12-3 もしもの時は
使い慣れた厨房で、ビーフシチューを作る。
昔の私なら、一気に記憶を戻していたでしょうね。
彼女の心を揺らし、私の元へ堕とせばよかった。
他者からの好意など、掃いて捨てるほどあったというのに。
……そうしたくないのは、彼女の愛が本物だと知ってしまったからに他ならない。
この世界で数少ない、本物だと信じられるもの。
リアが、リアとして辿り着かなければ意味のない愛だからこそ――。
「私も作るよ」
リアは髪をまとめて、エプロンをつけていた。
「……料理できたのですか?」
ムッとしたリアが、拳を握りしめている。
今にも殴られそうですね。
そういえば、昔はこのような顔をよくしていました。
「自炊くらい……してたよ!」
怪しい。
この声色だと七割方していないでしょうね。
あのチャーハンは魔法で食材を切っていましたから。
「では、こちらを切ってください」
玉ねぎと包丁を渡すと、リアはごくりと唾を飲んだ。
「そもそもどうして使用人がいないの?」
「必要ありませんから」
他者を自分の領域に入れるわけがないでしょう。
「寂しくないの……?」
「……」
リアが今にも指を切りそうな手つきで、玉ねぎを押さえている。
「指はこのようにして、食材を持ってください」
リアの指に上から手を重ねて、持ち方を矯正する。
「うあっ!? で、できるから!」
少しリアの心拍が上がっている。
……あの記憶を返してみましょうか。
ドワーフ地下帝国での出来事。
彼女が初めて私の内面に触れたあの時。
触れた指からゆっくりと記憶を流し込む。
「あ……ま、まって!」
リアは静かに包丁を置いて、私と距離を取ろうと二、三歩下がった。
防御するように腕で顔を隠している。
腕の隙間からこちらを見て、目が合うとすぐに逸らされた。
「……やっぱり寂しいんじゃん」
「おや、私は一言も言っていませんよ」
孤独は、もう慣れていますし……。
「……見ればわかるよ」
はぁ。
なぜこうも真正面から正直に言ってくるのでしょうか。
玉ねぎに包丁を入れる。
手を動かすと少しは気が紛れますね。
「はっや」
食材を切る音が響く。
「私が作業している間に、現在の心情を聞いてもいいですか?」
「……むかつく。嫌い。……これ以上言う?」
表面しか言わないつもりですか。
世話が焼ける生徒ですね。
「であれば、あなたの記憶は私が貰いますよ」
「っち……。ハンスのことが気になる。朝と違って、今はなんでかドキドキするし、今の気持ちと昔の私の気持ちが混ざってて、私は……気持ち悪い……」
手を止めてリアを観察する。
俯いて、苦しそうに机に寄りかかっていた。
記憶が、リア自身のものとして繋がり始めている証拠だった。
「あなたに返すべき過去は、今渡した記憶以上に鮮烈ですから、一度に渡すわけにはいきません。今はその気持ち悪さを整理してください」
その覚悟を決めていただかなければ。
一度壊れ、そして再構築される衝撃に、耐えられるとは思えない。
「私、ちょっと休んでくる。多分……ちゃんと向き合わないといけないから」
そう言って、リアは厨房から出て行った。
『あの記憶を彼女に戻す必要があるとは思えないな』
……なぜ、出てきているのですか?
油断など、していないというのに。
『記憶とは。そこにあるだけで侵食する』
……私の言語資源を食い潰しているのは、あなたでしたか。
実に不愉快ですね。
私から思考の切れ味を奪わないでいただきたい。
『君の敗因は私の記憶を見なかったことだ』
見れば混ざる可能性のある中で、見られるわけがない。
……何が目的ですか?
『彼女が欲しい』
フッ、私の記憶を覗いておいて、結論がそれですか。
嘆かわしい。
「ハンス様。また……魂が濁っています」
レイが戻ってきた。
『彼女の周囲には美しい愛を持った人間が多い』
レイも……そうでしょうね。
「レイ。もし私が私でなくなったなら、何を差し置いてもリアを連れて逃げなさい。私を止めようなどと考えなくとも構いませんから」
「……ハンス様、やはり中にアルフォルトがいるのですね」
アルフォルトの記憶を本体に戻したとして、自害されれば海にまた生まれる。
クラゲは分裂しますし、本体を抑えておけるのなら、私の中に閉じ込めておくのが一番安全でしょう。
「精神汚染の分野にも精通しておけば良かったですね」
そもそも汚染部分を切り離せば済むのだから、学ぶ必要もなかった。
「姫様にこのことは?」
「伝えてどうにかなる問題でもないでしょう」
今は彼女の記憶を戻すことを優先しなければならない。
最悪の場合……。
「リアに返すべき記憶は魔昌石に入れて、書斎の引き出しに置いておきますから」
最悪の場合は、私の記憶ごと全て消しましょう。
……それで本当に消えるのであれば。
♢
目の前には、顔を顰めたリアが座っていた。
二人用のテーブルの上には、薬草入りのビーフシチューが置いてある。
「どうぞ」
リアはスプーンですくい、恐る恐る口に入れた。
「うぐ……苦い……」
「何か思い出しますか……?」
目尻に涙を浮かべたリアは、こちらをじとっとした目で見ている。
「こういう嫌がらせは得意だったなぁって!」
やはり匂いとは違い、苦味は完全に私と繋がっていたせいで、感情にはあまり結びつきませんね。
「では、今日一日で学んだあなたの感情を教えてください」
「……ハンスに執着してた。あと、多分強くなることに依存してた。あの頃の私は……まだ弱かったから」
水を飲みながら、一所懸命にビーフシチューを口に運んでいる。
私は少し立ち上がり、手を伸ばして彼女の頭に触れる。
「なんで、そんなに悲しそうなの……?」
「この選択が、合っているのかわかりません」
記憶を返す。
ビーフシチューを共に食べた時の記憶を。
彼女は目を閉じ、流れ込む記憶を拒まなかった。
核心を除き、たわいのない記憶から返す選択が……果たして彼女のためになるのか。
「ねぇ、ハンス。勝負をしようよ」
手を離して彼女を見る。
挑戦的な瞳が、私を見ている。
「……」
頭の中で、住人の声がする。
私がリアを壊した時の記憶を見せなければ……彼女は私を盲目的に愛してくれるのではないだろうか?
暴力的な愛を、私に向かうためにリアとして生まれ直した彼女の決意を、思い出さなければ――。
「全部見せて。ハンスの魂が濁る理由も、全部。その代わり私が差し出すものは、前世の記憶全部。――知ってるんでしょ? 私がこの世界の人間じゃないこと」
ああ、彼女はいつだって『美しい』。
椅子が鳴る音がした。
私が後退ったからだ。
リア……。
あなたが私を揺らすほど、侵食は深まっていく。
これ以上、部外者に私の心を見られたくない。
クラゲに全て記憶を返し、殺し、そして海から遠ざけて、リアをずっとこの城に置いておけば――もう奪われることはない。
……違う。
これも全て鑑賞されている。
私が悩めば悩むほど、美しいと言われて喜ばれるだけだ。
悪辣な……。
「わかりました。あなたがそれを賭けるなら……私は私の過去を賭けましょう」




