煙に消えた名前
八月三十一日。
三周目のその日は、最初から息苦しかった。
朝、目を覚ました瞬間、僕は自分の喉を押さえた。
煙を吸ったわけでもないのに、喉の奥がひりついている。
夢を見ていた。
白い煙。
赤い非常灯。
どこかで鳴り続ける非常ベル。
そして、煙の向こうで消えていく青いヘアピン。
僕はベッドの上で、何度も息を吸った。
吸える。
まだ吸える。
今日は八月三十一日。
ミカは、まだ生きている。
スマホを開く。
顔認証に失敗しました。
「……今それはいい」
暗証番号を打ち込む。
画面の日付は、八月三十一日。
通知欄には、見たくない文字が出ていた。
> LOOP:03
> 対象:朝倉ミカ
> 死亡記録:未固定
> PHASE 3:火災記録再発 上昇
> 危険予測:旧体育館周辺/煙害
煙害。
その二文字だけで、心臓が重くなる。
ミカからメッセージが来ていた。
> 起きた。
> 生きてる。
> 煙の夢見た。
> 最悪。夢の演出担当、センスない。
いつものミカみたいな文面だった。
でも、分かる。
怖い時ほど、ミカはふざける。
僕は返信した。
> 起きた。
> 生きてる。
> 今日は橋にも車道にも旧体育館にも近づかない。
> でも、怖いなら怖いって言って。
すぐに既読がついた。
> 怖い。
短い返事。
それだけで、胸が締めつけられた。
> 僕も怖い。
> じゃあ怖い同盟結成。
> 活動内容:死なない。
> かなり重要な同盟。
> 年会費はラムネ一本。
> 安い。
> 命がかかってるから高いよ。
僕は少しだけ笑った。
でも、その笑いはすぐに消えた。
今日、またミカが死ぬかもしれない。
橋を避けても。
車道を避けても。
白石先生の手を止めても。
黒瀬先輩の間違った善意を止めても。
レンを一人にしないようにしても。
それでも、クロノグラフは別の死因を選ぶ。
この夏は、朝倉ミカを死なせるために形を変える。
僕は布団を握りしめた。
「ふざけんなよ」
声は震えていた。
「今日こそ、死なせない」
*
朝食はトーストだった。
冷やし中華ではなかった。
それだけで少し救われるなんて、だいぶ僕の夏は壊れている。
「花火大会、今日だよね」
母さんが言った。
「うん」
「行くの?」
「行く」
「ミカちゃんと?」
「うん。あとレンと黒瀬先輩と白石先生も」
「先生も?」
「いろいろあって」
「高校生の花火大会に先生が出てくると、急に学校行事感が出るね」
「実際、補習より厳しい」
母さんは僕の顔を見て、少し表情を変えた。
「ミナト」
「何」
「怖い顔してる」
「怖いから」
僕は正直に言った。
もう、大丈夫とは言わない。
「今日、友達がまた危ない」
「また?」
母さんはその言葉に反応した。
僕はしまったと思った。
けれど、取り消せなかった。
「うん。また」
母さんはしばらく黙った。
それから、僕の前に水筒を置いた。
「持っていきなさい」
「ありがとう」
「あと、名前」
「え?」
「必要なんでしょ」
母さんは、少し照れくさそうに、でもはっきり言った。
「瀬名湊斗」
名前を呼ばれる。
それだけで、足元が少し固まる。
僕はここにいる。
まだ、ここにいる。
「朝倉ミカちゃんを、ちゃんと連れて帰ってきなさい」
「うん」
「でも、荷物みたいに連れて帰るんじゃなくてね」
その言葉に、僕は息を止めた。
母さんは何も知らない。
ミカが「荷物じゃない」と言ったことも。
黒瀬先輩が安全な場所へ運ぼうとしたことも。
僕が助けたいあまり、ミカ自身の声を聞き損ねそうになることも。
何も知らないはずなのに。
「分かってる」
僕は言った。
「ミカは自分で歩く。歩けない時は、助けてって言う。僕は、それを聞く」
母さんは少しだけ笑った。
「うん。それならいい」
*
夕方の三架町は、花火大会の色をしていた。
屋台の灯り。
浴衣姿の人たち。
焼きそばの匂い。
金魚すくいの水音。
ラムネ瓶の青。
普通なら、ただの楽しい夏の夜だった。
でも、僕たちにとっては違う。
