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夏が終わる前に、君の名前を呼ぶ  作者: 磯辺


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8/25

サキのノートはふざけている

 八月三十一日の朝、僕はスマホの通知で目を覚ました。


 顔認証に失敗しました。


 画面には、いつものようにそう表示されている。


「……今日くらい空気読めよ」


 スマホに文句を言っても、スマホは謝らない。


 僕は暗証番号(あんしょうばんごう)を打ち込んだ。


 最初に開いたのは、ミカとのトーク画面だった。


> 起きた。

> 生きてる。

> でも、今日って文字が重い。


 送信時刻は、五分前。


 僕はすぐに返信した。


> 起きた。

> 今日、助ける。


 既読はすぐについた。


> 朝から強い。


> 一日体験。


> 夕方まで保つ?


> 保たせる。


> じゃあ私も保つ。


 その文字を見て、胸の奥が少しだけ熱くなった。


 ミカは生きている。


 八月三十一日の朝。

 死亡記録の日。


 でも、まだ彼女は生きている。


 それだけを、何度も確認する。


 スマホの上部に、クロノグラフの通知が残っていた。


> 8/31 23:41

> 朝倉ミカ 死亡記録

> 状態:未固定

> PHASE 2 OVERRIDE:待機中

> 雨宮サキ:記録復元率 29%


 未固定。


 まだ固定されていない。


 その文字だけが、細い橋みたいに僕たちを支えている。


 でも、その橋の下には、黒い川が流れていた。


     *


 台所へ行くと、母さんが食卓に皿を置いていた。


 冷やし中華だった。


 麺。

 きゅうり。

 錦糸卵(きんしたまご)

