第二十三話 正しい人は、嫉妬した夜のことを記録に残さない
正しい人は、感情に順番をつけようとする。
今これは言うべきか。
言わないほうが場は荒れないか。
自分の機嫌の悪さは、ほんとうに表へ出していい種類のものか。
相手を困らせるだけなら黙っていたほうがいいのではないか。
そうやって一つずつ仕分けていく。
怒りは理由があるから通す。
疲れは自分で処理する。
嫉妬は、だいたい最後まで保留になる。
理由が説明しにくいからだ。
しかも説明できたとして、それが“正しい訴え”になるとは限らない。
だから正しい人は、嫉妬だけをいちばん後ろへ回す。
後ろへ回して、見ないふりをして、たまに自分でもどこへ置いたか分からなくなる。
柊木星彩は、たぶんそういう人だ。
◇
金曜日の放課後、校内には週末前特有の緩い空気が流れていた。
文化祭の後片づけもようやくほとんど終わり、教室の後ろに残っていた段ボールや飾りも片づきつつある。けれど、人の気持ちのほうはそう簡単に整理されない。むしろ行事が終わって静かになったぶん、前より見えやすくなっている気さえする。
俺は生活記録同好会の資料整理室で、昨日までに見つかった匿名文のコピーを再整理していた。
観測文。
誰か一人の恋ではなく、誰かたちの“遅れ”を見て書かれた短文。
その嫌さは前よりはっきりしている。見つけたこと自体ではなく、“本人より先に説明の形へされる”感じ。そこが、全員に少しずつ刺さっていた。
扉が開いた。
「失礼します」
柊木星彩だった。
今日の彼女は、文化祭前の緊張感とも、文化祭直後の疲れとも少し違う。整っているのに、どこか気持ちの置き場所を探している顔だ。
「お疲れさまです」
俺が言う。
「お疲れさまです」
星彩は机の向かいに立ち、コピーの束へ視線を落とした。
「昨日の続きですか」
「まあ」
「そうですか」
短い会話のあと、少し沈黙が落ちる。
前なら、この沈黙をどうにか埋めようとしていたかもしれない。
今は、少し待つ。
この人は、整うまでに少し時間がいることがあるからだ。
「……」
「何かありました?」
結局、聞いてしまう。
「どうしてそう思うんですか」
「顔」
「便利ですね、その言い方」
「便利なので」
そこで、ほんの少しだけ星彩の口元が緩んだ。
でもすぐに戻る。
「少しだけ」
彼女は言った。
「落ち着かないことがありました」
「少しだけ?」
「……」
「今の間、だいぶありましたね」
「あなた」
星彩は低く言う。
「最近、そういうところを誤魔化す気がなくなりましたね」
「前よりは」
「不本意です」
そう言いながらも、真正面から怒る感じではない。
「何があったんですか」
もう一度聞くと、星彩は少し考えるように視線を落とした。
「今日の昼休み」
やがて言う。
「名塚さんと、あなたが話していたでしょう」
「話してた」
「廊下の窓際で」
「うん」
「……」
「それ?」
「それです」
あまりにも率直で、一瞬返事に詰まる。
「何かまずかった?」
「まずい、というか」
星彩はわずかに眉を寄せる。
「自然だったので」
「自然?」
「はい」
「何が」
そこで星彩は本当に少しだけ困った顔をした。
完璧な顔をしている人が、言葉を選びきれないで立ち止まる瞬間。
たぶん俺は、そういうのを見つけるのがよくないくらいに得意なのだろう。
「名塚さんが」
静かに言う。
「あなたを呼ぶのも」
「うん」
「あなたが、名塚さんの声にすぐ反応するのも」
「……」
「全部、自然でした」
ようやく意味が分かった。
文化祭の前なら、それを見て見ぬふりをしたかもしれない。
今はできない。
「それで」
俺が言う。
「機嫌悪くなった?」
星彩の目が、ほんの少しだけ止まる。
「……」
「今の沈黙、だいぶ答えでは?」
「答えです」
小さく言った。
「かなり」
このところ、彼女は認め方が前よりずっと素直だ。
素直だからこそ、痛い。
「嫉妬?」
俺が聞く。
「はい」
即答だった。
「はっきりだな」
「今日は、言葉を後ろへ回しすぎない練習をしているので」
その返しに、少しだけ笑いそうになる。
「何ですか」
「いや」
「今、少し笑いましたね」
「進歩だなと思って」
星彩は小さく息を吐いた。
「自分でもそう思います」
と言う。
「思いますが」
「が?」
「進歩したぶん、恥ずかしいです」
その言い方が妙に人間らしくて、また胸のどこかが熱くなる。
◇
そこで扉が半分開いた。
「透真ー」
澪菜の声だ。
「ちょっとだけ」
顔を出した澪菜は、手にプリントを持っていた。今日も二年三組の雑務をいろいろ押しつけられているらしい。
「あ」
こちらを見て少しだけ目を瞬く。
「委員長さんもいた」
