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夏が終わる前に、君の名前を呼ぶ  作者: 磯辺


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17/25

避難所に残された足跡

 八月二十六日の朝、僕はスマホの画面を見て、まず日付を確認した。


 八月二十六日。


 戻っていない。


 それだけで、少しだけ息ができた。


 けれど、次に通知欄を見て、息はまた詰まった。


> LOOP:03

> 対象:朝倉ミカ

> 死亡記録:未固定

> PHASE 3:火災記録再発 上昇

> 次回危険予測:

> 旧体育館周辺


 旧体育館。


 その文字を見るだけで、喉の奥に煙が入ったような気がした。


 三年前、僕が死にかけた場所。

 雨宮サキが僕を助けた場所。

 町の記録(きろく)から名前を消された場所。

 そして今度は、ミカを巻き込もうとしている場所。


 スマホがまた震える。


 ミカからだった。


> 起きた。

> 生きてる。

> 今日はライトじゃない。

> でも夢で煙見た。


 僕は返信する。


> 起きた。

> こっちも生きてる。

> 旧体育館の通知出た。


 すぐに既読がついた。


> やっぱり。

> 今日はレンくんを見張る日?


> レンだけじゃない。

> 黒瀬先輩も。

> 僕も。


> 自覚あるの偉い。

> でも偉さで死なないで。


> 難易度高い注文。


> 命がかかってるので。


> それ僕の台詞になりつつある。


> 共有財産。


 少し笑った。


 でも、その笑いは長く続かなかった。


 煙の夢。


 ミカも見ている。


 完全な記憶だけじゃない。

 次に起こるかもしれない死因まで、夢や通知の形で先に(にじ)んでくる。


 この夏は、親切に見えて残酷だ。


 死ぬ前に、死に方を教えてくる。


     *


 朝食は冷やし中華だった。


「……戻ってないよな?」


 僕は皿を見つめて言った。


 麺。

 きゅうり。

 錦糸卵。

 ハム。

 トマト。

 唐揚げ二つ。


 八月二十五日じゃない。


 八月二十六日だ。


 なのに、冷やし中華。


「何その反応」


 母さんが言った。


「昨日の残りを()き直したの?」


「冷やし中華は炊かないよ」


「時間の炊飯器のせいかと」


「何それ」


「僕にも分からないけど、だいたい最悪」


 母さんは首をかしげた。


「食べられる?」


「食べる」


「無理しなくていいよ」


「無理はする」


「それ、良くない言葉」


 母さんに言われて、少しだけ口を閉じた。


 怖い時に大丈夫と言う子は、大丈夫じゃない。


 前の朝、母さんに言われた言葉を思い出す。


「……怖い」


 僕は小さく言った。


 母さんがこちらを見る。


「何が?」


「友達が、また危ない場所に近づくかもしれない」


「ミカちゃん?」


「ミカも。レンも。黒瀬先輩も」


「黒瀬先輩?」


「爽やかな人」


「爽やかな人が危ないの?」


「爽やかな人ほど、時々、勝手に扉を閉める」


「何の話?」


「僕にも説明が難しい」


 母さんはしばらく僕を見て、それからペットボトルの水を一本渡してくれた。


「じゃあ、せめて水持っていきなさい」


「ありがとう」


「あと、名前」


「え?」


「今日も必要なんでしょ」


 母さんは、少し照れたように笑った。


「瀬名湊斗」


 名前を呼ばれる。


 それだけで、足元に杭が打たれるような感覚がある。


 僕はここにいる。


 まだ、いる。


「行ってきます」


「行ってらっしゃい」


 母さんはそこで一度言葉を切ってから、続けた。


「ちゃんと帰ってきてね。ミカちゃんも」


「うん」


 僕は頷いた。


