二度目の花火は鳴らない
八月二十九日の朝、僕は花火の音で目が覚めた。
どん。
腹の底を叩くような低い音。
僕は布団の上で跳ね起きた。
「……ミカ!」
叫んでから、部屋の中を見回す。
自分の部屋。
机。
積み上がった宿題。
窓の外の青い空。
スマホを見る。
八月二十九日。
午前七時十三分。
八月三十一日ではない。
花火大会の日でもない。
僕は息を吐いた。
でも、心臓はまだ暴れていた。
窓を開ける。
外では、町内放送のスピーカーから音声が流れていた。
『本日、三架町納涼花火大会の試験打ち上げを行います。大きな音が鳴る場合がありますので、ご注意ください』
「試験打ち上げ……」
僕は窓枠に手をついた。
そういえば、花火大会の前には安全確認のために小さな試験打ち上げをする。
去年もあった気がする。
でも、今の僕にとって花火の音は、ただの夏の音ではなかった。
八月三十一日。
二十三時四十一分。
追い花火。
一度目で認識。
二度目で固定。
どん、ともう一度、遠くで音が鳴った。
体が勝手に強張る。
花火はまだ見えない。
昼の空に、白い煙だけが細く上がっていた。
スマホが震えた。
ミカからだった。
> 起きてる?
> 今の音、心臓に悪い。
僕はすぐに返信した。
> 起きた。
> 花火の音で死ぬかと思った。
すぐ既読。
> 私は死ぬ予定なので、その表現は不謹慎。
僕は一瞬、何と返せばいいか分からなくなった。
ミカは冗談にしている。
怖いから、そうしている。
軽く返すべきか。
真面目に受け止めるべきか。
少し迷ってから打った。
> 予定はキャンセルする。
> 予約取り消し?
> 時間の炊飯器ごと止める。
> その比喩、朝から胃もたれする。
ミカらしい返事。
それだけで少し安心した。
続けて、レンからもメッセージが来た。
> 本日、試験打ち上げがあります。
> 追い花火制御と二十五番スピーカーの接続確認が行われる可能性があります。
> 放課後では遅いです。
> 午前十時、三架神社裏の倉庫へ来てください。
「午前十時……」
僕は時計を見る。
補習の時間とかぶっている。
つまり、レンは普通に補習をサボれと言っている。
いや、正確には「生存優先」と言うのだろう。
僕はベッドから降りた。
今日の予定は決まった。
補習より大きい補習。
夏の補習だ。
*
台所に行くと、母さんが食卓に皿を置いていた。
トースト。
目玉焼き。
サラダ。
冷やし中華ではない。
「普通だ」
「またそれ?」
母さんが眉を上げる。
「朝食に普通を感じられる幸せ」
「何か悟った?」
「麺類に裏切られたので」
「冷やし中華に謝りなさい」
「向こうが先にメモを隠してきた」
「何の話?」
「家庭内ミステリー」
僕は椅子に座った。
トーストをかじる。
普通の味がした。
普通というのは、ありがたい。
でも、ありがたいものほど、簡単に壊れる。
「ミナト」
母さんが言った。
「今日、試験花火あるみたいね」
「うん」
「びっくりした?」
「心臓が一回退部した」
「戻ってきた?」
「再入部した」
「よかった」
母さんは笑った。
でも、すぐに少しだけ真面目な顔になる。
「花火大会、今年も行くの?」
「たぶん」
言ってから、ミカの「たぶん禁止」が頭に浮かんだ。
僕は言い直す。
「行く」
「ミカちゃんと?」
「うん」
「気をつけなさいよ」
「何に?」
「人混みと、川」
僕はトーストを持つ手を止めた。
「川?」
「花火大会の日って、川沿い混むでしょ。昔、事故もあったし」
「事故って」
「何だったかな」
母さんは首をかしげた。
「誰かが落ちたとか、怪我したとか。はっきり覚えてないけど」
はっきり覚えていない。
それでも、言葉は残っている。
川。
落ちる。
事故。
町が忘れさせても、欠片だけは人の中に残る。
「母さん」
「何?」
「八月三十一日の夜、もし僕が遅くなったら」
「またそれ?」
「うん」
「帰ってきなさい」
「それ以外は?」
「ミカちゃんも、ちゃんと帰してあげなさい」
胸が少し詰まった。
「うん」
「あと、宿題も帰してあげなさい」
「宿題は旅に出た」
「連れ戻しなさい」
僕は少し笑った。
母さんの冗談が、今日は妙にありがたかった。
*
午前九時半。
僕はミカと商店街の入り口で合流した。
ミカは青いヘアピンをつけていた。
