存在確認完了
最後、君はこの物語の真実に気づく……
八月二十五日の朝、僕はスマホに拒絶された。
顔認証に失敗しました。
画面には、そう表示されている。
「……またかよ」
寝起きの顔が、そんなに信用ならないのか。
それともスマホのほうが、僕より先に、僕という人間の存在を疑い始めていたのか。
まあ、その時の僕は、そんな不穏なことを考えもしなかった。
ただ前髪を手ぐしで直して、もう一度スマホに顔を向ける。
顔認証に失敗しました。
「二連敗」
僕は暗証番号を打ち込んだ。
文明に負け込んだ朝は、だいたいろくでもない。
台所から、母さんの声が飛んできた。
「ユウ、牛乳取って」
「湊斗だけど」
「あ、ごめんごめん。寝ぼけてた」
母さんは冷蔵庫の前で、悪びれもなく笑った。
瀬名湊斗。
それが僕の名前だ。
瀬名ユウではない。
瀬名ミナトだ。
まあ、母さんの呼び間違いは今に始まったことじゃない。
小さい頃から、僕の名前はよく宙ぶらりんになる。
呼ばれない。
気づかれない。
数えられない。
そういうことに、僕はもう慣れていた。
慣れている、というのは便利な言葉だ。
本当は、傷ついていないわけじゃない。
ただ、毎回ちゃんと傷つくのが面倒になっただけだ。
母さんは食卓に皿を置いた。
「朝ごはん、冷やし中華でいい?」
「朝から?」
「夏だから」
「夏への信頼が厚すぎる」
皿の上には、麺、きゅうり、錦糸卵、ハム、トマト。
そしてなぜか、端に小さな唐揚げが二つ乗っている。
「冷やし中華に唐揚げって合うの?」
「合うかどうかじゃないの。余ってたの」
「料理の思想が在庫処分」
「文句言う子にはトマト増やすよ」
「それは暴力」
僕は椅子に座って、箸を取った。
夏休み最後の一週間。
八月二十五日。
僕は今日、学校へ行かなければならない。
理由は補習。
つまり、学業における合法的な敗者復活戦だ。
「宿題は?」
母さんが聞いた。
「存在しないものの話はやめよう」
「存在するから先生に怒られるんでしょ」
「僕の中では都市伝説」
「都市伝説は提出できないよ」
分かっている。
分かっているが、分かっていることと終わっていることは別問題だ。
僕は冷やし中華をすすった。
酸っぱいタレが、まだ完全に起きていない胃に刺さる。
窓の外では、蝉が狂ったように鳴いていた。
夏は終わりかけている。
なのに、空だけはまだ真夏のふりをしていた。
青すぎる空。
白すぎる雲。
アスファルトの上で揺れる熱。
終わる気配なんて、どこにもないように見えた。
でも夏は終わる。
どれだけ暑くても、どれだけ蝉が鳴いても、どれだけ宿題が白紙でも、八月は終わる。
その時の僕は、まだ知らなかった。
夏が終わることは、たぶん、救いなのだ。
*
三架町は、海と川に挟まれた小さな町だ。
観光地と呼ぶには地味で、田舎と呼ぶには少しだけ便利。
駅前には古い商店街があって、海沿いには堤防が続いている。
夏になると、花火大会のポスターが町中に貼られる。
今年も、電柱や掲示板に同じポスターが貼られていた。
三架町納涼花火大会
八月三十一日 午後七時より
ポスターの端で、日付の文字が少しだけ二重に見えた。
八月三十一日。
いや、八月三日一日、みたいに。
「印刷ズレてんな」
僕は立ち止まって、それを眺めた。
まあ、どうでもいい。
この町のポスターはだいたい少し雑だ。
スマホが震える。
三架町防災アプリからの通知だった。
> 熱中症警戒:本日、三架町沿岸部で高温が予想されます。
> こまめな水分補給を心がけてください。
続けて、もう一件。
> 花火大会当日は混雑が予想されます。
> 第三橋周辺の通行にご注意ください。
「まだ一週間あるんだけど」
町に急かされている気分だった。
第三橋。
川に架かる古い橋で、今は一部が立入禁止になっている。
老朽化だとか、昔事故があったとか、理由はいくつか聞いたことがある。
けれど僕は、その橋が好きではなかった。
理由は分からない。
ただ、あの橋の近くを通ると、胸の奥が少しだけざわつく。
忘れている何かが、体の内側から戸を叩くような感じがする。