ここはもう、何度もミカが死んだ場所だ。
第三橋には近づかない。
車道側の導線には近づかない。
旧体育館周辺にも近づかない。
それが、三周目の作戦だった。
神社側広場に、僕たちは集まった。
ミカは青いヘアピンをつけていた。
ラムネ瓶を片手に持っている。
レンは黒いリュックに、赤いヨーヨーを入れている。
表情はいつも以上に硬い。
黒瀬先輩は本部と連絡を取り合いながら、何度も地図を確認していた。
白石先生は、第三橋から離れた位置に立っている。
ミカには近づきすぎない。
でも、何かあればすぐ動ける場所。
トメさんは屋台の前でうちわを扇いでいた。
「おばあちゃん、今日は店番じゃないんですか」
僕が言うと、トメさんは鼻で笑った。
「今日は町の店番だよ」
「スケールが大きい」
「年寄りはね、無駄に広いものを預かるんだ」
トメさんはミカを見た。
「青いの、ちゃんとつけてるね」
ミカはヘアピンに触れた。
「はい」
「落としたら、すぐ拾いな」
「でも、煙の中には入らない」
ミカが答える。
トメさんは少しだけ目を細めた。
「そこまで知ってるなら、いい」
レンが端末を見る。
> PHASE 1:白石接触経路 阻害中
> PHASE 2:群衆誘導補正 阻害中
> PHASE 3:火災記録再発 上昇
> 旧体育館ルート:封鎖中
> 煙害経路:未確定
「未確定か」
僕は画面を覗き込む。
「確定よりはましです」
レンが言った。
ミカが小さく笑う。
「レンくんの励まし、冷凍食品みたい」
「どういう意味ですか」
「冷たいけど役には立つ」
「褒めていますか」
「半分」
「残り半分は?」
「未解凍」
「最悪の評価です」
そんな会話をしていても、レンの手は震えていた。
僕はそれを見逃さなかった。
「レン」
「何ですか」
「一人で扉を開けないで」
レンは一瞬、赤いヨーヨーを握りしめた。
それから頷いた。
「開けません」
「サキさんの声が聞こえても?」
「開けません」
「ノートが見えても?」
レンの顔がわずかに歪んだ。
でも、答えた。
「一人では、開けません」
ミカが言う。
「一人じゃなければいいって意味じゃないよ」
「分かっています」
「本当に?」
「本当に」
ミカはレンをじっと見た。
「レンくん」
「はい」
「サキさんを見つけたい気持ちは、悪いことじゃない」
レンの目が揺れた。
「でも、そのために誰かが死んだら、サキさんはたぶん怒る」
「……はい」
「だから、私を助けるためだけじゃなくて、サキさんに怒られないためにも、一人で行かないで」
レンは目を伏せた。
「分かりました」
*
十九時。
花火が上がった。
どん、と空が鳴る。
赤、青、金色。
夜空に広がる光を、ミカはじっと見ていた。
「きれいだね」
彼女が言った。
「うん」
「一回目の時、ちゃんと見てなかった」
「僕も」
「二回目も」
「見てる余裕なかった」
「今日もないね」
「ないな」
ミカは少しだけ笑った。
「いつか、普通に見たい」
「九月一日以降に?」
「うん。来年でもいい」
「来年の宿題はちゃんとやってから来る」
「今年のもやってないくせに」
「来年の僕に期待」
「来年のミナト、かわいそう」
花火の音がもう一度鳴る。
その光で、ミカの青いヘアピンが小さく光った。
生きている青。
落ちていない青。
僕は思わずそれを見つめた。
「何?」
ミカが聞く。
「いや」
「ヘアピン見てた?」
「うん」
「落ちてないよ」
「うん」
「私も、まだ落ちてない」
その言葉が胸に刺さった。
「朝倉ミカ、生存確認」
僕が言う。
ミカは少しだけ笑って答えた。
「継続中」
*
二十二時三十分。
町内放送が鳴った。
『こちらは、三架町……』
全員が身構えた。
でも、流れたのは普通の案内だった。
『第三橋周辺は混雑しています。神社側広場をご利用ください』
車道側ではない。
第三橋でもない。
神社側広場。
黒瀬先輩が本部に確認を取る。
「誘導音声、上書きなし。二十五番スピーカーも安定してる」
