第二十五話 過去の文集は、今の気持ちの逃げ道になる
過去というのは、便利な隠れ場所だ。
昔のことです。前からあった言葉です。当時の誰かが書いたものです。そういう顔をしてしまえば、今この瞬間の責任を少しだけ薄くできる。自分が書いたのだとしても、“今の自分”の言葉じゃないふりができる。まっすぐ出すには重すぎる感情を、時間の奥へ押し込んだまま差し出せる。
だから、言えない人は過去を使う。
好きだと言えない。怒っていると言えない。見ていたと言えない。だから、昔からそこにあったみたいな紙の匂いを借りる。古い文集、未掲載原稿、誰のものか分からないメモ。そのどれかへ、自分の今を少しずつ混ぜ込んでいく。
卑怯だ。
でもたぶん、切実でもある。
◇
月曜の放課後、旧校舎の保管庫はまた少しだけ埃っぽかった。
先週から何度も出入りしているせいで、最初ほどの“開かずの箱”感はなくなってきたが、それでも扉を開けるたび、時間の止まった場所に入る感覚はある。古い紙の匂い、湿った木の棚、箱に書かれた年号、そして「あとで整理」のまま何年も経った気配。
俺たちはまた全員集まっていた。
俺、澪菜、星彩、結月、玻乃先輩。
机代わりに使っている古い長机の上には、今日追加で持ち出した資料箱が三つ並んでいる。
「今回の対象は」
星彩が手元のメモを見ながら言う。
「旧文集の未採用原稿箱、校内新聞の投書控え、文化祭実行委員の過年度記録」
「やっぱり地味だなあ」
澪菜が言う。
「でも、こういうの地味なところから当たり出るんだよ」
玻乃先輩が笑う。
「知ってる」
澪菜が返す。
「だから来てる」
その返しに少しだけ笑いが起きる。
でも空気は軽くない。
最近見つかっている匿名文が、単なる恋文ではなく“観測文”だと分かってから、みんなの中にある嫌さは前よりはっきりしていた。
それが誰か一人の「好きです」なら、まだまっすぐだ。
でも、近くで見ていた誰かが、過去の紙に今の感情を紛れ込ませて置いていくのは、まっすぐじゃない。
しかも、それが校内のあちこちに落ちている。
「先輩」
結月が言う。
「今日は“どの箱に、どういう種類が多いか”を先に見たほうがいいです」
「出どころを絞る?」
俺が聞く。
「はい」
「“誰が書いたか”じゃなくて?」
澪菜が言う。
「まだそこへ行くのは早いです」
結月は静かに答える。
「まず“どこを経由すると、今の気持ちを過去へ逃がしやすいか”を見るべきなので」
その言い方に、星彩が小さくうなずいた。
「そうですね」
と言う。
「旧文集なら“前からあった文章”の顔がしやすい。新聞部投書なら“誰かの意見”に見せられる。文化祭記録なら“行事の余韻”に紛れ込ませられる」
「つまり」
玻乃先輩が箱を軽く叩く。
「全部、“今の言葉”として言わなくて済む逃げ道ってことだね」
「はい」
結月が頷く。
「そうです」
俺はその言葉を頭の中で反芻した。
今の言葉として言わなくて済む逃げ道。
それはたぶん、この匿名文の嫌さをもっとも正確に言っている。
自分の気持ちを、自分のものとして前へ出さない。代わりに、過去にあった紙の顔を借りる。すると、責任が少しぼやける。
でも、そのぶんだけ嫌なものが残る。
◇
作業は自然と二手に分かれた。
俺と星彩は旧文集と未採用原稿の箱。
澪菜と玻乃先輩は文化祭記録。
結月は新聞部投書控えと図書室経由の廃棄前ファイル。
この組み合わせに特別な意味がないとは言い切れない。
ただ、今の俺には、それを過剰に意味づけしないほうがいいとも分かっていた。
長机の上で、俺と星彩は古い文集の綴じ紐をほどいていく。
「これ」
俺が言う。
「思ってたより残ってますね」
「ええ」
星彩がページをめくりながら答える。
「学校という場所は、紙だけは無駄に残すので」
「ひどい言い方だな」