 ハム。

 トマト。

 そして端に、唐揚げが二つ。


 完全に戻ってきている。


「……今日も?」


「夏だから」


「その理論、今日で最後にしてほしい」


「夏が終わればね」


 母さんは普通に笑った。


 でも僕は、冷やし中華を見て動けなかった。


 戻ってくるもの。

 炊き直し。

 時間の炊飯器。


 今日、この皿が出てくるのは偶然じゃない気がした。


 僕は箸で麺を少し持ち上げる。


 きゅうりの下。


 また紙があった。


「……やっぱり」


「え、また?」


 母さんが本気で驚く。


「うちの冷やし中華、何かに使われてる?」


「たぶん」


「たぶん禁止」


「母さんまで?」


「ミカちゃんが言いそう」


 僕は紙を取り出した。


 タレで濡れないよう、今日は透明な袋に入っていた。


 サキさん、衛生面だけは成長している。


 紙には、こう書かれていた。


> 八月三十一日の冷やし中華は食べるな。

> 縁起が悪い。

> でも残すと怒られるので、誰かに食べてもらえ。

> 料理に罪はない。

> ただし時間の炊飯器には罪がある。


「……食べるなって」


 母さんが僕を見る。


「何その紙」


「食べるなって書いてある」


「私の料理に対する反抗?」


「違う。超常的な栄養指導」


「何それ」


 僕は少し考えて、唐揚げを一つだけ食べた。


「冷やし中華は?」


「今日はやめとく」


「体調悪い?」


「悪いというか、今日だけは戻ってくるものを口に入れたくない」


「朝から詩人?」


「夏なので」


 母さんは呆れた顔をしながらも、それ以上は聞かなかった。


 その代わり、僕の前に水を置く。


「ミナト」


「うん」


「今日、花火大会行くんでしょ」


「行く」


「ミカちゃんと?」


「うん」


「ちゃんと帰ってきなさい」


 その言葉は、何度も聞いた。


 でも今日は、いつもより重かった。


「うん」


「ミカちゃんも」


「うん」


「あと、宿題も」


「それは帰ってこないかもしれない」


「一番現実的に困るやつ」


 僕は少し笑った。


 笑ってから、母さんの顔を見た。


 母さんは、何かを思い出せそうで思い出せない顔をしていた。


 たぶん、町に薄められた記憶の欠片(かけら)が、今日という日で浮かび上がっている。


「母さん」


「何?」


「僕の名前、今日も呼んで」


 母さんは少し驚いたあと、普通に笑った。


「ミナト」


「うん」


「瀬名湊斗」


 心臓の奥で、何かが小さく光った気がした。


「ありがと」


「何、急に」


「存在確認」


「また変なこと言ってる」


 母さんはそう言って笑った。


 でも、その声はちゃんと僕を呼んでいた。


     *


 午前十時。


 僕たちは三架神社の社務所裏に集まった。


 僕。

 ミカ。

 レン。

 そしてトメさん。


 白石先生は来ていない。

 黒瀬先輩も、祭り本部にいるはずだ。

 御堂は町役場側の本部で、花火大会の安全管理をしているらしい。


 神社は、昨日の祭りの名残を残しながら、今日の花火大会の準備へ移っていた。


 提灯はまだ吊るされている。

 屋台の一部は片づけられ、一部は夜の花火大会に合わせて移動される。

 境内には、朝なのにどこか夜の気配が残っていた。


 レンは、昨日の床下から見つけた封筒を持っていた。


 表には、サキさんの字。


> 八月三十一日に開けろ。

> その前に開けると、たぶん台無し。

> たぶん禁止でも、これは本当にたぶん。

> 信じろ、弟。

> そしてミカさんを一人にするな。


 ミカはその文字を見て、小さく息を吐いた。


「今日だね」


「はい」


 レンの声は硬かった。


「開けます」


「怒ってる?」


 ミカが聞くと、レンは言った。


「怒っています」


「怖い?」


「怖いです」


 昨日までなら、レンはそんなふうに言わなかった気がする。


 でも今日は、ちゃんと言った。


 サキさんの言葉が、少しだけ届いている。


 レンは封を切った。


 中には、数枚の紙と、小さな古い写真が入っていた。


 写真には、旧体育館の前に立つ数人が写っている。


 雨宮サキ。

 白石先生。

 黒瀬リョウより少し年上に見える少年。

 そして、役場の腕章をつけた御堂。


 少年の顔には、黒瀬先輩とよく似た雰囲気があった。


「黒瀬悠真」


 レンが呟いた。


 スマホが震える。


> CHRONOGRAPH

> 外部認識を検出

> 黒瀬悠真:関連記録を検出

> 雨宮サキ:記録復元率 29% → 31%


「名前だけで上がった」


 僕が言うと、レンは頷いた。


「姉の記録に直接関係しているからです」


 ミカは写真を見つめていた。


「黒瀬先輩、これを隠してるんだ」


「おそらく」


 レンは紙を広げた。


 最初のページには、大きくこう書かれていた。


> 八月三十一日用

> ミカさんを死なせないための、だいたい最終手順

> だいたい禁止?

