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夏が終わる前に、君の名前を呼ぶ  作者: 磯辺


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9/25

時間の炊飯器

 八月三十一日、二十三時三十四分。


 空には、花火が咲いていた。


 赤。

 青。

 金。

 白。


 夜空に開いては消えていく光を、町中の人が見上げている。


 屋台の明かり。

 浴衣の(すそ)

 焼きそばの匂い。

 ラムネ瓶のビー玉が鳴る音。

 子どもたちの歓声。


 三架町は、今夜だけは別の町みたいだった。


 どこにでもある夏の夜。

 どこにでもある花火大会。

 どこにでもいる人たちの、どこにでもある笑い声。


 でも、僕たちだけが知っている。


 この夜の奥に、死亡記録がある。


 八月三十一日、二十三時四十一分。

 朝倉ミカ。

 第三橋下流。


 あと七分。


 ミカが死ぬ記録まで、あと七分。


「ミナト」


 隣で、ミカが僕の手を握り返した。


 青いヘアピンが、屋台の明かりを受けて小さく光っている。


「手、痛い」


「あ、ごめん」


「謝らなくていい」


 ミカは笑った。


 笑おうとしていた。


 でも、その笑顔は震えていた。


「痛いくらいが、今はちょうどいい」


「怖い?」


「怖い」


 即答だった。


 少し前のミカなら、きっと「余裕」とか「炭酸足りないだけ」とか、そんなふうに笑ってごまかしたと思う。


 でも、今は違う。


 怖いと言った。


 助けてと言った。


 死にたくないと言った。


 だから僕は、その声を絶対に聞き逃してはいけない。


「僕も怖い」


「知ってる」


「顔に出てる?」


「すごい出てる。顔面が未提出」


「どんな顔だよ」


「締切に追われてる顔」


「今は命の締切だからな」


「重い」


「軽くできない」


「うん」


 ミカは小さく頷いた。


 その時、前を歩いていたレンが振り返った。


 黒いリュック。

 赤いヨーヨー。

 手には端末。


 不機嫌な顔はいつも通りだった。


 でも、その目はいつもより鋭い。


「二十五番スピーカーまで、あと二分です」


「混んでるな」


 僕が言うと、レンは人混みを見た。


「花火大会なので当然です」


「正論が邪魔」


「事実です」


 ミカが小さく笑った。


「レンくん、今日も不機嫌」


「通常運転です」


「生きてる証拠」


「その使い方はやめてください」


 そんなやり取りをしながらも、レンの指は止まらない。


 端末の画面には、クロノグラフのログが流れていた。


> 23:35

> 死亡記録固定準備

> 対象:朝倉ミカ

> 固定率:上昇中

> PHASE 1:待機

> PHASE 2 OVERRIDE:待機中


 数字と文字が、無機質にミカの死へ向かって進んでいく。


 時間の炊飯器。


 サキさんのふざけた比喩が、頭に浮かんだ。


 クロノグラフは時間を戻しているわけじゃない。

 町の記録を炊き直している。

 三年前に閉じ損ねた記録を、今日もまた「新しい今日です」という顔で出してくる。


 その炊飯器の中に、今夜はミカを入れようとしている。


 ふざけるな。


 料理の思想が在庫処分どころじゃない。


 人を、名前を、命を、勝手に穴埋めに使うな。


「ミナト」


 ミカが僕を見た。


「今、怒ってる?」


「怒ってる」


「怖いより?」


「怖いし、怒ってる」


「いいね」


「いいのか」


「うん。怒ってるミナト、ちょっと珍しい」


「僕も省エネだけじゃないので」


「一日体験?」


「今日だけは延長する」


 ミカは少しだけ笑った。


 その瞬間、空に大きな花火が開いた。


 どん。


 音が胸に響く。


 ミカの肩が跳ねた。


 僕は手を離さなかった。


     *


 二十五番スピーカーは、第三橋の手前にある電柱の上についている。


