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夏が終わる前に、君の名前を呼ぶ  作者: 磯辺


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ラムネ瓶の底に沈む秘密

 非常ベルは、まだ鳴っていた。


 旧体育館の暗闇に、赤い光が点滅している。


 ()びた金具。

 割れた窓。

 埃っぽい床。

 焦げたような匂い。


 そして、青白く光るモニター。


> 8/31 23:41

> 朝倉ミカ 死亡記録

> 場所:第三橋下流


 画面の中の文字は、何度見ても変わらなかった。


 朝倉ミカ。


 死亡記録。


 まだ八月二十五日なのに。

 まだ、花火大会まで一週間あるのに。


 ミカは、もう死ぬことになっている。


「……ふざけんな」


 僕はもう一度、そう言った。


 声が震えていた。


 怒っているのか、怖いのか、自分でもよく分からない。


 たぶん、両方だった。


 暗闇の中に立つ少年――雨宮(あまみや)レンは、僕を見るでもなく、モニターを見つめていた。


 僕より少し背が低い。

 黒いTシャツ。

 黒いリュック。

 目つきは冷たくて、声は妙に落ち着いている。


 中学生くらいに見える。


 でも、その目だけは子どもっぽくなかった。


「ふざけてはいません」


 レンが言った。


「クロノグラフは、冗談を記録しません」


「冗談じゃないなら、何なんだよ」


「記録です」


「だから」


 僕は一歩、レンに近づいた。


「未来の死亡記録なんて、記録って言わないだろ」


 レンは答えなかった。


 ただ、モニターの端に表示された文字を指差す。


> 局所時間差分記録装置

> CHRONOGRAPH

> 記録照合中……


「クロノグラフは、時間を戻す装置ではありません」


「時間を戻す?」


「先に否定しただけです」


「まだ聞いてない」


「聞く顔をしていました」


「どんな顔だよ」


「混乱して、怒って、でも説明を求めている顔です」


「性格悪いな」


「よく言われます」


 レンは淡々と言った。


 腹が立つくらい落ち着いている。


 でも、その落ち着きは、たぶん余裕ではない。


 ずっと怖いものを見続けた人間の、感情の閉じ方に見えた。


「クロノグラフは、町の防災記録(ぼうさいきろく)を扱う装置です」


 レンは続けた。


「災害時に、誰がどこにいるか、どこで何が起きたか、どの場所を復旧すべきか。それを記録し、照合(しょうごう)し、必要なら予測する」


「予測?」


「はい」


「じゃあ、これは予測なのか?」


 僕は画面を指差した。


「ミカが死ぬっていう、ただの予測?」


「違います」


 レンは即答した。


「クロノグラフは、ただの予測を死亡記録とは表示しません」


 胸の奥が冷たくなる。


「じゃあ何だよ」


「起きるはずの記録です」


 非常ベルの音が、少しだけ遠くなった気がした。


 起きるはずの記録。


 そんな言い方をされたら、まるで。


 もう決まっているみたいじゃないか。


「決まってるってことか」


「固定されれば」


「固定?」


「八月三十一日、二十三時四十一分。追い花火の時刻」


 レンはモニターを見る。


「そこで記録が固定されれば、朝倉先輩は死にます」


「固定されなければ?」


「まだ分かりません」


「助けられるのか」


 僕はほとんど叫ぶように聞いた。


「ミカを、助けられるのか」


 レンは、ようやく僕を見た。


「そのために、僕はここにいます」


     *


 非常ベルは、レンがどこかの古い配電盤を操作すると止まった。


 急に静かになる。


 静かになると、今度は自分の心臓の音がうるさかった。


 体育館の外では、蝉が鳴いている。


 夜なのに。


 いや、蝉の声なのか、機械のノイズなのか、もう分からなかった。


「朝倉先輩は、まだ生きています」


 レンは言った。


 僕は息を呑む。


「本当か」


「はい。死亡記録は八月三十一日です。今日ではありません」


「じゃあ、今どこにいる」


「それは分かりません」


「分からないのかよ」


「僕は万能ではありません」


「今、かなり万能っぽい説明してたけど」


「説明と捜索は別です」


「冷たいな」


「焦っても見つかりません」


 正論だった。


 でも、正論はだいたい、心臓に悪い角度から刺さる。


 僕はスマホを握りしめた。


 ミカに電話をかける。


 呼び出し音。


 一回。

 二回。

 三回。


 出ない。


 もう一度かける。


 出ない。


 メッセージを送る。


> どこにいる?

> 返事して。

> 頼む。


 既読はつかなかった。


 画面には、さっき届いたメッセージが残っている。


> 私のこと、探さないで。

> また、巻き込むから。


 また。


 その言葉だけが、ずっと引っかかっている。


 ミカは、何を知っている?


 何に、僕を巻き込んだと思っている?