 冷やし中華は、酸っぱかった。


 でも、ちゃんと飲み込んだ。


     *


 三架高校に着くと、校門の前にミカがいた。


 青いヘアピン。

 夏服。

 ラムネ瓶。

 そして、少し寝不足の顔。


「おはよう」


「おはよう」


「顔、無料版どころか体験版だね」


「そっちは?」


「私は広告付き」


「朝から課金圧がすごい」


 ミカは少し笑った。


 でも、すぐに表情を落とした。


「煙、見た」


「夢?」


「うん。旧体育館の中で、非常ベルが鳴ってた。私、走ってた。レンくんの名前を呼んでた。でも声が出なくなって、喉が熱くて」


 ミカはそこで言葉を止めた。


 青いヘアピンに触れる。


「まだ死んでないのに、死ぬ練習させられてるみたい」


 僕は何も言えなかった。


 軽くしちゃいけない。


 でも、黙りすぎてもミカを一人にする。


「練習なら、失敗していい」


 僕は言った。


「本番で失敗しなければいい」


「本番って言い方、嫌すぎ」


「僕も言ってから嫌になった」


「じゃあ言い直し」


「八月三十一日に、失敗しない」


 ミカは頷いた。


「うん」


 その時、校舎のほうからレンが歩いてきた。


 黒いリュック。

 赤いヨーヨー。

 黒いノート。


 顔色は、昨日よりさらに悪い。


「寝てないだろ」


 僕が言うと、レンは即答した。


「寝ました」


「何時間」


「計測上は二時間四十二分」


「それは仮眠」


「睡眠の定義に厳しいですね」


「命がかかってるので」


「便利に使わないでください」


 ミカが言った。


「レンくん、煙の夢見た?」


 レンは一瞬黙った。


 そして、頷いた。


「見ました」


「サキさん?」


「声だけです」


 レンは赤いヨーヨーを握った。


「姉の声がしました。『奥に来るな』と」


「じゃあ行かない」


 ミカが即答する。


「はい」


 レンもすぐに頷いた。


 でも、その目は旧体育館のほうを見ていた。


 行かないと口で言っているのに、体のどこかが呼ばれている。


 その感じが、見ていて分かった。


「レン」


 僕が呼ぶ。


「はい」


「一人で扉を開けないで」


 ミカが先に言った。


 レンは少しだけ目を伏せた。


「開けません」


「開けたくなったら?」


「言います」


「誰に?」


「あなたたちに」


「よし」


 ミカは頷く。


 レンは不服そうな顔をした。


「僕は小学生ではありません」


「小学生のほうが約束守る時あるよ」


「偏見です」


「じゃあ守って」


「守ります」


 そんな会話をしていても、全員分かっていた。


 旧体育館は、もうこちらを呼び始めている。


     *


 放課後、僕たちは図書準備室に集まった。


 黒瀬リョウが持ってきた新しい動線案を広げるためだ。


 白石先生もいる。


 先生はアイスコーヒーを持っていなかった。


 代わりに、麦茶(むぎちゃ)のペットボトルを持っている。


「先生、カフェイン断ちですか」


 ミカが聞く。


「心拍数を上げたくない」


「ガチすぎて突っ込みにくい」


「突っ込まなくていい」


 白石先生はそう言って、黒瀬先輩の資料に目を落とした。


 机の上には、花火大会当日の地図がある。


 第三橋。

 車道側導線。

 神社側広場。

 二十五番スピーカー。

 旧体育館。

 そして、旧体育館横の臨時避難所。


 黒瀬先輩は、そこに青い丸をつけていた。


「確認したい」


 黒瀬先輩は言った。


「僕はもう、ここを絶対安全だとは言わない」


「はい」


 ミカが頷く。


「旧体育館に近い以上、危険はある。火災記録が再発する可能性もある。レンくんが引き寄せられる可能性もある」


「はい」


