第二十四話 幼なじみは、観測されるくらいなら自分で言いたい
誰かに分かった顔をされるくらいなら、自分で言ったほうがましだと思う瞬間がある。
その“まし”は、別に楽という意味じゃない。
自分で言うのはしんどい。恥ずかしいし、うまくまとまる保証もないし、言ったあとでどうなるかも分からない。むしろ、第三者に勝手に説明されるよりずっと怖い。
それでも、自分の気持ちの持ち主くらいは、自分でいたいと思う。
たぶんそれは、前へ出る覚悟に少し似ている。
名塚澪菜は、ようやくそこへ立とうとしているのかもしれない。
◇
金曜日の昼休み、二年三組の教室はやけに騒がしかった。
文化祭が終わってから数日経つのに、まだその余熱が残っているのだろう。後ろの席では写真を見せ合う女子の笑い声。窓際では、誰が文化祭のあと誰と帰ったかみたいな話をしている男子。机を挟んで「打ち上げいつにする?」と騒ぐ声も聞こえる。
それ自体は別に珍しくない。
珍しくないのに、今日の俺には妙にうるさく感じた。
昨日、星彩が自分で「機嫌が悪い」と言ったこと。
その嫉妬を、なかったことにしないと決めたこと。
そして匿名文の気味悪さが、単なる“誰かの恋”ではなく、“近くにいる誰かの観測”としてよりはっきりしてきたこと。
その全部が頭のどこかに残っているせいだと思う。
「透真」
澪菜の声で顔を上げる。
彼女は自分の席から半身だけこちらへ向け、手招きしていた。いつもの気軽な呼び方だ。だが、最近はその“いつも通り”の中に、前とは違う重さがちゃんとある。
「何」
俺が立ち上がる。
「ちょっと廊下」
「今?」
「今」
短い返し。
そこへためらいがないのが、もう文化祭前までの澪菜じゃない。
教室の外へ出ると、昼の廊下はまだ少し明るい。海のほうから来る光が窓に反射して、床へ白く落ちている。二年棟のこの時間帯は、人が多いようでいて、会話の中身までは誰も気にしていない。そういう意味では便利な場所だ。
「で」
俺が聞く。
「何」
「何って、そっちが呼んだんだろ」
「そうだけど」
澪菜は少しだけ笑う。
「なんかさ」
「うん」
「昨日の委員長さんの話、ちょっと残ってて」
そこか、と思う。
正直、俺の中にも残っていた。
「結構機嫌悪かったって言ってたじゃん」
「言った」
「それ、自分で言うって、だいぶすごいね」
「そうだな」
澪菜は窓の外へちらりと目をやる。
「私、あの人のこと、ちゃんとしてる人だと思ってた」
「今もそうだろ」
「今もそうだよ」
澪菜は言う。
「でも、“ちゃんとしてるから自分のそういうとこ出さない人”だとも思ってた」
「……」
「だから、ちょっとびっくりした」
その言い方には、悪意がない。
むしろ少しだけ、認めるみたいな響きがある。
「怖くなかった?」
俺が聞く。
「何が」
「その、相手として」
澪菜は俺の顔を見て、一瞬だけ目を細めた。
「うわ」
「何だよ」
「今の聞き方、透真ちょっと変わった」
「そうか?」
「前なら“嫌だった?”って聞いてた」
「……」
「今のは、“怖くなかった?”」
そこを拾うのか、と少し驚く。
でもたしかに、自分でも少し言い方が違うと思った。
「で」
俺が促す。
「怖かった?」
「ちょっとだけ」
澪菜は正直に言った。
「でも」
「でも?」
「それより“ちゃんと前にいるな”って思った」
昨日の坂道と似た言い方だった。
相手。
前にいる。
引いていない。
澪菜はもう、そういう見方で人を見始めている。自分を脇へ置くのではなく、同じ場所に立つ人間として。
「でね」
澪菜が続ける。
「それ見てたら、あの匿名文のこと余計に腹立ってきた」
「何で」
「だってさ」
そこで澪菜は、少しだけ口を結んだ。
「“応援ばかりしてる子ほど、自分の番で黙る”とか」
「……」
「“近い人ほど最後まで名前をつけてもらえない”とか」
「うん」
「そういうの、たしかにちょっと図星ではあるじゃん」
認めるのが早い。
でも、そこへ変な自虐が混ざっていない。
「でも」
澪菜は言う。
「だからって、誰かに先回りして言われたくない」
その声は、前よりはっきりしていた。
「先回り」
俺が繰り返す。
「うん」
「分かったふうに?」
「そう」
