第二十二話 見ている人間が、見られる側になると少し黙る
人を見るのが得意な人間は、自分が見られるのは苦手だ。
そんなことは、少し考えれば分かる。
見る側は、距離を選べる。近づく角度も、踏み込む深さも、言葉にするかどうかも、自分で決められる。相手の表情が崩れた一瞬だけ拾って、そこから先は見なかったことにもできる。
でも、見られる側は違う。
相手がどこを見ていたか分からない。
何を“それらしい”と思ったのか分からない。
自分でもまだ名前をつけていなかった感情の揺れを、勝手に一行の文へされる。
それは、たぶん思っている以上に居心地が悪い。
文化祭以降、俺はようやくそのことを自分の側から知り始めていた。
◇
木曜の放課後、生活記録同好会の資料整理室は、外の曇り空のせいでいつもより少し暗かった。
窓の向こうには海が見えるはずなのに、今日は光が薄くて輪郭しか分からない。机の上には、昨日までに見つかった匿名文のコピーが並び、その横に出どころ不明のメモがいくつか重ねてある。
誰か一人の恋文ではない。
誰かたちの“遅れ”を見て書いた観測文。
そこまでは、昨日時点でだいぶはっきりしていた。
「追加、二枚」
結月が淡々と言って、クリアファイルから紙を抜いた。
「図書室の廃棄前雑誌の間に挟まっていました」
「またか」
俺が言う。
「はい」
「ほんとに増えるな」
澪菜が顔をしかめる。
「しかも毎回、なんかちょっとずつ嫌な方向に慣れてくるのがやだ」
「慣れないでください」
星彩が即座に言う。
「こういうものに慣れるのはよくありません」
「分かってるって」
澪菜はそう言いながら、結月の持ってきたコピーを覗き込んだ。
『見つけるのが上手い人ほど、自分が見つかったときだけ静かになる。』
『観察は優しさの顔をしていても、受け取る側には刃物みたいな日がある。』
部屋が、少しだけ静かになる。
「……うわ」
澪菜が小さく言った。
「これ、だいぶ嫌」
「はい」
結月が言う。
「かなり」
俺は二枚目の文を見たまま、少しの間何も言えなかった。
観察は優しさの顔をしていても、受け取る側には刃物みたいな日がある。
その一文が、妙にまっすぐ胸へ入ってきたからだ。
「先輩」
結月がこちらを見る。
「今、だいぶ刺さりましたね」
「……」
「図星」
「おまえ最近、それ言うの好きだな」
「便利なので」
反論しづらい。
玻乃先輩が少し遅れて部屋へ入ってきたのは、ちょうどそのときだった。
「お、空気重」
第一声がそれだ。
「先輩、もう少し別の入り方ないんですか」
俺が言う。
「あるけど、今のほうが正確かなって」
そう言いながら、先輩は机の上のコピーを見て、「あー」と小さく息を吐いた。
「なるほどね」
「何がですか」
「だんだん、誰か一人の気持ちを描くんじゃなくて、“見てる側”の性質が前へ出てきてる」
「はい」
星彩が頷く。
「しかも、視点が近い」
「うん」
玻乃は紙を指で軽く叩く。
「これ書いてる人、自分では外側の顔をしてるけど、当事者のすぐ近くにいる」
「……」
「だから細かい揺れが見える」
俺はその“見える”という言葉に、妙な居心地の悪さを覚えた。
見える。
揺れが分かる。
近くにいるから気づく。
それは、今まで俺が自分の側でやってきたことにも近い。
「先輩」
澪菜が言う。
「今の、透真ちょっと嫌そうだった」
「うん」
玻乃先輩があっさり言う。
「だいぶ自分に返ってる顔だった」
逃げ場がない。
「……そうかも」
俺は認めるしかなかった。
「だろうね」
先輩は机の端に腰をかける。
「後輩くん、自分は“ちゃんと見てる側”だと思ってたでしょ」
「今も思ってる」
「うん。でも」
一拍置いて、
「見られる側に回ると、急にその“ちゃんと”が怖くなる」
結月が静かにうなずく。
「はい」
「うん」
澪菜も小さく同意する。
星彩は何も言わなかったが、視線だけはコピーから離さなかった。
◇
話の流れで、机の上の短文を“誰を見ているか”ではなく、“どう見ているか”で分類し直すことになった。
距離の観測。
感情の遅れ。
怒りや沈黙。
役割と本音のずれ。
見る側と見られる側の反転。
作業としては地味だ。
でもやってみると、この匿名文の嫌さの正体が少しずつ輪郭を持ち始めた。
「これ」
星彩が、ある束を指先でそろえながら言う。
