避難所に残された足跡
八月二十六日の朝、僕はスマホの画面を見て、まず日付を確認した。
八月二十六日。
戻っていない。
それだけで、少しだけ息ができた。
けれど、次に通知欄を見て、息はまた詰まった。
> LOOP:03
> 対象:朝倉ミカ
> 死亡記録:未固定
> PHASE 3:火災記録再発 上昇
> 次回危険予測:
> 旧体育館周辺
旧体育館。
その文字を見るだけで、喉の奥に煙が入ったような気がした。
三年前、僕が死にかけた場所。
雨宮サキが僕を助けた場所。
町の記録から名前を消された場所。
そして今度は、ミカを巻き込もうとしている場所。
スマホがまた震える。
ミカからだった。
> 起きた。
> 生きてる。
> 今日はライトじゃない。
> でも夢で煙見た。
僕は返信する。
> 起きた。
> こっちも生きてる。
> 旧体育館の通知出た。
すぐに既読がついた。
> やっぱり。
> 今日はレンくんを見張る日?
> レンだけじゃない。
> 黒瀬先輩も。
> 僕も。
> 自覚あるの偉い。
> でも偉さで死なないで。
> 難易度高い注文。
> 命がかかってるので。
> それ僕の台詞になりつつある。
> 共有財産。
少し笑った。
でも、その笑いは長く続かなかった。
煙の夢。
ミカも見ている。
完全な記憶だけじゃない。
次に起こるかもしれない死因まで、夢や通知の形で先に滲んでくる。
この夏は、親切に見えて残酷だ。
死ぬ前に、死に方を教えてくる。
*
朝食は冷やし中華だった。
「……戻ってないよな?」
僕は皿を見つめて言った。
麺。
きゅうり。
錦糸卵。
ハム。
トマト。
唐揚げ二つ。
八月二十五日じゃない。
八月二十六日だ。
なのに、冷やし中華。
「何その反応」
母さんが言った。
「昨日の残りを炊き直したの?」
「冷やし中華は炊かないよ」
「時間の炊飯器のせいかと」
「何それ」
「僕にも分からないけど、だいたい最悪」
母さんは首をかしげた。
「食べられる?」
「食べる」
「無理しなくていいよ」
「無理はする」
「それ、良くない言葉」
母さんに言われて、少しだけ口を閉じた。
怖い時に大丈夫と言う子は、大丈夫じゃない。
前の朝、母さんに言われた言葉を思い出す。
「……怖い」
僕は小さく言った。
母さんがこちらを見る。
「何が?」
「友達が、また危ない場所に近づくかもしれない」
「ミカちゃん?」
「ミカも。レンも。黒瀬先輩も」
「黒瀬先輩?」
「爽やかな人」
「爽やかな人が危ないの?」
「爽やかな人ほど、時々、勝手に扉を閉める」
「何の話?」
「僕にも説明が難しい」
母さんはしばらく僕を見て、それからペットボトルの水を一本渡してくれた。
「じゃあ、せめて水持っていきなさい」
「ありがとう」
「あと、名前」
「え?」
「今日も必要なんでしょ」
母さんは、少し照れたように笑った。
「瀬名湊斗」
名前を呼ばれる。
それだけで、足元に杭が打たれるような感覚がある。
僕はここにいる。
まだ、いる。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
母さんはそこで一度言葉を切ってから、続けた。
「ちゃんと帰ってきてね。ミカちゃんも」
「うん」
僕は頷いた。
冷やし中華は、酸っぱかった。
でも、ちゃんと飲み込んだ。
*
三架高校に着くと、校門の前にミカがいた。
青いヘアピン。
夏服。
ラムネ瓶。
そして、少し寝不足の顔。
「おはよう」
「おはよう」
「顔、無料版どころか体験版だね」
「そっちは?」
「私は広告付き」
「朝から課金圧がすごい」
ミカは少し笑った。
でも、すぐに表情を落とした。
「煙、見た」
「夢?」
「うん。旧体育館の中で、非常ベルが鳴ってた。私、走ってた。レンくんの名前を呼んでた。でも声が出なくなって、喉が熱くて」
ミカはそこで言葉を止めた。