まあ、最悪ではない。
僕はそう思って、学校へ向かった。
*
三架高校は、夏休みの校舎がいちばん寂しい。
普段ならうるさい廊下も、今日は静かだった。
開いた窓から熱い風が入り、カーテンがだらしなく揺れている。
誰かが置き忘れたプリントが床に落ちていて、扇風機の風でぺらぺらと震えていた。
補習教室は二年三組だった。
中に入ると、すでに数人が机に突っ伏していた。
敗者復活戦の会場らしい光景だ。
「お、来た」
窓際の席から、朝倉ミカが手を振った。
短めの髪。
左側に留めた青いヘアピン。
夏服の袖を少し雑に折って、机の上にはラムネの瓶。
先生に見つかったら普通に怒られる。
ミカは僕を見るなり、にやっと笑った。
「省エネ男子、登校確認」
「僕は電力だったのか」
「薄暗いし」
「人に向かって薄暗いって言うな」
朝倉ミカは、僕の幼なじみだ。
幼なじみ。
たぶん、そう呼んでいいと思う。
中学からの付き合いで、周りからは何度も「付き合ってるの?」と聞かれた。
そのたびにミカは即答する。
「ないない。ミナトは味薄いし」
僕は僕で、
「ミカは味が濃すぎる」
と返す。
それでだいたい終わる。
友情なのか、腐れ縁なのか、もっと別の何かなのか。
僕自身にも、まだよく分からない。
でも、一つだけ確かなことがある。
ミカは、僕を見つけるのがうまい。
教室の端にいても。
人混みに埋もれていても。
先生に名前を飛ばされても。
ミカだけは、当たり前みたいに僕を見つける。
ミカはラムネ瓶を机の上で転がした。
「宿題、終わった?」
「存在しないものの話はやめよう」
「朝から同じ言い訳してそう」
「なんで分かる」
「ミナトの脳みそ、だいたい三パターンしかないから」
「無料版だからな」
「課金しろ」
僕はミカの隣に座った。
その瞬間、ミカのスマホが震えた。
ミカは画面を見た。
ほんの一瞬、表情が消えた。
笑っていた顔から、すっと温度が引いたみたいだった。
「誰?」
僕が聞くと、ミカはすぐにスマホを伏せた。
「んー、迷惑通知」
「今の顔、迷惑通知にしては重かったけど」
「私くらいになると、迷惑通知にも全力で向き合うから」
「意識高いな」
「でしょ」
ミカは笑った。
笑ったけれど、その笑い方は少しだけ雑だった。
僕は、それ以上聞かなかった。
聞かないほうがいいと思った。
ミカが言いたくないなら、無理に聞くのは違う。
そう思った。
今なら分かる。
それは優しさではなく、逃げだった。
*
「えー、じゃあ出席取るぞ」
補習担当の白石先生が、アイスコーヒーを片手に教室へ入ってきた。
白石先生は理科教師だ。
いつも眠そうで、いつもアイスコーヒーを飲んでいる。
ただし氷はだいたい溶けている。
「先生、それもう常温コーヒーでは?」
ミカが言う。
「冷たかった頃の記憶はある」
「飲み物にも過去形使うんだ」
「夏は全部そうだ」
白石先生は出席簿を開いた。
「朝倉ミカ」
「はい」
「井上」
「はい」
「木崎」
「うい」
「返事は人類の言語でしろ。えー……瀬名……」
先生の手が止まった。
「あれ、瀬名って今日来てるか?」
教室の数人がこちらを見た。
僕は一番後ろの席で手を上げる。
「来てます。わりと最初から」
「悪い。名簿にない」
少しだけ教室が笑った。
僕も笑った。
慣れている。
プリントが足りない。
班分けに入っていない。
集合写真で端が切れる。
そういうことは、昔からよくある。
「俺、学校から非公式扱いなんで」
「非公式生徒ってなんだ」
「公式グッズが出ないタイプです」
ミカがすかさず口を挟む。
「違うでしょ。ミナトは省エネ男子だから、学校側が節電してんの」
「僕は校内設備だったのか」
「消費電力少なそうだし」
「褒めてる?」
「環境には優しい」
「人には?」
「時々やさしい」
「時々か」
ミカはラムネ瓶を持ち上げると、わざと大きな声で言った。
「瀬名湊斗、存在確認完了」
先生がため息をつく。
「朝倉、勝手に出席を取るな」
「でも先生、ミナト消えそうなんで」
「消えません」
僕はそう言った。
その時は本当に、そう思っていた。