「でも、橋と車道から物理的に離れている。群衆からも外れる。白石先生の接触経路も避けられる。選択肢としては、まだ残す価値があると思う」


 言葉を選んでいる。


 昨日とは違う。


 「ここが安全だ」と押しつけていない。


 でも、まだ安全(あんぜん)という言葉に、彼自身が縋っているのは分かった。


 ミカは地図を見てから、口を開いた。


「私は、ここが怖いです」


「うん」


 黒瀬先輩は頷いた。


「聞いてる」


「煙の夢を見ました。旧体育館から非常ベルが鳴って、レンくんが奥に行こうとして、私が追いかける夢です」


「……うん」


「だから、臨時避難所を使うなら条件があります」


「条件?」


「旧体育館の扉に近づかない。中に入らない。レンくんを一人にしない。黒瀬先輩が私を移動させたい時は、必ず先に言う。私は嫌なら嫌って言う」


 レンが付け加える。


「僕が姉の記録を見つけた場合も、一人で動きません」


 白石先生も言う。


「俺は当日、旧体育館ルートには近づかない。橋側に残る。だが異常が出たら連絡する」


 黒瀬先輩は一つずつメモを取った。


 その手は少し震えていた。


「分かった」


 彼は言った。


「あと、僕の条件も言っていいかな」


 ミカが頷く。


「聞きます」


「僕が焦って朝倉さんを動かそうとしたら、止めてほしい。たぶん、自分では分からなくなる瞬間がある」


「止めます」


 僕が答えた。


「僕が止めます」


 黒瀬先輩は僕を見る。


「瀬名くん」


「殴るかは未定です」


「前より物騒になってる」


「ミカが二回死んでるので」


 黒瀬先輩は何も言えなくなった。


 少しだけ沈黙が落ちる。


 ミカが小さく咳払いした。


「じゃあ、私も条件追加」


「何?」


「誰も私を荷物みたいに運ばない」


 その言葉が、部屋の真ん中に置かれた。


 荷物。


 避難物。


 矢印。


 処理。


 ミカはもう、そういう言葉で扱われることを拒否している。


「私は自分で歩く。歩けない時は、助けてって言う。助ける時は、私に声をかける」


 黒瀬先輩は頷いた。


「分かった」


「本当に?」


「本当に」


 ミカはしばらく黒瀬先輩を見ていた。


 疑っている。


 でも、その疑いは大事だ。


 信じるために疑う。


 疑われることから逃げない。


 それが、今回は必要だった。


     *


 話し合いが終わったあと、レンが古い資料を机に出した。


 黒瀬悠真のファイルに挟まっていた、焼け焦げた紙片だ。


「昨日の夜、少し読めるようにしました」


「徹夜の原因それか」


 僕が言うと、レンは目を逸らした。


「睡眠時間の話は済みました」


「済んでない」


「今は資料が優先です」


 ミカが腕を組む。


「レンくん、寝不足禁止」


「努力します」


「努力じゃ足りないやつ」


「……善処します」


「言い換えただけ」


 レンは小さくため息をつき、紙片を机に置いた。


 そこには、サキさんの字があった。


 いつものように、ふざけた調子で始まっている。


> 安全な場所メモ。

> 安全な場所とは何か。

> たぶん、カレーの中の福神漬けみたいなもの。

> いや違う。例えが迷子。

> 要するに、安全そうに見える場所が一番危ないことがある。

> 「ここなら大丈夫」と言った瞬間、人は周りを見なくなる。

> 旧体育館横の器材庫、要注意。

> あそこは火元じゃない。

> でも、火災記録の影が届く。

> 影は、火よりしつこい。

> レンへ。

> お姉ちゃんからのお願い。

> 私の声が聞こえても、一人で来るな。

> というか来るな。

> いや、来るなら誰かの手を握って来い。

> でもできれば来るな。

> このへん、姉の気持ちが大渋滞している。


 ミカが小さく笑った。


「サキさん、文章うるさい」


「姉は昔からこうです」


 レンは不機嫌そうに言った。