「先輩」


 レンが言った。


「朝倉先輩を探すなら、まず情報を整理してください」


「そんな冷静に」


「冷静じゃないと死にます」


 その言い方が、あまりに直接で、僕は黙った。


 レンは黒いリュックから、一冊のノートを取り出した。


 黒い表紙のノート。


 角が少し潰れていて、表面には白いペンで小さく文字が書いてある。


> サキのノート

> 勝手に読むな

> でも読め


「どっちだよ」


 思わず言った。


 レンは無表情で答える。


「姉はそういう人です」


「姉?」


「雨宮サキ」


 その名前を聞いた瞬間、胸の奥がざわついた。


 雨宮サキ。


 知らない名前のはずだった。


 でも、完全に知らないとは言い切れなかった。


 どこかで聞いたことがあるような。

 誰かに呼ばれたことがあるような。

 夢の中に落ちていたような名前。


「雨宮サキって」


 僕は言った。


「誰だ」


「僕の姉です」


 レンはノートを開いた。


「三年前、八月三十一日。旧体育館で死にました」


 言葉が、体育館の床に落ちた。


 三年前。

 八月三十一日。

 旧体育館。


 焦げた匂いが、少し濃くなった気がした。


「事故、ですか」


 僕が聞くと、レンは少しだけ目を細めた。


「町の記録では」


「町の記録では?」


「姉の名前は、ほとんど残っていません」


「どういう意味だよ」


「そのままです」


 レンの声が低くなる。


「学校の名簿にも、町の事故記録にも、花火大会の資料にも、姉の名前はありません。あるはずの場所に、ない」


「そんなこと」


「起きています」


 レンはノートのページをめくった。


 そこには、細かい文字と、ところどころに変な落書きがあった。


 真面目な記録の横に、謎の棒人間。

 町内放送の配置図の横に、冷やし中華。

 旧体育館の平面図の下に、「床がやる気をなくしている」と書いてある。


「……ふざけてる?」


「ふざけています」


 レンは即答した。


「ですが、重要です」


「ふざけてるのに?」


「ふざけているから、残りました」


 レンはあるページを指差した。


> 大事なものは、大事そうに隠すと見つかる。

> どうでもいいものに混ぜると残る。

> ラムネ瓶の底とか。

> ハズレ棒とか。

> 冷やし中華のきゅうりの下とか。

> ただし冷やし中華にメモリカードを入れるな。

> 衛生的に怒られる。


「何だこれ」


「姉の文章です」


「情報量が多い」


「慣れてください」


「慣れたくない」


 でも、目が離せなかった。


 ラムネ瓶の底。


 ミカの机にあったラムネ瓶。


 今日の補習で、ミカが転がしていたあの瓶。


「ラムネ瓶って」


 僕が言うと、レンが頷いた。


「朝倉先輩が持っていたものです」


「ミカの?」


「はい。姉のノートでは、朝倉先輩が持つ青いものが、何度も出てきます」


「青いヘアピン」


「それも」


 レンは僕の手の中を見る。


 僕はまだ、ミカの青いヘアピンを握っていた。


 指先が少し痛い。


 強く握りすぎていた。


「青は、見つけてもらうための色」


 レンはノートを読む。


> 青いものを持て。

> 見つけてもらえ。

> 助けてって言えないなら、せめて落とせ。

> でも落としすぎると普通に失くす。

> ほどほどに。


 ミカの顔が浮かんだ。


 笑っていた顔。

 嘘の笑顔。

 「今は聞かないで」と言った顔。


 助けてって言えないなら、せめて落とせ。


 橋の下に落ちていた青いヘアピン。


 それは、ミカの助けてだったのか。


 僕は気づかなかった。


 いや、拾った。

 拾ったのに、まだ何もできていない。


「ラムネ瓶はどこだ」


 僕は聞いた。


「朝倉先輩が持っているなら、今は本人と一緒の可能性があります」


「じゃあ探すしか」


「もう一つあります」


 レンはノートを閉じた。


「トメさんの駄菓子屋です」


     *


 夜の商店街は、昼間と違う顔をしていた。


 シャッターの下りた店。

 消えかけの街灯。

 花火大会のポスター。

 風に揺れる提灯の骨組み。


 昼間はあれだけ暑かったのに、夜になると少しだけ湿った海の匂いがする。


 僕とレンは、トメさんの駄菓子屋へ向かった。


 ミカには何度も電話をかけた。


 出ない。


 メッセージにも既読はつかない。


 心臓が嫌な速度で動いている。


「走らないんですか」


 レンが言った。


「走ってるだろ」


「それは早歩きです」


「中学生に体力で詰められたくない」


「僕は中学生ではありません」


「え?」


「高校一年です」


「後輩か」


「はい」


「背が」


「そこから先は不要です」


「ごめん」


 レンは不機嫌そうに歩いている。


 でも歩幅は僕に合わせていた。


 妙に律儀だ。


 駄菓子屋に着くと、店の明かりは消えていた。


 当たり前だ。

 もう夜だ。


 でも、店先にはトメさんが座っていた。


 暗い店の前で、うちわを扇いでいる。


「来ると思ってたよ」


 トメさんは言った。


 僕は息を切らしながら言う。


「それ、今日二回目です」


「便利な言葉は何度でも使うんだよ」


「便利すぎます」


 レンが前に出た。


「トメさん」


「ああ、レンくん」


 トメさんの声が少しだけ柔らかくなった。


「大きくなったね」