白石先生は、出席簿の僕の名前があるはずの場所をじっと見ていた。
ほんの一瞬だけ。
眠そうな目の奥が、妙に冴えて見えた。
けれど、すぐに先生はいつもの顔に戻る。
「瀬名は……あとで書き足しておく」
「存在を手書きで追加される男」
「ありがたく思え」
「感謝の方向が難しい」
教室に小さな笑いが起きた。
でも、白石先生だけは笑っていなかった。
*
補習は退屈だった。
白石先生は黒板に化学式を書きながら、時々どうでもいいことを言う。
「科学で説明できないことは嫌いだ。だが、科学で説明できる最悪はもっと嫌いだ」
「先生、夏休みに何があったんですか」
「補習だ」
「納得」
教室に小さな笑いが起きる。
外では蝉が鳴いていた。
黒板の文字が、熱気で少し歪んで見えた。
ミカは途中からノートを取るふりをして、何かを書いていた。
僕が横目で見ると、ノートの端に変な絵がある。
僕らしき棒人間。
その横に「透明人間予備軍」と書かれていた。
「見えてるぞ」
「見えてるなら透明じゃないね。よかったじゃん」
「僕の存在証明を落書きでするな」
「高級な証明じゃん。ミカ直筆」
「価値の方向性が分からない」
ミカは笑った。
その笑顔は、今度はちゃんとミカらしかった。
だから僕は安心した。
安心してしまった。
授業が終わる頃、町内放送のチャイムが流れた。
窓の外から、少し割れた音が聞こえてくる。
『こちらは、三架町……』
いつもの放送だ。
熱中症への注意か、花火大会の案内か。
けれど、その途中で一瞬だけ音が乱れた。
『八月……三十一日……第三橋……』
ざり、とノイズが走る。
僕は顔を上げた。
「今、三十一日って言った?」
ミカが首をかしげる。
「え? 聞いてなかった」
「第三橋って」
「防災アプリの話じゃない? 最近そればっかじゃん」
「そうかな」
「ミナト、夏バテ?」
「たぶん」
「たぶん禁止」
「何その急な法律」
「私が今決めた」
ミカは笑った。
でも、白石先生だけが、少しだけ窓の外を見ていた。
その表情が、いつもの眠そうな顔ではなかった気がした。
怖がっているようにも、怒っているようにも見えた。
でも、すぐに先生は黒板消しを手に取った。
「今日はここまで。補習は明日もある。逃げても出席扱いにはならない」
「先生、僕は出席簿に名前がないので逃げてもセーフでは?」
「瀬名だけは逃げたら覚えておく」
「名前あるんじゃないですか」
「記憶と記録は別だ」
先生はさらっと言った。
その言葉だけが、妙に耳に残った。
*
補習のあと、ミカは夏祭り準備の手伝いに行くと言った。
三架町では、八月三十日に神社の夏祭りがあり、三十一日に花火大会がある。
高校生もボランティアとして駆り出される。
ミカはなぜか実行委員の手伝いをしていた。
「意外と真面目だよな」
「意外って何。私は常に真面目だし」
「ラムネ持ち込みながら補習受ける人の台詞ではない」
「水分補給」
「炭酸を水分に含めるな」
「じゃあミナトも来る?」
「僕は宿題という巨大災害と向き合う予定がある」
「逃げる予定でしょ」
「戦略的撤退」
「負け戦の言い方だけうまい」
廊下を歩きながら、ミカはまたスマホを見た。
その瞬間、指先が止まる。
僕は見なかったふりをした。
けれど、今回はミカの顔色が明らかに変わった。
「ミカ」
「ん?」
「本当に、迷惑通知?」
ミカは笑った。
「ミナトってさ」
「うん」
「優しいよね」
「急にどうした」
「でも、優しいっていうより、踏み込まないのがうまいだけかも」
胸の奥が、少しだけ冷えた。
「それ、褒めてる?」
「半分」
「残り半分は?」
「未提出」
「宿題と一緒にするな」
ミカは笑った。
でも僕は、もううまく笑えなかった。
その時、廊下の向こうから一人の先輩が歩いてきた。
黒瀬リョウ。
三年生。
花火大会ボランティアの高校生代表。
成績優秀で、先生からも町内会からも信頼されている。
爽やか、という言葉が制服を着て歩いているような人だった。
「朝倉さん」
黒瀬先輩は柔らかく笑った。
「少し、いいかな」
ミカの肩が、ほんのわずかに強張った。
