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それからのクリスタニア〜静かな海に灯はともる  作者: おーがすてぃーぬ


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東京 — 遠い海の気配

離れているからこそ、


見えなくなるものと、

見えてしまうものがあります。

クリスタニアが喜望峰を目指して南下している頃。


東京のマンションの一室で、レイコは窓の外を眺めていた。


ビルの隙間に広がる空は静かで、海の気配はどこにもない。

あれほど近くにあった潮の匂いも、機関の低い振動も、ここには届かない。


「リヒト、どうしているかしら……」


ぽつりと呟く。


あの船の上で、今も風の中に立っている姿が思い浮かぶ。

波と向き合い、誰よりも先に船を見ている横顔が、あまりにも自然に脳裏へ浮かんだ。


指先が、無意識に腹部へ触れる。


「幸せなはずなのに……どうして、何も感じないのかしら」


命があると告げられた。


それは確かなはずなのに、実感が追いつかない。

喜ぶべきことだと分かっている。

分かっているのに、胸に広がるのは静かな戸惑いばかりだった。


喜びよりも先に、不安だけが静かに広がっていく。


守らなければならない。


そう思うのに――どう守ればいいのか分からない。


リヒトはいない。

一緒に海にいることもできない。


それでも時間だけは進んでいく。


ひとり取り残されたような感覚だけが、静かに部屋に満ちていた。


「……レイコ様」


背後から、エディが声をかける。


「明日は、再び病院でございます」


「……そうね」


短く答えるが、わずかに遅れる。


エディは少し間を置いてから続けた。


「その前に、指輪を直しに出かけてはいかがでしょう。気分も少しは変わるかと」


レイコは軽く頷いた。


「ええ……そうしましょう」



支度を整えて部屋を出る。


鏡に映る自分は、思っていたより細く見えた。

頬の線も、肩のあたりも、どこか頼りない。


食事をとれていないせいだろう。


エディは何も言わず、そっと腕を差し出す。


レイコはその支えに身を預けた。


車は静かに街を抜け、馴染みの宝石商のサロンへと到着する。


外の東京は忙しなく動いているのに、その店の中だけは別の時間が流れているようだった。


「まぁ、ヴェイル中佐。ようこそお越しくださいました。レイコ様もお久しぶりでございます」


「ご機嫌よう。今日は夫の指輪を直していただきたくて参りましたの」


ケースを開き、指輪を差し出す。


マダムの表情が、わずかに変わる。


「……こちらは」


「夫の父からの贈り物です。亡くなったお母様の遺言で、私たちに届けてくださいましたの」


「それは……ヴァルナーご夫妻のものですわね」


レイコとエディは、顔を見合わせた。


「ご存知なの?」


「ええ。わたくし、以前ドイツにおりましたの」


マダムは静かに語り始める。


仲睦まじい夫妻だったこと。

二人の子に恵まれたこと。

そして――最初の子を失ったこと。


夫人はその事実を夫に告げず、


夫は気づきながらも、何もできなかったこと。


そのわだかまりを残したまま、夫人は病に倒れたこと。


穏やかな口調のまま語られるその話は、

古い傷跡をなぞるように静かで、かえって胸に沈んでいく。


愛していたからこそ、言えなかったこと。

気づいていたからこそ、踏み込めなかったこと。


そうしたものが、夫婦のあいだに長く残っていたのだと知れた。


「レイコ様」


マダムはやわらかく言った。


「ヴァルナーご夫妻のご令息は、きっとあなたの変化に気づく方ですわ」


「どうか、お一人で抱え込まないでくださいませ」


レイコは何も答えず、ただ小さく頷いた。


その言葉は慰めというより、どこか警告に近く聞こえた。



指輪を預け、サロンを後にする。


車に乗り込むと、外の喧騒が遠のいた。

窓の向こうの街は動いているのに、自分だけが静止しているような感覚がある。


「……エディ」


静かに口を開く。


「もし、赤ちゃんに何かあっても、決して知らせてはだめよ」


一拍。


「リヒトは船長だもの。クリスタニアを最優先にしなければならないわ」


その言葉は冷静だった。

だが、冷静であろうとするぶんだけ、痛々しかった。


「……しかし」


「ねぇ、少し肩を貸してくれる? とても疲れたわ」


エディは黙って肩を差し出す。


レイコはそのまま身を預け、静かに目を閉じた。


拒絶でも涙でもなく、ただ静かに寄りかかるその姿が、かえって彼女の弱り方を物語っていた。



その頃、クリスタニアのブリッジ。


通信が入る。


『ヴァルナー。DMCのAlluringが記念式典の招待を寄越してきた』


日向の声だった。


『社長は出ない。代わりに俺が行く。お前たち夫婦にも届いている。帰港後に判断しろ。差出人はクリストファーだ』


「……いつですか」


『三ヶ月後。シンガポールだ』


通信が切れる。


ブリッジに沈黙が落ちた。


誰も口には出さない。

だが、その意味は全員が理解している。


祝宴の形をしていても、それは招待ではない。

少なくとも、クリストファーという名が差出人である以上は。


ただ一人。


リヒトだけが、モニターを見つめたまま動かなかった。


その表情には、


はっきりとした敵意が宿っていた。


海の荒れよりも先に、別の波が近づいている。

そう告げるような、冷たい眼差しだった。


遠くにいるほど、


同じ時間を生きているとは限らないのかもしれません。

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