今日はいつもより、少し強く留めているように見える。
「おはよう」
ミカが言った。
「おはよう。補習は?」
「夏が滅びそうなので欠席」
「言い訳の規模が僕に似てきた」
「感染した」
「不機嫌ウイルスに続いて、省エネウイルス」
「症状は?」
「宿題を都市伝説扱いする」
「最悪」
ミカは笑った。
けれど、遠くで試験花火の音が鳴った瞬間、その笑顔が少しだけ崩れた。
どん。
体が小さく震える。
僕は気づいた。
「ミカ」
「大丈夫」
反射みたいに返ってきた。
でも、そのあとミカはすぐに言い直した。
「大丈夫じゃない。でも歩ける」
「うん」
「朝から花火は反則」
「分かる」
「心臓がびっくり箱になった」
「それは嫌だな」
「開けると悲鳴が出る」
「閉めとこう」
僕たちは歩き出した。
三架神社へ向かう坂道は、朝から暑かった。
途中、電柱の上に町内放送のスピーカーがある。
僕は自然と見上げてしまう。
二十五番ではない。
でも、どのスピーカーも同じ顔をしていた。
白くて、古くて、町の声を流す口。
この町には、声の出口が多すぎる。
でも、本当に必要な声は、ずっと届かなかった。
雨宮サキの名前。
ミカの助けて。
白石先生の沈黙。
全部が、どこかで詰まっている。
*
三架神社裏の倉庫は、夏祭りの備品置き場になっていた。
提灯。
折りたたみ机。
古い法被。
紙コップ。
金魚すくい用のポイ。
そして、放送設備の予備ケーブル。
レンはすでに倉庫の前にいた。
黒いリュック。
黒いノート。
そして今日は、首から古いカセットプレーヤーをぶら下げている。
「遅いです」
「五分前だろ」
「僕は十五分前に来ています」
「それを基準にするなって前も言った」
「改善されていません」
「どっちが?」
「瀬名先輩です」
「理不尽」
ミカがカセットプレーヤーを指差した。
「レンくん、今日は音楽家?」
「違います」
「何聴くの?」
「姉のノイズです」
「言い方」
レンは倉庫の鍵を取り出した。
「トメさんから借りました」
「トメさん、何でも持ってるな」
「この町の古いものは、だいたいトメさんの店か役場にあります」
「二大保管庫」
「片方は信用できません」
「役場?」
「はい」
レンは鍵を開けた。
倉庫の中は、湿気と古い木の匂いがした。
外より少し暗い。
ミカが僕の袖を掴む。
「軽量版?」
「軽量版と見せかけて中量版」
「高度な運用」
「倉庫って怖くない?」
「怖いな。何か出そう」
「何が?」
「未提出の宿題」
「一番怖い」
レンが無言で振り返った。
「静かにしてください」
「はい」
「すみません」
僕とミカは同時に謝った。
レンは倉庫の奥へ進み、古い放送機材の箱を開けた。
中には、マイク、コード、小型のミキサー、そして古い町内放送用の接続端末が入っていた。
「昨日、二十五番スピーカーのログを解析しました」
レンが言った。
「二度目の花火は、実際の花火とは限りません」
「それ、昨日も言ってた」
僕は頷いた。
「花火の音か、町内放送か、同期信号」
「はい」
レンは端末を起動する。
古い画面に文字が表示された。
> SPEAKER NETWORK TEST
> MIKAKE TOWN
> ROUTE 25 / AUXILIARY
「二十五番スピーカーは、第三橋下流の音声認識地点です」
レンは説明を始めた。
「追い花火の一度目で、対象者を認識する。二度目で、記録を固定する。ここまでは昨日分かりました」
「対象者って、私?」
ミカが聞く。
「はい」
レンは少しだけ言葉を選ぶように間を置いた。
「現時点では、朝倉先輩です」
「現時点では、って言い方も怖い」
「固定前なので」
「事務的」
「感情的に言っても結果は変わりません」
「でも、少し優しく言って」
レンは少し黙った。
「……朝倉先輩は、まだ固定されていません」
ミカは少し笑った。
「うん。そっちのほうがいい」
「手間が増えました」
「優しさは手間」
「不合理です」
「でも必要」
レンは不服そうだったが、反論はしなかった。
僕は端末を見る。
「それで、二度目って何なんだ」
「おそらく、二つの条件があります」
レンは画面にログを表示した。
> PHASE 1:追い花火音圧検出
> PHASE 2:町内放送補正信号
