静かな崩れ ― 届かない海の上で
正しい判断だったとしても、
それが正しかったと、
心から言い切れるとは限りません。
クリスタニアは喜望峰に近づくにつれ、風速と波高の上昇を受け、計画どおり減速運転に移行していた。
対波姿勢を維持するため、針路は細かく修正される。
出力は急激な変動を避け、段階的に調整。
スタビライザーは過敏な反応を抑え、制御範囲を限定。
船体の動きに対し、遅れすぎず、過剰にもならない領域で保持されていた。
「対波、十五度」
「対波、十五度」
命令と復唱が、間を置かず繰り返される。
波はまだ“耐えられる”範囲にある。
だが、その先に待つものを、誰もが理解していた。
ブリッジはスタンバイ体制に入り、余計な会話は消える。
視線はそれぞれの持ち場に固定され、全員が同じ一点を見ているかのようだった。
通信は徐々に不安定になり始めている。
ノイズが混じり、わずかな遅延が生じる。
「……ヴァルナー」
途切れかけた音声の向こうから、日向の声が届く。
『ここからは通信を途絶する。本社のモニターで随時監視を行う』
一瞬、間が空く。
『低気圧を抜け次第、報告しろ』
「了解」
短く返した瞬間、通信は完全に途絶えた。
ブリッジに静寂が戻る。
あとは、自分たちだけだ。
⸻
東京。
白い光に包まれた病室。
レイコは静かに横たわっていた。
規則的な機器の音だけが、現実を繋ぎ止めている。
ベッドの脇に立つエディは、微動だにせずその様子を見つめていた。
処置は無事に終わった。
だが、それが何を意味するのかを、言葉にする者はいない。
レイコはまだ目を覚まさない。
麻酔の中で、かすかに唇が動く。
「……リヒト……」
か細い声だった。
「……ごめんなさい……」
同じ言葉を、何度も繰り返す。
エディは目を伏せた。
胸の奥が、締め付けられるように痛む。
ノックの音。
フォックスが静かに入室する。
「……失礼いたします」
声を落としながら近づく。
「BMM本社に、レイコお姉様ご夫婦宛にAlluringから五周年の招待状が届いたそうです。今回は副社長も出席されるとのことで、リヒトお兄様には本社から既に連絡が入っております」
言い終えても、部屋の空気は変わらない。
「……どういたしましょうか」
エディはすぐには答えなかった。
こんな時に、と思う。
弱っているレイコをその場に出せば、間違いなく狙われる。
リヒト一人を行かせたとしても、何が起きるか分からない。
ゆっくりと息を吐く。
「警護を強化する。人を手配してくれ」
一拍。
「優先すべきは回復だ。目覚め次第、マンションに戻る」
「……承知しました」
フォックスは静かに頭を下げ、部屋を出ていった。
エディは再びレイコに視線を戻す。
診察結果を聞いた直後、言葉もなく崩れ落ちた姿が脳裏に浮かぶ。
あの判断は正しかったのか。
ここで降ろしたことは、本当に最善だったのか。
何度考えても、答えは出ない。
⸻
数時間後。
レイコはゆっくりと目を開けた。
焦点の定まらない視線が、天井をなぞる。
「……帰らなくては」
感情のない声だった。
「帰って……リヒトの帰りを待たなければ」
エディは一瞬だけ言葉を失い、それからいつもの調子で応じる。
「承知いたしました。すぐに手配いたします」
その声音には、一切の揺らぎを乗せない。
⸻
車内は静かだった。
レイコはエディの肩にもたれ、いつの間にか眠りに落ちている。
その細くなった髪を、エディはそっと撫でた。
何も言わずに。
ただ、いくつもの後悔だけが、胸の内に残り続けていた。
ポートサイドでクリスタニアからレイコを降ろしたこと。
それだけではありません。
エディの中には、
いくつもの後悔が残り続けています。




