表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
23/25

第二十三話 正しい人は、嫉妬した夜のことを記録に残さない

正しい人は、感情に順番をつけようとする。


 今これは言うべきか。

 言わないほうが場は荒れないか。

 自分の機嫌の悪さは、ほんとうに表へ出していい種類のものか。

 相手を困らせるだけなら黙っていたほうがいいのではないか。


 そうやって一つずつ仕分けていく。


 怒りは理由があるから通す。

 疲れは自分で処理する。

 嫉妬は、だいたい最後まで保留になる。


 理由が説明しにくいからだ。

 しかも説明できたとして、それが“正しい訴え”になるとは限らない。


 だから正しい人は、嫉妬だけをいちばん後ろへ回す。


 後ろへ回して、見ないふりをして、たまに自分でもどこへ置いたか分からなくなる。


 柊木星彩は、たぶんそういう人だ。


    ◇


 金曜日の放課後、校内には週末前特有の緩い空気が流れていた。


 文化祭の後片づけもようやくほとんど終わり、教室の後ろに残っていた段ボールや飾りも片づきつつある。けれど、人の気持ちのほうはそう簡単に整理されない。むしろ行事が終わって静かになったぶん、前より見えやすくなっている気さえする。


 俺は生活記録同好会の資料整理室で、昨日までに見つかった匿名文のコピーを再整理していた。


 観測文。

 誰か一人の恋ではなく、誰かたちの“遅れ”を見て書かれた短文。

 その嫌さは前よりはっきりしている。見つけたこと自体ではなく、“本人より先に説明の形へされる”感じ。そこが、全員に少しずつ刺さっていた。


 扉が開いた。


「失礼します」


 柊木星彩だった。


 今日の彼女は、文化祭前の緊張感とも、文化祭直後の疲れとも少し違う。整っているのに、どこか気持ちの置き場所を探している顔だ。


「お疲れさまです」

 俺が言う。

「お疲れさまです」

 星彩は机の向かいに立ち、コピーの束へ視線を落とした。

「昨日の続きですか」

「まあ」

「そうですか」


 短い会話のあと、少し沈黙が落ちる。


 前なら、この沈黙をどうにか埋めようとしていたかもしれない。

 今は、少し待つ。

 この人は、整うまでに少し時間がいることがあるからだ。


「……」

「何かありました?」

 結局、聞いてしまう。

「どうしてそう思うんですか」

「顔」

「便利ですね、その言い方」

「便利なので」

 

 そこで、ほんの少しだけ星彩の口元が緩んだ。


 でもすぐに戻る。


「少しだけ」

 彼女は言った。

「落ち着かないことがありました」

「少しだけ?」

「……」

「今の間、だいぶありましたね」

「あなた」

 星彩は低く言う。

「最近、そういうところを誤魔化す気がなくなりましたね」

「前よりは」

「不本意です」

 

 そう言いながらも、真正面から怒る感じではない。


「何があったんですか」

 もう一度聞くと、星彩は少し考えるように視線を落とした。


「今日の昼休み」

 やがて言う。

「名塚さんと、あなたが話していたでしょう」

「話してた」

「廊下の窓際で」

「うん」

「……」

「それ?」

「それです」

 

 あまりにも率直で、一瞬返事に詰まる。


「何かまずかった?」

「まずい、というか」

 星彩はわずかに眉を寄せる。

「自然だったので」

「自然?」

「はい」

「何が」

 

 そこで星彩は本当に少しだけ困った顔をした。


 完璧な顔をしている人が、言葉を選びきれないで立ち止まる瞬間。

 たぶん俺は、そういうのを見つけるのがよくないくらいに得意なのだろう。


「名塚さんが」

 静かに言う。

「あなたを呼ぶのも」

「うん」

「あなたが、名塚さんの声にすぐ反応するのも」

「……」

「全部、自然でした」

 

 ようやく意味が分かった。


 文化祭の前なら、それを見て見ぬふりをしたかもしれない。

 今はできない。


「それで」

 俺が言う。

「機嫌悪くなった?」

 

