支配と対等
昔はずっとお姉さまに憧れていた。
優しくて、気高くて、強く。賢くて、気が利いて、思慮深く。そして、美しい。幼い俺の目には、その全てが輝いて見えた。
お姉さまが、走っている。
館の庭の柔らかな芝生の上で、桃色のワンピースから伸ばした足を、心地良い風に晒して。俺はそれを追いかける。
二人とも、手を抜かず、広くはない庭を全力で走り回っていた。留まる空気を、俺たちの身体が追い越して、後ろへ吹き抜ける風の音がビュオオオオと、心地よく鼓膜に響く。
お姉さまが、笑っている。
走り続けながら、俺の方を少しだけ振り向いて、無邪気に笑う。そしてまた、前を向いた。
負けず嫌いの俺は全力で足を動かしながら、前に向かって手を伸ばす。その手が美しい肩にやっと触れかけたところで、お姉さまは地面を蹴って、空へと飛び避けてしまう。そして俺の顔を見て、また悪戯っぽく笑った。負けはしたけれど、悔しいとは微塵も感じなかった。
「あんまり高く飛び回るんじゃないよ。遠くから誰かの目に留まるかもしれないからね。あんたたちは誰かに見つからないようにこの館にいるって、いつも言ってるだろ」
気だるげな魔女の声が響く。お姉さまがその声に向かって答える。
「わかっていますわ、ボーメラさん。わたしたちはこのやかたからはなれてもいけないし、高くとんでもいけない。いつも言われていることですもの、しんぱいしなくっても、だいじょうぶですよ」
そう言われたボーメラは険しい目つきで俺たちを睨む。怒られてると思って、俺が頭を掻いてテヘヘ、と舌を出すと、魔女は呆れたような、めんどくさそうな顔で、やれやれとため息をついた。
館の入り口らへんに立って、空を睨んでいたベルモッドが口を開く。
「そろそろ日が照りそうです。お嬢様方、どうぞ館の中へ」
「「はーい」」
二人で元気よく返事をして、館へと駆け込んでいく。空は曇っていたが、俺とお姉さまの心には、射す影などなかった。いつからだろう、それが変わったのは?
気が付くと俺は『バットホール』の廊下でお姉さま……イザドラの背中を睨んでいた。
「俺の言葉の、どこが気に食わなかったっていうんだよ?」
硬く冷たい自分の声が響く。イザドラはそれ以上に冷えた目をして振り返ると、感情のこもってない声色で答えた。
「言葉が気に食わないんじゃないの。その言葉の裏にある、あなたの思想が私には受け入れられないのよ、レイラ」
顔にかかった長い赤い髪をかきあげて、俺は怒りを孕んだ声色で聞き返す。
「思想?」
イザドラはあえてすぐ答えず、わざと大きくため息をついて呆れた顔をしてから、また元の冷たい顔に戻った。その仕草のどれもが俺は気に食わなかった。だってそれは、全てが相手を下に置き、自分を優位に立たせるためのポーズのように見えたからだ。
「そうよ、レイラ。いつも言っているでしょう。私たちはこの森の奥から出ては生きて行けない。そしてこの館にいたとしても、何かの拍子に人間に見つかれば、命を狙われることになる。だから」
「だからそれがなんで姉さんに従うってことになるんだよ!」
ドン、と俺の拳が壁を叩き、廊下が揺れて、天井が少し砕けてパラパラと周りに降り注いだ。イザドラは顔色一つ変えずにまたため息をつき、今度は諭すように言った。
「はあ……その粗野な言動も慎みなさいと言っているでしょう。あなたの言葉で気に食わないところがあるとすれば、飢えた獣のよう粗野なところよ。そしてね、レイラ。私はあなたのために言っているのよ。私はこの館を支配している。館も、棲んでいる者たちも。私が支配している限り、あなたには誰の危害も及ばせない。だから安心してあなたは私に従っていればいいの。なぜそれがわからないの?」
この言葉も嫌いだった。どこまでも理屈で考えて、相手の心情も考えず、結局は全てを支配したがるイザドラの言動全てが、嫌いだった。
「姉さんに守られなくても、俺は俺だけで生きていける……」
俺は拳を強く握りしめて反論した。けれどイザドラは即座に言葉を返してくる。
「あら、本当? あなたこの森を出ても平気なの? この森の外がどんな世界なのか、どんな仕組みで動いているのか、あなた知っているの? 足を踏み入れたらどんな目に合わされるか想像もつかない外の世界で、あなたは生きて行けるの?」
俺は、その言葉に答えられなかった。そんな俺の姿を見て、イザドラはそれ以上何も言わず廊下を歩き去って行く。窓の向こうでは暗い空から冷たい雨が音もなく降りしきっていた。
その雨をじっと睨んで、俺は——
「……ラ……レイラ、レイラ!」
吸血鬼の妹が、目元に少し汗の滲む感触を覚えながら瞼を開けると、子牛の獣人が心配そうにその顔を覗き込んでいた。辺りの森はまだ真っ暗で、深夜の遅い時間であることがレイラの寝起き頭にもすぐわかった。
「うなされていたけど、大丈夫?」
ポッカは相変わらず心配そうな目をレイラに向けている。
「悪い夢を見たの?」
「ああ、いや、なんでもないよ」
レイラを瞼をこすりながら起き上がると、ポッカの頭を撫でながら言った。
「ちょっと昔のことを思い出してただけさ」
「昔のこと……?」
ポッカは純粋な頭で、レイラの言葉を反芻する。
「……それって、前言ってた家族のこと?」
レイラはポッカの頭に手を置いたまま、優しくて遠い目をしながら、適切な言葉を探した。しかし子牛の獣人は、レイラの答えを待たずまた言葉を継いだ。
「よかったら話きくよ。どうせもう朝も近いし、おいらでよければ付き合うよ」
途端に近くで小さな人影がもぞもぞと起き上がり、やはり瞼をこすりながら歩き寄ってくる。
「まったく、何時だと思ってるのよ。うるさくて眠れやしないじゃない」
「サンドラ、悪い、起こしちまったな」
レイラの呼びかけに、「別にいいわよ」と呟いて、機工博士の少女はすぐ隣にちょこんと座った。
「それで、どんな事情だったのよ」
「えぇ、おまえまで俺の話を聞くのか?」
「家族の話でしょ、聞いてあげるから遠慮なく話しなさいよ」
「まいったなあ……」
ポッカが手際よく枯れ木を集めて焚火を起こすのを見ながら、レイラは困ったように呟いた。




