戻ってきた冷やし中華
八月二十八日の朝、冷やし中華が戻ってきた。
食卓の上に、当然みたいな顔で置かれている。
麺。
きゅうり。
錦糸卵。
ハム。
トマト。
そして端に、小さな唐揚げが二つ。
「……また?」
僕が言うと、母さんは冷蔵庫の前で振り返った。
「何が?」
「冷やし中華」
「夏だから」
「それはもう聞いた」
「便利な理由は何度でも使うの」
「母さんまでその理論を」
僕は椅子に座った。
八月二十五日の朝にも、同じ皿を見た。
その時は、ただの変な朝食だった。
でも今は違う。
冷やし中華。
戻ってくるもの。
炊き直し。
時間の炊飯器。
サキさんのふざけた言葉が、頭の奥で音を立てた。
「ミナト、顔色悪いよ」
「冷やし中華に人生を感じてる」
「朝から何を背負ってるの」
「麺類」
「軽いじゃん」
「伸びると重い」
母さんは呆れた顔で味噌汁を温めていた。
冷やし中華と味噌汁。
組み合わせとしてはだいぶ暴力的だ。
「これ、昨日の残り?」
僕が聞くと、母さんは首をかしげた。
「昨日は作ってないよ」
「じゃあ、いつの?」
「今朝」
「今朝から冷やし中華を作る行動力、どこから来るの」
「夏への敬意」
「敬意の方向が間違ってる」
母さんは笑った。
普通の笑顔だった。
でも、僕は皿の上の具を見つめていた。
唐揚げが二つ。
八月二十五日の朝と同じ位置に乗っている気がした。
偶然。
そう思いたかった。
でもこの町では、偶然がよく同じ顔をして戻ってくる。
僕は箸を取った。
麺を持ち上げる。
その下に、きゅうりが隠れていた。
きゅうりの下に、何か白いものが見えた。
「……ん?」
箸でどけると、小さな紙片が出てきた。
タレで少し濡れている。
僕は箸を止めた。
「母さん」
「何?」
「これ、入れた?」
紙片を見せると、母さんは本気で驚いた顔をした。
「何それ。やだ、異物混入?」
「家庭内事件」
「私じゃないよ」
紙片には、黒いペンで短く文字が書かれていた。
> 冷やし中華にメモリカードは入れるな。
> でもメモは可。
> きゅうりの下は、意外と安全。
僕は目を閉じた。
サキさん。
絶対にサキさんだ。
「ミナト?」
母さんが心配そうに僕を見る。
「ごめん、急いで食べる」
「紙は食べないでね」
「そこまで人類をやめてない」
僕は紙片をティッシュで拭き、ポケットに入れた。
冷やし中華は、酸っぱい味がした。
前と同じ味。
なのに、今日は少しだけ怖かった。
戻ってきた冷やし中華。
それは、ただの朝食ではなかった。
この夏が、まだ何かを皿の上に戻してくるという合図みたいだった。
*
学校へ向かう途中、僕はミカに紙片を見せた。
ミカは数秒それを見つめてから、真顔で言った。
「冷やし中華、信用できないね」
「そこ?」
「だって、食べ物の下からメッセージ出てくるんだよ。もう麺類全般を疑う」
「うどんも?」
「うどんは白いから隠し事が下手そう」
「偏見」
「ラーメンは?」
「油で証拠を消しそう」
「推理が雑」
ミカは笑った。
でも、目の奥には眠れていない色が残っていた。
昨日、第三橋で見た死亡記録プレビュー。
白石先生の手。
ミカが落ちる映像。
黒瀬先輩の警告。
それが、彼女の中にも残っているのだろう。
ミカは青いヘアピンに触れた。
「サキさん、何で冷やし中華なんだろ」
「ふざけてるから」
「それはそうなんだけど」
「でも、たぶん意味がある」
「たぶん禁止」
「意味がある」
「よし」
ミカは紙片をもう一度見る。
「きゅうりの下は安全、って何?」
「知らない」
「レンくんなら分かるかな」
「レンに冷やし中華の相談する日が来るとは思わなかった」
「人生って分かんないね」
「夏だからな」
「便利」
その時、スマホが震えた。
レンからだった。
> 昨日のログを解析しました。
> 031-824-25について確認したいことがあります。