青いヘアピンに触れる。
「まだ死んでないのに、死ぬ練習させられてるみたい」
僕は何も言えなかった。
軽くしちゃいけない。
でも、黙りすぎてもミカを一人にする。
「練習なら、失敗していい」
僕は言った。
「本番で失敗しなければいい」
「本番って言い方、嫌すぎ」
「僕も言ってから嫌になった」
「じゃあ言い直し」
「八月三十一日に、失敗しない」
ミカは頷いた。
「うん」
その時、校舎のほうからレンが歩いてきた。
黒いリュック。
赤いヨーヨー。
黒いノート。
顔色は、昨日よりさらに悪い。
「寝てないだろ」
僕が言うと、レンは即答した。
「寝ました」
「何時間」
「計測上は二時間四十二分」
「それは仮眠」
「睡眠の定義に厳しいですね」
「命がかかってるので」
「便利に使わないでください」
ミカが言った。
「レンくん、煙の夢見た?」
レンは一瞬黙った。
そして、頷いた。
「見ました」
「サキさん?」
「声だけです」
レンは赤いヨーヨーを握った。
「姉の声がしました。『奥に来るな』と」
「じゃあ行かない」
ミカが即答する。
「はい」
レンもすぐに頷いた。
でも、その目は旧体育館のほうを見ていた。
行かないと口で言っているのに、体のどこかが呼ばれている。
その感じが、見ていて分かった。
「レン」
僕が呼ぶ。
「はい」
「一人で扉を開けないで」
ミカが先に言った。
レンは少しだけ目を伏せた。
「開けません」
「開けたくなったら?」
「言います」
「誰に?」
「あなたたちに」
「よし」
ミカは頷く。
レンは不服そうな顔をした。
「僕は小学生ではありません」
「小学生のほうが約束守る時あるよ」
「偏見です」
「じゃあ守って」
「守ります」
そんな会話をしていても、全員分かっていた。
旧体育館は、もうこちらを呼び始めている。
*
放課後、僕たちは図書準備室に集まった。
黒瀬リョウが持ってきた新しい動線案を広げるためだ。
白石先生もいる。
先生はアイスコーヒーを持っていなかった。
代わりに、麦茶のペットボトルを持っている。
「先生、カフェイン断ちですか」
ミカが聞く。
「心拍数を上げたくない」
「ガチすぎて突っ込みにくい」
「突っ込まなくていい」
白石先生はそう言って、黒瀬先輩の資料に目を落とした。
机の上には、花火大会当日の地図がある。
第三橋。
車道側導線。
神社側広場。
二十五番スピーカー。
旧体育館。
そして、旧体育館横の臨時避難所。
黒瀬先輩は、そこに青い丸をつけていた。
「確認したい」
黒瀬先輩は言った。
「僕はもう、ここを絶対安全だとは言わない」
「はい」
ミカが頷く。
「旧体育館に近い以上、危険はある。火災記録が再発する可能性もある。レンくんが引き寄せられる可能性もある」
「はい」
「でも、橋と車道から物理的に離れている。群衆からも外れる。白石先生の接触経路も避けられる。選択肢としては、まだ残す価値があると思う」
言葉を選んでいる。
昨日とは違う。
「ここが安全だ」と押しつけていない。
でも、まだ安全という言葉に、彼自身が縋っているのは分かった。
ミカは地図を見てから、口を開いた。
「私は、ここが怖いです」
「うん」
黒瀬先輩は頷いた。
「聞いてる」
「煙の夢を見ました。旧体育館から非常ベルが鳴って、レンくんが奥に行こうとして、私が追いかける夢です」
「……うん」
「だから、臨時避難所を使うなら条件があります」
「条件?」
「旧体育館の扉に近づかない。中に入らない。レンくんを一人にしない。黒瀬先輩が私を移動させたい時は、必ず先に言う。私は嫌なら嫌って言う」
レンが付け加える。
「僕が姉の記録を見つけた場合も、一人で動きません」
白石先生も言う。
「俺は当日、旧体育館ルートには近づかない。橋側に残る。だが異常が出たら連絡する」
黒瀬先輩は一つずつメモを取った。
その手は少し震えていた。
「分かった」