 白い古いスピーカー。


 昼間に見た時と同じ顔をしているのに、夜に見ると、まるで町そのものの口みたいだった。


 その下の点検箱には、三本のハズレ棒が差し込まれている。


 僕の棒。

 ミカの棒。

 レンの棒。


 031-824-25。


 外れにも役目がある。


 レンが膝をつき、端末を接続した。


 画面に青い文字が走る。


> 三者保持鍵:認証済

> SPEAKER25:仮開放

> 上書き音声:有効

> 指定時刻:23:41

> 音声内容:朝倉ミカ/生存確認


「上書き音声、生きてる?」


 ミカが聞いた。


「有効です」


 レンが答える。


「生きてる、じゃなくて有効」


「機械に対して生死は使いません」


「ミカは?」


「朝倉先輩は生存中です」


 ミカは少し目を丸くした。


「言い直した」


「必要なので」


「ありがとう」


「礼は成功後に」


 レンは画面から目を離さずに言った。


 その声は硬い。


 けれど、逃げてはいない。


 昨日、サキさんの声を聞いて泣いたレンは、今日もここにいる。


 赤いヨーヨーをリュックに結んで。


 姉の記録を、一人ではなく、僕たちと一緒に持って。


 スマホが震えた。


 黒瀬先輩からのメッセージだった。


> 本部に入った。

> 御堂さんが緊急チャイムを準備している。

> 兄の名前を出して時間を稼ぐ。

> 君たちは二十五番を。


 僕はすぐに返信する。


> 分かりました。

> 黒瀬悠真のこと、隠さないでください。


 少し間があって、既読がついた。


> うん。

> もう隠さない。


 その文字を見て、胸の奥が少しだけ動いた。


 黒瀬先輩は敵じゃない。


 でも、間違えた人だ。


 兄を守るために、名前を隠した人。


 今日、その名前を呼ぼうとしている。


 スマホが震える。


> 黒瀬悠真:外部証言待機

> 雨宮サキ:記録復元率 38%


「三十八」


 レンが呟いた。


「足りる?」


 僕が聞くと、レンは答えた。


「上書きには足ります」


「ミカを助けるには?」


「分かりません」


 いつもの言葉。


 でも今日は、その正直さがありがたかった。


「分からないけど、やる」


 僕が言うと、レンは頷いた。


「はい」


 ミカが青いヘアピンに触れる。


「分からないけど、死なない」


 その言葉は震えていた。


 でも、ちゃんと夜に届いた。


     *


 二十三時三十八分。


 人混みが、ゆっくり第三橋のほうへ流れ始めた。


 追い花火が近い。


 花火大会の最後に上がる特別な花火。

 町内放送ではそう説明されていた。


 でも僕たちは知っている。


 それは、ただの花火ではない。


 一度目で認識。

 二度目で固定。


 クロノグラフが、ミカの死亡記録を固定する合図。


「ミカ、橋には上がらない」


 僕は言った。


「うん」


「欄干にも近づかない」


「分かってる」


「人混みに押されたら」


「ミナトの袖を掴む」


「手でもいい」


「じゃあ手」


 ミカは僕の手を握り直した。


 汗で少し湿っていた。


 僕の手も同じだった。


 レンは端末を持って、僕たちの横につく。


「上書き音声は、二十三時四十一分ちょうどに流れます」


「三つの声?」


「はい」


 僕の声。

 ミカ自身の声。

 レンの声。


 朝倉ミカ。

 生存確認完了。

 私は、生きてる。

 記録確認。生存中。


 それを二十五番スピーカーから流す。


 町に聞かせる。


 ミカを、生きている人として認識させる。


 死亡記録を固定させない。


 そのはずだった。


 そのはず、だった。


「瀬名!」


 不意に、背後から声がした。


 振り返ると、白石先生が人混みをかき分けて走ってきていた。


 白いシャツ。

 汗で額に髪が張りついている。

 手には古い携帯端末。


 いつものアイスコーヒーはない。


 眠そうな顔でもない。