> でも本当にだいたい。

> 現場は揺れる。

> 夏だから。


「不安になる始まり方」


 ミカが言った。


「姉らしいです」


 レンの声には、少しだけ諦めと懐かしさが混ざっていた。


 紙には、箇条書きが続いている。


> 一、ミカさんを一人にしない。

> 二、白石先生を一人にしない。

> 三、黒瀬リョウを敵にしない。でも全部信じるな。

> 四、御堂の放送を止める。無理なら上書きする。

> 五、二十五番スピーカーに三つの声を流す。

> 六、追い花火の二度目を、名前で迷子にする。

> 七、第三橋を見る。でも飲み込まれるな。

> 八、青いヘアピンを落としたら、必ず拾え。

> 九、ミナトくんは自分のせいにするな。する顔をしている。

> 十、レンは怒りだけで走るな。走るなら三人で。

> 十一、冷やし中華は食べるな。

> 十二、でも唐揚げは可。


「唐揚げは可」


 僕は思わず呟いた。


「朝、食べた」


「食べたんだ」


 ミカが少し笑う。


「冷やし中華は避けた」


「偉い」


「唐揚げは?」


「可」


「サキさん公認」


 ほんの少しだけ、空気が緩んだ。


 でも、それは長く続かなかった。


 次のページに、赤いペンで書かれた文字があった。


> 大事なこと。

> 一周目では、白石先生を止められない。

> たぶん、ミカさんは第三橋で落ちる。

> もしこの紙を一周目で読んでいるなら、ごめん。

> ここから先を読んでも、たぶん全部は防げない。

> 理由は、白石先生本人が自分を止められないから。

> でも、責めるだけではだめ。

> 先生は殺したいんじゃない。

> 遠ざけたい。

> 遠ざけ方を間違える。


 ミカの顔色が変わった。


 僕は紙を持つ手に力が入る。


 一周目。


 その言葉を、まだ僕たちは実感していない。


 でも、サキさんの紙には、まるで僕たちが失敗することを知っているように書かれていた。


「一周目って」


 ミカが小さく言う。


「これ、どういう意味?」


 レンは唇を噛んだ。


「姉は、クロノグラフが再帰(さいき)する可能性を見ていたのかもしれません」


「再帰?」


「失敗した記録を、八月二十五日に戻す処理」


 僕の背筋が冷えた。


「それって」


「まだ起きていません」


 レンはすぐに言った。


「ただ、姉は可能性として残していた」


「でも、もし失敗したら」


 ミカが言いかけて、言葉を止めた。


 誰も続きを言わなかった。


 失敗したら、八月二十五日に戻る。


 そんなこと、今の僕たちには信じきれない。


 いや、信じたくなかった。


 失敗する前提で今日を生きるなんて、できない。


 ミカは今日、死ぬかもしれない。


 戻れる保証なんてどこにもない。


「読む」


 ミカが言った。


「最後まで」


 レンは頷いた。


 次のページには、さらに細かく書かれていた。


> 白石先生について。

> 先生は、ミカさんを第三橋から遠ざけようとする。

> たぶん強引に。

> たぶん本人はそれを「守る」と呼ぶ。

> でも、本人の意思を奪った救いは、だいたい事故る。

> 先生を責めるなとは言わない。

> でも、孤立させるな。

> 孤立した善意は、ほぼ凶器。


 白石先生の「助けてくれ」という声が蘇る。


 彼は自分でも怖がっていた。


 記録が自分を使うかもしれないと知っていた。


 だからこそ、彼を一人にしてはいけない。


「白石先生、今日どこにいるんだろ」


 ミカが言った。


「探す必要があります」


 レンが言う。


「でも、近づきすぎるのも危険」


 僕は頷いた。


「僕とレンで先生を見張る。ミカはトメさんか、信頼できる人と一緒に」


「私をどこかに預ける作戦?」


 ミカの声が少し硬くなる。


 僕はすぐに言った。


「違う。ミカが決める」


 ミカは僕を見る。


「じゃあ、私も白石先生を見る」


「危ない」


「分かってる。でも、私の命の話だから」


 その言葉は、強かった。


「先生に勝手に決められるのが嫌なら、私も逃げない」


 僕は何も言えなかった。


 たしかにその通りだった。


 ミカを守るために、ミカを話から外したら、それは白石先生や黒瀬先輩と同じだ。


「分かった」


 僕は言った。


「一緒に見る。でも、絶対一人にはならない」


「うん」


「約束」


「予約完了」


 ミカはそう言って、少しだけ笑った。


     *


 サキさんの紙は、黒瀬先輩についても書いていた。


> 黒瀬リョウについて。

> たぶん爽やか。

> たぶん優秀。

> たぶん自分が正しいと思っている。

> そして、兄のことを隠している。

> 黒瀬悠真は、私の放送を止めた。

> 御堂に言われて。

> でも、リョウくんは悠真くんそのものではない。

> 兄の罪を隠す弟は、弟の罪も増やしてしまう。

> だから、名前を呼べ。

> 黒瀬悠真。

> ただし使いどころを間違えるな。

> 人は追い詰めると、守るために嘘を増やす。


「黒瀬悠真」


 ミカが小さく呼んだ。


 スマホが震える。


> 黒瀬悠真:関連認識増加

> 雨宮サキ:記録復元率 31% → 32%


「名前が、つながってる」


 僕は言った。


「サキさんだけじゃなく、黒瀬悠真の名前も必要なんだ」


「最終的には」


 レンは紙を見る。


「でも、今日使うタイミングは慎重にしたほうがいい」


「黒瀬先輩が暴走するかもしれないから?」


「はい」


 ミカは少し考えた。


「でも、黒瀬先輩も一人にしちゃだめってことだよね」


「敵にしない、と書いてあります」


「ややこしい」


「はい」


「白石先生も、黒瀬先輩も、悪い人じゃないけど危ない」


 ミカはため息をついた。


「善意の扱い、難しすぎない?」


「善意は免許制にすべき」


 僕が言うと、ミカが少し笑った。


「ミナト、落ちそう」


「僕は筆記で落ちる」


「実技も怪しい」


「何の実技だよ」


 レンが咳払いした。


「続きます」


 次のページは、御堂についてだった。


> 御堂について。

> この人は、たぶん一番話が通じる顔をしている。

> そして、一番話が通じない。

> 理由は、相手を人間として見ていないから。

> 記録、処理、整合性。

> そういう言葉で、人を箱に入れる。

> 御堂を止めるには、感情で殴ってもだめ。

> 記録で殴れ。

> 証言、名前、目撃、音声。

> 町が消したものを、町の前に出せ。


「記録で殴れ」


 ミカが言った。


「物騒だけど、ちょっと好き」


「姉の表現です」


 レンの声は苦い。


「でも正しい。御堂に対抗するには、証拠が必要です」


「証拠って、サキさんの音声とか写真とか?」


「はい。白石先生の証言も必要です。黒瀬悠真の名前も。瀬名先輩の仮登録も」


「全部、明日じゃなくて今日やるのか」


 僕が言うと、レンは頷いた。


「今日です」


 今日。


 何度聞いても重い言葉だった。


     *


 最後のページには、ミカへの言葉があった。


> ミカさんへ。

> たぶん、あなたは怖いのに笑う人です。

> たぶん禁止?