> PHASE 2 BACKUP:手動放送/緊急チャイム
「一度目は花火の音」
レンが言う。
「二度目は町内放送の補正信号。もしそれが止められても、手動放送や緊急チャイムが代わりに二度目として扱われる可能性があります」
「つまり」
ミカが顔をしかめる。
「花火を止めても、放送が鳴ったらアウト?」
「可能性があります」
「難易度、高すぎない?」
「はい」
「はいじゃない」
僕はログを見つめた。
町内放送。
緊急チャイム。
二十五番スピーカー。
八月三十一日の夜、町には人が集まる。
花火が鳴る。
放送が流れる。
誰かが危ないと叫ぶ。
白石先生がミカを止めようとする。
その全部が、クロノグラフにとっては「二度目」になり得る。
「じゃあ、全部止める必要があるのか」
「全部止めるのは無理です」
レンは即答した。
「町内放送全体を止めれば混乱しますし、花火大会自体を中止する権限もありません」
「じゃあどうする」
「二度目として認識されないようにする」
「具体的には?」
「二十五番スピーカーの補正信号を、別の音声で上書きする」
ミカが目を丸くした。
「上書き?」
「はい」
レンはサキのノートを開いた。
「姉の記述です」
> 二度目の花火は鳴らない。
> 鳴らない、というか、鳴ったことにしない。
> 炊飯器の予約音が鳴る前に、別の音で台所を満たす感じ。
> 例えが分かりにくかったらごめん。
> とにかく、二十五番に声を流せ。
> 名前を流せ。
> 花火の音より、記録の音より、人の声を先に置く。
> そうすると、二度目が迷子になる。
> 二度目も迷子になる時代。
「二度目が迷子」
ミカが言った。
「かわいい言い方してるけど、やること怖いね」
「姉はそういう人です」
レンは続けて読む。
> 必要な声は三つ。
> 見つけた人。
> 見つけられた人。
> 忘れられた人の家族。
> 三つの声が、同じ名前を呼ぶこと。
> 呼ぶ名前は、朝倉ミカ。
> ただし、雨宮サキも忘れるな。
> ついでみたいに書くなって? すみません私です。
「同じ名前を呼ぶ」
僕はミカを見る。
「ミカの名前を?」
「うん」
ミカは少しだけ照れたように、でも怖そうに笑った。
「花火大会の夜に、町内放送で私の名前呼ぶの?」
「目立つな」
「公開処刑では?」
「生存処理だ」
「言い方」
レンが真面目に頷いた。
「実際、目撃者を増やす必要があります」
「目撃者?」
「クロノグラフは、朝倉先輩の死亡記録を固定しようとしています。ですが、その瞬間に多くの人が朝倉先輩を『生きている人物』として認識すれば、固定率を下げられる可能性があります」
「つまり、みんなにミカを見てもらう」
僕が言う。
「名前を聞いてもらう」
「はい」
「それが二度目の上書き」
「そうです」
ミカは自分の胸に手を当てた。
「私の名前、町に流すのか」
「嫌か?」
僕が聞くと、ミカは少し考えた。
「嫌」
「うん」
「でも、死ぬよりは嫌じゃない」
「命がかかってるので」
「私の台詞」
「便利だから」
ミカは苦笑した。
「じゃあ、やる」
その声は震えていた。
でも、逃げてはいなかった。
*
問題は、三本目のハズレ棒だった。
僕が一本。
レンが一本。
ミカの一本だけが、まだない。
サキのノートには、こうある。
> 見つけられた人の棒は、落として拾われると出る。
> ただし危ない場所でやるな。
> 橋とか。
> 本当にやるな。
> フリじゃない。
> 芸人根性を出すな。
「フリじゃないって書いてある」
ミカが言った。
「サキさん、こっちの思考を読んでる」
「姉は危険予測だけは細かいです」
レンが言う。
「自分の危険予測は甘かったみたいですが」
その言い方は冷たかった。
でも、冷たいというより、痛みを隠すために硬くしているように聞こえた。
ミカはレンを見て、少しだけ表情を柔らかくした。
「レンくん」
「何ですか」
「サキさんのこと、怒ってる?」
「怒っています」
即答だった。
「でも、探してる」
「怒っているからです」
「そっか」
ミカはそれ以上言わなかった。
レンもそれ以上言わなかった。
でも、その沈黙は前より少しだけ近かった。
トメさんの駄菓子屋なら、青いヘアピンを落としても危険が少ない。
人目がある。
橋から遠い。
トメさんもいる。