「成長期です」


「相変わらず不機嫌だ」


「性質です」


「サキちゃんに似てきた」


 レンの顔が少しだけ固まった。


 でも、何も言わなかった。


 トメさんは店の戸を開けた。


「入りな」


     *


 夜の駄菓子屋は、昼間より狭く感じた。


 棚に並ぶ菓子の袋が、暗がりの中で小さく光っている。


 ラムネ瓶。

 アイスの冷凍庫。

 当たり付きのくじ。

 古い写真。


 トメさんは、店の奥から木箱を一つ持ってきた。


「サキちゃんから預かってたものだよ」


 レンの目が細くなる。


「なぜ今まで黙っていたんですか」


「受け取れる人が来なかったから」


「僕は何度も来ました」


「レンくん一人じゃ開かなかった」


 トメさんは僕を見た。


「この子も必要だった」


「僕?」


「外れそうな顔の子」


「その判定、まだ有効なんですか」


「有効だよ」


 トメさんは箱を開けた。


 中には、空のラムネ瓶が一本入っていた。


 古い瓶だった。


 今のラムネ瓶より少し重そうで、ガラスの青が濃い。


 底にはビー玉が沈んでいる。


 ただのビー玉ではない。


 その奥に、小さな黒いものが見えた。


「メモリカード?」


 僕が言うと、レンが瓶を手に取った。


「姉のノート通りです」


「どうやって取るんだ」


 僕が聞くと、トメさんはにこにこした。


「割る」


「え」


「瓶は割れるものだよ」


「思い切りがいい」


「でも、割る前に飲み物としての敬意を払いな」


「空ですけど」


「気持ちの問題」


 レンが小さくため息をついた。


「姉も同じようなことを書いていました」


 彼はノートを開く。


> ラムネ瓶は割る前に、からんって鳴らすこと。

> ビー玉の音は、誰かを見つける音。

> 何も鳴らさず割ると、ただの破壊。

> からんって鳴らせば、たぶん儀式。

> たぶん禁止されたら、儀式。


「サキさん、何者なんだ」


「姉です」


 レンは短く答えた。


 僕はラムネ瓶を受け取り、軽く傾けた。


 からん。


 ビー玉が鳴った。


 その音は、小さかった。


 でも、妙にはっきり聞こえた。


 遠くの誰かを呼ぶみたいに。


 その瞬間、スマホが震えた。


 ミカからではなかった。


 見たことのない通知。


> CHRONOGRAPH

> 外部音声タグを検出

> RAMUNE-LOG:認証待機


「出た」


 レンが言った。


「クロノグラフの通知です」


「僕のスマホに?」


「先輩は仮登録対象ですから」


「その言い方やめてくれ」


「事実です」


「事実にも礼儀がほしい」


 レンは瓶を布で包み、工具のようなもので慎重に口の部分を外した。


 割ると言っていたが、実際にはかなり丁寧だった。


 ビー玉を取り出し、底に沈んでいたメモリカードを細いピンセットで抜く。


 小さな黒いカード。


 こんなものがラムネ瓶の底に沈んでいたなんて、普通は気づかない。


 大事なものは、どうでもいいものに混ぜると残る。


 サキの言葉が、少しだけ分かった気がした。


 レンは端末を取り出し、メモリカードを差し込んだ。


 画面にファイル名が表示される。


> 831_2341_saki_voice.wav

> speaker25_testlog.txt

> minato_temp_id.dat


「ミナト?」


 僕は自分の名前を見て、息を止めた。


「僕の名前がある」


 レンも画面を見つめていた。


「……やはり」


「やはりって何だ」


「先輩は、三年前の事故に関係しています」


「僕は覚えてない」


「記録はあります」


「記憶と記録は別だって、今日先生も言ってた」


 言ってから、僕は白石先生の顔を思い出した。


 出席簿に僕の名前がなかった時の、あの一瞬の目。


 町内放送を聞いた時の表情。


 白石先生は、何か知っている。


 でも今は、ミカだ。


「音声を再生します」


 レンが言った。


 トメさんはうちわを止めた。


 駄菓子屋の中が、静かになる。


 レンが再生ボタンを押した。


 ざあ、とノイズ。


 古い雨みたいな音。


 それから、女の人の声が聞こえた。


『録れてる? 録れてるなら返事して。いや、機械が返事したら怖いか。サキです。雨宮サキです。これを聞いている人がいるなら、まず言っておきます。冷やし中華にメモリカードは入れるな。ラムネ瓶にしろ』


 僕は思わずレンを見た。


 レンは無表情だった。


 でも、少しだけ唇が震えている。


 サキの声。


 明るくて、早口で、ふざけている。


 でも、その奥に焦りがあった。


『三架町のクロノグラフは、おかしい。これは時間を戻す装置じゃない。記録を()き直してる。炊飯器みたいに。昨日のご飯を、今日も炊きたてですって顔で出してくる感じ。最悪でしょ』


 時間の炊飯器。


 サキのノートにあった言葉。


『三年前の八月三十一日、旧体育館で記録が壊れた。いや、壊されたのかもしれない。雨宮サキの名前が消えかけてる。たぶん私。たぶん禁止なら、私』


 ノイズが混ざる。


『でも、それよりまずいのは、ミナトくん』


 僕の心臓が跳ねた。


『瀬名湊斗くん。君、これ聞いてる? 聞いてたら、たぶんすごく混乱してると思う。ごめん。でも君は、ここにいた。三年前、旧体育館にいた』


 手の中の青いヘアピンが、冷たくなる。


 僕が、三年前にここにいた?