> でもこれは当たってる気がする。

> 笑うなとは言いません。

> 笑えるなら笑って。

> でも、死にたくない時は死にたくないって言って。

> 助けてほしい時は助けてって言って。

> 誰かを守るために、自分が黙って落ちる必要はない。

> あなたは、物語の犠牲役じゃない。

> 生きていい人です。


 ミカは紙を見つめたまま、動かなかった。


 青いヘアピンが、朝の光を受けて小さく光っている。


 しばらくして、ミカは小さく言った。


「会ったことないのに」


 声が震えていた。


「何でこんなに分かるんだろ」


 トメさんが静かに言った。


「サキちゃんも、そういう子だったからね」


「笑ってたんですか」


「笑ってたよ。怖い時ほどね」


 ミカは目を伏せた。


「そっか」


 それから、顔を上げた。


「私、死にたくない」


 その言葉は、まっすぐだった。


 昨日までより、ずっと。


「怖いし、逃げたいし、花火なんか見たくない。でも死にたくない」


 僕は頷いた。


「うん」


「助けて」


「聞こえてる」


「聞き逃さないで」


「聞き逃さない」


 ミカは、少しだけ泣きそうな顔で笑った。


「じゃあ、行こう」


「どこへ?」


「今日を終わらせに」


 その言い方は、かっこよかった。


 でもミカはすぐに付け足した。


「あと、できれば途中でラムネ飲みたい」


「急に日常」


「生きてるので」


「それは大事」


 レンが静かに紙をたたんだ。


「行動計画を確認します」


 いつもの理屈っぽい声。


 でも今日は、そこにちゃんと熱があった。


     *


 僕たちは作戦を決めた。


 まず、午後は町の中で別々に情報を集める。


 レンは二十五番スピーカーの上書き音声と、クロノグラフのログを再確認する。


 僕とミカは白石先生を探す。


 ただし、ミカは絶対に一人にならない。

 僕と離れる時は、トメさんかレン、あるいは人目の多い場所にいる。


 黒瀬先輩とは、夕方に接触する。


 黒瀬悠真の名前を出すかどうかは、状況次第。


 御堂とは、できるだけ直接対決しない。

 ただし、御堂が町内放送や緊急チャイムを使おうとしたら、二十五番スピーカーで上書きする。


 そして、二十三時四十一分。


 追い花火の時刻。


 二十五番スピーカーから、三つの声を流す。


 朝倉ミカ。


 生きている。


 その名前を町に聞かせる。


 人々に見てもらう。


 二度目を迷子にする。


 ミカの死亡記録を固定させない。


「言うと簡単そうなのに」


 ミカが言った。


「全然簡単じゃない」


「簡単なら七話も使ってない」


 僕が言うと、ミカが笑った。


「物語目線やめて」


「今日くらいは」


「便利」


 レンは真顔で言った。


「七話分の情報量はあります」


「レンくんまで乗らないで」


「事実です」


「事実にも空気」


 トメさんがラムネを三本持ってきた。


「持っていきな」


「ありがとうございます」


 ミカが一本受け取る。


 瓶の中でビー玉が、からんと鳴った。


「誰かを見つける音」


 ミカが言う。


「今日は何回も鳴らすことになりそうだね」


 トメさんはミカを見て、少しだけ目を細めた。


「ミカちゃん」


「はい」


「怖かったら、怖いって言いな」


「言います」


「死にたくなかったら、死にたくないって言いな」


「言います」


「生きたかったら、生きたいって言いな」


 ミカは一瞬だけ目を伏せた。


 それから、はっきり頷いた。


「言います」


     *


 午後。


 三架町は花火大会の顔になっていた。


 商店街には浴衣の人が増え、海沿いの道には屋台が並び、川沿いには場所取りのシートが敷かれ始めている。


 第三橋周辺には、立入禁止テープが追加されていた。


 でも人の流れは、どう見てもそこへ向かっている。


 町が、ミカをあの場所へ連れていこうとしている。


 そんな気がした。


 白石先生は、学校にはいなかった。


 理科準備室も空。

 旧体育館にもいない。