 でも、その声には少しだけ温度があった。


 サキさんの言葉が戻るたびに、レンは苦しそうになる。


 それでも、姉のふざけた文体に救われている部分もあるのだと思う。


 紙片の下には、さらに文字が続いていた。


> 青いものが落ちたら拾え。

> でも拾うために煙の中へ入るな。

> 名前は煙より強い。

> ただし、一人の名前だけでは足りない。

> 呼ぶなら複数で。

> 声が消える前に、声を重ねること。


「声を重ねる」


 僕が読む。


 レンが頷いた。


「火災記録の中では、声が届きにくくなる可能性があります。煙のせいだけではなく、記録上の遮断です」


「つまり、ミカが助けてって言っても聞こえない?」


 ミカが自分で言った。


 レンは少し言いづらそうにした。


「可能性はあります」


「嫌すぎ」


「はい」


「でも、分かった」


 ミカは深く息を吸う。


「じゃあ、私は大声出す練習する」


「根性論ではありません」


 レンがすぐに言う。


「でも声は使うんでしょ?」


「使います」


「じゃあ練習」


「……合理性がゼロではありません」


「勝った」


「勝負ではありません」


 ミカは立ち上がり、窓のほうを向いた。


「朝倉ミカ!」


 急に自分の名前を叫んだ。


 僕たちはびくっとする。


「生存確認、継続中!」


 廊下の向こうから、誰かが「何だ?」と言う声がした。


 白石先生が頭を抱える。


「校内で叫ぶな」


「声を重ねる練習です」


「場所を選べ」


「旧体育館よりマシです」


「比較対象が終わってる」


 でも、先生は本気で怒ってはいなかった。


 ミカが自分の名前を叫ぶ。


 それは、ふざけているようで、たぶん大事なことだった。


 自分の名前を、自分で消させないために。


「瀬名湊斗」


 ミカが僕を見る。


「存在確認、継続中」


 僕も言った。


「雨宮レン」


 レンは一瞬嫌そうな顔をした。


 でも、諦めたように言う。


「記録確認、継続中」


「黒瀬リョウ」


 黒瀬先輩は少し迷ってから、言った。


「支配性、監視中」


「それでいいのか」


 僕が突っ込む。


「今の僕には必要だと思う」


 黒瀬先輩は苦笑した。


 最後に、白石先生が言う。


「白石、自己停止、継続中」


「先生まで」


 ミカが笑った。


 その笑い声が、少しだけ部屋の空気を軽くした。


 でも、机の上のサキさんの紙片は、まだ焦げた匂いを放っている気がした。


     *


 八月二十八日。


 花火大会まで三日。


 僕たちは旧体育館横の臨時避難所を実際に確認することになった。


 行くかどうかで、かなり揉めた。


 ミカは怖いと言った。

 レンは行くべきだと言った。

 僕は行きたくないけど確認しないほうが怖いと言った。

 黒瀬先輩は候補として残すなら見る必要があると言った。

 白石先生は「大人としては行くなと言いたいが、教師としては見ないふりをするなと言いたい」と、珍しく二択で詰まっていた。


 結果、条件付きで行くことになった。


 一、旧体育館本体の扉には近づかない。

 二、器材庫の中だけ見る。

 三、レンは一人で動かない。

 四、異常音がしたら即撤退。

 五、ミカが嫌だと言ったら即撤退。

 六、黒瀬先輩が「こっちが安全」と言い出したら一旦黙る。


「六番、僕だけ名指しだね」


 黒瀬先輩が言う。


「名指しに意味があります」


 レンが即答した。


「厳しい」


「命がかかっているので」


「便利に使われてる」


 ミカが少し笑った。


 でも、旧体育館が見えてくるにつれて、その笑顔は消えていった。


 校舎の奥。


 伸びた雑草。

 錆びたフェンス。

 古い立入禁止の看板。

 窓を塞ぐ板。

 そして、隣の小さな器材庫。


 外から見ると、器材庫は普通だった。