『君は消えかけてた。記録からも、人の目からも。だから私は、君を一時的に外した。町の記録から。そうしないと、君は完全に処理されると思った』


 処理。


 その言葉が、嫌な響きで耳に残った。


『でも失敗した。君は助かったけど、仮登録のまま残った。ごめん。ほんとにごめん。これ、直接言えたらいいんだけど、たぶん無理。私はたぶん死ぬ。たぶん禁止なら、死ぬ』


 レンが、端末を握る手に力を込めた。


 トメさんは目を伏せている。


 僕は何も言えなかった。


『もし、この記録が未来に届くなら。ミナトくん。名前を呼んでもらって。ちゃんと。何度でも。君は、呼ばれないと消えやすい。スマホとか、名簿とか、そういう適当な記録は君をよく落とす。でも、人の声は違う』


 ミカの声が、頭に浮かぶ。


 瀬名湊斗、存在確認完了。


『それから、朝倉ミカ』


 僕は息を止めた。


『その子は、たぶん君を見つける。君がどれだけ薄くても、たぶん見つける。だから逆に、その子が危ない。クロノグラフは、強い認識を利用する。誰かを強く見ている人は、穴埋めに選ばれやすい』


 穴埋め。


 ミカが死亡候補に選ばれる理由。


 僕を見つけるから。


 僕を呼ぶから。


 僕の近くにいるから。


 黒瀬先輩の言葉が蘇る。


 そのせいで、彼女が危なくなるとは考えない?


「……僕のせいか」


 声が漏れた。


 ミカが死ぬのは。


 僕のせいなのか。


 レンがすぐに言った。


「結論を急がないでください」


「でも」


「姉は、そう言っていません」


 レンは画面を指差した。


 音声はまだ続いている。


『いい? ここ大事。ミナトくんのせいじゃない。朝倉ミカのせいでもない。誰かを見つけることは、悪いことじゃない。悪いのは、それを利用する記録のほう。あと、説明しない大人。あと、冷やし中華にからしを入れすぎる人』


 僕は息を止めたまま、少しだけ笑いそうになった。


 笑える内容じゃない。


 でも、サキの声がそうさせた。


 怖い話の真ん中に、変なものを置く。


 たぶん、そうしないと聞いていられないから。


『八月三十一日、追い花火の時刻。二十三時四十一分。第三橋。そこに記録が集まる。二十五番スピーカーが鍵。八月二十四日の接続テストログを見て。外れ棒。031-824-25。外れにも役目がある』


 僕はポケットから、昼間のハズレ棒を取り出した。


 031-824-25。


 本当に、同じ番号。


 レンが小さく息を呑んだ。


『最後に。レン』


 レンの肩が揺れた。


『もし聞いてたら、怒っていいよ。お姉ちゃん、また勝手なことしてる。でも、忘れないで。私の名前を。雨宮サキ。雨宮サキはここにいた。ふざけたノートだけ残した変な女じゃない。いや、それも合ってるけど』


