わたしと犬、そして先輩 2(★挿絵あり)
小説末尾に、ヒロインの挿絵があります。
キャラクターの外見のイメージを固定したくない方は、ご覧にならないよう注意してください。
【ゆら】
夕日が照らす、金色の川辺の道。
河川敷に繁った草が、風になびいて輝く波のよう。
既視感が強烈に刺激されます。
速太くんの夜遊びに遭遇した週の、土曜の放課後。
わたしはふたたび、あの場所に来ていた。首輪とリードにつないだ黒犬を連れて。
なぜかといいますと。
この犬が。わたしを。
脅・迫・し・や・がっ・た・のだ!
思わぬ闖入者の登場で、予期せぬトラブルに巻き込まれた月の夜。速太くんに囮役を頼んでリネン室に隠れていたわたしは、万一に備えて緊急脱出の手順を犬に言い含めようと試みた。
が。
犬の奴、脚の中に潜って協力を拒否したのである。
なんで? お隣の息子さんの非常事態だし、わたしにとっても対応を間違えたら危険な状況だ。お前だって他人事じゃないだろう。
焦ってぺしぺし太腿を叩いたが、犬は出てこない。
‥‥コイツが速太くんに奸心を持っているというものではあるまい。それはなんとなく分かる。
ということは。
わたしへの嫌がらせか!? こんな時に!
ええい、空気を読まない畜生(文字通り)めー!
速太くんはすぐに廃病院の三階廊下を大回りして、階段を下りてくる。はた迷惑な幽霊撮影隊が騒ぐ二階廊下の横断が、最大の難所になるはずだ。
時間が切迫する中、やむを得ずわたしは犬の気を引くような条件をいろいろ出して交渉し。
結局、香坂先輩にもういちど会わせる、という約束をすることで、どうにか黒犬の助勢を取り付けたのだった。
こういったわけで、月曜日の放課後に先輩にプレゼントされた首輪とリード、シャベルとビニール袋を入れたポーチを持ったわたしは、電車に乗って最寄り駅まで移動し、物陰で犬を脚から出して首輪をつけた。
香坂先輩は犬用ハーネスも一緒に贈ってくれたのだが、着脱が面倒そうなので首輪を選択。わたしも触覚を共有しているので、喉の周りがなんか変な感じだ。
先輩との対面を約束したわたしだが、校内で犬を連れ歩く事はできない。当然、連絡先を知っている訳でもない。
しかし、最初に会った時に分かっている。あの鄙びた道は、先輩の通学路なのだ。ならば待ち伏せすればいい。
一週間前に遭遇したのより早めの時間に、昼間の日差しで温もったアスファルトの上を犬と歩く。行き先もなければ気も進まないので、わたしの足取りは重い。
対して犬は、水平にぴんと伸ばした尻尾を時折ピッピッと速く振り動かしている。わたしは動物のことはよく知らないが、とてもご機嫌であることは伝わってくる。
溜息。
帰ってしまいたい。帰って何か甘いものでも食べて、布団にもぐって現実逃避したい。
でも約束は約束だしなー。それに犬がもしヘソを曲げれば、わたしを困らせるも破滅させるも自由自在だ。
『は、花伏くん、その犬は一体!?』
『見て、脚から、脚から犬が生えてるわ! 生きた犬と身体がくっついてる!』
『化け物だ‥‥。こいつは人間じゃない!』
『警察っ、いや、自衛隊を呼べ!』
でっでっでー、でっでっでー、でっでっでっでっでででー。
「──いやいや、いきなり自衛隊はないわ」
原子怪獣のテーマが脳裏に流れ始めたわたしがつい呟くと。
「なにがないのかな?」
「わんぐ!?」
深みのあるバリトンで問いかけられて、わたしは直立したまま数センチ空中浮遊した。
目の前、二メートルばかりの場所に、鞄を持った制服姿の香坂先輩が佇んでいる。
「ごめん、驚かせたかい?」
「いいいいいいいいええええe」
慌てて事実を全否定するわたし。
犬の目にもわたしの目にも、周囲の様子は映っていたのだ。こんなに開けた場所で、瞼を開けながら見ていなかったこっちが悪い。
なお、犬はとっくに察知していたもよう。すっごい尻尾振ってる。
お尻がむずむずするよ。
「こんにちは花伏くん。
その散歩セット、役立ててくれてるみたいで嬉しいよ」
先輩は眼鏡の奥の目を細め、心から嬉しそうに笑った。ほっとする笑顔だ。
「ど、どうもです。わたしあの時はきちんとお礼も言わずに‥‥」
あまつさえお腹にぐーぱんちである。罪は深いのである汗顔の至りである。
「はは、気にしなくていいよ。
会ったばかりで呼び出して物を渡すなんて、僕の方こそ不躾といわれてもしょうがない」
にこにこしながらさり気なくわたしと犬を路上から誘導し、短い草の生えたなだらかな土手に鞄を置いた先輩。