> 放課後、駄菓子屋へ。
> 冷やし中華を食べたなら、紙片を持参してください。
僕とミカは顔を見合わせた。
「知ってる」
ミカが言った。
「レンくん、冷やし中華を知ってる」
「怖いな」
「不機嫌な預言者」
「サキさんの弟だからな」
「血筋だ」
僕は返信した。
> 紙片ある。
> 放課後行く。
すぐに返事が来た。
> 遅れないでください。
> 麺は伸びます。
ミカが画面を見て吹き出した。
「レンくんが冗談を言った」
「世界の終わりかもしれない」
「八月三十一日より先に来たね」
笑えた。
でも、その冗談さえ、少しだけ怖かった。
麺は伸びる。
時間も、記録も、放っておけば伸びて絡まる。
そんな気がした。
*
その日の補習は、白石先生ではなかった。
代わりに、年配の数学教師がプリントを配って終わった。
「白石先生は?」
誰かが聞くと、数学教師は眼鏡を上げて言った。
「急用だそうだ」
急用。
僕はミカを見る。
ミカも僕を見た。
白石先生は昨日、僕たちに言った。
第三橋には近づくな。
朝倉から目を離すな。
守れるなら、とっくに守ってる。
その先生が、今日は補習に来ない。
偶然かもしれない。
でも、この町で偶然をそのまま飲み込むのは危ない。
「ミナト」
ミカが小声で言った。
「先生、何してると思う?」
「分からない」
「不機嫌ウイルス感染中?」
「たぶん」
「禁止」
「じゃあ、感染中」
ミカは少し笑った。
でも、その手は机の下で青いヘアピンを触っていた。
怖い時の癖だ。
僕はノートの端に、今日やることを書いた。
> 放課後、トメさんの駄菓子屋。
> 031-824-25。
> 冷やし中華の紙片。
> 二十五番スピーカー。
> 白石先生の急用。
> 黒瀬先輩の動き。
書き出してみると、やることが多すぎる。
宿題より多い。
いや、宿題も多い。
人生は同時多発的に詰む。
「ミナト」
ミカがノートを覗き込む。
「宿題って書いてない」
「存在しないものの話はやめよう」
「存在するから怒られるんだよ」
「ミカまで母さんみたいなことを」
「母性?」
「怖い」
「失礼」
ミカは僕のノートの端に、勝手に一行書き足した。
> 朝倉ミカ、生存確認。
僕はその下に書いた。
> 瀬名湊斗、存在確認。
ミカは少しだけ笑った。
それから、さらに小さく書いた。
> 雨宮サキ、記録確認。
その文字を見た瞬間、スマホが震えた。
> CHRONOGRAPH
> 外部認識を検出
> 雨宮サキ:記録復元率 7% → 8%
「一パーセント」
僕が呟くと、ミカは画面を見て言った。
「低いけど、増えた」
「うん」
「名前って、ほんとに効くんだね」
「みたいだな」
「じゃあ、もっと呼ばないと」
ミカはノートにもう一度書いた。
> 雨宮サキ。
スマホは震えなかった。
「連打は効かないっぽい」
「ゲームじゃないからな」
「クールタイムあり」
「その言い方もゲーム」
でも、ミカの表情は少し真剣だった。
サキさんの名前を呼ぶこと。
それは、ミカを救うことにもつながっている。
少しずつ、全部が一本の線になり始めていた。
*
放課後、僕たちは駄菓子屋へ向かった。
トメさんの店は、今日も開いていた。
店先には風鈴が吊るされている。
ちりん、と鳴る音が、暑い空気の中で少しだけ涼しい。
「来ると思ってたよ」
トメさんはいつものように言った。
「もはや安心感がありますね」
僕が言うと、トメさんは笑った。
「年寄りは同じことを言うんだよ」
「夏も同じことを戻してきます」
「そうだね」
トメさんは僕の顔をじっと見た。
「冷やし中華、戻ってきたかい」
「戻ってきました」
「きゅうりの下?」
「はい」
「サキちゃんらしい」
ミカが顔をしかめる。
「トメさんも知ってるんですか」
「少しだけね」
「大人、みんな少しだけ知ってる」