 第三橋にも、少なくとも昼の時点では姿がない。


 代わりに、僕たちは先生の机の上にメモを見つけた。


 理科準備室の奥。


 白石先生の字で、短く書かれていた。


> 二度目は止める。

> だが、俺に近づくな。

> 俺が朝倉を掴んだら、迷わず止めろ。

> すまない。


 ミカはそのメモを見て、長く黙っていた。


「先生、本当に自分が怖いんだ」


「うん」


「私も怖い」


「うん」


「でも、止める」


 ミカはメモを畳んだ。


「先生も、私も、落ちないように」


 その言葉は、白石先生を許す言葉ではなかった。


 でも、ただ犯人にする言葉でもなかった。


 それがきっと、今日必要なことなのだ。


 誰か一人を悪者にしても、ミカは救えない。


 白石先生の沈黙も。

 黒瀬先輩の隠し事も。

 御堂の処理も。

 全部、名前で呼ばなければならない。


     *


 夕方、黒瀬先輩は花火大会本部のテントにいた。


 川沿いの広場に設置された本部には、町内会の人、警備員、消防団、役場の職員が出入りしている。


 御堂の姿も遠くに見えた。


 黒瀬先輩は僕たちに気づくと、少しだけ表情を曇らせた。


「来たんだね」


「来ました」


 僕が答える。


「朝倉さん、今日は人混みに近づかないほうがいい」


「それ、もう聞きました」


 ミカは言った。


「でも私は、自分で歩きます」


 黒瀬先輩は困ったように笑った。


「強いな」


「怖いから強くしてるだけです」


「それも聞いた」


「何度でも言います」


 ミカの声は震えていたけれど、引かなかった。


 僕は黒瀬先輩を見た。


「黒瀬悠真」


 その名前を出した瞬間、黒瀬先輩の顔から笑顔が消えた。


 スマホが震える。


> 黒瀬悠真:外部認識を検出

> 雨宮サキ:記録復元率 32% → 34%


「どこでその名前を」


 黒瀬先輩の声は低かった。


「サキさんの記録にありました」


 レンが後ろから言う。


「あなたの兄は、三年前に雨宮サキの放送を止めた」


 黒瀬先輩はレンを見る。


 いつもの爽やかさはなかった。


「ここでその話をするのは危険だ」


「危険だから、ずっと黙っていたんですか」


 レンの声も低い。


「その沈黙で、姉の名前は消えました」


 黒瀬先輩は唇を噛んだ。


「僕は兄を守りたかった」


「知っています」


 レンは言った。


「でも、それで朝倉先輩を動かそうとするなら、あなたも同じです」


 ミカが一歩前に出る。


「黒瀬先輩」


「朝倉さん」


「私を助けたいなら、私を勝手に動かさないでください」


 黒瀬先輩は何も言わなかった。


「逃がしたいなら、理由を言ってください。離れろって言うなら、何から離れるのか言ってください。ミナトから離れろって言うだけなら、私は聞きません」


 黒瀬先輩は、長く沈黙した。


 そして、ようやく言った。


「兄は、御堂さんに従った」


 その声は、ひどく乾いていた。


「三年前、雨宮サキさんが町内放送で何かを流そうとした。御堂さんは、それを混乱を招く危険な放送だと言った。兄は止めた。町を守るためだと信じて」


「それでサキさんは死んだ」


 僕が言うと、黒瀬先輩は目を伏せた。


「そうだ」


 スマホが震えた。


> 黒瀬悠真:証言断片を検出

> 雨宮サキ:記録復元率 34% → 38%


「先輩」


 僕は言った。


「今日、それを隠さないでください」


「言えば、兄は」


「間違えた人間として記録される」


 レンが言った。


「正しい人間として守るより、そのほうがましです」


 黒瀬先輩は、レンを見た。


 怒っているようにも、泣きそうなようにも見えた。


「君は強いね」


「強くありません」


 レンは即答した。


「怒っているだけです」


「それでも」


 黒瀬先輩は小さく息を吐いた。


「分かった」


 彼は本部のテントを見る。


 御堂がこちらを見ていた。


「今夜、御堂さんは緊急チャイムを使うつもりだ」


 僕の心臓が跳ねた。


「二度目として?」