 レンは何も言わない。


 ただ、唇を噛んでいた。


『レン。ひとりで覚えようとしなくていい。たぶん、重いから。誰かと覚えて。いちご味は、できれば誰かと食べて』


 ノイズが大きくなる。


『ミナトくん』


 僕は端末を見つめた。


『走って』


 その声は、第一話の夜に僕の胸の奥で聞こえた声と同じだった。


『ミナト、走って』


 音声はそこで途切れた。


     *


 誰もすぐには喋らなかった。


 駄菓子屋の中に、冷凍庫の低い音だけが響いている。


 僕は青いヘアピンとハズレ棒を見つめていた。


 どちらも小さい。


 どうでもいいものに見える。


 でも、今は重かった。


「僕は」


 声がうまく出なかった。


「三年前に、旧体育館にいた」


 レンは頷く。


「姉の記録では、そうです」


「サキさんが、僕を助けた」


「はい」


「そのせいで、ミカが危ない」


「違います」


 レンは強く言った。


「そこは、違います」


「でも」


「姉も言っていました。悪いのは、認識を利用する記録のほうです」


「記録って何だよ」


「クロノグラフです」


「機械がミカを殺すっていうのか」


「機械だけではありません」


 レンはノートを閉じた。


「町の記録。町の大人。三年前に何かを隠した人たち。全部が関わっています」


「誰が」


 僕が聞いた。


「誰が隠したんだ」


 レンは少し沈黙した。


 それから言った。


「白石先生は、何かを見ています」


 背筋が冷えた。


「先生が?」


「姉のノートにあります」


 レンはページを開く。


> 白石先生。

> 見てた。

> たぶん全部じゃない。

> でも、見てた。

> 先生は悪い人じゃない。

> 悪い人じゃないけど、何かを言わない人は、時々すごく怖い。


 白石先生の眠そうな顔。

 出席簿を見た時の表情。

 町内放送を聞いた時の顔。

 記憶と記録は別だ、と言った声。


 全部が、違う意味を持ち始める。


「先生に聞くしかない」


 僕が言うと、レンは首を横に振った。


「今は危険です」


「何で」


「先生は、朝倉先輩を守ろうとしている可能性があります」


「なら」


「でも、守り方を間違える可能性もあります」


 その言い方が、妙に引っかかった。


「どういう意味だ」


 レンは答えなかった。


 代わりに、端末の画面を見せる。


 音声ファイルの下に、テキストログが開かれていた。


> speaker25_testlog.txt

> 8/24 接続テスト

> SPEAKER25

> 同期先:第三橋下流

> 追い花火予備記録

> 対象未定

> 保留:青色認識タグ


「青色認識タグ」


 ミカのヘアピンが、手の中で光った気がした。


「朝倉先輩の青いヘアピンです」


 レンが言った。


「おそらく、彼女を見つけるための目印であると同時に、クロノグラフにも見つけられるタグになっている」


「じゃあ、これを外せば」


「単純ではありません」


「またかよ」


「外せば、朝倉先輩を人が見つけにくくなるかもしれません。見つけてもらうための青でもあります」


 見つけてもらうための青。


 ミカの青いヘアピン。


 僕が拾った、小さな助けて。


 僕はヘアピンを握った。


「ミカを探す」


 今度は、はっきりと言った。


「理由は分かった。いや、全然分かってないけど。でも、今はミカを見つける」


「手がかりがあります」


 レンは端末のログをさらに開いた。


> 最新位置タグ反応

> 青色認識タグ:検出

> 時刻:20:14

> 場所:三架神社裏


「神社?」


 トメさんが言った。


「夏祭りの準備場所だね」


「ミカ、手伝いに行くって言ってた」


 僕はスマホを確認した。


 時刻は二十時十八分。


 今なら、まだ近い。


「行く」


 僕は立ち上がった。


 レンも端末をしまう。


「僕も行きます」


「危ないんじゃないのか」


「危ないから行きます」


「言い方」


「生存優先です」


 トメさんが、棚から小さな飴を二つ取り出した。


 いちご味。


 それをレンに渡す。


「持っていきな」


「必要ありません」


「サキちゃんが言ってたろ」


 レンは黙った。


 そして、渋々受け取った。


「持つだけです」


「食べてもいいよ」


「今は食べません」


「不機嫌だねえ」


「性質です」


 トメさんは僕にも一本、ラムネを渡した。


「ミカちゃんに渡してあげな」


「ミカに?」


「あの子、怖い時ほど炭酸飲むんだよ」


「水分補給って言ってました」


「強がりだね」


 トメさんは少し寂しそうに笑った。


「笑ってる子ほど、喉が渇くんだよ」


 僕はラムネ瓶を受け取った。


 冷たい瓶。


 中のビー玉が、小さく鳴る。


 からん。


 誰かを見つける音。


「ありがとうございます」


 僕は言った。


 トメさんはうちわを扇いだ。


「ミカちゃんを見つけな」


「はい」


「それから」


 トメさんは僕をまっすぐ見た。


「今度は、聞きな」


 胸に刺さった。


 今度は聞きな。


 ミカが言いたくないなら言わなくていい。


 そう言って、僕は逃げた。


 今度は、逃げない。


     *


 三架神社へ向かう道は、暗かった。


 商店街の明かりが遠ざかると、夜の町は急に静かになる。


 遠くで波の音。

 電線の上で鳴く虫の声。

 そして、どこかで軋むような町内放送のスピーカー。


 レンは端末を見ながら歩いている。


「位置反応はまだ神社裏です」


「ミカはそこにいる?」


「青色認識タグはあります」


「本人は?」