「少しだけ知ってる人が多いから、面倒なんだよ」
トメさんは店の奥を指差した。
「レンくん、もう来てるよ」
店の奥の小さなテーブルに、レンが座っていた。
黒いノート。
端末。
そして、なぜか冷やし中華のパック。
「……レン」
僕は言った。
「それ」
「検証用です」
「コンビニ冷やし中華?」
「はい」
「真面目な顔で何してるの」
「検証です」
ミカが肩を震わせた。
「レンくん、冷やし中華を前にしても不機嫌」
「食べ物で機嫌は変わりません」
「いちご味は?」
「それは別です」
「変わるじゃん」
「別です」
レンは紙片を出すように手を差し出した。
僕は朝の紙片を渡す。
レンは慎重に広げて、サキのノートと照合した。
「姉の字です」
「やっぱり」
「この紙片は、単なるメモではありません」
レンは端末で紙片をスキャンした。
画面に薄い文字が浮かぶ。
僕にはただの紙に見えていた部分に、青い文字が現れた。
> 戻ってきた冷やし中華について。
> これは料理の話ではない。
> いや、料理の話でもある。
> 同じ皿に、同じ具材を、違う朝に乗せる。
> すると人間は「また?」と思う。
> その「また?」が大事。
> クロノグラフも同じ。
> 違う時間に、同じ記録を戻してくる。
> それを「新しい今日です」と言い張る。
> つまり、時間の炊飯器。
> ただし冷やし中華は炊かない。
> ここ試験に出ます。
「サキさん」
ミカが言った。
「本当にふざけてる」
「はい」
レンは真顔で頷いた。
「ですが、重要です」
「便利な言葉」
僕は表示された文字を読む。
違う時間に、同じ記録を戻してくる。
それを新しい今日と言い張る。
冷やし中華が戻ってきたように、記録も戻ってくる。
「つまり」
僕は言った。
「クロノグラフは、未来を予知してるんじゃなくて、同じ記録を八月三十一日に戻してくる?」
「近いです」
レンが言った。
「姉の比喩を整理すると、クロノグラフは三年前の未処理記録を、毎年八月三十一日に再処理しようとしている」
「未処理記録」
「雨宮サキの死。瀬名先輩の仮登録。そして、その穴を埋めるための死亡候補」
ミカが小さく言った。
「それが私」
「はい」
レンは少しだけ言いづらそうに頷いた。
ミカは冷やし中華のパックを見る。
「私、具材扱い?」
「その比喩は不快ですね」
「レンくんが言うと本気で不快そう」
「不快です」
僕は紙片の続きを見た。
> 炊飯器は、米が足りないと勝手に人を入れたりしない。
> でもクロノグラフはやる。
> 町の記録に穴があると、近くにいる強い名前を使おうとする。
> 強い名前。
> 呼ばれている名前。
> 見つけられている名前。
> 青い名前。
> つまりミカさん。
> ごめん、まだ会ってないけどごめん。
ミカは黙って画面を見ていた。
青い名前。
青いヘアピン。
見つけてもらうための青。
それが、クロノグラフにとっては「使いやすい名前」になっている。
「サキさん、私に謝ってる」
ミカが小さく言った。
「会ってないのに」
「姉は、未来に向けて謝る癖があります」
レンが言った。
「それ、癖っていうには重くない?」
「重いです」
レンはサキのノートを開いた。
「続きがあります」
> 031-824-25。
> 031は八月三十一日。
> 824は八月二十四日。
> 25は二十五番スピーカー。
> これだけ見るとただの番号。
> でも、本当は鍵。
> 外れ棒は三本ある。
> 一、見つけた人。
> 二、見つけられた人。
> 三、忘れられた人の家族。
> 三本そろうと、二十五番スピーカーの箱が開く。
> 開けたら怒られる。
> でも怒られるだけなら勝ち。
「三本?」
僕はポケットからハズレ棒を出した。
031-824-25。
「僕の一本だけじゃ足りないってことか」
「はい」
レンは自分のリュックから、一本のハズレ棒を出した。
