短い日常 — それでも海は待たない
どんな緊張も、永遠には続きません。
けれど、緩んだ瞬間にこそ、
次の局面は静かに近づいてきます。
リヒトの父が去ったあと。
ブリッジには、張り詰めていた空気がほどけたような静けさが流れていた。
緊張が消えたわけではない。
ただ、ひとつの“山”を越えたあとの、束の間の弛緩だった。
その中心で―
「フレディ副長はお菓子よりプロテインっすよね♪ じゃあ、これは僕が―」
三井が手を伸ばした、その瞬間だった。
フレデリクが無言で一歩前に出る。
「閣下のお気持ちを無駄にするのは失礼だからな」
迷いなく、口へ放り込んだ。
一瞬の静寂。
誰もが“今のはない”と思ったが、誰も口には出さない。
「なんなんすか!? いっつもチョコなんか食べないのに!」
三井の叫びが響く。
その声だけが、場の空気を現実に引き戻す。
その隙に、栗栖と谷屋は何も言わず、次々とチョコを口に入れていく。
動きに迷いはない。
完全に“流れ”を読んでいた。
「あーーーっ!ちょっと!栗栖、谷屋!」
三井が振り返る。
「名前だけクリスタニアなんだから!!」
意味不明な抗議である。
だが、その意味不明さこそが、三井らしさでもあった。
シンシアもひとつ手に取り、何食わぬ顔で口に入れると、そのままブリッジを出ていく。
まるで何事もなかったかのように。
「シンシアさんまで!!」
取り残された三井は、残りを一気に掴み取った。
周囲の視線などお構いなしに、次々と口へ放り込む。
その表情は、妙に満たされていた。
⸻
同じ頃。
BMM本社。
ルナディア到着予定、およびロゼリア進水予定の報告が入る。
複数のスケジュールが重なり、時間の密度が一段階上がっていた。
オフィスでそれを受けたエリコは、少しだけ息を整えてからルイに視線を向けた。
「ルイ、社長からのご命令よ」
短く言い切る。
「ロゼリア進水のタイミングで、あなたがキャプテンになるの」
その言葉は、ただの人事ではない。
ひとつの船の“顔”を決める宣告だった。
「……私は見届けられそうにないけど」
ルイは首を横に振りながら、柔らかく笑った。
「いいんだ、エリコ。
ロゼリアと一緒に、ベビーの名前を考えておくよ」
エリコの出産予定は、ロゼリア進水とほぼ同時期。
およそ半年後。
クルーズ部門の社員たちは、忙しさの中でも、ロゼリア進水が先か、エリコとルイの子供が先かと、どこか楽しげな時間を過ごしていた。
慌ただしさの中にある、確かな未来。
⸻
そのため、本社では新たな体制が組まれた。
エリコの産休に伴い、その補佐役として日向キャプテンの起用が決定した。
クリスタニア導入における実績と手腕が認められた形だ。
特例として、現場とクルーズ部門を横断的に統括する立場となる。
それは、通常の昇格とは異なる。
“結果で押し上げられた”人事だった。
クリスタニア帰港時点で、BMMクルーズは正式に設立される予定だった。
そのスケジュールを遅らせないための暫定措置である。
⸻
その情報は、即座にクリスタニアへ共有された。
同時に、航海に関する新たな指示が入る。
喜望峰付近の低気圧は、現在中心気圧が960hPaを上回り徐々に勢力を落とし始めている。
進路と勢力から判断し―
低速航行での進入を指示する。
ブリッジでは、先ほどまでの賑やかさは消え、再び静かな緊張が戻っていた。
さきほどの笑いは、もう残っていない。
切り替えが早いのは、この船の強さでもあった。
「キャプテンに報告しろ。その間に機関とシステムのチェックだ」
フレデリクが即座に指示を飛ばす。
声は落ち着いているが、判断は速い。
その時、本社から通信が入る。
『クリスタニア、本社の日向だ。ヴァルナーは?』
「すぐお呼びします」
リヒトは呼び出しを受け、すぐにブリッジへ向かった。
「クリスタニア、ヴァルナーです」
『ヴァルナー、喜望峰の低気圧攻略の件だ。
クリスタニアの守り役によれば、反応はレジェンディアの倍以上だ。試験航海のデータと照合しながら、波が届く前に機嫌を取れ。しくじるなよ。
社長が最も愛する船だからな』
その一言に、意味が集約されている。
リヒトはわずかに口元を上げた。
「ご心配なく。俺は社長からクリスタニアを託されています」
短く続ける。
「守り役に伝えてください。クリスタニアをペガサスにしてやると」
『いいだろう。じっくり見届けてやる。』
通信は切れた。
誰も言葉を発しない。
だが、全員が同じ方向を見ていた。
海は、待ってはくれない。
束の間の賑やかさも、ほんの一瞬。
海は、誰の都合も待ってはくれません。