 古いが、使えないほどではない。

 扉は錆びているが、鍵は新しく交換されている。

 中に簡易ベッドや水を置けば、確かに一時避難所にはできそうだった。


 安全(あんぜん)そう。


 その言葉が、頭に浮かんだ瞬間、僕は嫌な気分になった。


 安全そうだから、危ない。


 サキさんのノートがそう言っていた。


「開けます」


 黒瀬先輩が鍵を差し込む。


 ミカが一歩、僕の後ろに下がった。


「嫌だったら言えよ」


「今のところ嫌」


「じゃあやめる?」


「見る。でも嫌」


「了解」


 レンが端末を構える。


 白石先生は少し離れた場所に立ち、旧体育館本体から目を逸らさない。


 黒瀬先輩が扉を開けた。


 ぎい、と音がした。


 中は薄暗い。


 埃っぽい匂い。

 古い木箱。

 折りたたみ椅子。

 壊れたテントの骨組み。

 壁際には、まだ使えそうな長机。


 火の気はない。


 煙もない。


 でも、空気が重い。


「普通だね」


 ミカが言った。


「普通なのが怖い」


「分かる」


 中を確認する。


 出口は一つ。

 窓は小さい。

 奥に物置のようなスペースがある。


 レンが奥を見ようとした瞬間、ミカが言った。


「一人で行かない」


「行きません」


 レンは立ち止まった。


 それから、僕を見る。


「一緒にお願いします」


「おう」


 その言い方に、少しだけ驚いた。


 レンが「お願いします」と言うことが、前より増えた。


 一人で抱えないための言葉。


 僕はレンと一緒に奥へ向かう。


 奥の棚には、古い段ボールが積まれていた。


 その一つに、焦げた跡がある。


 レンの息が止まった。


「これ」


「レン」


「分かっています」


 彼は自分に言い聞かせるように言った。


「一人で開けません」


「じゃあ、みんなで見る?」


 僕が聞くと、レンは少し迷った。


「……見たいです」


 その声は、とても小さかった。


 ミカが近づく。


「見たいって言えたなら、みんなで見る」


 黒瀬先輩も来る。


 白石先生は入口から動かずに言った。


「俺はここで見張る」


「先生、ありがとう」


 ミカが言う。


 白石先生は短く頷いた。


 僕たちは段ボールを床に下ろした。


 焦げた段ボール。


 テープは古くなっていて、簡単に剥がれた。


 中には、ラムネ瓶が一本入っていた。


 空のラムネ瓶。


 中のビー玉だけが、光っている。


 レンの顔が変わる。


「姉の」


 からん。


 瓶の中でビー玉が鳴った。


 誰も触れていないのに。


 からん。


 もう一度。


 ミカが息を呑む。


「鳴った」


 レンが手を伸ばしかけた。


 ミカがすぐに言う。


「一人で触らない」


 レンの手が止まる。


「……はい」


 僕が瓶を持ち上げた。


 冷たい。


 夏なのに、妙に冷たい。


 瓶の底に、紙が沈んでいた。


 ラムネ瓶に沈められた秘密。


 サキさんのやり方だ。


「開けられる?」


 ミカが聞く。


「割るしかないかも」


「割るの嫌だな」


「でも中身」


「待って」


 レンが言った。


 彼は赤いヨーヨーの紐をほどき、先端に小さな金具を取り付けた。


「姉が昔、こういう遊びをしていました。瓶の中の紙を引っかけて取る」


「姉弟の遊びが特殊」


 ミカが言う。


「雨宮家では一般的です」


「絶対一般的じゃない」


 レンは慎重にヨーヨーの紐を瓶の中へ入れた。


 ビー玉がからんと鳴る。


 その音が、器材庫の中に妙に響いた。


 そして、小さな紙片が引っかかる。


 レンは息を止めるようにして、それを引き出した。


 濡れてはいない。


 古い紙。


 サキさんの字。


> 器材庫に来た人へ。

> 来るなって書いたのに来たね。