しゃがんで黒犬と視線を合わせる。
犬はいそいそと先輩に近付き、わたしは右脚と犬が接合している部分が目につかないようにひやひやしながら後に続いた。
「この子を撫でさせてもらってもいいかな。
いや、その前に時間は大丈夫かい?」
すこしだけなら。
そういいたかったが、うまく口が回らない。ただ頷く。
「ありがとう。
実を言うと、あの日からずっと、君に会いたくてたまらなかったんだ」
さらりと告白して、ゆっくり大きく手を伸ばし、先輩は背中を撫で始めた。
「なんて豪華な毛並みなんだろう。ミンクや、前に触ったラッコの毛皮にも勝る手触りだよ」
「ら、らっこ?」
「普通は撫でたりできないんだけど。水族館のイベントで、運よくね」
最初は毛の上をかすめる程度だった掌は、次第にしっかりと力がこもり始め、毛並を分けて皮膚をマッサージするような手つきになった。右手で背中をわしわししながら、正面から身体を掻き抱くように左手を首に回す。こちらも、撫でるというより揉みほぐしている感じ。
犬は歩く時、常に頭部を前に差し伸べてせわしなく動かしているので、首に負担がかかる。
大きな手と長い指で首筋をさすられて、たいへんに気持ちがいい。
犬、先輩の上体に身体をあずけて、目を細めてうっとり。
わたしはといえば、もう大変だ。
感覚的には、香坂先輩に前から抱きしめられて、背中と首周りを触られまくっているのに等しい。
犬の皮膚にはびっしりと毛が生えているが、それは衣服を着ている感覚とは違う。寒さは遮られるが、風や物の触感は鋭敏に毛根に伝わってくるのだ。
やばい、とにかくこれはやばい。
予想も覚悟もしてきたつもりだったけど。
立っていられなくなって、わたしはその場にへたり込んだ。
目を閉じると、先輩と鼻と鼻を触れ合わさんばかりの犬の視覚に圧倒されてしまう。わたしはほとんど涙目で夕空を見上げた。あ、カラスが飛んでるねー。
意識を逸らそうとしても、共有する触覚と嗅覚の情報が大波のように押し寄せてくる。
犬は今、耳の付け根をさすられてご満悦だ。
頭を先輩の左肩に乗せているので、直に先輩の匂いが届く。
口元から漂う香りは、先輩がお昼に海苔と米・鰹節・焼きししとう・だし巻き卵・オニオンとツナの胡麻サラダ・茹で豆とスイートコーンのマヨネーズ和え・鰆の幽庵焼きを緑茶とともに食べたことを示している(その後歯磨きもしている)。同じ臭いが鞄の中からするので、今日の先輩はお弁当持参で登校したようだ。
食材は分かってもメニューまでは嗅ぎ取れまいと思うかもしれないが、そこは食べ物に関するわたしの第六感だと解釈してほしい。
驚くべきは、この手堅いお弁当が先輩の手作りだということだろう。
指に付いた食材の匂いから推して間違いないが、思わずまじまじと見つめてしまった。
香坂先輩、自分でお料理するんですか。
あやうく口にしかけて自制する。
そんなこと、知っている理由がないじゃないか。冷静になれわたし。
ああ、知らなくていい先輩のプライベートが勝手に犬の鼻孔から脳に流れ込んでくる。大量に。
自宅にペットの類は飼っていない。動物好きらしいのに意外だ。熱帯魚など水棲生物なら嗅覚では判断しづらいが、少なくとも魚の餌の匂いもしない。
あと。‥‥先輩、女性の匂いがしますなー?
といっても、キャッキャウフフの関係ではなく。
まず、肩や肘の内側に、手を添えられたりつかまれたりした程度の接触の痕跡がある。わたしの知らない人物で、健康な若い女性。
クラスか生徒会執行部かに、親しいひとあるいはボディタッチが多いひとがいるのだろう。
もうひとつは、身体全体にふわっと馴染んでいるというか‥‥。生活を共にしてるっぽいひとの香りだ。
こちらも健康な若い女性。
お姉さんか妹さんがいるのだとすれば何のおかしなこともないが、このご姉妹(推定)、先輩とは血がつながっていないらしい。免疫のタイプを示す匂いの特徴が全然違う。
いまどきよくあることかもしれないが、香坂先輩の家庭はそれなりに複雑なのかも。
つらつらと考えていると。
「ふひゃ!?」
変な声出た。
男性の手がデリケートな所に! でりけーとなところに!
「せせせ先輩?」
「ん? ああ、前脚の付け根は、自分では掻いたりしづらい個所なんだよ。気持ちよさそうだろう。
花伏くんは家でやってあげたりしないの?」
犬的にはそうでも、わたしには脇の下なんですけどー!