「事実です」
文化祭前までの星彩なら、こういう言い方にももう少し優等生っぽい角をつけていた気がする。今は少し違う。正しさを保ったまま、前より自分の本音の温度を隠さない。
しばらく無言でページをめくる。
感想文。俳句。文化祭特集。匿名投稿。未採用原稿。
その中に、時々妙に今の匿名文と響きの近い断片が混じっていた。
『終わったあとにだけ、やさしく見える人がいる。』
『言えないことを、感想文のかたちで逃がした。』
『見ているだけで参加した気になるのは、少しずるい。』
「……」
「何かありました?」
星彩が聞く。
「これ」
紙を差し出す。
「“言えないことを、感想文のかたちで逃がした”って」
星彩は目を通し、ほんの少しだけ眉を寄せた。
「露骨ですね」
「うん」
「しかもこれ、元の文脈では文化祭準備の感想として載るつもりだった原稿っぽい」
「そう見える」
「でも、内容の芯は行事のことではない」
「たぶん」
星彩はその紙を机へ戻し、少しだけ考えるように言った。
「前に乙部先輩が持ってきた未掲載原稿も、同じでした」
「うん」
「行事の顔をしているのに、別のことを残している」
風が窓の隙間を鳴らす。
「柊木さん」
「はい」
「こういうの見てると」
「ええ」
「やっぱり、文化祭の匿名文って“過去の文章を借りてる”だけじゃない気がする」
星彩はすぐに反応した。
「借りている、ではなく」
「“下敷きにしてる”」
「……」
「昔からある“逃がし方”を、今の観測に使ってる感じ」
言いながら、自分でもそれがかなり近い気がした。
過去の文章をそのまま真似ているわけじゃない。
でも、“感想文の顔をした個人的な残り方”とか、“文集の匿名欄へ本音を逃がすやり方”とか、そういう既存の形式を下敷きにしている。
だから文体は違っても、匂いが似る。
「はい」
星彩が静かに言う。
「たぶんそれです」
「やっぱり」
「つまり犯人は」
少しだけ言葉を区切って、
「古い資料に触れられる立場で、なおかつ“今ここで自分の言葉としては出したくない”人です」
そこへ、澪菜の声が飛んできた。
「ねえ、こっちにも出た」
長机の向こうで、澪菜が文化祭記録箱から一枚の紙を引っ張り出している。玻乃先輩がその横で、興味深そうに覗き込んでいた。
全員そちらへ寄る。
紙は文化祭記録の余白に挟まれていたメモらしい。折り目があり、端が少し擦れている。
『好きになった瞬間じゃなく、
言えないまま終わったあとばかり覚えている。』
「うわ」
澪菜が言う。
「また“終わったあと”だ」
「しかも」
玻乃先輩が目を細める。
「これ、前に私が拾ってた未掲載原稿の匂いに近い」
その一言で、全員の意識が少し引き締まる。
「文体?」
俺が聞く。
「文体そのものじゃない」
先輩は答える。
「でも、“行事そのものより、終わったあとに残った気持ちを書く”癖が似てる」
「……」
「だからやっぱり、コピーじゃなくて、型を借りてるんだよ」
結月が静かに言った。
「過去の文集は、今の気持ちの逃げ道になる」
その表現が、あまりにもぴったりで、一瞬誰も動けなかった。
「それ」
澪菜が小さく言う。
「めちゃくちゃ嫌なタイトルみたい」
「でも、かなり正しいです」
星彩が答える。
結月は続ける。
「自分の今の言葉として出すには重すぎる」
「……」
「でも、何もなかったことにするのも無理」
「うん」
俺が言う。
「だから、“前からこういう言葉はありました”の顔をする場所へ逃がす」
「はい」
玻乃先輩が小さく息をついた。
「最悪だねえ」
「何が」
澪菜が聞く。
「分かるから」
その一言に、誰もすぐには返事をしない。
分かる。
誰もが少しずつ、その逃がし方の心理を理解してしまう。
だからこそ余計に嫌なのだ。
◇
そこから先は、かなり本格的な整理になった。