 星彩の目が、ほんの少しだけ止まる。


「……」

「今の沈黙、だいぶ答えでは?」

「答えです」

 小さく言った。

「かなり」

 

 このところ、彼女は認め方が前よりずっと素直だ。

 素直だからこそ、痛い。


「嫉妬?」

 俺が聞く。

「はい」

 即答だった。

「はっきりだな」

「今日は、言葉を後ろへ回しすぎない練習をしているので」

 

 その返しに、少しだけ笑いそうになる。


「何ですか」

「いや」

「今、少し笑いましたね」

「進歩だなと思って」

 

 星彩は小さく息を吐いた。


「自分でもそう思います」

 と言う。

「思いますが」

「が?」

「進歩したぶん、恥ずかしいです」

 

 その言い方が妙に人間らしくて、また胸のどこかが熱くなる。


    ◇


 そこで扉が半分開いた。


「透真ー」

 澪菜の声だ。

「ちょっとだけ」

 

 顔を出した澪菜は、手にプリントを持っていた。今日も二年三組の雑務をいろいろ押しつけられているらしい。


「あ」

 こちらを見て少しだけ目を瞬く。

「委員長さんもいた」

「います」

 星彩が静かに答える。

「えーと、話の途中だった?」

「少し」

 俺が言う。

「ごめん、じゃああとでも」

 澪菜が引こうとした、その瞬間。


「いえ」

 星彩が言った。

「用件があるなら先にどうぞ」

 

 その声は整っている。

 でも整いすぎている。

 さっきより一段、丁寧な声だ。


「いや、ほんとに急ぎじゃ」

「どうぞ」

 星彩は繰り返した。

「わたしは大丈夫ですので」

 

 その“大丈夫”が、今日はだいぶ危ない。


 たぶん澪菜も気づいた。

 でも、ここで変に気を回しても余計にこじれると分かっているのだろう。少しだけ躊躇ってから、プリントを差し出した。


「じゃあ、これだけ」

「何」

「文化祭の会計の最終確認。私じゃよく分かんなくて」

「今?」

「五分で終わる」

 

 俺がプリントを受け取る。


 内容自体は大したことではない。支出と収入の突き合わせを最後に一度見てほしいだけだ。


「すぐ戻る」

 俺が星彩に言うと、彼女は少しだけ視線を上げた。


「ええ」

 静かな声。

「分かりました」

 

 それで澪菜と一緒に廊下へ出る。


 資料整理室の扉が閉まる。


「……やばかった?」

 小声で澪菜が言う。

「ちょっと」

「だよね」

 

 歩きながら、澪菜は小さく息をついた。


「私、空気読んで消えたほうがよかった?」

「たぶん今のは、どっちでも正解じゃない」

「うわ最悪」

「でもプリントの確認は本当にやる」

「それは助かる」

 

 窓際で会計表を確認する。


 数字そのものはすぐ終わった。だが、やっぱり澪菜は気にしている顔だった。


「ねえ」

 澪菜が言う。

「委員長さん」

「うん」

「今、結構機嫌悪い?」

「……うん」

「そっか」

 

 少し黙ってから、澪菜は苦笑する。


「なんかさ」

「何」

「前なら、ちょっとびびってたかも」

「今は?」

「今は」

 視線をプリントへ落としながら言う。

「“ちゃんと相手だな”って思う」

 

 その言い方は、文化祭後の澪菜らしかった。

 自分を脇へ置くのではなく、ちゃんと前へ出た上での言葉だ。


「ありがと」

 俺が言う。

「何が」

「変に引かないでくれて」

「引くだけの席は、もうやめたので」

 

 そう言って澪菜は、会計表を受け取った。


「じゃ、戻りな」

「うん」

「ちゃんと聞いてあげてよ」

 