クロノグラフの同期地点からも離れている。
ということで、僕たちは昼前に駄菓子屋へ向かった。
店先でトメさんはうちわを扇いでいた。
「来ると思ってたよ」
「今日も安定してますね」
僕が言うと、トメさんは笑った。
「年寄りの挨拶だよ」
「こんにちは、くらいの頻度」
「そうだね。こんにちは、来ると思ってたよ」
「混ざった」
ミカは青いヘアピンに触れたまま、少し緊張している。
トメさんはそれに気づいて、やさしく言った。
「ここなら大丈夫だよ」
「本当ですか」
「絶対とは言えないね」
「ですよね」
「でも、一人じゃない」
ミカは小さく頷いた。
店の前には、僕、ミカ、レン、トメさんがいる。
昼間の商店街には人通りもある。
子どもがアイスを買いに来ている。
自転車のおじさんが通る。
花火大会のポスターが風に揺れている。
普通の町。
普通の夏。
その中で、僕たちは青いヘアピンを落とそうとしている。
「じゃあ」
ミカは深く息を吸った。
「やる」
「無理するなよ」
「無理はしてる」
「正直」
「でも、必要だから」
ミカは青いヘアピンを外した。
その瞬間、僕は少しだけぞっとした。
ミカの左側の髪が、ふっと軽くなる。
ただヘアピンを外しただけなのに、彼女の輪郭が少し薄くなったように見えた。
「ミカ」
「いるよ」
彼女はすぐに言った。
「朝倉ミカ、ここにいます」
その言葉に、僕は息を吐いた。
ミカはヘアピンを胸の高さまで持ち上げる。
手が震えている。
「落とすよ」
「うん」
「拾ってね」
「拾う」
「絶対」
「絶対」
ミカは青いヘアピンを落とした。
からん。
アスファルトに当たって、小さな音が鳴った。
ラムネ瓶のビー玉みたいな音だった。
その瞬間、スマホが震える。
> CHRONOGRAPH
> 青色認識タグ:一時脱落
> 朝倉ミカ:外部認識低下
> 固定率:微増
「ミナト!」
ミカの声が少し遠くなる。
いや、距離は変わっていない。
でも、視界の中でミカが薄くなった気がした。
背筋が冷える。
僕はすぐにしゃがみ込み、ヘアピンを拾った。
指先がそれに触れた瞬間、青い光が小さく走った。
> 青色認識タグ:拾得
> 拾得者:瀬名湊斗
> 相互認識:再成立
> 朝倉ミカ:生存中
「ミカ!」
僕は顔を上げた。
ミカはそこにいた。
青ざめた顔で、でもちゃんと立っていた。
「いる」
ミカが震える声で言った。
「私、いる?」
「いる」
僕はヘアピンを差し出した。
「朝倉ミカ、生存確認完了」
ミカはヘアピンを受け取り、少し震える手で髪に留め直した。
「瀬名湊斗、存在確認完了」
スマホがもう一度震えた。
> 三者保持鍵:条件達成
> 見つけられた人:朝倉ミカ
> 付与待機
店の奥で、何かが落ちる音がした。
トメさんが「ああ」と言って、棚の下を覗き込む。
そこから、一本のハズレ棒を拾い上げた。
「出たね」
トメさんはそれをミカに渡した。
棒には、同じ番号が印刷されていた。
031-824-25。
ミカはそれを見つめて、苦笑した。
「外れなのに、こんなにうれしくないことある?」
「ある意味、当たりだな」
「不吉な当たり」
レンが三本のハズレ棒を並べた。
僕の一本。
レンの一本。
ミカの一本。
同じ番号。
031-824-25。
「三者保持鍵が揃いました」
レンの声が少しだけ強くなる。
「これで二十五番スピーカーの点検箱を開けられる可能性があります」
「開けたら怒られる?」
ミカが聞く。
「怒られるだけなら勝ちです」
レンは真顔で答えた。
「サキさんの言葉、便利に使ってる」
「姉の言葉ですから」
その時、遠くで試験花火が鳴った。
どん。
ミカの肩が跳ねる。
僕は反射的に彼女の手元を見た。
青いヘアピンは、ちゃんと留まっている。
ミカもそれを確かめるように触れた。
「落ちてない」
「うん」
「拾ってくれた」
「うん」
ミカは小さく息を吐いた。
「ちょっとだけ、練習できた」
でも、僕は思っていた。
これが橋の上だったら。
これが八月三十一日の夜だったら。
これが人混みの中だったら。
僕は同じ速さで拾えるのか。
その前に、ミカの手を掴めるのか。
怖さが、少しだけ現実の形を持った。
*
午後、僕たちは第三橋へ向かった。
三本のハズレ棒を持って。
今回はミカも一緒だ。
でも、橋には上がらない。