彼は言った。
「あと、僕の条件も言っていいかな」
ミカが頷く。
「聞きます」
「僕が焦って朝倉さんを動かそうとしたら、止めてほしい。たぶん、自分では分からなくなる瞬間がある」
「止めます」
僕が答えた。
「僕が止めます」
黒瀬先輩は僕を見る。
「瀬名くん」
「殴るかは未定です」
「前より物騒になってる」
「ミカが二回死んでるので」
黒瀬先輩は何も言えなくなった。
少しだけ沈黙が落ちる。
ミカが小さく咳払いした。
「じゃあ、私も条件追加」
「何?」
「誰も私を荷物みたいに運ばない」
その言葉が、部屋の真ん中に置かれた。
荷物。
避難物。
矢印。
処理。
ミカはもう、そういう言葉で扱われることを拒否している。
「私は自分で歩く。歩けない時は、助けてって言う。助ける時は、私に声をかける」
黒瀬先輩は頷いた。
「分かった」
「本当に?」
「本当に」
ミカはしばらく黒瀬先輩を見ていた。
疑っている。
でも、その疑いは大事だ。
信じるために疑う。
疑われることから逃げない。
それが、今回は必要だった。
*
話し合いが終わったあと、レンが古い資料を机に出した。
黒瀬悠真のファイルに挟まっていた、焼け焦げた紙片だ。
「昨日の夜、少し読めるようにしました」
「徹夜の原因それか」
僕が言うと、レンは目を逸らした。
「睡眠時間の話は済みました」
「済んでない」
「今は資料が優先です」
ミカが腕を組む。
「レンくん、寝不足禁止」
「努力します」
「努力じゃ足りないやつ」
「……善処します」
「言い換えただけ」
レンは小さくため息をつき、紙片を机に置いた。
そこには、サキさんの字があった。
いつものように、ふざけた調子で始まっている。
> 安全な場所メモ。
> 安全な場所とは何か。
> たぶん、カレーの中の福神漬けみたいなもの。
> いや違う。例えが迷子。
> 要するに、安全そうに見える場所が一番危ないことがある。
> 「ここなら大丈夫」と言った瞬間、人は周りを見なくなる。
> 旧体育館横の器材庫、要注意。
> あそこは火元じゃない。
> でも、火災記録の影が届く。
> 影は、火よりしつこい。
> レンへ。
> お姉ちゃんからのお願い。
> 私の声が聞こえても、一人で来るな。
> というか来るな。
> いや、来るなら誰かの手を握って来い。
> でもできれば来るな。
> このへん、姉の気持ちが大渋滞している。
ミカが小さく笑った。
「サキさん、文章うるさい」
「姉は昔からこうです」
レンは不機嫌そうに言った。
でも、その声には少しだけ温度があった。
サキさんの言葉が戻るたびに、レンは苦しそうになる。
それでも、姉のふざけた文体に救われている部分もあるのだと思う。
紙片の下には、さらに文字が続いていた。
> 青いものが落ちたら拾え。
> でも拾うために煙の中へ入るな。
> 名前は煙より強い。
> ただし、一人の名前だけでは足りない。
> 呼ぶなら複数で。
> 声が消える前に、声を重ねること。
「声を重ねる」
僕が読む。
レンが頷いた。
「火災記録の中では、声が届きにくくなる可能性があります。煙のせいだけではなく、記録上の遮断です」
「つまり、ミカが助けてって言っても聞こえない?」
ミカが自分で言った。
レンは少し言いづらそうにした。
「可能性はあります」
「嫌すぎ」
「はい」
「でも、分かった」
ミカは深く息を吸う。
「じゃあ、私は大声出す練習する」
「根性論ではありません」
レンがすぐに言う。
「でも声は使うんでしょ?」
「使います」
「じゃあ練習」
「……合理性がゼロではありません」
「勝った」
「勝負ではありません」
ミカは立ち上がり、窓のほうを向いた。
「朝倉ミカ!」
急に自分の名前を叫んだ。
僕たちはびくっとする。
「生存確認、継続中!」
廊下の向こうから、誰かが「何だ?」と言う声がした。
白石先生が頭を抱える。