「います」
星彩が静かに答える。
「えーと、話の途中だった?」
「少し」
俺が言う。
「ごめん、じゃああとでも」
澪菜が引こうとした、その瞬間。
「いえ」
星彩が言った。
「用件があるなら先にどうぞ」
その声は整っている。
でも整いすぎている。
さっきより一段、丁寧な声だ。
「いや、ほんとに急ぎじゃ」
「どうぞ」
星彩は繰り返した。
「わたしは大丈夫ですので」
その“大丈夫”が、今日はだいぶ危ない。
たぶん澪菜も気づいた。
でも、ここで変に気を回しても余計にこじれると分かっているのだろう。少しだけ躊躇ってから、プリントを差し出した。
「じゃあ、これだけ」
「何」
「文化祭の会計の最終確認。私じゃよく分かんなくて」
「今?」
「五分で終わる」
俺がプリントを受け取る。
内容自体は大したことではない。支出と収入の突き合わせを最後に一度見てほしいだけだ。
「すぐ戻る」
俺が星彩に言うと、彼女は少しだけ視線を上げた。
「ええ」
静かな声。
「分かりました」
それで澪菜と一緒に廊下へ出る。
資料整理室の扉が閉まる。
「……やばかった?」
小声で澪菜が言う。
「ちょっと」
「だよね」
歩きながら、澪菜は小さく息をついた。
「私、空気読んで消えたほうがよかった?」
「たぶん今のは、どっちでも正解じゃない」
「うわ最悪」
「でもプリントの確認は本当にやる」
「それは助かる」
窓際で会計表を確認する。
数字そのものはすぐ終わった。だが、やっぱり澪菜は気にしている顔だった。
「ねえ」
澪菜が言う。
「委員長さん」
「うん」
「今、結構機嫌悪い?」
「……うん」
「そっか」
少し黙ってから、澪菜は苦笑する。
「なんかさ」
「何」
「前なら、ちょっとびびってたかも」
「今は?」
「今は」
視線をプリントへ落としながら言う。
「“ちゃんと相手だな”って思う」
その言い方は、文化祭後の澪菜らしかった。
自分を脇へ置くのではなく、ちゃんと前へ出た上での言葉だ。
「ありがと」
俺が言う。
「何が」
「変に引かないでくれて」
「引くだけの席は、もうやめたので」
そう言って澪菜は、会計表を受け取った。
「じゃ、戻りな」
「うん」
「ちゃんと聞いてあげてよ」
その言い方が、少しだけやさしくて、少しだけ切なかった。
◇
資料整理室へ戻ると、星彩は机の上の紙をきっちり揃え終えていた。
そういうところが、やっぱりこの人だと思う。
機嫌が悪くても、感情が揺れても、手元だけは整える。整えずにいられない。
「……お待たせ」
俺が言う。
「いえ」
星彩は答える。
「確認は終わりましたか」
「終わった」
「そうですか」
声は丁寧だ。
でも、丁寧すぎる。
「柊木さん」
「何でしょう」
「今、だいぶ壁ありますね」
また少し沈黙が落ちる。
「あなた」
少し低い声で言う。
「本当に、最近そのへんの遠慮がありませんね」
「だって分かる」
「分かるなら、放っておくことも覚えてください」
その返しには、少しだけ棘があった。
でも、それもまた感情だ。
今の星彩は、前みたいに全部を正しい言葉へ整えきれない。
「放っておいたほうがいい?」
俺が聞く。
「……」
「そこ、選ばせるなよ」
ぽつりと本音みたいな声が落ちる。
その一言で、空気が変わった。
星彩はすぐに自分で気づいたらしく、目を伏せる。
「すみません」
「いや」
「今のは、だいぶ」
「うん」
「機嫌が悪い人の言い方でした」
「そうだな」
言ってから、少しだけ笑う。
今のは責めるためではなく、やっと彼女の言葉の温度へこちらも近づけた感じがしたからだ。
「……何ですか」
「いや」
「今、面白がりました?」
「違う」
「違わない顔です」
「だって」
一度息をついてから言う。
「今のほうが、柊木さんの言葉っぽい」
星彩は少しだけ目を見開いた。
「意味が分かりません」
「前のあんたなら、“放っておいてください”ってきれいに言った」
「……」
「でも今は、“放っておいたほうがいい?”じゃなくて、“選ばせるな”が先に出た」
数秒、星彩は黙った。
それから、ほんのわずかに視線を逸らす。
「……だいぶ恥ずかしいです」
「知ってる」
「それを言われるのも不本意です」
「それも知ってる」
そこでようやく、星彩は小さく息を漏らした。
「文化祭の前だったら」
静かな声で言う。
「今のは絶対に言いませんでした」
「うん」
「言ったら、何かが壊れる気がしていたので」
「今は?」
星彩は机の上の紙へ視線を落とす。
「今は」
少しだけ考えてから言った。
「壊れない保証はないです」
「……」
「でも、言わないで整えているだけだと、たぶん自分のほうが先に疲れます」