同じ番号。
031-824-25。
「持ってたのか」
「昨日、トメさんから受け取りました」
「言えよ」
「聞かれていません」
「出た」
ミカが自分の鞄を探った。
「私、持ってない」
トメさんが店の奥から声をかけた。
「ミカちゃんの分は、まだだね」
「まだ?」
ミカが振り返る。
「受け取れる時に受け取れるよ」
「また大人がそれっぽいこと言う」
「それっぽいことを言う年頃なんだよ」
「七十歳ってそういう年頃なんですか」
「毎日そういう年頃」
トメさんは笑った。
レンは二本のハズレ棒を並べた。
「三本目は朝倉先輩が持つ必要があるようです」
「見つけられた人」
僕が言った。
「僕が見つけた人?」
「はい」
「じゃあ、僕が見つけるって決まってるのか」
「決まっているとは限りません」
レンは言った。
「でも、姉はそうなる可能性を見ていた」
ミカは青いヘアピンを触った。
「じゃあ、見つけてね」
「もう見つけてる」
「八月三十一日も」
「見つける」
「約束?」
「約束」
レンが小さく咳払いをした。
「続けます」
「照れ隠し?」
ミカが言うと、レンは不機嫌そうに睨んだ。
「続けます」
端末に、さらに文字が浮かぶ。
> 二十五番スピーカーは、声を届ける場所。
> でも、普通の放送じゃ足りない。
> 町内放送は町の記録に吸われる。
> 吸われないためには、三つの声が必要。
> 見つけた人の声。
> 見つけられた人の声。
> 忘れられた人を覚えている人の声。
> つまり、たぶんミナトくん、ミカさん、レン。
> 人選が不安。
> 特にレン。
> ちゃんと寝ろ。
レンが無言で画面を閉じかけた。
「待って」
ミカが止める。
「最後、大事かも」
「睡眠の話です」
「大事じゃん」
「今は関係ありません」
「関係ある顔してる」
「顔は関係ありません」
僕は笑いそうになった。
レンは本当に寝てなさそうだった。
目の下に薄く隈がある。
姉の記録を追うこと。
ミカの死亡記録。
旧体育館。
クロノグラフ。
この数日で、彼もずっと何かを背負っている。
「レン」
「何ですか」
「寝ろ」
「嫌です」
「即答」
「時間がありません」
ミカが言った。
「でも、倒れたら困る」
「倒れません」
「それ、倒れる人の台詞」
「経験者?」
「テスト前のミナト」
「僕を例にするな」
レンは少しだけ困った顔をした。
不機嫌な顔が崩れると、少し年相応に見えた。
「……努力します」
「寝る努力って何」
「検討します」
「政治家みたいになった」
トメさんが奥からいちご味の飴を三つ持ってきた。
「ほら、糖分」
「ありがとうございます」
ミカは受け取り、ひとつをレンに渡した。
「誰かと食べるんでしょ」
レンは固まった。
サキの声。
いちご味は、できれば誰かと食べて。
その言葉を思い出したのだろう。
レンは飴を受け取り、しばらく見つめた。
それから、包装を開けた。
「食べます」
「報告が真面目」
「食べるので」
僕たちも飴を口に入れた。
甘い。
少し安っぽいいちご味。
でも、悪くなかった。
レンは黙っていた。
でも、サキさんの名前をひとりで抱えていた時より、少しだけ表情が柔らかく見えた。
*
夕方、僕たちは第三橋へ向かった。
目的は二十五番スピーカーの点検箱。
昨日のプレビューが起きた場所。
正直、ミカを連れて行くのは怖かった。
でも、ミカは行くと言った。
「見ないほうが怖い」
そう言われたら、止められなかった。
ただし条件を決めた。
橋には上がらない。
欄干には近づかない。
ミカは僕かレンのどちらかの近くにいる。
白石先生が現れたら、すぐ距離を取る。
黒瀬先輩が現れても、すぐ信用しない。
「信用されない人リストが増えてる」
ミカが言う。
「先生、黒瀬先輩、町内放送」
「最後、人じゃない」
「でも一番怪しい」
「分かる」