「……今ですか?」
「今がいい」
黒瀬先輩は僕を見た。
「瀬名湊斗くんも一緒だったんだね」
なぜか、フルネームで呼ばれた。
僕は少しだけ違和感を覚えた。
でも、黒瀬先輩は誰にでも丁寧な人だ。
そういうものかもしれない。
「どうも」
「補習、お疲れさま」
「ありがとうございます」
「夏休みの終わりに学校へ来るのは大変だよね」
「宿題が終わってないので自業自得です」
「正直でいい」
黒瀬先輩は笑った。
その笑顔は、優しそうだった。
でも、ミカは笑っていなかった。
「朝倉さん、例の件だけど」
黒瀬先輩の声が少し低くなる。
「花火大会まで待たないほうがいいと思う」
「……何の話ですか」
「分かってるよね」
僕は二人を見比べた。
「例の件?」
ミカが僕の腕を軽く叩いた。
「なんでもない。ミナトは帰って宿題と戦ってな」
「勝ち目ないけど」
「知ってる」
黒瀬先輩は、穏やかな声で言った。
「瀬名湊斗くん」
「はい」
「君は、朝倉さんの近くにいることが多いんだね」
「まあ、昔からなので」
「そう」
先輩は、少しだけ目を細めた。
「そのせいで、彼女が危なくなるとは考えない?」
僕は言葉を失った。
「黒瀬先輩」
ミカの声が硬くなった。
「ミナトは関係ないです」
「うん。そう言いたい気持ちは分かる」
黒瀬先輩はすぐに笑顔へ戻った。
「でも、関係がない人間なんていないよ。特に、八月三十一日にはね」
その言い方が、妙に引っかかった。
黒瀬先輩は「また連絡するよ」と言って、廊下の向こうへ歩いていった。
ミカはしばらく、その背中を見ていた。
「ミカ」
「ミナト」
ミカは僕の言葉を遮った。
「言いたいことは分かるけど、今は聞かないで」
僕は黙った。
聞くべきだったのかもしれない。
ここで踏み込むべきだったのかもしれない。
でも僕は、いつもの言葉を選んだ。
「言いたくないなら、言わなくていい」
ミカは一瞬、泣きそうな顔をした。
けれどすぐに笑った。
「そういうとこ、ほんと助かる」
その笑顔は、嘘だった。
分かっていた。
分かっていたのに、僕は何もしなかった。
*
夕方、僕は商店街に寄った。
宿題と向き合う前に、脳へ糖分を与える必要がある。
これは逃避ではない。準備運動だ。
駅前商店街の端に、トメさんの駄菓子屋がある。
トメさんは七十歳くらいのおばあさんで、いつも店先でうちわを扇いでいる。
店の中には、アイス、ラムネ、スナック菓子、よく分からないおもちゃ。
夏休みの最後に来ると、子どもの頃を少しだけ思い出す。
「また来たね」
トメさんが言った。
「今日は初来店です」
「顔がまた来たって顔してる」
「どんな顔ですか」
「外れそうな顔」
僕は当たり付きアイスを一本買った。
袋を開けて、かじる。
ソーダ味。
木の棒を見る。
ハズレ。
その下に、小さく番号が印刷されていた。
031-824-25。
「数字つきのハズレって珍しくないですか?」
僕が聞くと、トメさんはうちわを止めた。
「捨てないほうがいいよ」
「え?」
「外れにも、役目がある」
「急に詩的」
「年寄りはね、だいたい詩みたいなこと言ってごまかすの」
トメさんはまた笑った。
店の奥には、古い写真が何枚か飾られている。
昔の花火大会。
昔の商店街。
昔の子どもたち。
一枚だけ、端が黒く潰れた写真があった。
「それ、誰ですか」
僕が聞くと、トメさんはうちわを止めた。
「さあね。夏は、忘れ物が多いから」
「人を忘れ物扱いは怖いです」
「忘れたほうが怖いこともあるよ」
その時、店の外をミカが通った。
僕は声をかけようとした。
けれどミカは誰かと電話していた。
声は聞こえない。
ただ、ミカの横顔だけが見えた。
怖がっているように見えた。
僕は店を出ようとした。
その瞬間、ミカは電話を切って走り出した。
「ミカ!」
僕の声は、商店街のざわめきに飲まれた。
追いかけようとした時、スマホが震えた。
ミカからのメッセージだった。
> 夏が終わる前に、話したいことがある。
僕は画面を見つめた。
心臓が一度、大きく跳ねた。
すぐに返信しようとする。
> 何?