「“好き”を直接書かないんですね」
「うん」
俺が答える。
「“気になる”とか“言いたい”とかも、あんまりない」
「はい」
結月も頷く。
「代わりにあるのは、“言えない”とか“遅れる”とか“黙る”とか」
「手前ばっかり」
澪菜が言う。
「ほんとに」
玻乃先輩は少しだけ笑った。
「だってさ」
言う。
「“好きです”って書いた瞬間、それは自分の言葉になるから」
「……」
「でも、“正しい人は順番を守りすぎる”とか“近い人ほど名前をつけてもらえない”とかなら、まだ観察の顔できる」
「卑怯ですね」
星彩がはっきり言う。
「知ってる」
先輩はあっさり受け止める。
「でもその卑怯さ、ちょっと分かる人もいるでしょ」
その言い方に、部屋の空気が少しだけ変わる。
誰もすぐには返事をしない。
先輩はそれ以上は続けなかった。
でも、あれはたぶん全員に向けた言葉だった。
まっすぐ言わないで済ませたい気持ち。
自分のものとして差し出すにはまだ怖い気持ち。
それを、誰もまったく知らないわけではない。
「ただ」
結月が静かに言う。
「分かることと、許せることは違います」
「うん」
玻乃先輩が頷く。
「その通り」
結月は一枚のコピーを指で押さえた。
『見つけるのが上手い人ほど、自分が見つかったときだけ静かになる。』
「これ」
言う。
「かなり嫌です」
「俺も嫌だ」
思わずそう言った。
「何で」
澪菜が聞く。
「だって」
一度息をついてから答える。
「これ、ただ俺を見てるだけじゃなくて、“見つけること”自体を、少し悪いものみたいに置いてるから」
それは、自分で口にしてみて初めてしっくりきた感覚だった。
たしかに俺は、人を見る。
小さな違和感に気づく。
隠しているものの輪郭が見えてしまうこともある。
でもそれは、傷つけるためではない。
少なくとも、自分ではそう思っている。
なのに、この文はその行為自体を“外側から切り取って”置いている。
しかも、まるでそれを一番よく分かっているみたいな顔で。
「先輩」
結月が言う。
「今のは、かなり大事だと思います」
「何が」
「自分が嫌な理由を、ようやく“嫌です”で言えたので」
前の俺なら、たぶんもっと曖昧にした。
何となく気持ち悪いとか、距離が近すぎるとか、そういう言い方で終わらせたかもしれない。
でも今は違う。
見られる側になったからこそ、自分の何が切り取られているのかが、少しだけ分かる。
「うわ」
澪菜が小さく言う。
「それ、なんかちょっと分かる」
「何が」
「私もさ」
澪菜は紙の束を見たまま言う。
「“明るい子ほど、先に自分を脇役へ置く”みたいな文、嫌だったじゃん」
「うん」
「嫌だったの、たぶん“図星だから”だけじゃなくて」
「……」
「私のそういうとこを、私の言葉じゃない形で先に説明された感じがしたからだ」
星彩がその言葉に少しだけ反応した。
目を上げ、澪菜を見る。
「それは」
静かな声で言う。
「かなり、分かります」
そこで二人の視線がほんの少しだけ重なった。
文化祭前なら、もう少し棘のある空気になったかもしれない。
今は違う。
同じ嫌さを、違う場所から知ってしまった者同士の静かな共有がある。
「だから」
星彩は続ける。
「誰かを見て気づくこと自体が悪いのではなくて」
「うん」
「その気づきを、本人より先に“説明”へしてしまうのが嫌なんだと思います」
その言葉は、たぶん今この部屋にいる全員にとって、大事な結論だった。
見ること。
気づくこと。
それ自体は悪ではない。
でも、本人の言葉やタイミングを飛び越えて、“分かってます”の形へしてしまうと、急に刃物になる。
匿名文の嫌さは、そこにある。
◇
そのあと、少しだけ作業の手が止まった。
曇り空のせいで部屋が暗くなってきて、星彩が蛍光灯をつける。白い光が机の上のコピーを均一に照らして、余計に文字だけが前へ出てくる。
「ねえ」
玻乃先輩が、わざと軽い調子で言う。
「後輩くん」
「何ですか」
「今日、ちょっと静かだね」
「そうですか」
「うん」
先輩は笑う。
「見られる側になって、ちょっと黙ってる顔」
結月がほんの少しだけ目を細めた。
たぶん、その言葉をどう置くか見ている。
「……そうかも」
俺は答えた。
「嫌だな、それ」
「嫌?」
澪菜が聞く。
「だって」