 先生の顔には、はっきりと恐怖が浮かんでいた。


「先生」


 ミカの手が強くなる。


 白石先生は、僕たちの前で足を止めた。


 息が荒い。


「ここから離れろ」


「嫌です」


 ミカが即答した。


 白石先生の顔が歪む。


「朝倉、頼む。今だけは言うことを聞いてくれ」


「理由を言ってください」


「記録が動いてる」


「知ってます」


「俺の認証が、勝手に使われている」


 レンが画面を見る。


 同時に、端末が赤く点滅した。


> USER:SHIRAISHI

> MANUAL OVERRIDE:強制起動準備

> 位置:第三橋周辺

> 行動誘導:開始


「行動誘導?」


 僕が言うと、白石先生が自分の右手を押さえた。


 その手が、震えている。


「瀬名」


 先生は、僕を見る。


「俺が朝倉に近づいたら、止めろ」


「先生」


「約束しろ」


 声が(かす)れていた。


「俺は、止めたい。止めたいんだ。でも、記録が俺を使う」


 ミカが一歩、僕の後ろから出た。


「先生」


「近づくな!」


 白石先生が叫んだ。


 その声に、周囲の人が何人か振り返る。


 でも、すぐに花火の音と人混みに飲まれていく。


 ミカは止まった。


 それでも逃げなかった。


「先生は、私を殺したいんじゃないんですよね」


「当たり前だ!」


 先生の声が震えた。


「当たり前だろ……」


「じゃあ、私を見てください」


「見るな」


「見てください」


「見ると、動く」


「それでも」


 ミカの声も震えていた。


「私を、記録じゃなくて、朝倉ミカとして見てください」


 白石先生の目が、大きく揺れた。


 スマホが震える。


> 外部認識を検出

> 朝倉ミカ:生存認識増加

> 固定率:一時低下


 ミカは続けた。


「私、死にたくないです」


 白石先生は、息を呑んだ。


「怖いです。先生も怖いです。でも、先生に殺されたくない。先生にも、殺させたくない」


「朝倉」


「だから、止まってください」


 白石先生の手が震えている。


 彼は自分の右手を左手で押さえ込んだ。


 必死だった。


 本当に、必死に見えた。


 その姿を見て、僕は一瞬思ってしまった。


 いけるかもしれない。


 先生は止まれる。


 僕たちは、ミカを救える。


 その時、空に特別な花火が上がった。


 一度目の追い花火。


 どん。


 夜空が白く弾けた。


     *


 音が、町を揺らした。


 胸の奥まで響くような大きな音だった。


 ミカが目を閉じる。


 僕は彼女の手を握る。


 レンが叫んだ。


「PHASE 1、開始!」


 端末の画面が赤く染まる。


> PHASE 1:認識開始

> 対象:朝倉ミカ

> 青色認識タグ:検出

> 場所:第三橋周辺

> 固定率:上昇


 ミカの青いヘアピンが、白い花火の残光を受けて光った。


 その瞬間、二十五番スピーカーからノイズが流れた。


 ざり。


 ざり。


 町内放送のような、でも少し違う音。


 人々がちらほらとスピーカーを見上げる。


 そして、僕の声が流れた。


『朝倉ミカ』


 自分の声なのに、知らない場所から聞こえると変な感じがした。


 でも、今は恥ずかしいとか言っている場合じゃない。


『生存確認完了』


 次に、ミカ自身の声。


『朝倉ミカ』


 人々がざわめく。


「あれ、誰の名前?」

「朝倉ミカ?」

「迷子放送?」


 ミカの声が続く。


『私は、生きてる』


 その言葉が、夜に広がる。


 花火の煙。

 川の匂い。

 人々の視線。


 全部の中に、ミカの名前が置かれていく。


 最後に、レンの声。


『朝倉ミカ。記録確認。生存中』


 端末が青く光った。


> 三声入力:成功

> PHASE 2 OVERRIDE:起動

> 死亡記録固定処理:阻害中

> 生存目撃:増加


「いける」


 レンが言った。


 その声は、初めて少しだけ震えていた。