でも、送る前にもう一通届いた。
> やっぱり、なんでもない。
それから、ミカのアイコンは既読にならなかった。
*
夜になっても、僕は宿題を開かなかった。
机の上には、数学の問題集。
英語のプリント。
読書感想文の原稿用紙。
どれも人類に対して敵意がある。
でも、それ以上にミカのことが気になっていた。
黒瀬先輩。
例の件。
花火大会。
話したいこと。
やっぱり、なんでもない。
全部がラムネ瓶の中のビー玉みたいに、胸の奥で転がっていた。
取り出せそうで、取り出せない。
スマホを開こうとした。
顔認証に失敗しました。
「……三敗目」
暗証番号を入れた。
ミカとのトーク画面を開く。
最後のメッセージは、やっぱり変わらない。
> やっぱり、なんでもない。
何でもないわけがない。
そう思った。
思ったのに、電話をかける指が止まった。
今かけたら、ミカは困るかもしれない。
無理に聞くのは違うかもしれない。
僕が首を突っ込んでいいことじゃないかもしれない。
言い訳なら、いくらでも出てくる。
その時、窓の外から町内放送のチャイムが鳴った。
夜の町に、少し歪んだ音が広がる。
『こちらは、三架町……』
ざり、とノイズ。
『八月三十一日……午後十一時四十一分……』
僕は立ち上がった。
今、何と言った?
今日は八月二十五日だ。
『第三橋……朝倉……』
次の瞬間、音はぷつりと途切れた。
部屋の中に、蝉の声だけが戻ってくる。
僕はスマホを握りしめた。
ミカに電話をかける。
呼び出し音が鳴る。
一回。
二回。
三回。
出ない。
もう一度かける。
出ない。
僕は机の横にかけていた鞄を掴み、部屋を飛び出した。
「ミナト? どこ行くの?」
母さんの声がした。
今度は、ちゃんと名前を呼んだ。
「ちょっと!」
「宿題は?」
「世界が終わったらやる!」
「スケールでごまかすな!」
階段を駆け下りる。
夜の空気は、昼間の熱をまだ抱えていた。
スマホの防災アプリが震える。
> 第三橋周辺、通行注意。
僕は走った。
理由なんて分からない。
でも、行かなければならない気がした。
第三橋へ。
まだ八月二十五日の夜なのに。
花火大会なんて一週間先なのに。
胸の奥で、誰かの声がした気がした。
走って。
知らない声だった。
けれど、僕はその声をどこかで聞いたことがあるような気がした。
*
第三橋に着いた時、そこには誰もいなかった。
古い街灯が、頼りなく点滅している。
川の水面は黒く、遠くで波の音がした。
「ミカ!」
僕は叫んだ。
返事はない。
橋の欄干には、立入禁止の黄色いテープが巻かれている。
その下に、小さなものが落ちていた。
青いヘアピン。
ミカのものだった。
僕は息を呑んだ。
拾い上げる。
指先が震えた。
スマホがまた震える。
ミカからのメッセージ。
画面には、たった一行。
> ごめん、ミナト。
「……ふざけんな」
声が震えた。
「何が、ごめんだよ」
僕は電話をかけた。
何度も。
何度も。
繋がらない。
その時、川の向こうで何かが光った。
旧体育館のほうだ。
三架高校の敷地の奥。
今は使われていない古い体育館。
窓のひとつが、一瞬だけ白く光った。
僕はヘアピンを握ったまま、走り出した。
なぜそちらへ向かったのか、自分でも分からない。
ただ、足が勝手に動いた。
*
旧体育館の裏手に回る。
錆びたフェンス。
伸び放題の雑草。
閉ざされた扉。
でも僕は、なぜか裏口の場所を知っていた。
知らないはずなのに。
来たことなんてないはずなのに。
手を伸ばすと、扉はわずかに開いていた。
中は暗かった。
埃と古い木の匂い。
そして、何かが焦げたような匂い。
「ミカ!」
中へ踏み込んだ瞬間、非常ベルの音が鳴った。