「校内で叫ぶな」
「声を重ねる練習です」
「場所を選べ」
「旧体育館よりマシです」
「比較対象が終わってる」
でも、先生は本気で怒ってはいなかった。
ミカが自分の名前を叫ぶ。
それは、ふざけているようで、たぶん大事なことだった。
自分の名前を、自分で消させないために。
「瀬名湊斗」
ミカが僕を見る。
「存在確認、継続中」
僕も言った。
「雨宮レン」
レンは一瞬嫌そうな顔をした。
でも、諦めたように言う。
「記録確認、継続中」
「黒瀬リョウ」
黒瀬先輩は少し迷ってから、言った。
「支配性、監視中」
「それでいいのか」
僕が突っ込む。
「今の僕には必要だと思う」
黒瀬先輩は苦笑した。
最後に、白石先生が言う。
「白石、自己停止、継続中」
「先生まで」
ミカが笑った。
その笑い声が、少しだけ部屋の空気を軽くした。
でも、机の上のサキさんの紙片は、まだ焦げた匂いを放っている気がした。
*
八月二十八日。
花火大会まで三日。
僕たちは旧体育館横の臨時避難所を実際に確認することになった。
行くかどうかで、かなり揉めた。
ミカは怖いと言った。
レンは行くべきだと言った。
僕は行きたくないけど確認しないほうが怖いと言った。
黒瀬先輩は候補として残すなら見る必要があると言った。
白石先生は「大人としては行くなと言いたいが、教師としては見ないふりをするなと言いたい」と、珍しく二択で詰まっていた。
結果、条件付きで行くことになった。
一、旧体育館本体の扉には近づかない。
二、器材庫の中だけ見る。
三、レンは一人で動かない。
四、異常音がしたら即撤退。
五、ミカが嫌だと言ったら即撤退。
六、黒瀬先輩が「こっちが安全」と言い出したら一旦黙る。
「六番、僕だけ名指しだね」
黒瀬先輩が言う。
「名指しに意味があります」
レンが即答した。
「厳しい」
「命がかかっているので」
「便利に使われてる」
ミカが少し笑った。
でも、旧体育館が見えてくるにつれて、その笑顔は消えていった。
校舎の奥。
伸びた雑草。
錆びたフェンス。
古い立入禁止の看板。
窓を塞ぐ板。
そして、隣の小さな器材庫。
外から見ると、器材庫は普通だった。
古いが、使えないほどではない。
扉は錆びているが、鍵は新しく交換されている。
中に簡易ベッドや水を置けば、確かに一時避難所にはできそうだった。
安全そう。
その言葉が、頭に浮かんだ瞬間、僕は嫌な気分になった。
安全そうだから、危ない。
サキさんのノートがそう言っていた。
「開けます」
黒瀬先輩が鍵を差し込む。
ミカが一歩、僕の後ろに下がった。
「嫌だったら言えよ」
「今のところ嫌」
「じゃあやめる?」
「見る。でも嫌」
「了解」
レンが端末を構える。
白石先生は少し離れた場所に立ち、旧体育館本体から目を逸らさない。
黒瀬先輩が扉を開けた。
ぎい、と音がした。
中は薄暗い。
埃っぽい匂い。
古い木箱。
折りたたみ椅子。
壊れたテントの骨組み。
壁際には、まだ使えそうな長机。
火の気はない。
煙もない。
でも、空気が重い。
「普通だね」
ミカが言った。
「普通なのが怖い」
「分かる」
中を確認する。
出口は一つ。
窓は小さい。
奥に物置のようなスペースがある。
レンが奥を見ようとした瞬間、ミカが言った。
「一人で行かない」
「行きません」
レンは立ち止まった。
それから、僕を見る。
「一緒にお願いします」
「おう」
その言い方に、少しだけ驚いた。
レンが「お願いします」と言うことが、前より増えた。
一人で抱えないための言葉。
僕はレンと一緒に奥へ向かう。
奥の棚には、古い段ボールが積まれていた。
その一つに、焦げた跡がある。
レンの息が止まった。
「これ」
「レン」
「分かっています」
彼は自分に言い聞かせるように言った。
「一人で開けません」
「じゃあ、みんなで見る?」
僕が聞くと、レンは少し迷った。