レンの端末にも表示が出る。
> PHASE 2:群衆誘導補正 低下
> 二十五番スピーカー:安定
> 御堂:直接介入 未検出
「車道は、今日は来なさそうだね」
ミカが小さく言った。
「今のところは」
レンが答える。
「その『今のところ』が嫌い」
「僕も嫌いです」
白石先生が近づいてきた。
ただし、一定の距離を保ったまま。
「白石接触経路は?」
僕が聞くと、先生は苦い顔をした。
「自分で言うのも最悪だが、今のところ低い」
レンが確認する。
> PHASE 1:白石接触経路 阻害中
「阻害中です」
「よかったですね、先生」
ミカが言う。
「自分が危険経路扱いされて喜ぶ日が来るとはな」
「人生、何があるか分からないですね」
「本当に分からん」
先生は乾いた笑いを漏らした。
でも、その目は真剣だった。
彼はもう、一人で抱え込もうとしていない。
自分の沈黙を、名前で呼んでいる。
それは確かに、前と違っていた。
*
二十三時十五分。
最初に異常に気づいたのは、トメさんだった。
「焦げ臭いね」
その一言で、空気が変わった。
僕は息を吸った。
焼きそばの匂いではない。
花火の火薬の匂いでもない。
古い木が焦げる匂い。
旧体育館の匂い。
レンの端末が激しく震えた。
> PHASE 3:火災記録再発
> 旧体育館ルート:封鎖中
> 記録転写:開始
> 煙害経路:拡散
「記録転写?」
黒瀬先輩が低く言った。
レンの顔が青くなる。
「旧体育館そのものではありません。火災記録が、別の場所へ移っています」
「どこへ?」
端末に地図が表示される。
神社側広場の裏手。
資材置き場。
そこには、花火大会のために旧体育館から運び出された古い長机や椅子が置かれていた。
僕は思わず声を漏らした。
「旧体育館から持ってきた備品か」
「火元ではなく、記録が移っている」
レンが言う。
「サキさんのノートにあった。影は火よりしつこいって」
ミカの顔が白くなる。
煙は、まだ薄い。
でも、確かに流れている。
そして資材置き場のほうから、子どもの泣き声が聞こえた。
「子どもがいる!」
誰かが叫んだ。
ミカが反射的に動いた。
僕も動きかけた。
でも、すぐに止まる。
止まって、ミカに聞いた。
「行く?」
ミカは僕を見た。
息が荒い。
怖いのに、行きたい顔をしている。
「行きたい」
「じゃあ、一緒に行く。でも煙に入る前に止まる。勝手に奥へ行かない」
「分かった」
黒瀬先輩が本部へ走りながら叫んだ。
「消防団を資材置き場へ! 一般客を下げてください! 朝倉さんは動かしますか?」
そこで、彼は自分で言葉を止めた。
そしてミカを見る。
「違う。朝倉さん、動ける?」
ミカは頷いた。
「動く。でも勝手には運ばれない」
「分かった」
白石先生が前へ出る。
「俺が先に行く。瀬名、朝倉、煙が濃くなったら止まれ」
「はい!」
レンは端末を握りしめていた。
「僕も」
「レンくん」
ミカが言う。
「一人じゃない」
「はい」
「サキさんの声が聞こえても?」
「一人では行きません」
「よし」
僕たちは走った。
*
資材置き場は、神社の裏手にあった。
人混みから少し外れた場所。
普段なら誰も気にしないような、屋台用の道具や机を置く空き地。
そこに、白い煙が溜まっていた。
火は見えない。
でも、煙だけがある。
赤い非常灯のような光が、旧体育館から運び出された長机の隙間でちらついている。
ありえない。
ここは旧体育館じゃない。
なのに、非常ベルの音が聞こえる。
じり。
じり。
じり。
レンの顔が強張った。
「姉の夜と同じ音です」
「レン」
僕が呼ぶ。
「分かっています」
レンは言った。
でも、視線は煙の奥に吸い寄せられている。
消防団の人たちが子どもを連れ出した。
子どもは泣いていたけれど、無事だった。
白石先生がそれを確認して叫ぶ。
「子どもは出た! 全員下がれ!」
これで、行く必要はない。
もう、煙に入る必要はない。
そのはずだった。