少し言いにくいが、もう曖昧にするのも違う気がした。
「前までは、“見つける”ことにそこまで責任感じてなかった」
「……」
「今は、見つけたあとにどうするか、前よりずっと気になる」
「うん」
「しかも、自分が見つけたつもりのものを、別の角度から勝手に文章にされると」
そこで言葉を探す。
「……自分がやってることの雑さまで、まとめて見せられた感じがする」
部屋が静かになる。
玻乃先輩は笑わなかった。
星彩も、澪菜も、結月も、すぐには何も言わない。
やがて結月が、静かに言った。
「それはたぶん、悪いことではありません」
「何が」
「怖くなったことです」
思わず顔を上げる。
「怖くなる?」
「はい」
結月は頷く。
「今までは、“見つけた”で止まっていた」
「……」
「でも今は、“見つけたあとに傷つけるかもしれない”まで見えている」
「それって、動きにくくなるだけじゃ」
「そうかもしれません」
結月は言う。
「でも、その怖さがない人よりは、たぶんずっとましです」
星彩も小さくうなずいた。
「わたしもそう思います」
静かな声。
「見つけること自体をやめる必要はない」
「うん」
「でも、見つけた側が“怖くならない”ままだと、たぶんすぐに雑になります」
澪菜が、それを聞いて少しだけ笑う。
「今日の委員長さん、結構いいこと言うね」
「今日は?」
星彩がわずかに眉を寄せる。
「いや、普段もだけど」
「フォローが雑です」
「そこはごめん」
小さな笑いが起きる。
でも、その笑いのあとに残るものは前より少し違っていた。
ただ軽く流したのではなく、何か一つ共有したあとに起きる笑いだ。
◇
作業を切り上げた頃には、外はもうかなり暗くなっていた。
先に星彩と結月が帰る。
玻乃先輩も「今日は駅前で本探すから」と言って、手を振って去っていった。
昇降口を出ると、澪菜が隣へ並ぶ。
「帰り、一緒?」
「うん」
俺が答える。
「よかった」
短く、それだけ。
坂を下りながら、少し沈黙が続く。
でも悪い沈黙ではない。
今日の資料整理室で話したことが、それぞれの中でまだ少し熱を持っているのだろう。
「ねえ」
澪菜が言う。
「何」
「さっきさ」
「うん」
「“見つけることの雑さまで見せられた感じがする”って言ったじゃん」
「言った」
「あれ、ちょっと分かる」
俺は横を見る。
「どういう意味」
「私も」
澪菜は前を見たまま言う。
「透真に見つけてもらうの、前より嫌じゃない」
「……」
「でも、だからって“はいはい分かってるんでしょ”って第三者に先回りされるのは、めちゃくちゃ嫌」
今日一日で、何度も出た感覚だ。
見ることと、説明することは違う。
気づくことと、代わりに言ってしまうことも違う。
「だから」
澪菜が少し笑う。
「先に言いたいんだよね、自分で」
「うん」
「今の私なら、たぶん前よりそう思う」
平気な顔の練習をやめ始めた。
昨日の澪菜の言葉が頭をよぎる。
「……それ、いい変化だと思う」
俺が言う。
「うん」
澪菜は頷く。
「でしょ」
少しだけ風が強くなる。
海の匂いが坂の途中まで上がってきていた。
「透真」
「何」
「今日ちょっと、前より人間っぽかった」
「どういう褒め方だよ」
「見られてるの嫌で、少し黙ってる感じ」
「褒めてるのかそれ」
「半分」
やっぱり便利だな、その言い方。
でも今日は、その半分で十分な気がした。
見ている人間が、見られる側になると少し黙る。
たしかに俺は、前より黙るようになった。
けれどその黙り方が、ただの逃げじゃなく、誰かの言葉を雑に奪わないための一歩になっていくなら、悪い変化ではないのかもしれない。
坂の下の分かれ道で、澪菜が立ち止まる。
「じゃあ、また明日」
「おう」
「次は、見るだけじゃなくてちゃんと聞いてね」
その言葉に、思わず少し笑う。
「分かってる」
「ほんとに?」
「前よりは」
「じゃあ、よし」
そう言って手を振り、澪菜は自分の家のほうへ下っていった。
その背中を見送りながら、俺は小さく息を吐く。
見つけるのは上手い。
でも今は、見つけたあとにどう黙るか、どう聞くか、どう持つかを覚えなければいけない。
文化祭明けの日常は、やっぱり少しだけ元に戻らない。
そしてその戻らなさの中で、俺は前とは違うやり方を少しずつ選び始めていた。