澪菜は壁に軽く背を預ける。
「前の私なら」
静かに言う。
「“うわ、何それきもーい”って笑って流したと思う」
「うん」
「でも今は、そうしたくない」
それはたぶん、かなり大きな変化なのだろう。
「何で」
俺が聞く。
「だって、自分で言えるかもしれないから」
短い一言なのに、胸に残る。
「……」
「観測されるくらいなら、自分で言いたい」
澪菜は続ける。
「そのほうが怖いけど、たぶんまし」
風が窓の隙間を鳴らした。
昼休みの廊下。明るいのに、そこだけ少し静かだった。
「それ」
俺が言う。
「かなり前に出るってことだろ」
「うん」
「大丈夫か」
「分かんない」
澪菜は少しだけ笑う。
「でもね、透真」
「何」
「もう“分かんないからやめとこ”のほうが嫌なんだよ」
その言い方に、文化祭前からここまでの全部が繋がる感じがした。
応援側の席。
平気な顔の練習。
先に引く癖。
見つけてほしかったこと。
幼なじみだけの場所には戻りたくないこと。
全部、同じ方向を向いている。
◇
その日の放課後、資料整理室では昨日の続きで匿名文の出どころ整理をしていた。
星彩、結月、玻乃先輩、俺。
しばらくして、澪菜も合流した。
「おつかれ」
玻乃先輩が言う。
「おつかれさまです」
澪菜が答える。
「今日はちゃんと来たね」
「そりゃ来るよ」
「何で?」
先輩がわざとらしく首を傾げる。
澪菜は少しだけ間を置いて、それから答えた。
「見るだけの席に戻りたくないから」
部屋が少しだけ静かになる。
玻乃先輩が「うわ」と小さく笑う。
星彩は目を上げて澪菜を見る。
結月は何も言わないが、たぶん今の言葉をかなりまっすぐ受け取っている。
「名塚さん」
星彩が静かに言う。
「それは」
「うん」
「かなり大事なことを言っている自覚、ありますか」
「あるよ」
澪菜は答える。
「だから言った」
その返し方に、少しだけ空気が変わる。
冗談じゃない言葉を、冗談の顔に逃がさず置いた人間の空気だ。
玻乃先輩が頬杖をついたまま言う。
「いいねえ」
「何がですか」
俺が聞く。
「ちゃんと“自分の言葉”に戻ってる感じ」
「……」
「観測文ってさ、結局“私の言葉です”って言えない人の逃げでもあるじゃん」
「うん」
澪菜が頷く。
「だから今の、だいぶ対抗手段として正しい」
結月も静かにうなずいた。
「はい」
「うん」
「“分かったみたいな文”に腹が立つなら、自分で話すしかないので」
それはたしかに、その通りだ。
「でも」
星彩が少しだけ視線を伏せる。
「それは、かなり勇気が要ると思います」
「そうだよ」
澪菜は苦笑する。
「だから今も、結構怖い」
「……」
「でも、文化祭前までの私なら、たぶん言わなかった」
その言葉に、星彩の目が少し揺れる。
「そうですね」
小さく言う。
「たぶん、わたしも」
その“わたしも”には、昨日の嫉妬の話が含まれているのだろう。
文化祭前の星彩なら、“機嫌が悪い”なんて言わなかった。
文化祭前の澪菜なら、“見るだけの席に戻りたくない”とは言わなかった。
文化祭前の俺なら、そこまでの変化を“今ここで大事なもの”として扱えていなかったかもしれない。
匿名文の嫌さが、逆に少しだけ全員の立ち位置をはっきりさせている。皮肉な話だ。
◇
作業の途中で、玻乃先輩が新しく見つかった一枚を読み上げた。
『言える人より、言えない人のほうを見てしまう癖がある。』
その一文に、俺は少しだけ視線を逸らした。
結月がそれを見て、静かに言う。
「先輩」
「何」
「今の、かなり嫌そうでした」
「嫌だよ」
「何で」
少し考えてから答える。
「それ、分かりすぎるから」
玻乃先輩が小さく笑う。
「ほらね」
と言う。
「こういうふうに“図星”を材料にしてくるのが嫌なんだよ」
「……」
「後輩くん、自分で認め始めてるじゃん。言えない人のほうを見てしまうって」
たしかにそうだ。
完璧そうなのに崩れる人。
明るいのに先に引く人。
冗談で逃がす人。
静かに怒る人。
そういう“言えない手前”ばかりを、俺は見つけてきた。
「でも」
澪菜がそこで言う。
「それって、悪いことじゃなくない?」
「何が」
俺が聞く。
「言えない人のほう見ちゃうの」