点検箱は橋の手前、二十五番スピーカーの電柱下にある。
そこまでなら、昨日決めた条件の範囲内だった。
川沿いの道は、試験花火の関係で町の作業員が何人か歩いていた。
花火大会の準備は、着実に進んでいる。
八月三十一日が、近づいている。
「手早くやります」
レンが言った。
「見つかったら?」
僕が聞く。
「逃げます」
「意外と単純」
「怒られるだけなら勝ちです」
「サキさんの精神が継承されてる」
「不本意です」
点検箱の前に立つ。
三つの細い溝。
僕たちはそれぞれのハズレ棒を差し込んだ。
左から、僕。
真ん中にミカ。
右にレン。
かちり。
前より大きな音がした。
点検箱の表示が赤から青に変わる。
> 三者保持鍵:認証
> SPEAKER25:仮開放
箱が開いた。
「開いた」
ミカが小声で言う。
「本当に駄菓子屋のハズレで町内放送が開いた」
「三架町のセキュリティ、終わっています」
レンが真顔で言った。
「レンくんが言うと深刻」
箱の中には、古い端子と小さなスイッチ、それから手書きのラベルが貼られた接続口があった。
> AUX 25
> 追い花火補正
> 手動放送入力
その下に、薄いペンで何か書かれている。
サキさんの字だった。
> ここにマイク。
> 大きな声で。
> 噛むな。
> 噛んでも死ぬわけじゃないけど、気まずい。
「サキさん、緊張感の削り方がすごい」
ミカが呟く。
レンは端末を接続した。
画面にログが表示される。
> PHASE 2 SIGNAL:予約済
> 8/31 23:41:30
> SOURCE:TOWN_EMERGENCY_CHIME
> BACKUP SOURCE:MANUAL OVERRIDE
> USER:SHIRAISHI
「白石」
僕の声が低くなった。
ミカの顔が強張る。
「先生が、二度目を?」
レンは画面を睨む。
「予約者として白石先生の認証が残っています」
「じゃあ、やっぱり先生が」
ミカの声が震えた。
僕は歯を食いしばる。
白石先生。
ミカを第三橋から遠ざけようとしている。
でも、二度目の信号を予約している。
助けたいのか。
殺したいのか。
どっちだ。
いや、サキさんの言葉を思い出せ。
悪い人じゃない。
でも、守り方を間違える。
「断定は危険です」
レンが言った。
「予約者が先生でも、意図はまだ不明です」
「でも」
ミカが言いかける。
レンは続けた。
「先生は、二度目の信号を止めるために予約している可能性もあります。手動で割り込むためには、事前に認証を登録する必要があるのかもしれません」
「つまり、先生が二度目を鳴らすか、止めるか、まだ分からない」
僕が言うと、レンは頷く。
「はい」
「分からないこと多すぎ」
ミカが小さく言った。
「しかも、全部命に関わってる」
レンは端末を操作した。
「上書き用の音声入力は可能です。ただし、当日まで保存するには、三つの声を録音する必要があります」
「今?」
「今です」
「ここで?」
「はい」
「町内放送に流れたりしない?」
「テストモードなら流れません」
「信用していい?」
「機械は信用できます」
「町は?」
「信用できません」
「分かりやすい」
僕たちは点検箱の前にしゃがんだ。
レンが小さなマイクを接続する。
「三つの声で、同じ名前を呼びます」
「朝倉ミカ?」
「はい」
ミカが緊張した顔になる。
「自分の名前を自分で呼ぶの、変じゃない?」
「変でも必要です」
「レンくん、こういう時だけ押しが強い」
「生存優先です」
レンは録音ボタンを押した。
「まず瀬名先輩」
僕はマイクの前に顔を近づける。
風が吹く。
川の匂い。
夏の熱。
遠くの試験花火の煙。
僕は息を吸った。
「朝倉ミカ」
自分でも驚くくらい、声が震えた。
でも、ちゃんと呼んだ。
「生存確認完了」
レンが頷く。
「次、朝倉先輩」
ミカはマイクを見る。
少しだけ唇を噛む。
それから、まっすぐ言った。
「朝倉ミカ」
自分の名前。
彼女自身の声で。
「私は、生きてる」
その言葉に、胸が詰まった。
レンは少しだけ目を伏せた。
「最後、僕です」
レンはマイクを持つ。
「朝倉ミカ」
声は硬かった。
でも、逃げてはいなかった。
「記録確認。生存中」
画面に文字が表示される。
> 三声入力:完了
> 上書き音声:仮登録