第三橋に着くと、昨日と同じように夕方の光が川に落ちていた。
ミカは僕の袖を掴んでいる。
「中量版?」
「重量版一歩手前」
「細かい」
「現場なので」
「専門職みたい」
レンは二十五番スピーカー下の点検箱を調べた。
金属箱の側面には、細い溝が三つある。
昨日は気づかなかった。
「これ」
僕はハズレ棒を取り出した。
溝の幅が、ハズレ棒と同じくらいだ。
「試します」
レンが自分の棒と僕の棒を二つの溝に差し込んだ。
かちり。
小さな音。
でも、箱は開かなかった。
> 認証不足
点検箱の小さな表示部に、赤い文字が出た。
「三本必要」
レンが言った。
「やっぱり」
ミカが箱を見つめる。
「私の分、どこにあるんだろ」
その時、スマホが震えた。
ミカのスマホだった。
> CHRONOGRAPH
> 三者保持鍵:未完了
> 朝倉ミカ:保持権限未取得
> 取得条件:青色認識タグを落とす/拾われる
「落とす?」
ミカが顔をしかめる。
「青いヘアピンを?」
「待て」
僕はすぐに言った。
「落とすのは危ない」
「分かってる」
ミカは青いヘアピンを押さえた。
「昨日、落ちる映像見たし」
青いヘアピンが落ちると、外部認識が弱まる。
ミカの死と直結する。
でも、ハズレ棒を得る条件が「落とす/拾われる」なら。
サキさんの言葉。
助けてって言えないなら、せめて落とせ。
「落とすって」
ミカが言った。
「私が助けてって言う代わり、なのかな」
「今は言えてる」
僕は言った。
「だから、無理に落とす必要はない」
「でも、必要なら?」
「別の方法を探す」
「ミナト」
「何」
「私、怖いけど、必要なことならやるよ」
「知ってる」
「止める?」
「止める」
「即答」
「危ないから」
「守るために勝手に決めるのは支配って、私言ったよ」
胸に刺さった。
ミカはまっすぐ僕を見る。
「だから、止めるなら理由を言って」
僕は息を吸った。
そうだ。
隠して守るのは、白石先生と同じだ。
僕も同じことをしそうになっている。
「ヘアピンが落ちると、ミカを見ている人が少なくなる可能性がある」
「うん」
「昨日のプレビューで、ヘアピンが落ちたあと、たぶん記録が進んだ」
「うん」
「だから、今ここで落とすのは危ない」
「分かった」
ミカは頷いた。
「説明されたので納得します」
「よかった」
「でも、必要になったら一緒に考える」
「うん」
「一人で決めない」
「分かった」
レンが端末を見ていた。
「取得条件には『落とす/拾われる』とあります。意図的に安全な場所で落とし、瀬名先輩が拾うことで条件を満たせる可能性があります」
「安全な場所?」
「橋から離れた場所。人目のある場所。クロノグラフの同期範囲外」
「駄菓子屋とか?」
ミカが言う。
「可能性があります」
「じゃあ、ここではやらない」
ミカは言った。
「ここで落とすのは嫌」
「それでいい」
僕は頷いた。
点検箱は開かなかった。
でも、分かったことがある。
三本のハズレ棒。
三つの声。
ミカの青いヘアピン。
二十五番スピーカー。
八月三十一日に向けて、必要なものが少しずつ見えてきた。
その時だった。
背後から声がした。
「やっぱり、そこを調べてるんだ」
黒瀬リョウだった。
昨日と同じ、爽やかな笑顔。
でも今日は、その笑顔の裏にある苛立ちが少しだけ見えた。
「黒瀬先輩」
僕はミカの前に出た。
「安全確認ですか」
「そう」
黒瀬先輩は点検箱を見る。
「それは、開けないほうがいい」
「理由は?」
「開けると、記録が進む」
「またそれですか」
「まただね」
黒瀬先輩は苦笑した。
それから、二本のハズレ棒を見た。
「もう二本あるんだ」
レンの目が鋭くなる。
「なぜ本数を知っているんですか」
黒瀬先輩は少しだけ黙った。
「花火大会の資料に、三者保持鍵という言葉があった」
「資料?」
「町内会の保管資料。三年前のもの」
