい、海の見える坂道へ向かって歩き出した。
見つけたあとにどうするか。
その問いだけを、今日の夕方は妙に長く引きずっていた。