甲高い音が、頭の中を引き裂く。
足が止まる。
息が詰まる。
視界の端で、赤い光が点滅していた。
どこか遠くで、花火の音がした気がした。
まだ花火大会の日じゃない。
分かっている。
分かっているのに、耳の奥で、どん、と重い音が鳴る。
非常ベル。
花火。
誰かの叫び声。
走って。
僕は頭を振った。
「ミカ!」
体育館の奥に、古い機械があった。
見たことのない装置。
モニターが一つ、暗闇の中で青白く光っている。
画面には文字が表示されていた。
> 局所時間差分記録装置
> CHRONOGRAPH
> 記録照合中……
クロノグラフ。
その名前を、僕は知らなかったはずだ。
でも、心臓が嫌な音を立てた。
画面が切り替わる。
> 8/31 23:41
> 朝倉ミカ 死亡記録
> 場所:第三橋下流
「……は?」
まだ八月二十五日だ。
八月三十一日じゃない。
未来の記録なんて、あるはずがない。
画面の端に、さらに文字が出る。
> 仮登録対象:瀬名湊斗
> 状態:不安定
> 継続認識者:朝倉ミカ
意味が分からなかった。
僕の名前。
ミカの名前。
そして、死亡記録。
頭がぐちゃぐちゃになる。
その時、背後で床板が軋んだ。
振り返る。
暗闇の中に、誰かが立っていた。
小柄な男子。
制服ではなく、黒いTシャツ。
冷たい目。
「……先輩、ここで何してるんですか」
「君こそ」
「雨宮レンです」
雨宮。
その名前に、なぜか胸がざわついた。
「ここは立入禁止です」
「それはお互い様だろ」
「僕は調べものです」
「僕も」
「朝倉先輩を?」
レンは、まっすぐ僕を見た。
「だったら、遅いかもしれません」
「何を知ってる」
僕が詰め寄ると、レンはモニターを見た。
そして、顔色を変えた。
「……出たんですね」
「これ、何なんだよ」
「クロノグラフ」
「名前じゃなくて」
「記録装置です」
「未来の死亡記録なんて、記録って言わないだろ」
レンは低い声で言った。
「クロノグラフは、起きていないことは記録しません」
その言葉が、体育館の暗闇に落ちた。
僕はモニターを見た。
八月三十一日。
午後十一時四十一分。
朝倉ミカ、死亡記録。
ミカは、まだ生きている。
そう思いたかった。
でも、青いヘアピンが僕の手の中で冷たくなっていた。
「ミカはどこだ」
僕の声は、自分のものじゃないみたいだった。
レンは答えなかった。
ただ、モニターの奥で、ノイズ混じりの映像が再生され始めた。
夜の橋。
揺れる画面。
花火の音。
青いヘアピン。
そして、誰かが叫ぶ声。
ごめん、ミナト。
映像はそこで途切れた。
僕はその場に立ち尽くした。
世界が、少しだけ傾いた気がした。
ミカはまだ死んでいない。
今日じゃない。
今じゃない。
でも、画面の中ではもう死んでいる。
この夏のどこかで。
八月三十一日の夜に。
僕の知らない未来で。
ミカが死ぬ。
スマホが震えた。
画面を見る。
ミカから、新しいメッセージが届いていた。
> ミナト。
> 私のこと、探さないで。
続けて、もう一文。
> また、巻き込むから。
僕は息を止めた。
また。
ミカは、またと言った。
レンが小さく呟く。
「始まってる」
「何が」
「終わらない夏です」
非常ベルが、また鳴った。
僕は青いヘアピンを握りしめた。
その時になって、ようやく分かった。
僕は今日、ミカに何も聞かなかった。
助けてと言わせなかった。
笑ってごまかす彼女を、そのまま見逃した。
そしてこの夏は、たぶん、それを許してくれない。
モニターの青白い光が、僕の名前を照らしていた。
> 瀬名湊斗
> 存在確認:未完了
八月二十五日の夜。
夏休み最後の一週間。
それが、僕らの終わりの始まりだった。