> PHASE 2 OVERRIDE:待機
「できた?」
ミカが聞く。
「仮登録です」
レンは言った。
「本登録には、雨宮サキの記録復元率が一定以上必要です」
「どれくらい?」
「最低でも二十五パーセント」
「今は?」
僕はスマホを見る。
> 雨宮サキ:記録復元率 9%
「全然足りない」
ミカが呟く。
「はい」
レンの声が少しだけ沈む。
「姉の名前を、もっと戻す必要があります」
「どうやって?」
僕が聞くと、レンはサキのノートを開いた。
「次の手がかりがあります」
> 不機嫌な座敷わらしを探せ。
> 赤いヨーヨー。
> いちご味。
> 神社の床下。
> レンが怒る。
> でも怒っても開けろ。
> 怒るのは生きてる証拠。
レンは無言でノートを閉じた。
「読ませろ」
僕が言うと、レンは嫌そうな顔をした。
「内容は把握しました」
「今、明らかに自分に関係ある部分を隠しただろ」
「姉の私的な記述です」
「ふざけてるけど重要なんだろ」
「……重要です」
ミカが少し笑った。
「不機嫌な座敷わらしって、レンくん?」
「違います」
「赤いヨーヨー持ってそう」
「持っていません」
「いちご味は好き?」
「……別に」
「間があった」
レンは耳のあたりを少し赤くした。
「とにかく」
彼は強引に話を戻した。
「姉の記録復元には、神社の床下を調べる必要があります」
「神社」
ミカが言う。
「昨日、私が泣いてた場所」
「はい」
「また行くんだ」
「行きます」
レンの声は硬い。
でも、どこか怖がっているようにも聞こえた。
サキのノートは、レンのことを見透かしている。
姉の死と向き合うのが怖い弟。
その扉が、次に開くのだろう。
*
点検箱を閉める直前、端末が不意に震えた。
画面に新しいログが表示される。
> MANUAL OVERRIDE:確認
> USER:SHIRAISHI
> 最新アクセス:8/29 11:52
「今朝?」
僕は時計を見る。
今は午後二時前。
白石先生は、今日の午前中にここへ来ていた。
補習を休んだ理由。
急用。
それは、この二十五番スピーカーだったのか。
ミカの顔が青くなる。
「先生、ここに来てたんだ」
レンはログを保存する。
「はい」
「何をしたの」
「確認できる範囲では、手動上書き予約の更新です」
「それは、いいこと?」
ミカの声は小さい。
レンはすぐには答えなかった。
「分かりません」
いつもの言葉。
でも今回は、ひどく重かった。
その時、背後で砂利を踏む音がした。
振り返る。
白石先生が立っていた。
アイスコーヒーは持っていない。
白いシャツの袖には、チョークの粉のような白い汚れがついている。
昨日のプレビューで見た手。
ミカの腕を掴んでいた手。
僕は反射的にミカの前に立った。
白石先生は、開いた点検箱を見て、次に三本のハズレ棒を見る。
「開けたのか」
先生の声は低かった。
「はい」
僕は答えた。
「先生は、今日ここで何をしたんですか」
白石先生は黙った。
ミカが僕の袖を掴む。
最大に近い力だった。
「先生」
ミカの声が震える。
「二度目を、鳴らすんですか」
白石先生の顔が歪んだ。
「朝倉」
「止めるんですか。それとも、鳴らすんですか」
先生は答えない。
その沈黙だけで、ミカは一歩後ずさった。
「答えてください」
ミカが言った。
「私の命の話です」
白石先生は、目を閉じた。
長い沈黙。
川の音。
遠くで鳴る試験花火。
夏の風。
そして先生は、低く言った。
「二度目は鳴らさない」
僕は息を止めた。
ミカも、レンも黙った。
「本当ですか」
僕が聞くと、先生は僕を見た。
「鳴らさない」
「じゃあ何で、手動上書き予約を」
「鳴らさないためだ」
「説明してください」
「できない」
「またそれですか」
僕の声が荒くなる。
「先生が説明しないから、ミカはずっと怖いままなんです」
「説明したら、朝倉はもっと怖がる」
「もう十分怖がってます!」
叫んだ瞬間、白石先生の顔が固まった。
僕は息を荒くしていた。
ミカが袖を握る手を少し緩める。
「先生」
ミカが言った。
「私、怖いです」
白石先生はミカを見る。
「でも、知らないまま死ぬほうが怖い」
先生の肩が小さく震えた。
「先生が何を見たのか、何をしようとしてるのか、全部じゃなくてもいいから言ってください」
