大帝国の終焉ー運命が分かれる時
クリストファーにとって、父こそ魔王だったのかもしれません。
BMMが新会社を設立したという話は、1月後には瞬く間に業界全体へと広がった。さらに、クリスタニアを本社所在地であるイギリスへ、ロゼリアをフランスへ、日本にはルナディアとソブリンを配置するという動きに、BMMが何か仕掛けるのではないかと株主たちは囁き合う。
シンガポールから約五ヶ月後。
「……なんということだ。よりにもよってイギリスに本社を構えるとは!」
DMCホールディングス総帥ヴェガルドは、執務机に拳を叩きつけた。株価は依然回復せず、天塩にかけた船たちは各地の港で満足なフォローも受けられない。警備すら十分に付けられず、高級食材の卸先数社からは契約更新を見送ると通達が来ていた。ここ数ヶ月、クルーズの予約は従来の三分の一程度にまで落ち込んでいる。
「おのれ……BMM。おのれ富士崎め。あの時、徹底的に潰しておけば……」
「社長。あちらの社長というより、艦隊統括のキャプテンがかなり手強く、ビクトリア船長ですら太刀打ちできておりません。体制を変えなければ、取り返しが……」
秘書の言葉は、ヴェガルドの怒りに油を注ぐだけだった。
「体制を変えるだと! 我が社は後継者すらまともに動かせん。一族に後継者に相応しい者などおらん!」
「では、副社長を呼び戻されては……」
「役にも立たん後継者などいらん! クリストファーめ……よくも父の邪魔をしてくれたものだ!」
その時、扉の外から声がした。
「社長、取締役のマーカス・ブラッドフォード様がお見えです」
「ブラッドフォードか……通せ」
ヴェガルドは息をつき、椅子に座り直す。
「失礼する。ヴェガルド総帥、ご機嫌いかがかな」
「見てのとおりだ。息子のことで心配をかけているようだな。父として詫びなければならん。すまないな」
「そのことだが……クリスを私の養子にしたい。君には役に立たない息子だろうが、私には欲しい人材でね」
思いもよらぬ提案に、ヴェガルドは言葉を失う。
「なんだと……?」
「聞いたぞ。リディアが迎えに行ったが、幼い子供を置いて夜な夜なパーティーに出かけるような女を母親とは認めんと拒絶したそうじゃないか。リディアも気の毒に、それ以来すっかり憔悴しているとか」
確かに妻はノルウェーから戻った後、ひどくやつれていた。それでも社長夫人としての務めを果たしているようには見えていた。
「あの女がその程度でどうにかなるとは思えんがな」
「クリスを魔王にしたのは君だろう。もとは我が社の船を見て喜ぶような、愛らしい子供だったというのに」
「それで……なぜ貴様に養子にやらねばならんのだ」
「簡単なことだ。ヘルストレームが終わりだからだ」
「貴様……よくもそのような世迷言を!」
「おや……何も知らないのだな。番人が君の辞任を求めている。存続させたくば執行部を刷新しろと。臨時株主総会までに全ての株主の同意を得るつもりだ。あの番人にそこまで言わせた者を、いつまでも総帥と呼べると思うかね」
「だとしても、クリストファーを養子にする意味など貴様にはあるまい!」
「大いにある。クリスは良心と過去の行いで苦しんでいる。それは救いの道があるということだ。それならば、私の息子として導くことが、我がグループに対する責務だと思うが」
「……これは……叛逆だ……」
「今頃気づいたのか? 今ここにいるのは、忠実なる君の秘書たちだけだ」
朝から妙に静かだとは思っていた。だが、それはいつものことのはずだった。
ヴェガルドは扉を開け、階下へと走る。そこは昼前だというのに薄暗く、管制モニターのシステムだけが煌々と光っていた。船たちからの通信さえ、誰にも届いていない。
ヴェガルドは、その時初めて敗北を悟った。
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その頃、ロンドン郊外のハワード邸は久しぶりに賑わっていた。
「レイコ、体調はどうだ?」
ハワード提督は、普段聞かないほど優しい声でレイコを気遣う。
「おじ様、おば様のおかげでだいぶ楽よ。心配しないで」
「可愛いレイコがママだぞ? 心配するに決まっているだろう!」
きっと孫に甘くなるだろう。そう思いながら、リヒトはシェパードたちの頭を撫でた。庭ではフォックスがマリア夫人の手伝いをしている。
「俺の父上も、提督のようになると思うか?」
シェパードたちはリヒトの膝に前脚を乗せ、それぞれに大きく吠えた。
その頃ドイツでは、リヒトからのメッセージを読んだヴァルナー上級大将がオフィスで叫んでいた。
「ハハハ! 私もついにじいさんになったぞ!」
同じ国の空の下、光の届かない場所がある。その一方で、確かに笑い声が響いている。
二つのクルーズ会社は、同じ海にありながら、もはや同じ場所にはいなかった。
救済の道は現れたものの、クリストファーは果たして。