「……見たいです」
その声は、とても小さかった。
ミカが近づく。
「見たいって言えたなら、みんなで見る」
黒瀬先輩も来る。
白石先生は入口から動かずに言った。
「俺はここで見張る」
「先生、ありがとう」
ミカが言う。
白石先生は短く頷いた。
僕たちは段ボールを床に下ろした。
焦げた段ボール。
テープは古くなっていて、簡単に剥がれた。
中には、ラムネ瓶が一本入っていた。
空のラムネ瓶。
中のビー玉だけが、光っている。
レンの顔が変わる。
「姉の」
からん。
瓶の中でビー玉が鳴った。
誰も触れていないのに。
からん。
もう一度。
ミカが息を呑む。
「鳴った」
レンが手を伸ばしかけた。
ミカがすぐに言う。
「一人で触らない」
レンの手が止まる。
「……はい」
僕が瓶を持ち上げた。
冷たい。
夏なのに、妙に冷たい。
瓶の底に、紙が沈んでいた。
ラムネ瓶に沈められた秘密。
サキさんのやり方だ。
「開けられる?」
ミカが聞く。
「割るしかないかも」
「割るの嫌だな」
「でも中身」
「待って」
レンが言った。
彼は赤いヨーヨーの紐をほどき、先端に小さな金具を取り付けた。
「姉が昔、こういう遊びをしていました。瓶の中の紙を引っかけて取る」
「姉弟の遊びが特殊」
ミカが言う。
「雨宮家では一般的です」
「絶対一般的じゃない」
レンは慎重にヨーヨーの紐を瓶の中へ入れた。
ビー玉がからんと鳴る。
その音が、器材庫の中に妙に響いた。
そして、小さな紙片が引っかかる。
レンは息を止めるようにして、それを引き出した。
濡れてはいない。
古い紙。
サキさんの字。
> 器材庫に来た人へ。
> 来るなって書いたのに来たね。
> 人類、注意書きを読まない。
> でも、ここまで来たなら読んで。
> 旧体育館の火は、火元から出るとは限らない。
> 記録は、近い声に移る。
> 誰かが「ここなら安全」と強く思うほど、
> そこが出口ではなく入口になる。
> 黒瀬リョウくんへ。
> あなたがこれを読むなら、
> あなたはたぶん誰かを安全な場所へ連れていこうとしている。
> それは優しさかもしれない。
> でも、相手の声を聞かなければ、ただの運搬です。
> 人間を運搬するな。
> 荷物じゃない。
黒瀬先輩が息を呑んだ。
サキさんは三年前に死んだはずなのに。
まるで今の黒瀬先輩を見ているみたいだった。
紙は続いていた。
> レンへ。
> あなたはたぶん私の記録を見つけたくなる。
> そういう顔をしている。
> かわいい弟め。
> でも一人で奥へ行くな。
> 私は、あなたが私を見つけるために誰かを失うのが嫌だ。
> これ重要。
> テストに出ます。
> 出題者は姉です。
> 配点は人生全部です。
レンの手が震えた。
ミカがそっと言う。
「レンくん」
「分かっています」
レンは低く言った。
でも、その声は少し壊れかけていた。
「分かっています。姉がそう書くことも。僕が奥へ行きたくなることも。全部」
その時だった。
器材庫の奥の壁から、こつん、と音がした。
全員が黙る。
こつん。
また。
壁の向こう。
旧体育館側から。
こつん。
レンが顔を上げた。
「姉の」
「違うかもしれない」
僕は言った。
「でも」
「違うかもしれない」
ミカが重ねた。
レンは唇を噛む。
こつん。
また音がする。
今度は、誰かが壁を叩いているようだった。
そして、かすかな声。
『レン』
空気が凍った。
レンの顔から血の気が引く。
「姉さん」
彼は一歩、奥へ進んだ。
ミカが叫ぶ。
「レンくん!」
レンは止まった。
止まったけれど、体が震えている。
『レン』
また声が聞こえた。
壁の向こうから。
旧体育館の中から。
『こっち』
「行くな!」
僕はレンの腕を掴んだ。
レンは僕を振り払わなかった。
でも、目が壁に釘付けになっている。
「姉さんが」
「サキさんなら、来るなって書いてる」