けれど、その時、煙の奥で何かが転がる音がした。
からん。
ラムネ瓶のビー玉みたいな音。
ミカがびくっとする。
レンが一歩、前へ出た。
「レン!」
僕が叫ぶ。
レンは止まった。
でも、煙の奥から声がした。
『レン』
女の子の声。
雨宮サキの声。
『こっち』
レンの手が震えた。
「姉さん」
「違う!」
ミカが叫ぶ。
「助けてって言ってない! こっちって言ってるだけ!」
レンの目が揺れる。
彼は止まっている。
止まっているけれど、全身が引っ張られている。
煙の奥で、黒いものが見えた。
焦げたノート。
サキさんのノート。
レンの呼吸が変わった。
「あれは」
「見るな!」
僕は叫んだ。
「今じゃない!」
「最後のページかもしれない」
レンの声は、もう半分煙の中にあった。
「姉が何をしたのか、何を残したのか、そこに」
「レンくん!」
ミカが一歩踏み出す。
僕はその腕を掴もうとして、止めた。
違う。
掴む前に聞く。
「ミカ、行くなら一緒に行く。行かないなら下がる。どうする?」
ミカは煙の奥のレンを見た。
唇を噛んだ。
「行く」
「分かった」
「でも、私はレンくんを助けに行く。ノートを取りに行くんじゃない」
「分かった」
僕は頷いた。
「僕も行く」
白石先生が叫んだ。
「瀬名、朝倉!」
「先生、外から名前呼んでください!」
僕は叫び返した。
「声を重ねる!」
白石先生は一瞬、目を見開いた。
そして頷いた。
「分かった!」
黒瀬先輩も本部への無線を切って、こちらへ向いた。
「僕も呼ぶ!」
トメさんがうちわを握りしめる。
「名前だよ! 名前を切らすんじゃないよ!」
*
煙の中に入った瞬間、世界が変わった。
さっきまであった屋台の灯りが消えた。
足元の土が、古い体育館の床に変わったように見える。
壁なんてないはずなのに、焦げた壁がある。
天井なんてないはずなのに、赤い非常灯がある。
空き地のはずなのに、旧体育館の中にいる。
記録が、現実に重なっている。
煙は白く、重く、息をするたび喉を焼いた。
「レン!」
僕は叫んだ。
声が煙に吸われる。
すぐ隣にいるはずのミカの顔も、もうぼやけていた。
「ミカ!」
「ここ!」
返事があった。
まだ届く。
「朝倉ミカ!」
僕が呼ぶ。
「生きてる!」
ミカが叫び返す。
その声で、青いヘアピンがかすかに見えた。
煙の中の青。
見失うな。
絶対に見失うな。
「雨宮レン!」
ミカが叫ぶ。
少し先で、人影が動いた。
レンだった。
彼は焦げたノートを抱えて立っていた。
目が焦点を失っている。
「レン!」
僕は近づく。
「ノートを置け!」
「置けません」
レンの声は震えていた。
「姉の最後かもしれない」
「サキさんは、君に誰かを失ってほしくないって書いた!」
ミカが叫ぶ。
「今ここで私が死んだら、そのノートの意味まで変わる!」
レンの表情が歪む。
「でも、僕は」
「レンくん!」
ミカは咳き込みながら、それでも言った。
「一人で覚えるのは、もうやめて!」
その言葉に、レンの目が大きく揺れた。
一人で覚える。
サキの死を。
サキの記録を。
サキの名前を。
レンはずっと、一人で抱えようとしていた。
姉の名前を守ることと、姉の死に近づくことを、同じだと思っていた。
「僕は」
レンはノートを抱きしめた。
「姉さんを忘れたくなかっただけです」
「忘れない!」
ミカが叫ぶ。
「私も覚える! ミナトも覚える! 白石先生も、黒瀬先輩も、トメさんも! だから一人で奥へ行かないで!」
レンの頬を涙が伝った。
煙のせいなのか、泣いているのか分からない。
でも、彼はようやくノートを僕に差し出した。
「持ってください」
「分かった」
僕は受け取った。
焦げたノートは軽かった。
でも、その軽さが怖かった。
人一人の名前が、こんな軽いものに押し込められていたのかと思うと、腹が立った。
「出るぞ!」
僕が叫ぶ。
レンが頷く。
ミカも頷く。
その瞬間、非常ベルが一段大きくなった。
じりじりじりじり。
耳の奥を削る音。