 その言い方が、少しだけやさしくて、少しだけ切なかった。


    ◇


 資料整理室へ戻ると、星彩は机の上の紙をきっちり揃え終えていた。


 そういうところが、やっぱりこの人だと思う。

 機嫌が悪くても、感情が揺れても、手元だけは整える。整えずにいられない。


「……お待たせ」

 俺が言う。

「いえ」

 星彩は答える。

「確認は終わりましたか」

「終わった」

「そうですか」

 

 声は丁寧だ。

 でも、丁寧すぎる。


「柊木さん」

「何でしょう」

「今、だいぶ壁ありますね」

 

 また少し沈黙が落ちる。


「あなた」

 少し低い声で言う。

「本当に、最近そのへんの遠慮がありませんね」

「だって分かる」

「分かるなら、放っておくことも覚えてください」

 

 その返しには、少しだけ棘があった。


 でも、それもまた感情だ。

 今の星彩は、前みたいに全部を正しい言葉へ整えきれない。


「放っておいたほうがいい?」

 俺が聞く。

「……」

「そこ、選ばせるなよ」

 ぽつりと本音みたいな声が落ちる。

 

 その一言で、空気が変わった。


 星彩はすぐに自分で気づいたらしく、目を伏せる。


「すみません」

「いや」

「今のは、だいぶ」

「うん」

「機嫌が悪い人の言い方でした」

「そうだな」

 

 言ってから、少しだけ笑う。


 今のは責めるためではなく、やっと彼女の言葉の温度へこちらも近づけた感じがしたからだ。


「……何ですか」

「いや」

「今、面白がりました?」

「違う」

「違わない顔です」

「だって」

 一度息をついてから言う。

「今のほうが、柊木さんの言葉っぽい」

 

 星彩は少しだけ目を見開いた。


「意味が分かりません」

「前のあんたなら、“放っておいてください”ってきれいに言った」

「……」

「でも今は、“放っておいたほうがいい?”じゃなくて、“選ばせるな”が先に出た」

 

 数秒、星彩は黙った。


 それから、ほんのわずかに視線を逸らす。


「……だいぶ恥ずかしいです」

「知ってる」

「それを言われるのも不本意です」

「それも知ってる」

 

 そこでようやく、星彩は小さく息を漏らした。


「文化祭の前だったら」

 静かな声で言う。

「今のは絶対に言いませんでした」

「うん」

「言ったら、何かが壊れる気がしていたので」

「今は?」

 

 星彩は机の上の紙へ視線を落とす。


「今は」

 少しだけ考えてから言った。

「壊れない保証はないです」

「……」

「でも、言わないで整えているだけだと、たぶん自分のほうが先に疲れます」

 

 その言い方が、文化祭の夜に一度順番を間違えた人の言葉だった。


「だから」

 星彩は続ける。

「今は、少し機嫌が悪い時くらい、機嫌が悪いと言う練習中です」

 

 それはたぶん、かなり大きな変化だった。


 正しい人は、嫉妬した夜のことを記録に残さない。

 でも、この人は今、その嫉妬を完全には消さず、自分の言葉で持とうとしている。


「……で」

 俺が聞く。

「まだ機嫌悪い?」

 

 星彩は少しだけ考える顔をしてから、正直に言った。


「はい」

「かなり?」

「さっきよりは」

「そっか」

「でも」

 一拍置いて、

「戻ってきたので、少しはマシです」

 

 その言葉に、思わず何か返しかけて、やめる。


 今のはたぶん、軽く受け流さないほうがいい種類の言葉だった。


「分かった」

 結局そう言う。

「それならよかった」

 

 星彩は何も言わなかったが、少しだけ肩の力を抜いた。


    ◇


 夕方近く、作業を終えて資料整理室を出ると、廊下の窓が赤くなっていた。


 海のほうから差す光が長く伸びて、校舎の床に薄い色を落としている。


 昇降口まで一緒に歩くことになった。


 途中まで、ほとんど会話はない。

 でも沈黙は重くなかった。


「鷹取くん」

「何」

「今日のこと」

「うん」

「できれば、記録には残さないでください」

 