旧文集に挟まっていたもの。
文化祭記録箱にあったもの。
新聞部控えに紛れていたもの。
図書室の廃棄前ファイルから出たもの。
それぞれを並べてみると、単なる偶然ではないことがもっと明確になった。
「紙の選び方も似てる」
結月が言う。
「どういう」
俺が聞く。
「“古く見えるけど古すぎない”ものばかり使ってます」
「……」
「何十年も前の紙だと逆に不自然です。数年分くらいの“まだ校内に残っていそう”なものを選んでいる」
「じゃあ」
澪菜が言う。
「校内の資料保管ルール、ちょっと知ってる人?」
「はい」
結月が頷く。
「それなりに」
星彩が補足する。
「そして、文章そのものも」
「うん」
「古い文体を完全再現するのではなく、“昔っぽい余白”だけ借りてる」
「……」
「だから読む側が、“前からあったかも”と勘違いしやすい」
俺は机に並んだ紙を見た。
古く見える。
でも古すぎない。
昔っぽい。
でも今の匂いがある。
まるで、自分の今の気持ちを“今ここ”から少しだけずらして置くために、ちょうどいい距離を探しているみたいだった。
「これ、たぶん」
俺が言う。
「犯人、最初から“バレない”より“古く見える”を優先してる」
「はい」
結月が即答する。
「だから厄介です」
「普通なら隠すほうへ行くのに」
「この人は」
星彩が静かに言う。
「隠すというより、“責任の所在をぼかす”ほうへ行っている」
その違いは大きい。
完全に隠れたいなら、もっと痕跡を消す。
でもこの匿名文は、むしろ見つけてほしい気配がある。
ただし、自分の言葉として真正面から受け止められる形ではない。
「つまり」
玻乃先輩がまとめる。
「校内の旧資料に触れられる立場で」
「うん」
「私たちをかなり近くで見ていて」
「うん」
「でも“私はこう思ってる”じゃなく、“こういう言葉がありました”の顔で置きたい人」
「最悪」
澪菜が言う。
「かなり」
結月が静かに同意する。
そのあと、ふいに澪菜が紙を一枚指で押さえた。
『近い人ほど、変わったことをなかったことにしたがる。』
「ねえ」
澪菜が言う。
「これさ」
「うん」
「前の私だったら、こういうのにちょっと負けてたかも」
「負ける?」
俺が聞く。
「“そっか、やっぱり私はそういう役なんだ”って、勝手に納得してたかもってこと」
その言い方に、胸が少しざわつく。
「でも今は?」
玻乃先輩が聞く。
「今はむかつく」
澪菜は即答した。
「だって、勝手に役決めんなって感じだし」
星彩が、その言葉に小さくうなずいた。
「はい」
「うん」
「役割で処理されるの、嫌ですよね」
その同意の仕方が、前より自然だ。
文化祭を越えて、この二人は互いの立ち位置を少し違う目で見るようになっているのかもしれない。
◇
作業が一段落した頃、外はもうかなり暗くなっていた。
保管庫の中だけが、蛍光灯の白さでかろうじて昼みたいに見える。長机の上には、分類された紙の束がいくつも並んでいた。
旧文集系。
文化祭記録系。
投書・投稿系。
出どころ曖昧だが形式だけ借りた系。
「ここまでで」
星彩が言う。
「かなり絞れましたね」
「うん」
俺は頷く。
「犯人は、たぶん」
少しだけ言葉を選ぶ。
「古い資料に触れられる立場」
「はい」
結月が言う。
「私たちを近くで見ている」
「はい」
「しかも、“今の言葉”としては出せない」
「ええ」
そこで玻乃先輩が、机に頬杖をついたまま言う。
「つまり、だいぶじれったい人だね」
「言い方」
澪菜が苦笑する。
「でも、まあ」
先輩は笑う。
「この作品らしくはある」
「自分で言うなって」
俺が言う。
「でも後輩くん」
「何」
「このじれったさに、少し自分も刺されてる顔してる」
返事に困る。
図星だからだ。
まっすぐ言えない。
でもなかったことにもしたくない。
