天使と魔王 — 届かない温もり
クリストファーの子供時代、寂しがり屋で甘えん坊の普通の子でした。
エヴェリーナは、教会への寄付や施設の支援、孤児たちを支援して自船のクルーやエンジニアを育成する仕組みを、両親から引き継いでいた。
小さいながらも、その理念のもとで精力的に会社を動かしている。
⸻
クリストファーは、刺激こそないが、何とも穏やかな時間を——悪くないと感じ始めていた。
しかし同時に、疑問が消えることはない。
(ただ一隻で、なぜこれほどの収益が出る……)
(これほどの仕組みがあるなら、増船すればさらに利益は上がるはずだ。……その半分を寄付に回して、何になる)
コーヒーを口にしながら資料をめくるその表情に、エヴェリーナは気づく。
「質問があれば、お伺いします」
穏やかな声だった。
「この体制を、ずっと続けるのか?」
クリストファーは顔を上げる。
「これほどの仕組みなら、ヨーロッパに進出できるはずだが」
エヴェリーナは、柔らかく微笑んだ。
「我が社は、勢力を拡大しようとか、利益を上げようという気持ちはありません」
「なぜです?」
「我が社の船を通じて人が育ち、愛を知らない子供たちが夢を叶えるようにすること。それが我が社の理念ですわ」
一拍置き、続ける。
「現行船シェルリヘートのクルーは、ほとんどが親の顔を知りません。でも皆、毎日楽しそうにしています。ヴァイキングのように」
クリストファーの目が、わずかに冷える。
「それはここだから通じることだ。育成するなら、世界に送り出せる人材を育てるべきではないか?」
「えぇ。でも我が社には、DMCのような資本力はありません。多くは株主の皆様のご厚意と寄付で成り立っています。それで十分ですわ」
エヴェリーナは静かに立ち上がる。
「教会に行きましょう」
「教会?今日はミサの日ではないはずですが」
クリストファーは乗り気ではない。
「今日は社員たちと、赤ちゃんたちのお世話をお手伝いするのです。シスターたちだけでは大変ですから」
そう言って、彼女は髪を無造作に括り、支度を始めた。
⸻
ふと、記憶がよみがえる。
⸻
「クリス、ミサの時間よ。支度はできたかしら?」
母リディアが、控えめな装いでクリストファーを抱き上げる。
ミサの日だけは、母を独り占めできた。
その温もりが、嬉しかった。
だが夜になると、母は美しく着飾り、父とともに出かけていく。
「クリス、いい子にしていてね。お父様のお仕事、頑張って手伝ってくるわ」
頬に口づけを受け、頭を撫でられる。
寂しくてドレスを掴もうとした瞬間、父の声が飛ぶ。
「クリストファー。いい子に出来ないのか?」
ナニーにあやされながら、両親を見送る。
夜、そばにいたのは母ではなく——大きなシェパードだった。
泣き続けるクリストファーの顔を、犬が優しく舐める。
「……お母さま」
⸻
はっとして、現実に戻る。
⸻
「ご無理はなさらなくてもいいのですよ。慣れないことでお疲れでしょうから」
エヴェリーナの声。
クリストファーは首を振る。
「父から、あなたに付いて学ぶよう言われています。私も行きましょう」
静かに立ち上がった。
⸻
二人は栗毛の馬が引く馬車に乗り、少し離れた教会へ向かう。
教会では、赤ん坊を抱いたシスターが出迎えた。
エヴェリーナは優しく声をかける。
「今日もお散歩できるわね」
赤ん坊は、彼女を見て嬉しそうに笑った。
「エヴェリーナ様、今日は素敵なお連れ様がいらっしゃるのですね」
「えぇ。DMCのクリストファー副社長ですわ。我が社の視察にいらしてますの」
その時、赤ん坊がクリストファーに手を伸ばす。
「あらあら、クリストファー様が気に入ったの?」
エヴェリーナが赤ん坊を近づけると、両手を上げて抱っこをねだる。
クリストファーは少し戸惑いながらも、抱き上げた。
小さな手が服を掴んで離さない。
(……小さいな)
その瞬間、彼の目がわずかに柔らぐ。
エヴェリーナは、それに気づいていた。
「いつも馬車でお散歩に行きますの。揺れが気持ちいいようで」
日傘を差し、赤ん坊をあやすその姿は、どこか神聖だった。
(聖女か……俺には関係ない存在だ)
⸻
馬車に揺られながら。
クリストファーは、何度も幼い日の記憶を思い出していた。
幼少期のクリストファー、それはそうなる。