「たぶんね」


「禁止」


 ミカが反射的に言う。


 黒瀬先輩は少し驚いた顔をして、それから苦笑した。


「そうか。じゃあ、使うつもりだ」


 その言葉で、空気が変わった。


 御堂は、やはり二度目を鳴らす気だ。


 花火ではなく。

 町内放送でもなく。

 緊急チャイムで。


 クロノグラフの固定処理を動かすために。


「止められますか」


 僕が聞くと、黒瀬先輩は言った。


「僕が本部の内部から時間を稼ぐ。君たちは二十五番を使って上書きして」


「先輩は」


「兄の名前を出す」


 黒瀬先輩は小さく笑った。


 でも、今度の笑顔は爽やかではなかった。


 痛そうだった。


「たぶん、これが僕の役割だ」


 スマホが震える。


> 協力者:黒瀬リョウ

> 状態:不安定

> 黒瀬悠真:関連証言待機


 不安定。


 でも、敵ではない。


 少なくとも今は。


     *


 夜が来た。


 花火大会が始まった。


 川沿いには人が溢れ、屋台の明かりが水面に揺れている。

 浴衣の袖。

 焼きそばの匂い。

 ラムネの瓶。

 子どもたちの笑い声。


 空に、一発目の花火が上がった。


 どん。


 大きな音。


 ミカの肩が跳ねる。


 僕はすぐに彼女を見る。


「大丈夫じゃない」


 ミカは先に言った。


「でも立ってる」


「うん」


「朝倉ミカ、生存確認」


「完了」


 僕は答えた。


 レンは端末を持ち、二十五番スピーカーの点検箱の前にいた。


 三本のハズレ棒は、すでに差し込まれている。


> 三者保持鍵:認証

> PHASE 2 OVERRIDE:待機中

> 指定時刻:23:41


 トメさんは少し離れた場所で、人混みの流れを見ている。


 白石先生の姿は、まだ見えない。


 黒瀬先輩は本部に戻った。


 御堂は、本部テントの中。


 すべてが動いている。


 すべてが、二十三時四十一分へ向かっている。


 ミカは青いヘアピンに触れた。


「ミナト」


「何」


「私、今、生きてるよね」


「生きてる」


「見えてる?」


「見えてる」


「名前、呼べる?」


「何度でも」


 僕は彼女の名前を呼んだ。


「朝倉ミカ」


 ミカは息を吸う。


「私は、生きてる」


 レンが端末を見た。


「上書き音声と同期しました」


 空には、次々と花火が上がる。


 赤。

 青。

 金。

 白。


 人々の歓声。


 町が、一番明るい夜。


 その中で、僕たちは一番暗い記録と向き合っている。


 スマホが震えた。


> 23:30

> 死亡記録固定準備

> 対象:朝倉ミカ

> 場所:第三橋下流

> 固定率:上昇中


 ミカが画面を見た。


 顔色が変わる。


 僕は彼女の手を握った。


「行こう」


「どこへ?」


「第三橋」


 ミカの手が震える。


「行くんだ」


「見る。でも飲み込まれない」


 サキさんの言葉。


 第三橋を見る。

 でも飲み込まれるな。


 ミカは唇を噛んだ。


 それから、頷いた。


「行く」


 レンが端末を持って立ち上がる。


「二十五番スピーカーは第三橋手前です。移動しながら制御します」


「頼む」


「頼まれました」


 レンは赤いヨーヨーをリュックに結び直した。


「姉の記録も連れて行きます」


 僕たちは人混みの中へ進んだ。


 花火の音が、夜を揺らしている。


 その向こうで、二十五番スピーカーが静かにこちらを見下ろしていた。


 八月三十一日、二十三時三十四分。


 追い花火まで、あと七分。


 ミカが死ぬ記録まで、あと七分。


 でも、まだ終わっていない。


 まだ、彼女は僕の隣にいる。


 僕はその手を、強く握った。


「朝倉ミカ」


「うん」


「絶対に離さない」


 ミカは泣きそうな顔で笑った。


「予約完了」


 空に、大きな花火が開いた。


 それは綺麗で、怖くて、どうしようもなく夏だった。

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