「いけます」


 ミカが僕を見る。


 目に涙が浮かんでいる。


「ミナト」


「うん」


「私、生きてる?」


「生きてる」


 僕は言った。


 はっきりと。


「朝倉ミカ、生存確認完了」


 ミカは泣きながら笑った。


「瀬名湊斗、存在確認完了」


 その瞬間、遠くの本部テントのほうから怒号が聞こえた。


 黒瀬先輩の声だった。


『黒瀬悠真は、三年前、雨宮サキの放送を止めました!』


 拡声器を使っているのか、声が人混みの向こうから聞こえてくる。


『それは町を守るためだと言われていた。でも、その結果、雨宮サキの名前は消された!』


 御堂の声らしきものが重なる。


『黒瀬くん、やめなさい!』


 黒瀬先輩は止まらなかった。


『黒瀬悠真の名前を、記録してください! 雨宮サキの名前を、消さないでください!』


 スマホが震える。


> 黒瀬悠真:外部証言を検出

> 雨宮サキ:記録復元率 38% → 52%

> 未処理記録:再照合


「五十二!」


 レンが叫ぶ。


 トメさんの声も、少し離れた場所から聞こえた。


「雨宮サキちゃんは、ここにいたんだよ!」


 周囲の何人かが振り返る。


「雨宮サキ?」

「誰?」

「三年前の?」

「旧体育館の子?」


 名前が、少しずつ広がっていく。


 消された名前が、町の中に戻っていく。


 端末に青い文字が増えた。


> 雨宮サキ:記録復元率 59%

> 朝倉ミカ:固定率低下

> PHASE 2:同期不安定


 成功している。


 僕は本気で、そう思った。


 思ってしまった。


     *


 白石先生が、動いた。


 最初は、本当に少しだった。


 先生の右手が、自分の意思とは別のものみたいに持ち上がる。


 白石先生は歯を食いしばった。


「瀬名……!」


「先生!」


「止めろ!」


 僕はミカの前に出た。


 でも、人混みが一気に揺れた。


 本部側で何かが起きたのか、警備員が走り、見物客がざわめく。


「緊急チャイムが止まったぞ」

「何の放送?」

「雨宮って誰?」


 人の流れが、押し寄せる。


 ミカの手が一瞬、僕の手からずれた。


「ミカ!」


「いる!」


 ミカはすぐに答えた。


 でも、その声が人混みに(まぎ)れる。


 白石先生が、ミカに向かって手を伸ばした。


「朝倉、こっちへ来るな!」


 言葉と動きが、逆だった。


 止めたいのに近づく。

 守りたいのに掴もうとする。

 遠ざけたいのに、引き寄せる。


 記録が人を動かす。


 先生が自分で言っていたこと。


 それが目の前で起きていた。


「先生、だめだ!」


 僕は先生の腕を掴んだ。


 白石先生の腕は震えていた。


 大人の力だった。


 でも、その力は、怒りでも殺意でもなかった。


 恐怖と抵抗がぐちゃぐちゃに混ざった力だった。


「瀬名、離すな!」


「離しません!」


「朝倉を、橋から――」


 その言葉の途中で、ミカの青いヘアピンが光った。


 いや、光ったように見えた。


 ミカの髪から、青いヘアピンが外れる。


「え」


 ミカが小さく声を漏らした。


 からん。


 アスファルトに落ちる音。


 ラムネ瓶のビー玉みたいな、寂しい音。


 スマホが震えた。


> 青色認識タグ:脱落

> 朝倉ミカ:外部認識低下

> 死亡記録:再固定開始


「ミカ!」


 僕は先生の腕を掴んだまま叫ぶ。


 ミカの輪郭が、一瞬だけ人混みの中で薄くなる。


 周囲の視線が、彼女から流れていく。


「今、誰かいた?」

「何の放送だったの?」

「危ない、押すな!」


 ミカはそこにいる。


 目の前にいる。


 なのに、人々の中で彼女だけが見えなくなっていく。


「朝倉ミカ!」


 僕は叫んだ。


「ここにいる!」


 レンも叫ぶ。


「朝倉ミカ、生存中!」


 端末を片手に、人混みをかき分ける。


 でも、白石先生の腕がさらに動いた。


 先生は必死に止めようとしている。


 それでも、右手がミカの腕を掴んだ。