その言い方が、文化祭の夜に一度順番を間違えた人の言葉だった。
「だから」
星彩は続ける。
「今は、少し機嫌が悪い時くらい、機嫌が悪いと言う練習中です」
それはたぶん、かなり大きな変化だった。
正しい人は、嫉妬した夜のことを記録に残さない。
でも、この人は今、その嫉妬を完全には消さず、自分の言葉で持とうとしている。
「……で」
俺が聞く。
「まだ機嫌悪い?」
星彩は少しだけ考える顔をしてから、正直に言った。
「はい」
「かなり?」
「さっきよりは」
「そっか」
「でも」
一拍置いて、
「戻ってきたので、少しはマシです」
その言葉に、思わず何か返しかけて、やめる。
今のはたぶん、軽く受け流さないほうがいい種類の言葉だった。
「分かった」
結局そう言う。
「それならよかった」
星彩は何も言わなかったが、少しだけ肩の力を抜いた。
◇
夕方近く、作業を終えて資料整理室を出ると、廊下の窓が赤くなっていた。
海のほうから差す光が長く伸びて、校舎の床に薄い色を落としている。
昇降口まで一緒に歩くことになった。
途中まで、ほとんど会話はない。
でも沈黙は重くなかった。
「鷹取くん」
「何」
「今日のこと」
「うん」
「できれば、記録には残さないでください」
何のことかは、すぐ分かった。
嫉妬のことだ。
「書かないよ」
俺は言う。
「当然」
「ありがとうございます」
「でも」
「何でしょう」
「自分の中では、少し残しておいたほうがいいんじゃない」
星彩は足を少しだけ緩めた。
「自分の中で?」
「うん。今日、何で機嫌悪くなったか」
「……」
「そこ、また全部“なかったこと”にすると、たぶん戻る」
廊下の窓から入る夕方の光が、星彩の横顔を少しだけ薄く照らしていた。
やがて彼女は、小さくうなずく。
「そうですね」
静かな声。
「今日は、たぶん記録に残さないといけない日です」
「日記つけるのか」
「そこまではしません」
「だろうな」
「でも」
少しだけ口元をやわらげる。
「覚えておくことくらいは、できると思います」
その答えに、少しだけ安心する。
見つけるだけで満足しない。
見つけたあとにどう持つか。
たぶん今、この人もそれを覚え始めている。
昇降口で別れる直前、星彩がふいに立ち止まった。
「それと」
「うん」
「今日のわたしを見て」
「うん」
「少しでも、面倒だと思いましたか」
その問いは、思っていたよりずっと個人的だった。
「……少しは」
正直に言う。
「そうですか」
「でも」
「でも?」
「面倒だから嫌、ではない」
数秒の沈黙。
それから、星彩は本当に小さく笑った。
「それ」
言う。
「だいぶ、ずるいですね」
「何で」
「面倒だと認めるのに、退かないので」
それはたぶん、褒め言葉ではない。
でも、拒絶でもなかった。
「今日は」
星彩が言う。
「そのくらいで、許します」
「上からだな」
「今、少し機嫌が戻ってきたので」
そう言って、彼女は小さく会釈し、昇降口の向こうへ消えていった。
◇
帰り道、海の見える坂を一人で上りながら、俺は今日のことを思い返していた。
星彩の嫉妬は、分かりやすいわけじゃない。
でも、隠しきれないところだけ妙にきれいに出る。
言葉が丁寧になりすぎる。
大丈夫です、が少し硬くなる。
視線が一瞬だけ止まる。
そして最後には、自分で“機嫌が悪い”と言う。
完璧な彼女は、嫉妬だけ隠すのがいちばん下手だ。
でもたぶん、それは悪いことじゃない。
感情をなかったことにしないまま持つ練習を、彼女は今ようやく始めているのだろう。
スマホが震えた。
澪菜からだった。
『さっきの委員長さん、どうだった?』
少し考えてから返す。
『結構機嫌悪かった』
『でも自分で言ってた』
すぐに既読がつく。
『うわ』
『それはかなり本気だ』
その返しに、少しだけ笑ってしまう。
『たぶんね』
送ると、少し間があってから返ってきた。
『じゃあ透真、ちゃんと受け止めなよ』
『見るだけじゃなくて』
それを読んだ瞬間、また少しだけ足が止まる。
見るだけじゃなくて。
結月にも、澪菜にも、星彩にも、玻乃先輩にも、少しずつ違う形で同じことを言われている気がした。
海の匂いが強くなる。
坂の途中で風が少し冷たくなった。
見つけたあとのこと。
黙ること。
聞くこと。
持つこと。
それを、たぶん今の俺はようやく考え始めている。
だから今日の嫉妬も、ただ“見つけて終わり”にはしたくなかった。
きっとそれは、前の俺とは少し違うところだ。
坂を上りながら、スマホをポケットへしまう。
正しい人は、嫉妬した夜のことを記録に残さない。
でも、今日の星彩は、それを自分の中へ残すと決めた。
そのことを、俺も忘れないでいようと思った。




