白薔薇の機嫌—次の脅威—
クルーズ船は安全な乗り物と思われがちですが、
海の上にある以上、
すべての船が同じリスクから無縁ではありません。
特に航路や情勢によっては、
通常想定されない脅威に直面することもあります。
クリスタニアは、ゆっくりと低気圧の影響圏を抜けつつあった。
波は次第に落ち着き、風も鋭さを失っていく。
荒れ狂っていた海が、ようやく息を整え始めた。
だが、船内に残ったのは安堵ではなく、疲労だった。
クルーは皆、疲れ切っている。
交代で休憩を取りながら、各所の点検と後片付けに追われる。
濡れたデッキ。ずれた備品。軋みを残した設備。
嵐が通り過ぎた痕跡が、あちこちに残っていた。
本社へ、低気圧離脱の報告が送られる。
返答は短い。
『まだ終わっていない。このあとは海賊を警戒せよ。クリスタニアに傷一つつけさせてはならない』
ブリッジに、わずかな緊張が戻る。
三井がモニターに寄りかかったまま、ぐったりとした声を出す。
「ねぇ……今度は何撃ち込まれんのー……」
フレデリクは振り向きもせず、淡々と指示を出す。
「防護シャッター、全閉維持。異音警戒センサー、感度を一段階引き上げろ。」
「了解」
見張りには、軍出身の屈強なクルーが配置される。
ブリッジの空気は、どこか軍艦のそれに近かった。
三井は顔を上げ、栗栖にぼやく。
「何でこの船こんな無敵なんすか?」
栗栖は肩をすくめる。
「そらぁ社長のお気に入りやからな。傷でもつけてみぃ、葛城部長にお仕置きされんで。」
「お仕置きですか?」
「そや。あんなことこんなこと——」
「ジュン!」
シンシアの声が鋭く割り込む。
「無駄話してないで、本社にコロンボに他船がいるか確認して!またDMCなんかいたらたまんないもの。」
「了解。」
栗栖はすぐに通信に入る。
数秒後、振り返った。
「……コロンボ、確認できました」
「どこ?」
「ブルーリッジクルーズです」
一瞬、空気が止まる。
「ブルーリッジ?」
「ブルーリッジ・サガII」
ブリッジで視線が交わされる。
「……クリスタニアの古巣やな」
「なんか、ロマンっスね」
「キャプテンに報告してくる」
シンシアがブリッジを離れる。
その直後だった。
わずかに、操船感覚が変わる。
重い。
さきほどまでの軽やかさが消え、船体に微妙な鈍さが乗る。
フレデリクが眉をひそめる。
「……?」
「どうしたんすか」
「……重い」
三井が苦笑する。
「クリスタニアが機嫌損ねたらしいっすね」
谷屋が肩をすくめる。
「機関に異常はない」
「嫌いな奴でもおるんちゃうか」
三井はモニター越しに前方へ声を投げる。
「クリスタニア〜、どーしたんだー?キャプテンがいいのかー?そーだよなー、マッチョな副長よりキャプテンが——」
「黙れ」
フレデリクが低く言う。
そのタイミングで、ブリッジの扉が開いた。
リヒトが戻る。
「どうした」
三井が即答する。
「キャプテンじゃないとヤダって、クリスタニアがへそ曲げたらしいです」
リヒトは一歩前に出る。
「代われ」
コンソールに手を置いた瞬間、わずかに感触が変わる。
「……ブルーリッジか」
低く呟く。
確かに重い。
だが、原因は分かる。
「仕方ないやつだ」
わずかに口元が緩む。
「レイコにそっくりだな」
三井が思わず振り向く。
「あの……うちのキャプテンとか航海士の奥さんって、みんなこんなんなんですか?」
「そうだ」
リヒトは即答する。
「美人で可愛くて、すぐ怒る。だが、それがいい」
どこか誇らしげな声音だった。
栗栖は黙って首を振り、谷屋は静かにしろとジェスチャーを送る。
航海は、そのまま静かに続いた。
⸻
夜。
海は穏やかだった。
だが——
突然、警報が鳴り響く。
鋭い電子音が、ブリッジの空気を切り裂いた。
全員の視線が一斉にモニターへ向く。
「接近物、検知!」
「AIS、なし!」
「レーダー反応、微弱!」
「距離、縮まっています!」
誰も言葉を発しない。
ただ一つだけ、
全員が同じことを理解していた。
——まだ終わっていない。
海賊の標的は貨物船が中心ですが、
航路や状況によっては、
クルーズ船も例外ではありません。
守るべきものが多い船ほど、
狙われた時の意味は大きくなります。