煙が一気に濃くなる。
白い壁が押し寄せた。
ミカの青が消えた。
「ミカ!」
返事がない。
「朝倉ミカ!」
僕は叫ぶ。
煙の向こうで、かすれた声がした。
「……ここ」
声が弱い。
僕はそちらへ進む。
ミカが膝をついていた。
咳き込んでいる。
肩が上下している。
息がうまく吸えていない。
「ミカ、立てる?」
「立つ」
ミカは言った。
「荷物じゃない」
「分かってる」
僕は膝をついて、彼女を見る。
「助ける。肩を貸す。いい?」
ミカは苦しそうに頷いた。
「助けて」
その言葉が、煙の中で確かに聞こえた。
ミカが、助けてと言った。
僕は彼女の腕を肩に回した。
「助ける」
レンが反対側を支える。
「朝倉先輩、行きます」
「うん」
三人で歩き出す。
煙の向こうから声が聞こえる。
「瀬名!」
白石先生。
「朝倉さん!」
黒瀬先輩。
「雨宮レン!」
トメさん。
「名前を呼び続けな!」
声が重なる。
煙の中で、道が少しだけ開く。
「瀬名湊斗、ここにいる!」
僕は叫ぶ。
「雨宮レン、ここにいます!」
レンも叫ぶ。
ミカは苦しそうに息を吸った。
「朝倉ミカ……生きてる!」
その声は小さかった。
でも、確かにあった。
出口が見えた。
夜空。
花火の光。
人の声。
あと少し。
あと少しで、出られる。
*
出口の手前で、ミカの青いヘアピンが外れた。
からん。
地面に落ちる音。
小さな音なのに、僕には世界が割れる音みたいに聞こえた。
青が煙の中に転がる。
ミカの目がそれを追った。
「ヘアピン」
「後で拾う!」
僕は叫ぶ。
「今は出る!」
ミカは頷こうとした。
でも、その指が少しだけ伸びた。
自分の青へ。
自分がここにいる目印へ。
その一瞬で、煙が彼女を包んだ。
「ミカ!」
肩にあった重みが消える。
僕は手を伸ばす。
布に触れる。
掴む。
掴んだ。
でも、煙の中で無機質な声が響いた。
『朝倉ミカ 死亡経路 煙害』
「違う!」
僕は叫んだ。
「まだ生きてる!」
煙の奥から、ミカの声がした。
「ミナト」
「ここ!」
「私……」
「名前を言え!」
僕は叫んだ。
「朝倉ミカって言え!」
ミカは咳き込みながら、かすれた声で言った。
「朝倉……ミカ」
「生きてる!」
「生き……たい」
その声は、確かにあった。
確かに、ミカ自身の声だった。
なのに、次の瞬間、彼女の体から力が抜けた。
僕は抱きとめた。
今度は、勝手に運ぶんじゃない。
助けてと言われたから。
ミカが選んだから。
生きたいと言ったから。
でも、彼女の体はあまりにも軽かった。
「ミカ?」
返事はない。
「ミカ!」
外から白石先生と黒瀬先輩の腕が伸びて、僕たちを引きずり出した。
煙の外。
夜の空気。
花火の音。
救急隊の声。
僕は地面に倒れ込んだ。
ミカを抱えたまま。
彼女の顔は白かった。
唇が少し青い。
呼吸は、ほとんど分からなかった。
「酸素!」
白石先生が叫ぶ。
「救急! 早く!」
黒瀬先輩が震える声で本部に連絡している。
レンは地面に膝をついた。
焦げたノートを握ったまま、ミカを見ていた。
「朝倉先輩」
レンの声が壊れていた。
「僕が、僕が姉の声に反応したから」
ミカのまぶたが、かすかに動いた。
「レン……くん」
レンが息を止める。
「ごめんなさい」
「違う」
ミカの声は、ほとんど空気みたいだった。
「止まった……でしょ」
「でも」
「一人で……開けなかった」
レンの目から涙が落ちた。
ミカは次に、僕を見た。
「ミナト」
「喋るな」
「聞いて」
「聞く。でも喋るな」
「無理」
ミカは少しだけ笑おうとした。
でも、咳になった。
「私……助けてって……言えた」
「言えた」
「生きたいって……言えた」
「言えた」
「じゃあ……次は」
次。
その言葉に、胸が裂けそうになった。
もう次なんて言わせたくない。
次があるからいいなんて、思いたくない。
ミカは何度死んでもいい存在じゃない。
でも、彼女は続けた。
「次は……死なないで……言う」
僕は涙で歪む視界の中、頷いた。