なにこの筋肉もリンパも俺に任せてくださいな力強い動き。オラオラ系ですか。草食系っぽく見せかけて本当はオラオラなんですか先輩!
質問に答えずに身悶えているわたしを不審に思ったのだろう、香坂先輩は指を軽く曲げて犬の毛皮をわしわししていた手を止めて、わたしの顔を見た。
「花伏くん?」
首をかしげてわたしを眺める先輩──を、犬が土手に押し倒した。
尻尾をぶんぶん振りながら巨体で男子高校生の上にのしかかる。
ぎゃ~っっっ。事案発生!
わふんわふんわふん。
「おおっと。あっはっはっは」
香坂先輩はひたすら楽しそうな笑顔。リラックスした棘のない体臭が襟元から立ち上り、押し倒した犬の視点で上から見ると、草の上で前髪と制服を少しだけ乱した先輩の顔と上体を黄昏の光が暖かに染めてなにこれ色っぽい。
べるん。
わたしがぼうっとしている間に突然、しょっぱい汗と、皮膚の出す自然な脂と、朝からの時間経過で伸びた髭のちくちくが舌に、ってひええ、
「こらこら、くすぐったいぞー」
口の中に先輩の味が! ひとの喉元をべろべろしてんじゃない犬!
「可愛いなあ君は。これからも僕と仲良くしてくれるかい?」
わふわふ。
先輩の言葉と愛撫にすっかり気を良くした犬は、服の上から鼻先を押し当てて匂いを胸いっぱいに吸い込む。それから先輩の落ち着いた心臓の音を聞きながら、みぞおちからお臍の辺りに、さらに下り、制服のズボンの生地越しに汗とわずかな尿と精e
「ふが──────────!!!」
わたしは両手で思いきり首輪をつかんで引っ張った。もうとても耐えられん。わたしの喉まで締まって苦しい。なのに犬は全然動かない。
茹で殺されるのと絞め殺されるのの間のような形相でうんうん唸っているわたしを、軽い驚きを含んだ眼差しで見た先輩は、
「気にすることないよ花伏くん? 犬のすることだし」
いやでもこの犬、先輩のこといやらしい目で見てますよ!?
ああ、真実を口にできないのがつらい。
「ほら、ご主人様を困らせたらいけないよ」
自分の股間(い~や~!)をふんふんする犬に優しく声を掛けると、香坂先輩は犬のお腹に腕を回してあっさりと身体から引きはがした。
もうなりふり構わず、お座りした犬に後ろから組み付いて首に裸締めをかけるわたしをどう思ったのか、済まなそうな顔をする先輩。
「ごめんね、花伏くんが大事に世話している愛犬に、通りすがりみたいな僕が無遠慮に触ってしまって。
こんなに綺麗で魅力的な子は生まれて初めて見たから、自制ができなくて‥‥。
飼い主の君には、きっと不愉快だったね?」
「‥‥そんなことないでしゅ‥‥」
問題はそこじゃないんです。
少し気温が下がってきた川辺の緑地に、犬と人。
濃厚な接触は中断されたものの、目と目で通じ合っている香坂先輩と黒犬と、背景Aのわたし。
「そういえばこの前は聞きそびれてしまったけれど、この子の名前を教えてもらってもいいかな」
「サクラでしゅ‥‥」
「サクラくんか! とてもいい名前だね! 美しくて品があって、ぴったりだよ」
よかったよ、この前の夜に名前を決めておいて‥‥。今のわたしのくたびれきった精神状態だと、
『右脚から生えてきたから〇ギー』
とか言いかねなかったよ‥‥。ありがとうね速太くん‥‥。
「花伏くん、折り入って頼みがあるんだけれど」
「はいでしゅ‥‥」
背景Aに何のご用でしょうか。
「連絡先を交換させてもらえないだろうか」
先輩はポケットから携帯電話を取り出していった。
「えっ」
少し頬に血を昇らせて。
「そして、よかったらサクラくんを散歩させるときには、僕に声を掛けてくれないだろうか!
決して花伏くんに迷惑はかけないよ。
お願いだ、時折でいい、サクラくんと会わせてほしいんだ!」
‥‥‥‥ですよねー。
決して気落ちなどしていないわたしを、犬が尻尾でべちべち叩く。先輩の死角で。
わたしが睨み付けると、露骨に「ヘッ」という表情をして耳まで裂けそうな笑いを浮かべやがった。
「‥‥‥‥っ」
この、このこの、黒くて毛深い畜生(文字通り)め─────!
ここまでで最初のエピソード終了です。
お読みくださりありがとうございました。
以降は、数話でまとまるエピソードを書き上げ次第順次投稿する予定なので、不定期・低速更新となります。