ミカが紙を握って言った。
「今の声が本物でも、来るなって書いてる!」
レンの目が揺れた。
「でも、助けを」
「助けてって言ってない!」
ミカの声が強くなる。
「こっちって言ってるだけ!」
その言葉に、レンの体が止まった。
声が、助けてとは言っていない。
こっち。
それだけ。
記録が人を呼ぶ時の言葉。
白石先生が入口から叫んだ。
「出ろ!」
その声は、いつもの眠そうな先生のものではなかった。
「今すぐ出ろ! ここはもう入口になってる!」
黒瀬先輩が、すぐに扉を開け放つ。
「全員出て!」
その声には、前のような命令の強さがあった。
でも、今度は違った。
彼はすぐにミカを見る。
「朝倉さん、出られる?」
ミカは頷いた。
「出る!」
「瀬名くん、レンくんを!」
「分かってる!」
僕はレンの腕を掴んだまま、出口へ向かう。
レンは抵抗しない。
でも、何度も振り返っている。
『レン』
声が追ってくる。
器材庫の奥から。
旧体育館の壁から。
煙の匂いがした。
まだ火なんてないのに。
焦げた木の匂い。
喉が痛くなるような、古い煙。
「走って!」
誰かの声がした。
ミカの声じゃない。
サキさんの声。
いや、記憶の中の声。
三年前、僕に向けられた声。
ミナト、走って。
僕はレンを引っ張って外へ出た。
ミカも黒瀬先輩も出る。
最後に白石先生が扉を閉めた。
ばたん。
その音と同時に、器材庫の中から大きな音がした。
じり。
じり。
非常ベルの音。
まだ外には煙が出ていない。
でも、器材庫の奥で赤い光が点滅しているのが、扉の隙間から見えた。
スマホが一斉に震える。
> PHASE 3:火災記録再発 急上昇
> 旧体育館ルート:開放
> 雨宮レン:接近反応
> 朝倉ミカ:介入済
> 次回危険予測:
> 8/31
> 旧体育館周辺
> 煙害
煙害。
その文字を見たミカの顔が白くなる。
「煙」
彼女は呟いた。
「夢と同じ」
レンは地面に膝をついた。
赤いヨーヨーを握りしめたまま、呼吸が浅くなっている。
「僕が」
「違う」
ミカがすぐに言った。
「でも、僕が近づいた」
「止まった」
「声に反応した」
「でも止まった!」
ミカはレンの前にしゃがんだ。
「レンくん、今は止まった。私たちの声で止まった。それを記録して」
レンは顔を上げる。
目が揺れている。
「止まった」
「うん」
「僕は、扉を開けなかった」
「うん」
「でも、火災記録は開いた」
「少し開いた。でもまだ八月三十一日じゃない」
ミカの声は震えていた。
それでも、レンに届くように言った。
「今なら、対策できる」
黒瀬先輩が、閉じた器材庫の扉を見ていた。
「ここを臨時避難所にするのは中止だ」
はっきり言った。
「候補から外す。安全そうに見えるだけで、入口だった」
白石先生が頷いた。
「それでいい」
黒瀬先輩は苦しそうに笑った。
「兄も、サキさんも、朝倉さんも、みんな言ってたのに。僕はまだ、ここを使えると思ってた」
「今やめたなら、前よりいいです」
ミカが言った。
黒瀬先輩はミカを見る。
「ありがとう」
「ただし、当日また言い出したら怒ります」
「止めてくれ」
「止めます」
僕も言った。
「僕も止めます」
レンがゆっくり立ち上がる。
「僕も、自分を止めます」
まだ顔は青い。
でも、声は戻っていた。
「姉の声が聞こえても、一人では行きません」
その瞬間、旧体育館の中から、非常ベルがもう一度鳴った。
じり。
じり。
今度は、はっきりと。
空の下にまで響く音だった。
ミカが僕の袖を掴む。
「これ、当日来るね」
「うん」
僕は答えた。
「次は、煙だ」
旧体育館の窓の隙間から、赤い光が一瞬だけ漏れた。
火は見えない。
煙もまだない。
でも、三年前の火災記録は、確かに扉を叩き始めていた。
夏の終わりまで、あと三日。
橋でもなく。
車道でもなく。
今度は、煙がミカを探している。




