黒い瞳ーバルセロナの夜再び
その頃、クリスタニアはバルセロナに停泊していた。
懐かしい景色に、レイコは心から喜んでいた。
本当なら街を歩きたい。
だが、お腹はかなり大きくなり、しかも子供は相変わらず驚くほど元気だ。結局、デッキから港町を眺めるくらいしか出来ない。
レイコは、少し退屈していた。
「お兄様、ロバートは?」
「さぁ。用事があると言って出て行ったきりですねぇ」
エディは、のんびりと紅茶を飲みながら答えた。
「ねぇ、最近ロバートがエレクトラさんからダンスを習ってるって聞いたわ。本当なの?」
「そのようですよ。リヒトへ厳しい指導をした方と聞いていますからねぇ。いずれロバートも、リヒトのように……」
その言葉が終わる前に、レイコはぱっと立ち上がった。
「ねぇ! こっそり見に行きましょ。今日は市場も休みで株も見れないし、街にも行けないから退屈なの!」
「仕方ありませんねぇ。いいですよ」
レイコは嬉しそうにストールを羽織った。
その頃、クリスタニアのボールルームでは——
「あなた、体幹はとてもいいわ。技術も悪くない」
エレクトラは腕を組んだまま言った。
「でも、あなたに足りないのは恋心ね」
先程までワルツを教えていたが、どうしても何かが足りない。
船では、ワルツは必修だ。
よりロマンチックに魅せるためには、多少なりとも“心”が必要になる。
それが、この若い士官には不足していた。
「恋心……」
フォックスは、困ったように顔を曇らせた。
(言えるわけないじゃないか……)
「あなた、好きな人はいないの? その人をエスコートするつもりで踊るのよ」
エレクトラは髪を整えながら続ける。
「あなたたち軍人が、どんな風にダンスを習うのかは知らないけど。ダンスっていうのは、想いを伝えるものなの。恋とか愛とか、それだけじゃなくてね」
フォックスはしばらく考えた後、静かに口を開いた。
「エレクトラさん。タンゴの練習に付き合ってもらえませんか?」
「えぇ、いいわよ。何にする?」
「“黒い瞳”です」
その瞬間。
ボールルームの隅で、カーテンが小さく揺れた。
そこへ隠れていたレイコとエディは、驚いて顔を見合わせる。
「ねぇ……今、“黒い瞳”って言ったわよね?」
「言いましたねぇ……なんだか」
「レジェンディアみたい…」
フォックスは知らない。
レジェンディアで、レイコとリヒトがどれほど情熱的なタンゴを踊ったのかを。
そしてここは——バルセロナ。
情熱の都、スペインだった。
懐かしい旋律が流れ始めた瞬間、フォックスの空気が変わった。
顔つきも、視線も、立ち姿も。
まるで、あの夜のリヒトのようだった。
レイコとエディは、全く同じことを思っていた。
曲が終わり、完璧なポジションが決まる。
フォックスは、そのままの姿勢で静かに言った。
「エレクトラさん。僕が好きなのは……あなたです」
一瞬、空気が止まる。
「ごめんなさい。一目惚れでした……」
エレクトラは、大きく目を見開いたまま動けなかった。
ホールドを解くこともなく、二人はしばらくそのままだった。
やがて、エレクトラが小さく息を吐く。
「フォックス中尉。ダンサーとして言うわ」
その声は、どこか切なかった。
「それなら——今夜のパーティーで踊りましょう。ロイヤルネイビーの名誉と、クリスタニアの名誉に賭けて」
そして、少しだけ微笑む。
「いいこと? 二人だけの秘密よ」
一拍置いて、静かに続けた。
「もっと早く出会っていたら……物語は変わっていたんだから」
フォックスは知っていた。
本当は、告げてはいけない言葉だったことも。
恋してはいけない相手だったことも。
それでも——止められなかった。
「エレクトラさん。今夜、あなたと踊る栄誉を僕にお与えください」
ホールドを解いたフォックスは、紳士らしく静かに跪いた。




