第1話 空き家で冒険 2
【ゆら】
四月半ばの満月の夜。
深夜に自宅の窓から抜け出す、お隣の山戌さん家の速太くん(小学四年生)の姿を偶然見つけたわたしは、年長者の責任として彼の″はじめての夜歩き″を見守るべく、現在その後を付けてご近所の森の中を忍び歩いています。
水の入っていない広大な田んぼでしばし駆けまわって遊んだ速太くんは、今度はどこへ行くのか、農道伝いに若葉の木々の下を進んでいく。
月が特別に明るい夜だということもあるのだろうが、届いてくる足音には危なげがなく、普段から歩きなれている場所だということが分かる。
人生初のお使いに出かける幼気な子供たちを、四方から大人たちが盗撮する某テレビ番組のスタッフの如く、必要とあらば彼を危険から守ってあげるつもりで(もちろん、万一の際はバトるのではなく回避・逃走する方向で)こっそり付いてきたわたしだけど。これは杞憂だったかなー。
一方で、わたしの方もこの月夜のお散歩がちょっと楽しくなってきたのだった。
春の里山である。昼間だけでなく、夜も命に満ち満ちているんだよ。
風下の方角だったので嗅覚で探知できずに、接近するまで狸の親子の存在に気付かずにびびった。発光しているかのごとく月光に輝く目で、草叢からわたしの動きをじっと追っていた。
視界には入らないが、かなり遠くを鹿の群れが移動している。かと思えば、単独行動で人家のすぐ近くまで来ていた鹿の足跡と臭跡を発見する。
こら犬、ころころした硬そうなフンを近くで嗅ぐのはよせ!
野生動物だけじゃなく、ご近所の猫の生態にも遭遇した。
匂いからして、坂田さんのお宅のヨネコちゃん。三、四時間前にここの笹薮の中を、北から南へ突っ切っている。その途中で、二十日鼠の巣を襲撃したようだ。
ヨネコちゃんは縁側で陽のある間中うたた寝している、大きいけどおっとりした感じのお婆ちゃん猫なのだが、驚くべきはその戦果で、見ると両手の指では利かない数の小さな死骸が、笹の下に散乱していた。滴りそうな血の臭いからすると、もっとたくさんの鼠が狩られた後放置されて、狸をはじめとする肉食獣に持ち去られたようだ。
完全に娯楽としての狩りだったらしい。ヨネコさん、ぱねぇ。
ベテラン飼い猫の思わぬ野生の発露に驚いたりしながら、わたしは斑に満月の光がこぼれてくる森の中をほてほてと歩く。
お、樹上から静かな羽音。バサバサではなく、わさっ、わさっ、て感じの空気を掴む動作。
梟、それとも木菟?
黒犬はともかくわたしは只の女子高生なので、気配も匂いもじゃぶじゃぶ垂れ流しだ。風下方向を中心に、けっこう逃げてく動物がいるなー。雉とか狐とか。
別に動物マニアってわけじゃないから、いいけどね。人付き合いが乏しくて動物だけ好きって、ちょっと不健全なイメージがあるし。
動物マニアを貶してるわけじゃないよ、念のため。
バランスの話だよ。
本当に動物を好きな人は、人間のことも愛せるんじゃなかろうか。
なんとなく、本当になんとなくだが、香坂先輩のことが頭をよぎる。
先輩には昼間のぐーぱんちのことを謝らないとなあ。一層気まずくならないうちに。
そんなことを考えながら足を運んでいると、いつの間にか速太くんとの距離がけっこう開いていた。
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【速太】
ぼくは、森の中の道をひとりで歩いている。
じいちゃんの畑がそばにあるから、通い慣れている道だけど、今は真夜中だ。
普段、こんな時間まで起きてるのは大晦日くらい。夜中にひとりで外に出るなんて、初めてだ。
町の子だったら夜でもコンビニとかに行くかもしれないけど、うちの周りにはそんなものないし。
夜の森は、やっぱり昼間とは違う。まっくらな影があちこちにあって、歩いているとときどき
がさがさっ!