白石先生は、点検箱の中を見た。
そして、かすれた声で言った。
「二度目が鳴ると、記録が固定される」
「それは知ってます」
「俺は、三年前、それを止められなかった」
サキの名前が、そこにある気がした。
先生は続けた。
「今度は止める。そのために、手動上書き予約を入れた」
「じゃあ、先生は味方なんですか」
僕が聞く。
先生は苦しそうに笑った。
「味方でいられるならな」
「どういう意味ですか」
「八月三十一日、記録は人を動かす」
先生は自分の右手を見た。
「俺も例外じゃないかもしれない」
ミカが息を呑む。
「先生が、私を落とすかもしれないから?」
白石先生は否定しなかった。
その沈黙が、何よりも怖かった。
「俺は、朝倉を第三橋に近づけたくない」
先生は言った。
「でも、もし記録が俺を使うなら、俺は朝倉を止めようとして、逆に落とすかもしれない」
「そんな」
「だから、近づくなと言った」
白石先生の声は震えていた。
「俺に近づくなとも、言うべきだった」
ミカは青いヘアピンに触れた。
「先生は、私を殺したくないんですよね」
「当たり前だ」
初めて、先生の声が感情で荒れた。
「当たり前だろ」
その言葉は、痛かった。
白石先生は単純な悪人ではない。
でも、だからといって安心できるわけでもない。
彼は知っている。
怯えている。
そして、一人で抱え込んでいる。
その結果、八月三十一日に何が起きるのか。
僕たちはまだ知らない。
「先生」
僕は言った。
「なら、一人で止めようとしないでください」
先生が僕を見る。
「僕たちもやります。ミカも、自分で選びます。レンも、サキさんの記録を追ってる。トメさんも手がかりを持ってる。先生一人で止めようとすると、たぶん失敗します」
「たぶん禁止」
ミカが小さく言った。
僕は言い直す。
「失敗します」
白石先生は、少しだけ苦しそうに笑った。
「言い切るな」
「言い切ります」
ミカも前に出た。
「先生」
「朝倉」
「私は死にたくないです」
「……ああ」
「でも、閉じ込められるのも、勝手に助けられるのも嫌です」
「ああ」
「だから、助けたいなら、私に言ってください」
ミカの声は震えていた。
でも、強かった。
「助けてって言うのは、私だけじゃないんです」
白石先生の目が揺れた。
「先生も、言ってください」
沈黙。
川の音がした。
遠くで、試験花火がまた鳴った。
どん。
白石先生は目を閉じた。
そして、低く言った。
「……助けてくれ」
その言葉は、ほとんど聞こえないくらい小さかった。
でも、確かに聞こえた。
「俺は、また間違えるかもしれない」
先生は続けた。
「だから、止めてくれ」
スマホが震えた。
> CHRONOGRAPH
> 外部証言を検出
> 白石:自己危険認識
> PHASE 2 OVERRIDE:安定率上昇
> 雨宮サキ:記録復元率 9% → 12%
「サキさんの復元率が上がった」
ミカが呟いた。
白石先生は画面を見る。
「サキ」
先生がその名前を呼ぶ。
またスマホが震えた。
> 雨宮サキ:記録復元率 12% → 14%
名前を呼ぶ。
隠していた人が、名前を呼ぶ。
それだけで記録は戻る。
白石先生は、何かをこらえるように下を向いた。
「雨宮サキ」
もう一度、先生は言った。
「俺は、見ていた」
その続きは、まだ語られなかった。
でも、初めて先生が自分から名前を呼んだ。
それは小さな前進だった。
*
夕方、僕たちは駄菓子屋へ戻った。
トメさんに、三本のハズレ棒と、二十五番スピーカーのこと、白石先生が「助けてくれ」と言ったことを話した。
トメさんは、しばらくうちわを扇がずに聞いていた。
「白石先生も、やっと言ったか」
「知ってたんですか」
僕が聞くと、トメさんは少しだけ笑った。
「言えない人だってことはね」
「みんな、言えないこと多すぎませんか」
「三架町は口が重い町だから」
「重すぎて沈んでます」
「だから、引き上げるんだよ」
トメさんは店の奥から、古い赤いヨーヨーを取り出した。
水風船ではなく、プラスチック製の小さなヨーヨー。
表面に少し傷がある。
「これは?」
レンの顔色が変わった。
「それ」
トメさんはレンを見る。
「サキちゃんから預かってた」
「僕に?」
「うん」
レンはヨーヨーを受け取らなかった。
手が、わずかに震えている。