「分かりません」


「分かりません多いな」


「嘘を言うよりはましです」


「それはそう」


 神社の石段が見えた。


 夏祭りの準備中らしく、境内には提灯の骨組みや屋台の部品が置かれている。


 でも今は誰もいない。


 風が吹くと、紙の貼られていない提灯がかさかさ鳴った。


「ミカ!」


 僕は叫んだ。


 返事はない。


 石段を駆け上がる。


 境内を抜けて、社務所の裏へ回る。


 そこに、ミカはいた。


 木の(かげ)に座り込んでいた。


 青いヘアピンはない。


 髪の左側が、いつもより頼りなく見えた。


 僕は息を呑む。


「ミカ!」


 ミカが顔を上げた。


 目が赤い。


 泣いていたのだと分かった。


 でも、僕を見ると、いつものように笑おうとした。


「何で来るかな」


 声が震えていた。


「探すなって言ったのに」


「探すなって言われて探さないやつは、だいたい後悔する」


「ミナトのくせに、まともなこと言う」


「僕にもたまにはアップデートが入る」


「無料版なのに?」


「期間限定」


 ミカは少しだけ笑った。


 でも、すぐに顔を伏せた。


「帰って」


「帰らない」


「巻き込む」


「もう巻き込まれてる」


「もっと」


「じゃあ、もっと巻き込まれる」


「馬鹿」


「自覚はある」


 僕はミカの前にしゃがんだ。


 レンは少し離れたところに立っている。


 気を遣っているのか、単に人の感情が苦手なのか分からない。


 たぶん両方だ。


 僕は青いヘアピンを差し出した。


「落ちてた」


 ミカはそれを見て、唇を噛んだ。


「拾ったんだ」


「うん」


「見つけるの、うまくなったじゃん」


「ミカほどじゃない」


「私はプロだからね」


「何の?」


「ミナト発見士」


「資格の名前が嫌だな」


 ミカはヘアピンを受け取らなかった。


 ただ、それを見つめている。


「ミカ」


 僕は聞いた。


「何が届いてる」


 ミカの肩が揺れた。


「スマホに」


「……」


「迷惑通知じゃないんだろ」


 ミカは黙っていた。


 僕は逃げそうになる心を押さえた。


 言いたくないなら、言わなくていい。


 その言葉を、今日は使わない。


「聞かせて」


 僕は言った。


「怖くても、聞く」


 ミカは、ゆっくりスマホを取り出した。


 画面を僕に見せる。


 そこには、見慣れない通知が並んでいた。


> CHRONOGRAPH

> 8/31 23:41

> 朝倉ミカ 死亡予定

> 場所:第三橋下流


> 青色認識タグ:保持中

> 継続認識対象:瀬名湊斗

> 固定率:上昇中


> 警告

> 瀬名湊斗を巻き込まないでください。


 喉が詰まった。


 ミカは、これを見ていた。


 朝から。

 いや、もっと前からかもしれない。


 自分が死ぬという通知。

 僕を巻き込むなという警告。


 それでも、笑っていた。


「いつから」


 僕が聞くと、ミカは小さく言った。


「三日前」


「何で言わなかった」


「言えるわけないじゃん」


 ミカの声が(かす)れる。


「自分が死ぬかもって言われてるのも怖いけど、それより」


「それより?」


「ミナトの名前が出てくるのが怖かった」


 ミカはスマホを握りしめた。


「私がミナトを見つけるから、ミナトが巻き込まれるって言われてるみたいで」


「違う」


「分かんないじゃん」


「違う」


「何で言い切れるの」


「サキさんが言ってた」


 ミカが顔を上げる。


「サキさん?」


「雨宮サキ。レンのお姉さん。三年前に死んだ人」


「……雨宮」


 ミカはその名前を繰り返した。


「知ってる気がする」


 レンが一歩前に出た。


「姉は、あなたを責めていません」


 ミカはレンを見る。


「君が、雨宮レンくん?」


「はい」


「不機嫌そう」


「よく言われます」


「サキさんの弟って感じする」


「姉を知っているんですか」


「知らない。でも、何となく」


 ミカは少しだけ笑った。


 それから、僕を見た。


「私、怖い」


 その言葉は、小さかった。


 でも、今までのどんな冗談より本当だった。


「うん」


「死ぬのも怖い」


「うん」


「ミナトを巻き込むのも怖い」


「うん」


「でも、一人でいるのも怖い」


 ミカの目から、涙が落ちた。


「助けてって言ったら、重い?」


 胸が痛くなった。


 僕は首を横に振った。


「重い」


「そこは軽いって言ってよ」


「命がかかってるから、軽いわけない」


「ひどい」


「でも、持つ」


 ミカは泣きながら笑った。


「ミナト、たまにちゃんとしてる」


「時々やさしいらしいから」


「時々か」


「今日はその日」


 僕は青いヘアピンを差し出した。


「これ、返す」


 ミカは震える手で受け取った。


 そして、左側の髪に留め直した。


 青いヘアピンが、夜の中で小さく光ったように見えた。


 その瞬間、スマホが震える。


 僕とミカ、両方のスマホが同時に。


> CHRONOGRAPH

> 外部認識を検出

> 朝倉ミカ:生存中

> 瀬名湊斗:仮登録維持

> 相互認識:成立


 ミカは画面を見て、息を呑んだ。


「相互認識って何」


「さあ」


「レンくん」


 ミカが聞くと、レンは少し考えた。


「互いを強く認識している状態だと思います」


「言い方が堅い」


「事実です」


「事実にも礼儀がほしい」


 僕が言うと、レンは嫌そうな顔をした。


「似たようなことを二回言わないでください」


 ミカが少し笑った。


 その笑顔は、まだ涙で濡れていた。


 でも、嘘だけではなかった。