とか、
ざざざっ!
みたいな音をさせてなにかが草の中を走っていく。
そのたびに、ばばっ、と背中と首の毛が立ってしまうけど、家に引きかえす気にはまだならない。
ぼくは、空を見上げる。
大きくて真っ白な月が、ぼくを見つめかえしてくる。
今日はいつもよりちょっとだけ早く寝て、なぜだか起きて、そしてもうお昼になってるのかと思った。
カーテンの向こうが、凄く明るかったから。
のぞいてみたら、生まれてから初めてみたいなめちゃめちゃな満月だった。赤も青も黄も見わけがつくくらいの。
ぼくはびっくりして、そのまま外の景色を見ていた。
そのままぼうっとしてたら。なんだか。
なんだかどうしても、ぼくは月の下に出たくなってしまったのだった。
足と体が、ふわふわしている感じ。
家に帰れば大きなケーキが待っていて、明日の朝には『ヤークトウンゲホイヤーⅣ』のソフトが靴下に入ってるってわかってるクリスマスイブの帰り道、スニーカーに羽が生えてるんじゃないかって思うほど早く学校から家まで走れたりするけれど、そんな感じ。
ドキドキしながら、お父さんやお母さんや、じいちゃんやおばあちゃんやアコを起こさないように玄関からスニーカーを持ってきて、居間の窓からこっそり庭に出た。
林を抜けて、空の田んぼをいっぱい走り回って、なぜか息苦しいくらい楽しくなって、
『わおー!!』
って吠えてみたら、そこら中の家で飼われている犬が目をさまして吠えてきて、それが
『こんばんわ! 新入り!』
とか、
『なんだよ、オレも散歩させてくれよ! いっしょに遊ぼうぜ!』
とかいってる気がして。
ぼくはここだぞー! ってもう一回吠えちゃった。
背中の骨の、そのまんなかが熱くて熱くて、声を出さずにいられなかったんだ。
凄くいい気分になって、なんだか大きな動物みたいな──そうだよ、前に読んだ本に書いてあった″狼王ロボ″、あの大きくて強い狼みたいな──気持ちになってぼくは、じいちゃんが田んぼから少しはなれた所に持ってる畑に続く道を歩いていった。
ぼくは無敵の狼王だ、怖いものなんてないぞー!
すぐそばの木の枝から鳥がいきなり飛び立った時、ピョンってはねちゃったけどさ。
じいちゃんの畑のそばに、ぼくの秘密基地があるんだ。
もとは病院なんだけど。二年前に「いてん」ってのをして、建物だけが残った。
もちろん、玄関の大きなガラスドアは閉じていて、中から立ち入り禁止のはり紙がしてある。
でも、三階だての建物のうらに倉庫があって、まず木にのぼって、木から倉庫の屋根の上にのると、そこからカギがこわれた二階の窓に手がとどくんだ。内緒だよ?
去年の秋ごろに中に入る方法を見つけて、探検をして、ぼくだけの秘密基地にするってきめた。
昼間にしか行ったことはないけど。
杉の葉っぱの間から空を見る。お月さまがずっとついてきてくれている。
きっと、今夜みたいなとくべつな夜に遊べたら、ふだんよりももっとワクワクするに決まってる。
いつものやり方で、森の中に立つ、白いお城みたいに月の光に照らされた病院の建物に入りこんだ。
秘密基地の中も、思ったとおりいつもと違った。
「いてん」のときに、多分もう古くなっていたり、大きくて重かったりした機械は置いていかれた。机やなんかが残っている部屋もある。ブラインドがかかったままの窓もある。
がらっとしていて、でもなにもないわけじゃない部屋や廊下が、まっ黒な影とまっ白な光でジグザグの塗り絵になっている。
じっと動かないヘンな形の影が、近よって来るひとを待ちかまえているお化けみたい。
息をひそめたくなるような、でもクスクス笑っちゃいそうな。
ぼくだけしかいないけど、つるつるした廊下を足音を立てないように歩く。
階段をゆっくりおりて、病院の一階の広い待合室に出た。ここにもお月様が差し込んで、五つくらい席がつながった椅子が置きっぱなしになっていて、ぼくはウサギの気分でその上を飛びはねる。
ぽんぽん。
楽しいな。
夢中になって遊んでいたら、とつぜん、殴られるような強い光と音が横からぼくに飛びかかってきた。
なに!?