星彩も、それに小さくうなずいた。
「わたしもそう思います」
静かな声。
「問題は、そのあとです」
「……」
「見つけたこと自体じゃなく、見つけたあとに相手の言葉を奪うかどうか」
昨日までの話が、そこへ戻る。
見ること。
気づくこと。
そして、代わりに説明しないこと。
「だから」
澪菜が言う。
「観測されるくらいなら、自分で言いたいんだよ」
昼休みに聞いたばかりの言葉だった。
でも今、ここで改めて聞くと少し違う。
さっきは俺へ向けた本音だった。
今はこの部屋全体への宣言みたいな響きがある。
「私」
澪菜は続ける。
「前まで、見るだけの席にちょっと甘えてたと思う」
「……」
「自分では前に出ないで、でも分かってほしい、みたいな」
「うん」
「でも、それって結局、誰かが勝手に私のことを文章にしても、どこかで文句言いきれないじゃん」
そのロジックは、妙に鋭かった。
自分で言わないでいる限り、他人に“先回り”される余地がある。
だから完全に反発しきれない。
もちろん、それでも観測文が卑怯であることは変わらない。
でも、自分の側が何も言わないままでいることが、どこかでその余地を残している。
「だから」
澪菜は俺を見る。
「今度はちゃんと聞いてよ」
昼休みの言葉が、形を変えてここへ戻ってきた。
見ているだけじゃなく、自分で言いたい。
だから、ちゃんと聞いてほしい。
そのまっすぐさに、少しだけ呼吸が浅くなる。
「……聞く」
俺は答える。
「うん」
澪菜が頷く。
「今度は最後まで」
結月がそのやり取りを見て、ほんの少しだけ目を細めた。
玻乃先輩は面白がる手前で止めている顔。
星彩は静かに視線を落としていたが、前みたいに壁を作る空気ではなかった。
たぶん全員、この言葉の重さをそれぞれの場所から理解しているのだ。
◇
日が暮れてきた頃、作業はひとまず切り上げになった。
新しく見つかった匿名文は三枚。
出どころ不明のものが一つ、旧文集から紛れ込んだらしいものが一つ、文化祭記録箱から出たものが一つ。
数は少ない。だが、視点の癖はますますはっきりしてきた。
誰か一人の恋ではない。
近くで見ている。
でも自分の言葉としては入ってこない。
見るだけの席へ逃げたまま、“分かってる”顔をして置いていく。
その嫌さに対して、今日は澪菜がはっきり前へ出た。
観測されるくらいなら、自分で言いたい。
それはたぶん、この章に入ってからの一番大きな変化のひとつだった。
帰り際、昇降口で星彩が澪菜に言った。
「名塚さん」
「何?」
「今日の話」
「うん」
「……良かったと思います」
澪菜が少しだけ驚いた顔をする。
「え、褒めてる?」
「はい」
「珍しい」
「必要な評価はします」
「それ、便利な言い方だよね」
少しだけ笑いが起きる。
文化祭前なら、この二人がこういう温度で言葉を交わすことは、たぶんなかった。
でも今は違う。
互いの立場を完全に好きにはなれなくても、少なくとも“ちゃんと前に出たこと”については認め合える。
それもまた、匿名文の嫌さが逆説的に浮かび上がらせたものかもしれない。
◇
坂道を下りながら、俺は今日一日のことを反芻していた。
見るだけの席に戻りたくない。
観測されるくらいなら、自分で言いたい。
今度はちゃんと最後まで聞いてよ。
澪菜の言葉は、どれも以前よりずっと自分のものになっていた。
誰かに見つけられるのを待つのではなく、自分で前へ出す言葉だ。
スマホが震えた。
澪菜からだった。
『今日の私、だいぶ頑張ったと思う』
短い文。
でも、その短さの中に、少しだけ照れと少しだけ確かめたい気持ちが混ざっている。
『かなり』
と返す。
すぐに既読がついて、
『でしょ』
と返ってきた。
少しだけ笑う。
前よりずっと自然だ。
でも、その自然さは“何もなかった頃”の自然ではない。
ちゃんと一度気持ちが表へ出て、そのあとに選ばれた自然さだ。
坂の途中で立ち止まり、海のほうを見る。
もう暗い。
風だけが少し強い。
幼なじみは、観測されるくらいなら自分で言いたい。
その覚悟が、今日、はっきり言葉になった。
だからたぶん、この先はもう“近いから今さら”で戻せない。
それでいいのだと思った。