「じゃあ」


 ミカは小さく息を吸った。


「朝倉ミカ、生存確認完了」


 僕は頷いた。


「瀬名湊斗、存在確認完了」


 レンが画面を見て、小さく呟く。


「記録が動いた」


「いい方向に?」


 僕が聞く。


「分かりません」


「そこは嘘でもいい方向って」


「嘘は効率が悪いので」


「出た」


 ミカが涙を拭った。


「でも、ちょっと楽になった」


「よかった」


「うん」


 ミカはラムネ瓶に気づいた。


「それ」


「トメさんから」


「私に?」


「怖い時ほど炭酸飲むって」


「トメさん、余計なことを」


 ミカは受け取って、瓶を開けた。


 ぽん、と小さな音。


 ビー玉が、からんと鳴る。


 誰かを見つける音。


 ミカはラムネを一口飲んだ。


「冷たい」


「感想が普通」


「生きてるからね」


 その言葉に、僕は何も言えなくなった。


 ミカは今、生きている。


 八月三十一日の死亡記録なんて、まだ未来だ。


 でも、その未来は確実に近づいている。


 なら、今から変えるしかない。


     *


 神社の石段に、三人で座った。


 夜の空は黒く、遠くで海の音がする。


 レンはサキのノートを開いている。


 ミカはラムネ瓶を膝の上で転がしている。


 僕はハズレ棒を見つめていた。


 031-824-25。


「これからどうする」


 僕が聞くと、レンは言った。


「まず、二十五番スピーカーを確認します」


「二十五番スピーカー?」


「第三橋下流にある町内放送のスピーカーです。姉のログと、朝倉先輩の死亡記録がそこに繋がっている」


「031-824-25の25か」


「はい」


「031は八月三十一日?」


「おそらく」


「824は?」


「八月二十四日の接続テスト」


 レンは端末のログを見せる。


「花火大会前の放送設備テストです。そこで、死亡記録の下準備が行われている可能性があります」


 ミカが顔をしかめた。


「下準備って、嫌な言い方」


「僕も嫌です」


「レンくんが嫌って言うと、本当に嫌なんだなって感じする」


「どういう意味ですか」


「普段から不機嫌だから、基準が高そう」


「不本意です」


 ミカは少し笑った。


 僕も少しだけ笑った。


 怖い話をしているのに、笑いが混ざる。


 でも、それでいいのかもしれない。


 怖いだけになると、たぶん飲まれる。


「それと」


 レンはノートをめくった。


「白石先生には注意してください」


 ミカの手が止まる。


「先生?」


「姉のノートにあります」


 レンは読む。


> 白石先生は見てた。

> 見てたのに言ってない。

> でも、悪い人じゃない。

> 悪い人じゃない人が、いちばん怖い時がある。

> 善意で人を崖から遠ざけようとして、逆に落とすことがある。

> 比喩です。

> たぶん。


 僕は眉をひそめた。


「崖から遠ざけようとして、逆に落とす?」


「比喩と書いてあります」


 レンが言う。


「でも、たぶん比喩だけじゃないんだろうな」


 ミカは青いヘアピンに触れた。


「先生、今日変だった」


「うん」


「私を見る目が、ちょっと怖かった」


「怖かった?」


「怒ってるみたいな、心配してるみたいな」


「両方かもしれない」


 僕は白石先生の言葉を思い出す。


 記憶と記録は別だ。


 先生は知っている。


 何かを見ている。


 でも、まだ言っていない。


「明日、先生に聞く」


 僕は言った。


 レンが首を横に振る。


「正面から聞くのは危険です」


「何で」


「先生が味方とは限りません」


「でも悪い人じゃないんだろ」


「悪い人じゃないことと、正しい行動をすることは別です」


 その言葉は、妙に重かった。


 ミカが小さく言う。


「なんか、大人って面倒だね」


「高校生も十分面倒だよ」


「ミナトの宿題ほどじゃない」


「それは災害」


「合法的な敗者復活戦でしょ」


「朝の僕の言葉、よく覚えてるな」


「ミナト発見士なので」


「記憶力の資格だったのか」


 ミカは笑った。


 さっきより少しだけ、ちゃんと笑っていた。


 でも、その笑顔の端には、まだ怖さが残っている。


 僕はそれを見逃したくなかった。


 もう、見逃したくなかった。


     *


 帰り道、僕はミカを家の近くまで送った。


 レンは「僕は調べることがあります」と言って、神社の前で別れた。


 夜道を、僕とミカで歩く。


 街灯の下で、青いヘアピンが何度も光った。


「ミナト」


「何」


「今日さ」


「うん」


「助けてって言ったら、ほんとに来たね」


「来た」


「迷惑だった?」


「かなり」


「正直」


「でも、来てよかった」


 ミカは少し黙った。


「私、また怖くなったら、言っていい?」


「助けてって?」


「うん」


「言え」


「命令?」


「お願い」


「雑なお願い」


「言ってほしい」


 ミカは僕を見る。


 その目は、まだ少し赤い。


「じゃあ、言う」


「うん」


「ミナトも、消えそうになったら言って」


「僕は消えません」


「出席簿になかったくせに」


「それは学校側の節電」


「省エネ男子」


「設定が戻ってきた」


 ミカは笑った。


 でも、そのあと急に真面目な顔になる。


「ミナト」


「何」


「私が死ぬって記録、ほんとに変えられるかな」


 僕はすぐに答えられなかった。


 変えられる。


 そう言いたい。


 でも、適当な励ましで済ませたくなかった。


「変える」


 僕は言った。


「変えられるか分からなくても、変える」