 白い袖。

 チョークの粉。

 大人の手。


 プレビューで見た映像と、同じだった。


 ミカの顔が凍る。


「先生」


「違う!」


 白石先生が叫ぶ。


「違う、俺は――」


 人波が押した。


 誰かの肩が、ミカにぶつかる。


 白石先生はミカを引き戻そうとした。


 たぶん、本当にそうだった。


 でも、その手は強すぎた。


 ミカの体がよろめく。


 第三橋の欄干。


 黄色い立入禁止テープ。


 黒い川。


 全部が、嫌になるほどはっきり見えた。


「ミカ!」


 僕は先生の腕を離し、ミカへ手を伸ばした。


 届く。


 届くはずだった。


 ミカも手を伸ばした。


 その目は、恐怖でいっぱいだった。


 でも、彼女は叫んだ。


「助けて!」


 聞こえた。


 今度は聞こえた。


 僕は手を伸ばす。


 指先が、ミカの手首に触れた。


 触れた。


 確かに、触れた。


 でも、掴めなかった。


 汗で滑ったのか。

 人波が押したのか。

 記録がそう決めたのか。


 分からない。


 ミカの体が、欄干の向こうへ傾いた。


「ミカ!」


 世界が、遅くなった。


 青いヘアピンが足元に落ちている。

 白石先生の顔が歪んでいる。

 レンが何かを叫んでいる。

 空には、花火の煙が残っている。


 ミカの手が、僕の指先から離れた。


 そして彼女は、第三橋の下へ落ちた。


     *


 音は、小さかった。


 花火よりも。

 町内放送よりも。

 人々の悲鳴よりも。


 ずっと小さくて、でも一生忘れられない音だった。


 川のほうから、鈍い音がした。


 その瞬間、世界が戻った。


「きゃあああああっ!」


 誰かが叫ぶ。


「人が落ちた!」

「救急車!」

「川だ、川!」

「誰か、落ちたぞ!」


 遅い。


 何もかも、遅い。


 僕は欄干にしがみついて、下を見た。


 黒い川。

 揺れる水面。

 花火の光が、細かく砕けて流れている。


 ミカの姿は、見えない。


「ミカ!」


 僕は叫んだ。


「朝倉ミカ!」


 返事はない。


「ミカ!」


 喉が裂けそうだった。


 それでも叫んだ。


 叫べば戻ると思った。


 名前を呼べば、生存確認できると思った。


 でも、川は返事をしなかった。


 スマホが震えた。


 見たくなかった。


 でも、見てしまった。


> CHRONOGRAPH

> 8/31 23:41

> 朝倉ミカ 死亡記録

> 場所:第三橋下流

> 固定完了


 固定完了。


 四文字。


 たった四文字。


 それが、ミカの命を閉じた。


「嘘だ」


 声が出た。


「嘘だろ」


 レンが隣で膝をついた。


 端末を落としていた。


「違う」


 彼は呟く。


「違う、上書きは成功していた。二度目は迷子になったはずで、固定処理は阻害されて、姉の記録も――」


「レン」


「違う!」


 レンの声が壊れた。


「こんなの、違う!」


 白石先生は、欄干の前で立ち尽くしていた。


 自分の右手を見ている。


 ミカの腕を掴んだ手。


 助けようとして、落とした手。


 彼の顔には、血の気がなかった。


「俺が」


 先生が呟いた。


「俺が、落とした」


「違う」


 誰かが言った。


 僕だったのか、レンだったのか、分からない。


 でも先生は聞いていなかった。


「俺が、朝倉を」


 白石先生の声が、そこで途切れた。


 周囲は騒然としていた。


 誰かが救急車を呼んでいる。

 警備員が走っている。

 黒瀬先輩が本部のほうからこちらへ駆けてくる。

 御堂が無表情で何かを指示している。


 でも、その全部が遠かった。


 僕は足元に落ちていた青いヘアピンを拾った。


 小さな、青いヘアピン。


 さっきまで、ミカの髪にあった。


 さっきまで、ミカは生きていた。


 手の中で、ヘアピンは冷たかった。


 いや、まだ少し温かい気がした。