「死なないで言おう」
「うん」
「九月一日に言おう」
「うん」
ミカの手から、少しずつ力が抜けていく。
僕は必死に握り返した。
「朝倉ミカ」
名前を呼ぶ。
「朝倉ミカ」
もう一度。
「朝倉ミカ、生存確認」
返事はなかった。
スマホが震えた。
見たくなかった。
でも画面は、勝手に光った。
> CHRONOGRAPH
> 8/31 23:41
> 朝倉ミカ 死亡記録
> 場所:旧体育館火災記録転写区域
> 死亡経路:煙害
> 固定完了
固定完了。
また、その文字。
僕は声を出そうとした。
でも、喉が煙で焼けて、うまく音にならなかった。
ミカの名前だけが、心の中で何度も鳴っていた。
*
レンは、地面に座り込んでいた。
焦げたノートを抱え、赤いヨーヨーを足元に落としている。
「僕が」
彼は呟いた。
「僕が、姉さんを追ったから」
「レン」
黒瀬先輩が呼ぶ。
でもレンは聞いていない。
「僕が、サキの記録を一人で取り戻そうとしたから」
「違う」
僕は言おうとした。
でも声が出ない。
違う。
確かにレンは危なかった。
でも彼は止まった。
一人で扉を開けなかった。
ミカの声を聞いた。
それでも火災記録は、ミカを殺した。
一つの原因じゃない。
レンだけじゃない。
黒瀬先輩だけじゃない。
白石先生だけじゃない。
御堂だけでもない。
みんなの沈黙。
みんなの恐怖。
みんなの正しさ。
町の歪んだ記録。
それら全部が、ミカの死に道を作っている。
トメさんが煙の残る資材置き場を睨んだ。
「青いのが、まだ中だね」
ミカのヘアピン。
煙の中に落ちた青。
僕は立ち上がろうとした。
膝が崩れる。
白石先生が僕を支えた。
「瀬名、今は駄目だ」
「でも」
「死んだ人のものを拾いに行って、生きてる人が死ぬな」
その言葉が、重かった。
死んだ人。
ミカが。
また。
僕は地面に膝をついた。
煙の向こうに、青いヘアピンがある。
でも、もう手が届かない。
*
午前零時。
町内放送のチャイムが鳴った。
花火大会は中止になっていた。
人々の声は遠く、救急車のサイレンだけが夏の夜を裂いていた。
『こちらは、三架町……』
ざり、とノイズが走る。
『八月三十一日……火災記録……再照合……』
レンが地面に額をつけるようにして崩れた。
「ごめんなさい」
誰に向けた言葉なのか分からない。
サキへ。
ミカへ。
自分へ。
全部だと思った。
『朝倉ミカ……死亡記録……固定完了……』
僕は拳を握りしめた。
違う。
これで終わりじゃない。
でも、次があるからいいなんて思わない。
ミカは三回死んだ。
三回とも痛かった。
三回とも怖かった。
三回とも、僕の目の前で。
その全部を、ミカは次の朝に覚えている。
完全に。
橋の冷たさも。
車のライトも。
煙の苦しさも。
全部。
僕は唇を噛んだ。
このループは救済なんかじゃない。
ミカをもう一度死なせないための、残酷な猶予だ。
次に戻ったら、ミカは煙を覚えている。
レンも覚えている。
僕も覚えている。
だから、もう事故を潰すだけでは足りない。
橋を避けても駄目。
車道を避けても駄目。
旧体育館を避けても駄目。
町の記録そのものを変えなければ、ミカは死ぬ。
その考えが、ようやく形になりかけた時。
世界が、白く歪んだ。
煙ではない。
朝の光みたいな白。
町内放送のノイズが伸びる。
『八月……二十五日……』
僕は最後に、ミカの名前を呼ぼうとした。
喉が焼けて、声は出なかった。
それでも唇だけは動いた。
朝倉ミカ。
*
顔認証に失敗しました。
白い画面に、黒い文字。
朝の光。
蝉の声。
八月二十五日。
僕はベッドの上で、煙を吸ったみたいに咳き込みながら目を覚ました。
喉が痛い。
目が熱い。
胸の奥で、非常ベルがまだ鳴っている。
僕はスマホを握りしめた。
八月二十五日。
また戻った。
ミカが死んだ記憶を、全部抱えたまま。
「……ミカ」
今度は声が出た。
でも、その声は震えていた。
「ミカ!」
僕は通話ボタンを押した。