「強引」


「今日くらいは」


「そっか」


 ミカは青いヘアピンに触れた。


「じゃあ、信じる」


 その言葉は、軽くなかった。


 命の重さがあった。


 僕はそれを受け取った。


 ミカの家の前に着く。


「じゃあ」


 ミカが言う。


「また明日」


「うん」


「瀬名湊斗、存在確認完了」


 僕は少しだけ笑った。


「朝倉ミカ、生存確認完了」


 ミカは頷いて、家の中へ入っていった。


 扉が閉まる。


 僕はしばらく、その場に立っていた。


 スマホを見る。


 クロノグラフの通知は消えていない。


> 8/31 23:41

> 朝倉ミカ 死亡記録

> 固定率:未確定

> 青色認識タグ:保持中

> 相互認識:成立


 未確定。


 それだけが、今の希望だった。


 完全に消えたわけじゃない。

 でも、固定もされていない。


 まだ間に合う。


 そう思いたかった。


     *


 家に帰ると、母さんが玄関で待っていた。


「遅い」


「ごめん」


「宿題は?」


「世界が終わらなかったので、やります」


「言い訳の規模が大きい」


「自覚はある」


 母さんは僕の顔を見た。


「何かあった?」


 僕は少し迷った。


 言えるわけがない。


 ミカが死亡記録に載っている。

 クロノグラフという装置がある。

 三年前、僕は旧体育館にいたらしい。

 雨宮サキという人が僕を助けた。

 白石先生が何かを知っている。


 そんなこと、夕飯前に出す話ではない。


「友達が」


 僕は言った。


「困ってた」


「ミカちゃん?」


「うん」


「助けられた?」


「まだ」


 母さんは少しだけ驚いた顔をした。


「まだ?」


「これから」


 母さんは僕をしばらく見ていた。


 それから、小さく頷いた。


「そう」


「怒らないの?」


「怒るよ。宿題してないし」


「そこ」


「でも、友達を助けるのは大事」


 母さんは言った。


「ただし、帰ってきなさい」


「帰ってきた」


「八月三十一日も」


 僕は動きを止めた。


「何で、八月三十一日?」


 母さんは自分でも不思議そうな顔をした。


「分からない」


「分からない?」


「でも、毎年この時期になると、言わなきゃいけない気がするの」


 母さんは、僕の名前を呼んだ。


「ミナト」


「うん」


「八月三十一日は、ちゃんと帰ってきなさい」


 その言葉は、やけに重かった。


 母さんも何かを忘れている。


 町が忘れさせた何かを。


「分かった」


 僕は答えた。


「帰ってくる」


 でも、本当は分かっていた。


 八月三十一日に帰ってこなければいけないのは、僕だけじゃない。


 ミカも。

 レンの姉、雨宮サキも。

 きっと、名前を消された誰かも。


 みんな、帰ってこなければならない。


     *


 部屋に戻って、机の上に三つのものを並べた。


 ミカの青いヘアピンは、もう返した。


 だから今ここにあるのは、


 ハズレ棒。

 031-824-25。


 ラムネ瓶のビー玉。

 青く濃い、ガラスの玉。


 そして、メモリカードからコピーしたサキの音声ファイル。


 スマホの画面に、ファイル名が表示されている。


> 831_2341_saki_voice.wav


 僕は再生ボタンには触れなかった。


 もう一度聞く勇気は、まだなかった。


 代わりに、ミカとのトーク画面を開いた。


 メッセージが来ている。


> 今日はありがとう。

> 助けてって言ってよかった。


 僕は返信した。


> 言ってくれてよかった。


 少しして、既読がついた。


> 明日も生きてたら、補習で会おう。


 その文章を見て、胸が痛くなった。


 明日も生きてたら。


 そんなことを、ミカに言わせたくなかった。


 僕は少し考えてから打った。


> 明日も生きてる。

> 朝倉ミカ、生存確認予約。


 すぐに返信が来た。


> 予約って何。

> 炊飯器?


 僕は思わず笑った。


 サキの言葉が、ここにも戻ってくる。


> じゃあ時間の炊飯器。


> 怖いからやめて。


> ごめん。


> でも、ちょっと笑った。


 僕はスマホを伏せた。


 窓の外では、また蝉が鳴いている。


 夜なのに。


 夏が、まだ終わる気配を見せない。


 でも、今日は一つだけ変わった。


 ミカが助けてと言った。


 僕はそれを聞いた。


 ラムネ瓶の底から、サキの声が出てきた。


 外れ棒には役目があった。


 八月三十一日は近づいている。


 ミカの死亡記録は、まだ消えていない。


 でも、未確定だ。


 まだ、確定していない。


 それだけで、僕は立っていられた。


 机の上のビー玉が、月明かりを受けて小さく光った。


 からん。


 触れていないのに、そんな音がした気がした。


 誰かを見つける音。


 僕は小さく呟いた。


「雨宮サキ」


 名前を呼ぶと、部屋の空気が少しだけ変わった気がした。


 忘れられた名前。

 消された名前。

 まだ、ちゃんと戻っていない名前。


 いつか、その名前もみんなで呼ぶ。


 でも今は。


「朝倉ミカ」


 僕はもう一度呟いた。


「生存確認完了」


 返事はなかった。


 それでも、言葉は部屋の中に残った。


 八月二十五日の夜。


 ラムネ瓶の底から見つかった秘密は、僕たちの夏を少しだけ変えた。


 けれど本当の意味で変えなければならない日は、まだ先にある。


 八月三十一日。


 花火の夜。


 君が死ぬ日。

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