 そんなはずはないのに。


「朝倉ミカ」


 僕は名前を呼んだ。


 声が震える。


「朝倉ミカ」


 返事はない。


 生存確認。


 その言葉を言おうとした。


 でも、喉が詰まった。


 言えなかった。


 生存確認なんて、できなかった。


     *


 その後のことは、断片でしか覚えていない。


 救急車のサイレン。

 警察の声。

 人々のざわめき。

 白石先生が座り込んでいる姿。

 黒瀬先輩が御堂に掴みかかりそうになるのを、誰かが止めているところ。

 レンが赤いヨーヨーを握りしめて、何度も「姉さん」と呟いていたこと。


 花火大会は中断された。


 空は暗くなった。


 屋台の明かりだけが、場違いに明るかった。


 ミカは、戻ってこなかった。


 僕は橋の近くに座り込んだまま、青いヘアピンを握っていた。


 トメさんが近くに来た。


 何かを言った。


 でも、聞こえなかった。


 白石先生が、僕の前に膝をついた。


 彼は何かを言おうとした。


 謝ろうとしたのかもしれない。


 でも、僕は顔を上げられなかった。


 先生の声も聞こえなかった。


 聞きたくなかった。


 ミカの「助けて」は聞こえた。


 今度はちゃんと聞こえた。


 なのに、助けられなかった。


 それだけが、頭の中で何度も繰り返された。


 助けて。


 届いた。


 触れた。


 掴めなかった。


 落ちた。


 固定完了。


 スマホがまた震える。


 画面には、クロノグラフの通知。


> 記録処理中……

> 未処理記録:残存

> 雨宮サキ:記録復元率 64%

> 白石:接触記録確定

> 朝倉ミカ:死亡記録固定

> 再照合待機


 再照合待機。


 意味なんて、分からなかった。


 分かりたくもなかった。


 ミカが死んだ。


 それ以上の意味はいらなかった。


     *


 午前零時。


 町内放送のチャイムが鳴った。


 花火大会の終わりを告げるはずの音。


 でも今夜は、判決の鐘みたいに聞こえた。


『こちらは、三架町……』


 ざり、とノイズ。


 人々がざわつく。


『八月三十一日……』


 ノイズが混じる。


『記録処理……完了……』


 僕は青いヘアピンを握りしめた。


 手のひらが痛い。


 でも、その痛みだけが、まだ自分がここにいる証拠だった。


『朝倉ミカ……死亡記録……』


「やめろ」


 声が漏れた。


「やめろよ」


 町内放送は止まらない。


『固定完了……』


「やめろ!」


 叫んだ。


 でも、声は夜に消えた。


 川は何も答えない。


 花火はもう鳴らない。


 ミカも、答えない。


 僕は、ヘアピンを胸に押し当てた。


「ミカ」


 呼んだ。


「ミカ」


 もう一度。


「ミカ」


 何度呼んでも、返事はなかった。


 朝倉ミカ、生存確認。


 言えなかった。


 言えるわけがなかった。


 だって、僕は見た。


 ミカが落ちるところを。


 手が離れるところを。


 助けてという声を。


 掴めなかった自分の指を。


 全部、見た。


 全部、覚えている。


 町内放送のノイズが、どんどん遠くなる。


 周囲の声も、光も、川の音も、遠ざかっていく。


 足元が抜けるような感覚がした。


 旧体育館の夢と同じだった。


 落ちる。


 落ちる。


 落ちる。


 でも、今落ちているのは僕じゃない。


 僕の中の何かだった。


 最後に見えたのは、手の中の青いヘアピンだった。


 小さくて、冷たくて、もう誰の髪も留めていない青。


 僕はそれを握りしめたまま、壊れたみたいに名前を呼んだ。


「朝倉ミカ」


 返事はない。


「朝倉ミカ」


 返事はない。


「朝倉、ミカ」


 声が途切れた。


 世界が黒く染まった。


 夏が、終わらないまま、僕を呑み込んだ。

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