「見せてください」
レンが言うと、黒瀬先輩は首を横に振った。
「今は無理」
「便利な拒否」
ミカが低く言った。
黒瀬先輩はミカを見る。
「朝倉さん」
「何ですか」
「君は、自分で選びたいと言ったね」
「言いました」
「なら、選択肢を増やすために言う」
黒瀬先輩の声が少し低くなる。
「瀬名くんから離れる選択肢も、捨てないで」
「またそれですか」
「まただよ」
「私は捨てます」
「即答は危険だ」
「勝手に決められるほうが危険です」
黒瀬先輩は何か言いかけて、やめた。
それから、僕を見た。
「瀬名くん。君は彼女を助けたいんだよね」
「はい」
「なら、君自身が彼女を危険にしている可能性から目をそらさないほうがいい」
その言葉は痛かった。
サキさんは、僕のせいじゃないと言った。
でも、クロノグラフはミカを、僕の継続認識者として見ている。
僕の問題とミカの死はつながっている。
「目はそらしません」
僕は言った。
「でも、ミカを一人にもしません」
黒瀬先輩は、少しだけ目を細めた。
「それが一番難しいんだよ」
彼はそれだけ言って、踵を返した。
「八月三十一日、二十五番スピーカーには近づかないほうがいい」
「なぜですか」
レンが聞く。
黒瀬先輩は振り返らない。
「二度目が鳴るから」
その言葉だけを残して、彼は川沿いの道を歩いていった。
「二度目?」
ミカが呟く。
「追い花火のことか」
僕はスマホを見る。
追い花火は午後十一時四十一分。
でも、二度目とは何だ。
レンが端末を操作する。
「ログを確認します」
彼の指が速く動く。
数秒後、画面に古い記録が表示された。
> 8/31 23:41
> 追い花火同期
> PHASE 1:認識開始
> PHASE 2:固定処理
「フェーズ?」
ミカが聞く。
「二段階あります」
レンの声が硬くなる。
「追い花火は、一度目で認識を開始し、二度目で死亡記録を固定する」
「二度目が鳴ると」
僕は言った。
「ミカの死亡記録が固定される」
ミカの手が、僕の袖を強く掴んだ。
重量版。
いや、ほとんど最大だった。
「じゃあ」
ミカの声が震える。
「二度目を鳴らさなければ?」
レンは画面を見つめた。
「固定を防げる可能性があります」
可能性。
その言葉にすがりたくなる。
でも同時に怖い。
何かを一つ止めればいい。
そんなに単純ではないと、もう分かっている。
それでも。
今は、そこに向かうしかない。
「二度目の花火」
僕は呟いた。
「鳴らさない」
ミカが僕を見る。
「本当にできる?」
「分からない」
「不機嫌ウイルス」
「でも、やる」
レンが静かに言った。
「二十五番スピーカーと追い花火の制御記録を調べます」
「制御って、花火を止めるってこと?」
「または、二度目の同期だけを切る」
「難しそう」
「難しいです」
「正直」
レンは端末をしまった。
「ですが、姉は外れ棒を残しました。つまり、方法はあります」
外れにも役目がある。
冷やし中華は戻ってきた。
時間の炊飯器は、三年前の記録を炊き直している。
なら、その炊飯器の予約を止める方法も、どこかに残されているはずだ。
*
帰り道、ミカはずっとヘアピンを押さえていた。
「落とすの、怖い?」
僕が聞くと、ミカは頷いた。
「怖い」
「うん」
「でも、拾ってもらえるなら、少し怖くない」
「拾う」
「絶対?」
「絶対」
「何回も約束させてるね、私」
「何回でもする」
「重いよ?」
「命がかかってるので」
ミカは少し笑った。
「それ、私が言ったやつ」
「便利な言葉は使う」
「著作権料」
「ラムネ一口?」
「今回は高い。かき氷一杯」
「インフレ」
「夏だから」
僕たちは笑った。
ほんの少し。
でも、その笑いの下には、二度目の花火という新しい恐怖が沈んでいる。
ミカが死ぬ夜まで、あと三日。
八月三十一日、二十三時四十一分。
一度目で認識。