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【ゆら】
──なんだこれ。
速太くんが歩いていった方向から、時ならぬエンジンの音が聞こえてきた。
絶対にハイブリッドカーじゃない濁った太い爆音。
真夜中だぞ今。まあ人家もまばらなんだけど。
わたしは犬とともにあわてて林道を走る。
硬質な破砕音。ガラス?
森に囲まれた敷地に、ちょっと古びているけどお金がかかった感じの三階建ての大きな建物が建っている。閉鎖された元病院だ。田舎なので駐車場は広い。
たった二年で草ぼうぼうになった車廻しに、わたしには車種は分からないが車高の低い──なんていうか、頭が悪そうな──スポーツカーが、エンジンかけっ放しのヘッドライト点けっ放しで停車していた。
車のドアが開いていて、やかましい洋楽が鳴り響いていて、車内に人影は見えない。病院の玄関のガラス製のドアが割られて、破片が周囲に散乱している。
廃病院の中からは、複数の気配と叫び声。
いったいなにが起こってるんだ。あと速太くんは?
内心パニックになりそうだったが、わたしは荒くなりそうな呼吸を抑えて聴覚に集中した。情報がないとなにもできない。
──ガシャン!
ぱたぱたぱたぱた。
(見たか荻やん!? マジで出たぞ!)
(笹っち、動画撮ってるか?)
ごとんごとっ。
(あ、あたしさっきはビビっちゃって。多分ちゃんと映ってないと思う)
(まじかー)
(はあっはあっはあっはあっ)
(よ、よーし奥に入るぞ。ガラス気を付けろ)
ジャリジャリジャリ。
(や、ヤバいんじゃね萩やん? 祟られっかも‥‥)
(病院跡の廃墟でマジもんの心霊現象だぞ!? 見逃せっかよ。ネットにアップすりゃ‥‥。笹っち、今度はしっかりカメラ構えとけよ)
(こ、子供だったよね今の‥‥)
(白い服着てたな。パジャマかな)
(心霊スポットとして知られる沼の近く、その病院では幼くして死んだ入院患者の霊が今でも──)
(ちょっと、やめてよお!)
ギイイッ。
(ふうっふうっ、ふぅふぅふぅ‥‥)
一階の大きなホールに男女。男二、女一、いずれも若い。行っても二十代半ばだろう。
二階の少し狭い、音がこもる部屋に怯えた呼吸の子供がひとり。たぶんこれが速太くんだ。
臭線が残ってるから、速太くんが窓から侵入したルートははっきり分かる。けっこう前から繰り返し出入りしていた感じ。
男の子が月夜に廃墟で冒険していたら、撮影に来た物好きな心霊マニアと出くわしたって構図だろうか。
‥‥むむむ。
携帯電話が手元にないのが悔やまれる。あれば、警察への通報から、速太くんのご家族を呼ぶことまで選択肢は様々だった(わたしは山戌さん家の電話番号を知らないが、うちの家族に掛けて聞けばいい)。普段ろくに使わないからって忘れてくるべきではなかった。
何かないかと思って着ていたどてらのポケットを探ってみたけど、使い捨てマスクとヘアピンとキャンディーしか入っていませんでした。
どうしよう。