自分の手
パンが完売したところで,セレストブルー・カラーは鳥籠を手に死界の境に赴いた。絶えることのない霧のせいで髪が湿っぽくなるが,それを気持ち良さそうにかき上げる。心持ち視界が良くなり,また歩み出す。
(スカー……。)
どうしても想いを馳せてしまうが,無理にでも断ち切って前進する。
ふと,人影が見えてきた。死者である。死者はこの町の者だけとは限らないので,知らない人の場合もある。今回はそのパターンであった。
「こんにちは。初めまして。」
死者はゆっくりと顔を上げ,セレストブルーを見据えた。死者はまだ若く,推定20代の女性であった。
「いかがなさいましたか?心残りがあるようですね。」
セレストブルーが優しく問いかけると,死者は泣きそうになりつつも心残りを語り出した。自分と引き換えに誕生した我が子のことが心配であると。衛生がまだまだ不備であるから,このようなことは珍しくはない。だが,簡単に過ぎる去ることは出来ないのだ。この死者のように,行くべき死界へ向かえなくなってしまうのである。
「それはお辛いですね。」
「ええ。だから,あの子の側にいたいんです。ああ……。」
セレストブルーはそっと背を撫でて上げる。死者は嗚咽をもらしながらうつむく。
「苦しいでしょうが,死界へ行きませんか?」
「あなたは私の気持ちなんて分かっていないじゃない!愛しい子をこの手に抱けない私の気持ちなんて…!!」
まくしたてる死者。その言葉で,パンを買いに来た太ったおばさんに付けられた心の引っかき傷が,少し綻ぶ。
(俺だって…!)
心をかき乱されたが,経験のお陰で逆上せずに済んだ彼は,悲しい目で死者を見つめ,小さく呟くように話しかける。
「ここにいて,お子さんは見えますか?」
我に返るそのセリフに死者は静止し,あっけにとられて見つめ返す。
「ここにいてもお子さんは見えませんよね。死界へ,天へ行って,そこからお子さんを見守ってください。」
哀願するように言い,そっと鳥籠の戸を開ける。すると死者は吸い込まれるように鳥籠に入り,発光した。その光が消えると,止まり木に鳥がいた。その鳥が彼女だ。
「少し強引だったかな。」
申し訳なさそうに呟き,それから鳥籠の戸を開けて,鳥に変化した死者を出す。
「死界へ行って下さい。」
鳥はただピピピとだけ鳴いて,霧が深い方へ飛び立った。
「これでよし。」
そう言う彼の表情は明るくない。片が付いたのに,明るくない。むしろ,暗い。
セレストブルーは胸に手を当てる。痛い。
3年前。スカーレット・アジュレとの生活はなかなか楽しいものであった。パンの販売はスカーレットが見事にこなしてくれたので,セレストブルーは少し楽になっていた。ただ,問題があった。セレストブルーの能力と,その役目のことである。やすやすと打ち明けるわけにもいかないので,彼女にばれないように死界の境へ行くのが大変だった。
「スカー,お店を頼むね」
スカーレットは毎日そう言って出て行く彼を,不思議そうに見返す。
「よく出て行くのね。何をしているの?」
「ちょっとね。」
セレストブルーはニコッと微笑みかけてごまかし,鳥籠を手にして足早に家を出た。スカーレットとしてはお世話になっているから口には出したくない。だが,この不審な行動だけは気になって仕方がなかった。
(どこに行くとも言ってくれないし。好きな人の所だとしたら早いし。)
ふとそのとき,スカーレットは思い出した。初めて会った次の日,朝食を食べながらした会話を。その中で,彼は強引に質問をはぐらかしたのだ。‘よく死界の境へ行くのか’といった内容の質問を,笑顔でかわしたのであった。
(まさか……。)
セレストブルーは死界の境を歩き回り,ようやく見つけた彷徨える死者と話していた。
「そうですか。お店が上手くいかなくて。では,俺がやっているパン屋が上手くいけば,少しくらいはあなたの夢は叶いますよね?」
優しく笑って問う。凄く,人を安心させる笑みであった。死者はあっけにとられたようであったが,大きくうなずいた。
「私のお店は駄目でしたが,その分あなたのお店が上手くいって頂ければ幸いです。お願いします。」
死者はセレストブルーと握手をし,何度もお礼を言う。その隙に鳥籠の戸を開け,死者の魂を取り入れて鳥に変える。
(笑顔になってくれて良かった。)
「さぁ,迷わずに行って下さいね。」
鳥となった死者を放し,見送る。霧で見えなくなるとホッとして一息を付き,家に向かおうと振り返った。
「スカー。」
彼の視線の先にはスカーレットがいた。彼女は出来るだけ早くパンを完売させ,セレストブルーがしていることを見ようとして,追いかけて来たのであった。
「今のは何?」
不思議な光景を目の当たりにしただけに,声は震えていた。セレストブルーは仕方ないと言うように吐息し,肩をすくめた。
「話すよ。まず,帰ろうか。」
セレストブルーは鳥籠を持ち直し,さっさと家に向かった。スカーレットは慌てて追いかけた。
セレストブルーは鳥籠を自室に置き,紅茶を入れてテーブルに着いた。スカーレットもそれに続く。
「ごめん,驚かせて。誰にも知られたくなかったから,触れないようにしていたんだけれど。」
「セレ……。ごめんなさい。勝手に覗き見をしちゃって。つい気になっちゃったものだから。」
セレストブルーはにこやかに首を振り,それから自分の能力やしていることを話した。光景を見ていただけに,疑うことなく受け止めているスカーレット。
「そうだったの。セレは優しいのね。」
それを聞いて,クスッと笑い出す彼。
「優しくないよ。まさに俺は死神。鳥籠はThe fatal shears…死神の利鎌だよ。」
自嘲する笑み。言葉に詰まって何も言えなくなるスカーレットはうつむいてしまう。だが,思い立ったように手を伸ばし,セレストブルーの手に乗せる。
「セレは死神じゃないわ。私を助けてくれているもの。もしあなたが本当に死神なら,私はとっくに殺されていたわ。そうでしょう?」
彼女はやわらかく,にっこりと微笑んだ。それは,彼の冷えた心を温めるかのような笑顔であった。
「あなたは天上に行けない人を助けているから,優しい人よ。セレの手は,神の手みたいだね。」
ハッとさせられる言葉。今まで決して気付かなかったこと。セレストブルーはあいている手で顔を抑えた。指の隙間から,微かに涙がつたう。
「ありがとう。」
初めて感じた,自分への温かな気持ち。自分の持つ能力を拒否しない思い。安心感が広がる。それと同時に,スカーレットへの気持ちも変化していった。
理解してくれ,全て受け入れてくれた人への想いはとても深い。だが,その人はいない。