 何のことかは、すぐ分かった。


 嫉妬のことだ。


「書かないよ」

 俺は言う。

「当然」

「ありがとうございます」

「でも」

「何でしょう」

「自分の中では、少し残しておいたほうがいいんじゃない」

 

 星彩は足を少しだけ緩めた。


「自分の中で?」

「うん。今日、何で機嫌悪くなったか」

「……」

「そこ、また全部“なかったこと”にすると、たぶん戻る」

 

 廊下の窓から入る夕方の光が、星彩の横顔を少しだけ薄く照らしていた。


 やがて彼女は、小さくうなずく。


「そうですね」

 静かな声。

「今日は、たぶん記録に残さないといけない日です」

「日記つけるのか」

「そこまではしません」

「だろうな」

「でも」

 少しだけ口元をやわらげる。

「覚えておくことくらいは、できると思います」

 

 その答えに、少しだけ安心する。


 見つけるだけで満足しない。

 見つけたあとにどう持つか。

 たぶん今、この人もそれを覚え始めている。


 昇降口で別れる直前、星彩がふいに立ち止まった。


「それと」

「うん」

「今日のわたしを見て」

「うん」

「少しでも、面倒だと思いましたか」

 

 その問いは、思っていたよりずっと個人的だった。


「……少しは」

 正直に言う。

「そうですか」

「でも」

「でも?」

「面倒だから嫌、ではない」

 

 数秒の沈黙。


 それから、星彩は本当に小さく笑った。


「それ」

 言う。

「だいぶ、ずるいですね」

「何で」

「面倒だと認めるのに、退かないので」

 

 それはたぶん、褒め言葉ではない。


 でも、拒絶でもなかった。


「今日は」

 星彩が言う。

「そのくらいで、許します」

「上からだな」

「今、少し機嫌が戻ってきたので」

 

 そう言って、彼女は小さく会釈し、昇降口の向こうへ消えていった。


    ◇


 帰り道、海の見える坂を一人で上りながら、俺は今日のことを思い返していた。


 星彩の嫉妬は、分かりやすいわけじゃない。

 でも、隠しきれないところだけ妙にきれいに出る。

 言葉が丁寧になりすぎる。

 大丈夫です、が少し硬くなる。

 視線が一瞬だけ止まる。

 そして最後には、自分で“機嫌が悪い”と言う。


 完璧な彼女は、嫉妬だけ隠すのがいちばん下手だ。


 でもたぶん、それは悪いことじゃない。


 感情をなかったことにしないまま持つ練習を、彼女は今ようやく始めているのだろう。


 スマホが震えた。


 澪菜からだった。


『さっきの委員長さん、どうだった?』


 少し考えてから返す。


『結構機嫌悪かった』

『でも自分で言ってた』


 すぐに既読がつく。


『うわ』

『それはかなり本気だ』


 その返しに、少しだけ笑ってしまう。


『たぶんね』


 送ると、少し間があってから返ってきた。


『じゃあ透真、ちゃんと受け止めなよ』

『見るだけじゃなくて』


 それを読んだ瞬間、また少しだけ足が止まる。


 見るだけじゃなくて。


 結月にも、澪菜にも、星彩にも、玻乃先輩にも、少しずつ違う形で同じことを言われている気がした。


 海の匂いが強くなる。

 坂の途中で風が少し冷たくなった。


 見つけたあとのこと。

 黙ること。

 聞くこと。

 持つこと。


 それを、たぶん今の俺はようやく考え始めている。


 だから今日の嫉妬も、ただ“見つけて終わり”にはしたくなかった。

 きっとそれは、前の俺とは少し違うところだ。


 坂を上りながら、スマホをポケットへしまう。


 正しい人は、嫉妬した夜のことを記録に残さない。

 でも、今日の星彩は、それを自分の中へ残すと決めた。


 そのことを、俺も忘れないでいようと思った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