気づかぬ兆し ― 守るための別離
大きな出来事は、ある日突然訪れるとは限りません。
気づかないほどの小さな違和感が、
静かに積み重なっていくこともあります。
クリスタニアのブリッジが、喜望峰への航海計画を詰めている頃。
レイコはラウンジで、エディと向かい合っていた。
しかし、話は耳に入っているはずなのに、意味として届いてこない。
言葉が、輪郭だけを保ったまま滑っていく。
視線だけが、ゆっくりと遠くへ流れていた。
まるで、意識の焦点が合っていない。
「レイコ?どうしたのですか?」
呼びかけに、少し遅れて顔を上げる。
「……あら、ごめんなさい。最近ずっとこんな感じなのよね」
小さく笑う。
だが、その笑みはどこか軽く、力が抜けていた。
「いつも眠いし、なんだかぼーっとしてしまって。疲れてるのね、最近色々あったし」
エディはその言葉を聞きながら、わずかな違和感を覚えていた。
疲労と言われれば、それで説明はつく。
だが、それだけでは足りない。
“反応が遅い”のではない。
“反応の質が変わっている”。
会話は続く。
だがレイコの意識は、どこか別の層に漂っているようだった。
気がかりは消えない。
エディはラウンジを出たあと、フォックスに声をかけた。
「最近のレイコの様子、何か変わったことは?」
フォックスは少し考え、首を傾げる。
「さあ……。やたら果物を召し上がっている気はしますが……疲れているからでは?」
曖昧な返答だった。
だが、“食の偏り”は無視できない兆候でもある。
エディはすぐにローズへ連絡を入れる。
しばらくして返ってきた返事は、短く、しかし妙に引っかかるものだった。
『お母様にも聞いてみたけれど……もしかしたら、もしかしてかもしれない』
その一文を見た瞬間、エディの中でいくつかの要素が繋がった。
症状。変化。タイミング。
そして――可能性。
⸻
ほぼ同時刻、ブリッジ。
シンシアがリヒトのそばに立っていた。
「キャプテン、レイコさんを降ろした方がいいと思いますよ」
低く、しかし迷いのない声だった。
リヒトは視線だけを向ける。
「理由は?」
シンシアは一瞬だけ迷ったが、結局それ以上は言わなかった。
「女の勘です」
それだけ残し、元の位置へ戻る。
説明はない。
だが、それで十分だった。
リヒトはしばらく考えたあと、ブリッジを離れた。
判断は、すでに半分下りていた。
⸻
レイコの部屋へ向かう途中で、エディと鉢合わせる。
エディは一目で状況を察したように、軽く頷いた。
「少し、よろしいですか」
二人はデッキへ出る。
風は強く、海の匂いが濃い。
視界の端で、波が砕ける。
人のいない場所で、エディは声を落とした。
「可能性の話ですが、レイコは妊娠しているかもしれません」
リヒトの表情が固まる。
一瞬、時間が止まる。
「本当なのか」
「断定はできません。ここ最近の様子から鑑みるに、ですが」
エディは海へ目を向けたまま続ける。
「それに、喜望峰の海は北太平洋とは比較になりません。どちらにしても、このまま乗せていくのは危険です」
合理的な判断だった。
感情を挟む余地はない。
リヒトは何も言わずに頷き、そのまま部屋へ向かった。
⸻
レイコは窓の外を眺めていた。
光が、ゆっくりと流れていく。
やはり、どこかぼんやりとした様子だ。
「レイコ」
声をかけると、ゆっくりと振り向く。
「この先は、北太平洋よりも厳しい航海になる。すまないが、東京で待っていてくれないか?」
レイコは首を傾げる。
「何を言ってるの?私は大丈夫よ」
微笑みはいつもと変わらない。
だが、その“変わらなさ”が逆に違和感を残す。
リヒトは一歩近づき、言葉を選ぶように続ける。
「聞いてくれ。君は妊娠しているかもしれない。何かあっては困る。頼む、聞き分けてくれ」
その言葉にも、レイコは首を振るだけだった。
「そんなことないわ。疲れてるだけよ」
否定は柔らかい。
だが、届かない。
空気が静かに張り詰める。
リヒトは息を吐き、一度だけ目を閉じた。
そして、決断する。
迷いを切るように。
「エディ、レイコを東京へ連れて行ってくれ」
短く、それだけ告げる。
エディは穏やかに頷いた。
「喜望峰航路では提督も心配されます。先に東京で待ちましょう」
レイコはしばらく黙っていた。
考えているというより、受け止めている。
やがて、小さく息を吐く。
完全に納得したわけではない。
それでも、拒まなかった。
「そうね……またヒースローで騒ぐかもしれないしね。分かったわ」
⸻
翌日。
レイコは昼の便で東京へ向かうことになった。
エディとフォックスが付き添う。
出発前、リヒトは小さな箱を差し出す。
中には、父から譲り受けた指輪が収められていた。
「俺にはサイズが合わないんだ」
静かに言う。
「戻るまでに直しておいてくれないか」
レイコはそれを見つめ、頷いた。
「分かったわ。東京に帰ってきたら、つけられるようにしておく」
そのやり取りは、あまりにも静かだった。
だが、その静けさが、距離を強調していた。
こうしてレイコは東京へ発った。
⸻
夕方。
クリスタニアは出港準備を整える。
喜望峰の低気圧はわずかに勢力を落とし始めていたが、依然として油断はできない。
進路は一時的に修正され、コロンボを目指すことになる。
船は静かに、次の海へ向かおうとしていた。
誰も口にしない。
だが、全員が理解していた。
嵐は、喜望峰だけではない。
まだ誰も、それを知らない。
守るために選んだはずの決断が、
必ずしも同じ未来に繋がるとは限りません。