「いりません」
「レン」
僕が呼ぶと、レンは首を横に振った。
「今は必要ありません」
「必要だから出したんだと思う」
ミカが静かに言う。
レンはミカを見る。
少しだけ怒ったような顔。
でも、その下にあるのは怖さだった。
「姉のものです」
「うん」
「僕は、もう十分持っています」
「でも、一人で持つなってサキさん言ってた」
レンは黙った。
トメさんが赤いヨーヨーを、そっとテーブルに置く。
「不機嫌な座敷わらし」
僕が呟く。
サキさんのノートにあった言葉。
レンは唇を噛んだ。
「その呼び方は嫌いです」
「サキさんが書いてた」
「姉は、僕を何だと思っていたんでしょうね」
「弟」
ミカが言った。
レンが顔を上げる。
「不機嫌でも、怖がりでも、怒ってても、弟」
レンは何も言わなかった。
トメさんは、いちご味の飴を三つ置いた。
「明日、神社の床下を見に行きな」
「明日?」
僕が聞く。
「八月三十日。夏祭りの日だよ」
花火大会の前日。
ミカが死ぬ夜まで、あと一日になる日。
「そこで、サキちゃんの記録がもう少し戻る」
トメさんは言った。
「たぶん?」
ミカが聞くと、トメさんは首を横に振った。
「戻るよ」
その言い方は、いつものぼかしたものではなかった。
レンは赤いヨーヨーを見つめている。
受け取ることも、離れることもできないみたいに。
僕は思った。
次に開くのは、レンの中にある扉だ。
サキさんの弟。
不機嫌で冷静で、でも本当は姉の死を聞くのが怖い少年。
ミカを救うためには、サキさんの名前を戻さなければならない。
サキさんの名前を戻すためには、レンが一人で抱えているものを、僕たちも一緒に持たなければならない。
赤いヨーヨーは、テーブルの上で静かに揺れていた。
まるで、まだ帰れない子どもみたいに。
*
夜。
僕はミカと電話していた。
『今日は、いろいろありすぎた』
「うん」
『ヘアピン落としたし』
「拾った」
『三本目のハズレ棒出たし』
「出た」
『二十五番スピーカー開いたし』
「開いた」
『先生が助けてって言った』
「言った」
電話の向こうで、ミカが少し黙る。
『先生、怖いけど』
「うん」
『少しだけ、かわいそうだった』
「うん」
『でも、私が落ちる映像は消えてない』
「うん」
『だから、完全には信じない』
「それでいいと思う」
『ミナト、大人になった?』
「一日体験」
『すぐ無料版に戻りそう』
「戻る」
ミカは笑った。
その笑い声を聞いて、僕は少し安心する。
『二度目の花火、鳴らさないんだよね』
「ああ」
『二度目が花火じゃないかもしれなくても』
「止める」
『私の名前、放送で流すの恥ずかしい』
「死ぬよりは?」
『嫌じゃない』
「じゃあやる」
『強引』
「今日くらいは」
『毎日それ言ってる』
「毎日強引になる必要があるので」
『そっか』
ミカの声が少し柔らかくなる。
『ミナト』
「何」
『今日、ヘアピン拾ってくれてありがとう』
「約束したから」
『八月三十一日も、拾って』
「拾う」
『手も、掴んで』
「掴む」
『絶対、離さないで』
「離さない」
電話の向こうで、ミカが小さく息を吐いた。
『朝倉ミカ、生存確認完了』
「瀬名湊斗、存在確認完了」
少し間があった。
『雨宮サキ、記録確認中』
僕は頷いた。
「明日、レンと一緒に確認しに行こう」
『うん』
通話が終わったあと、僕は机の上にハズレ棒を置いた。
三本のうちの一本。
031-824-25。
今日、二十五番スピーカーは開いた。
二度目の花火を迷子にする方法も、少しだけ見えた。
でも、本登録にはまだ足りない。
雨宮サキの記録復元率、二十五パーセント。
今は十四パーセント。
足りない。
足りないものを取り戻すために、明日は神社へ行く。
不機嫌な座敷わらし。
赤いヨーヨー。
いちご味。
レンが怒る。
でも、怒るのは生きている証拠。
僕は窓の外を見た。
夜の空には、試験花火の煙がもう残っていない。
でも、耳の奥にはまだ音がある。
どん。
一度目。
そして、まだ鳴っていない二度目。
僕は小さく呟いた。
「二度目の花火は鳴らない」
それは願いではなく、予定にしなければならない。
八月二十九日の夜。
花火大会まで、あと二日。
ミカが死ぬ夜まで、あと二日。
夏は、少しずつ音を溜めていた。