二度目で固定。
なら、二度目を止める。
それが次の目標だった。
でも、黒瀬先輩が知っていたのはなぜか。
白石先生は、どこで何をしているのか。
ミカの三本目のハズレ棒は、どこで手に入るのか。
分からないことは、まだ山ほどある。
「ミナト」
ミカが言った。
「何」
「冷やし中華ってさ」
「うん」
「戻ってきたら、食べるしかないのかな」
「急に哲学」
「だって、戻ってくるんでしょ。記録も、冷やし中華も」
「食べきらないと片づかないのかもな」
「嫌な冷やし中華」
「でも、残したらまた戻ってくる」
ミカは少しだけ黙った。
「じゃあ、食べよう」
「冷やし中華を?」
「記録を」
その言い方に、僕は少し驚いた。
ミカは青いヘアピンに触れたまま、前を向いている。
「怖くても、ちゃんと見る。知らないままだと、ずっと戻ってくる気がする」
「うん」
「だから、見る。先生のことも、黒瀬先輩のことも、サキさんのことも、ミナトのことも」
「僕のことも?」
「当たり前でしょ」
ミカは僕を見た。
「ミナトの仮登録も、私の死亡記録に関係してるなら、ちゃんと見る」
「怖いな」
「私も怖い」
「じゃあ、おそろい」
「嫌なおそろい二号」
「一号は?」
「死亡予定と仮登録」
「重すぎる」
ミカは笑った。
その笑顔は、弱かったけれど、嘘だけではなかった。
*
その夜、僕は机の上にハズレ棒を置いた。
一本。
レンが持っている一本。
そして、まだ見つからないミカの一本。
三本揃えば、二十五番スピーカーの箱が開く。
その箱に、二度目の花火を止める手がかりがあるかもしれない。
スマホが震えた。
レンからメッセージ。
> 追い花火のログを追加解析しました。
> 詳細は明日。
> ただし、重要な点があります。
続けて、もう一通。
> 二度目の花火は、実際の花火とは限りません。
「……どういうことだよ」
僕は呟いた。
すぐに返信する。
> どういう意味?
返事は少し遅れて来た。
> 花火の音、町内放送、クロノグラフの同期信号。
> いずれかが二度目として扱われる可能性があります。
> つまり、空の花火だけを止めても不十分かもしれません。
また、単純ではない。
僕は額を押さえた。
ミカを救う方法が見えたと思うたびに、道が枝分かれする。
でも、進んでいる。
たぶん。
いや、禁止。
進んでいる。
ミカからもメッセージが来た。
> 今日、ヘアピン外すの怖かった。
> でも、落としても拾ってくれるなら少し大丈夫かも。
僕は返信する。
> 絶対拾う。
> じゃあ練習する?
僕は一瞬迷った。
練習。
安全な場所でヘアピンを落として、僕が拾う。
それで三本目のハズレ棒が出るかもしれない。
でも、怖い。
ヘアピンを落とすこと自体が、ミカの死に近づくようで。
僕は正直に送った。
> 怖い。
> でも必要なら、一緒にやる。
すぐに返事。
> うん。
> 一人ではやらない。
その言葉に、少し安心した。
ミカはもう一人で抱え込まない。
僕も、勝手に守らない。
それが、白石先生や黒瀬先輩と同じ間違いをしないための最初の約束だ。
> 朝倉ミカ、生存確認完了。
ミカから届く。
僕は返す。
> 瀬名湊斗、存在確認完了。
少し考えて、もう一文。
> 雨宮サキ、記録確認中。
スマホが震えた。
> CHRONOGRAPH
> 外部認識を検出
> 雨宮サキ:記録復元率 8% → 9%
一パーセント。
それでも増えた。
机の上のハズレ棒が、月明かりを受けて白く光っている。
031-824-25。
冷やし中華は戻ってきた。
時間の炊飯器は、まだ止まっていない。
でも、僕たちは少しずつ、その蓋に手をかけ始めている。
八月二十八日の夜。
花火大会まで、あと三日。
ミカが死ぬ夜まで、あと三日。
そして僕たちは、ようやく知った。
二度目の花火は、鳴らしてはいけない。




