短い安堵 — その先にあるもの
リヒトという人は、
不器用なのか、天然なのか。
判断に迷うことが、時々あります。
ただひとつ言えるのは――
悪気はまったくない、ということです。
Alluringは、静かにポートサイドを離れていった。
その黒い船体は、何事もなかったかのように滑らかに進み、やがて闇へと溶けていく。
クリスタニアは礼節に則り、長音を鳴らす。
低く、長く、整えられた音。
だが――Alluringからの返礼はなかった。
一瞬だけ、海が空白になる。
その代わりに、無線が入る。
“This is the Imperial Rose, Alluring.
It is regrettable that you could not attend our tea gathering.
We shall invite you to a proper party on board next time.
Your captain should be quite familiar with such occasions.”
(こちらは帝国の薔薇、Alluringだ。この度は茶会にご参加いただけず残念だ。次は本船での正式なパーティーにご招待しよう。貴船の船長も、よくご存知の場だろう。)
一瞬の沈黙。
それは、返答を考える間ではない。
“どこまで応じるか”を測る、わずかな静止だった。
クリスタニアは、簡潔に応答する。
“It would be an honor.”
(それは光栄だ。)
それ以上は返さない。
無線は、そこで途絶えた。
言葉は交わされた。
だが、それは会話ではなかった。
⸻
Alluringのブリッジ。
通信を聞き終えたヴィクトリアの指先が、わずかに震える。
ほんの僅か。
だが、それは抑えきれなかった感情の残滓だった。
「……帰港したら、本社へ行くわ」
低く、決めるように言う。
部下が静かに頷く。
Alluringは、そのまま闇の中へと消えていった。
振り返ることはない。
ただ、次に繋ぐためだけに。
⸻
クリスタニアに、静けさが戻る。
先ほどまでの緊張が嘘のように、船内は落ち着きを取り戻していた。
レイコは自室でエディの到着を待っていた。
一方、リヒトはブリッジを離れ、短い安堵を覚える。
Alluringは去った。
だが―今度は別の問題が迫っている。
父。
それは、回避できない種類の出来事だった。
⸻
レイコは端末を操作しながら、為替レートを眺めていた。
柔らかな笑みのまま問いかける。
「お父様は、どんな方なの?」
リヒトは、わずかに視線を落とす。
「軍人だ。……とても厳しい人だ」
短く続ける。
「父と野球やゲームをしたことはない。出かけたことも」
その“なかった”時間の重さだけが、静かに残る。
「その代わり、母とはよくピクニックに行っていた」
レイコは静かに頷く。
「紅海のニュースをご覧になったのかしら?」
「だとしても、こんなところまで来る人じゃない」
「防衛相に同行してきたのなら、それはそうね」
リヒトは問い返す。
「君の父上と母上は?」
レイコはくすりと笑った。
「お父様は自由人よ。自然の中で生きるのがお好きなの」
少し楽しげに続ける。
「今度、ハワード邸にお母様と一緒にいらっしゃるそうよ。イギリスに戻ったら、一緒に行きましょ?」
空気が、わずかに和らぐ。
緊張がほどける、ほんの短い時間。
そのとき、ドアがノックされた。
「失礼します」
エディとフォックスが入ってくる。
「レイコ、Alluringは大丈夫でしたか?」
レイコは軽く肩をすくめた。
「問題なかったわ。でも今、それどころじゃないのよ」
フォックスが、どこか楽しげに言う。
「Alluringは、お茶会の招待を断られてプンプンしながら出港していきましたよ!」
わずかに場の空気が軽くなる。
だが、それも一瞬だった。
「それは何よりですが……それどころではない、とは?」
エディが視線を向ける。
リヒトが短く言った。
「父が来る」
一瞬の沈黙。
空気が、ぴたりと止まる。
「……それは、ヴァルナー上級大将閣下のことでしょうか」
リヒトが眉をひそめる。
「知っていたのか?」
エディは小さく息をついた。
「ハワード閣下が、先日の電話協議で話されたそうです。お二人のご結婚のことも」
淡々と続ける。
「あなたがどこまで報告されたかは知りませんが―
間違いなく雷は落ちます」
「結婚以外に、報告することがあるのか?」
リヒトは本気で不思議そうに言う。
エディは、わずかに額を押さえた。
「……きちんと、父上と話された方がよろしいでしょうね」
その声音には、確信があった。
リヒトは、まだ理解していない。
なぜ父が、わざわざここまで来るのかを。
静かな海の上で。
次の嵐は、すぐそこまで来ていた。
本人はいたって真面目です。
むしろ、真面目すぎるのかもしれません。
だからこそ周りが困るのですが、
そこも含めて彼らしさなのでしょう。