だから少しだけ違う形へ逃がす。
それが卑怯であると同時に、今の自分たちの周囲にある気持ちの遅れ方とも、どこかでつながってしまう。
「先輩」
結月が俺を見る。
「今、その顔で黙ると、また“見ているだけの席”へ戻ります」
きつい。
だが必要な一言だった。
「……戻らないよ」
俺は言った。
「うん」
結月が頷く。
「それなら大丈夫です」
星彩が少しだけ視線を上げる。
「鷹取くん」
「何」
「次、どうしますか」
もう“何が起きているか”を整理する段階は越えた。
次は、この逃げ道をどう塞ぐかだ。
俺は机の上の紙束を見た。
「出どころをもっと絞る」
「はい」
「でも、そのあとも“犯人探し”にしすぎない」
「……」
「言葉を返す形で止めたい」
その答えに、結月がほんの少しだけ目を細めた。
「はい」
静かに言う。
「それなら、たぶん間違ってないです」
星彩もうなずく。
「わたしもそう思います」
澪菜は肩の力を抜いて笑った。
「じゃ、まだちょっと面倒だけど、方向は見えたね」
「そうだな」
玻乃先輩だけが、少しだけ遠い顔をしていた。
「先輩?」
俺が聞く。
「ん?」
「どうした」
「いや」
先輩は小さく笑う。
「昔の原稿とか文集とかってさ」
「うん」
「本来なら、もう終わった言葉の場所じゃん」
「……」
「でもそこが、今の気持ちの逃げ道になるの、ちょっと怖いなって」
その感想は、今日一日のまとめとしてかなり正しかった。
終わったはずの言葉。
使われなかった原稿。
閉じた文集。
片づいたはずの文化祭記録。
そこへ、まだ終わっていない今の感情が逃げ込む。
過去の文集は、今の気持ちの逃げ道になる。
それは嫌で、でも妙に納得してしまう真実だった。
◇
保管庫を出るとき、廊下の窓から夜の海が少し見えた。
黒くて、遠くて、でも確かにそこにある。
文化祭前みたいな派手な事件はない。
でも今のほうが、ずっと静かに深いところへ入っている気がした。
「透真」
澪菜が帰り際に小さく呼ぶ。
「何」
「今日さ」
「うん」
「こういうの見て、前より嫌だった」
「匿名文?」
「うん」
「そっか」
澪菜は少しだけ考えてから言う。
「たぶん、“自分で言いたい”って思い始めたからだと思う」
その言葉は、かなりまっすぐだった。
「観測されるくらいなら、自分で言う」
「……」
「前より、そういう気持ちがあるから、余計むかつく」
俺は少しだけ頷く。
「分かる」
「ほんとに?」
「ほんとに」
「じゃあ、よし」
その“よし”は、自分を納得させるみたいでもあった。
坂道へ向かう途中、星彩が俺の横へ並ぶ。
「今日の方針」
静かに言う。
「ありがとう」
「何が」
「“犯人探し”より先に、“言葉を返す形”で止めたいって言ったことです」
その礼の言葉は、予想していなかった。
「だって」
俺が言う。
「ここで暴いたら、また誰かの言葉が雑に消費されるだけだろ」
「はい」
星彩は小さくうなずく。
「だから、あれでよかったと思います」
文化祭前の彼女なら、もっと“正しい処理”の言葉でまとめたかもしれない。今は違う。言葉そのものへの嫌悪と、それをどう守りたいかが、前よりずっと個人的な温度を持っている。
少し前を歩く結月と玻乃先輩の背中を見る。
全員、前へ進んでいるのかもしれない。
答えには遠い。
でも少なくとも、もう“なかったこと”に戻るほうへは進んでいない。
海の匂いが少し強くなる。
校門を出ると、夜の空気が思ったより冷たかった。
過去の文集は、今の気持ちの逃げ道になる。
だからたぶん、この物語はまだしばらく、過去に紛れた今の言葉を拾っていくことになるのだろう。
それをどう返すのか。
どう止めるのか。
そして、自分の言葉としてどう持つのか。
坂の上へ向かいながら、俺はそのことを考えていた。