> 人類、注意書きを読まない。

> でも、ここまで来たなら読んで。

> 旧体育館の火は、火元から出るとは限らない。

> 記録は、近い声に移る。

> 誰かが「ここなら安全」と強く思うほど、

> そこが出口ではなく入口になる。

> 黒瀬リョウくんへ。

> あなたがこれを読むなら、

> あなたはたぶん誰かを安全な場所へ連れていこうとしている。

> それは優しさかもしれない。

> でも、相手の声を聞かなければ、ただの運搬です。

> 人間を運搬するな。

> 荷物じゃない。


 黒瀬先輩が息を呑んだ。


 サキさんは三年前に死んだはずなのに。


 まるで今の黒瀬先輩を見ているみたいだった。


 紙は続いていた。


> レンへ。

> あなたはたぶん私の記録を見つけたくなる。

> そういう顔をしている。

> かわいい弟め。

> でも一人で奥へ行くな。

> 私は、あなたが私を見つけるために誰かを失うのが嫌だ。

> これ重要。

> テストに出ます。

> 出題者は姉です。

> 配点は人生全部です。


 レンの手が震えた。


 ミカがそっと言う。


「レンくん」


「分かっています」


 レンは低く言った。


 でも、その声は少し壊れかけていた。


「分かっています。姉がそう書くことも。僕が奥へ行きたくなることも。全部」


 その時だった。


 器材庫の奥の壁から、こつん、と音がした。


 全員が黙る。


 こつん。


 また。


 壁の向こう。


 旧体育館側から。


 こつん。


 レンが顔を上げた。


「姉の」


「違うかもしれない」


 僕は言った。


「でも」


「違うかもしれない」


 ミカが重ねた。


 レンは唇を噛む。


 こつん。


 また音がする。


 今度は、誰かが壁を叩いているようだった。


 そして、かすかな声。


『レン』


 空気が凍った。


 レンの顔から血の気が引く。


「姉さん」


 彼は一歩、奥へ進んだ。


 ミカが叫ぶ。


「レンくん!」


 レンは止まった。


 止まったけれど、体が震えている。


『レン』


 また声が聞こえた。


 壁の向こうから。


 旧体育館の中から。


『こっち』


「行くな!」


 僕はレンの腕を掴んだ。


 レンは僕を振り払わなかった。


 でも、目が壁に釘付けになっている。


「姉さんが」


「サキさんなら、来るなって書いてる」


 ミカが紙を握って言った。


「今の声が本物でも、来るなって書いてる!」


 レンの目が揺れた。


「でも、助けを」


「助けてって言ってない!」


 ミカの声が強くなる。


「こっちって言ってるだけ!」


 その言葉に、レンの体が止まった。


 声が、()()()とは言っていない。


 こっち。


 それだけ。


 記録が人を呼ぶ時の言葉。


 白石先生が入口から叫んだ。


「出ろ!」


 その声は、いつもの眠そうな先生のものではなかった。


「今すぐ出ろ! ここはもう入口になってる!」


 黒瀬先輩が、すぐに扉を開け放つ。


「全員出て!」


 その声には、前のような命令の強さがあった。


 でも、今度は違った。


 彼はすぐにミカを見る。


「朝倉さん、出られる?」


 ミカは頷いた。


「出る!」


「瀬名くん、レンくんを!」


「分かってる!」


 僕はレンの腕を掴んだまま、出口へ向かう。


 レンは抵抗しない。


 でも、何度も振り返っている。


『レン』


 声が追ってくる。


 器材庫の奥から。


 旧体育館の壁から。


 煙の匂いがした。


 まだ火なんてないのに。


 焦げた木の匂い。


 喉が痛くなるような、古い煙。


「走って!」


 誰かの声がした。


 ミカの声じゃない。


 サキさんの声。


 いや、記憶の中の声。


 三年前、僕に向けられた声。


 ミナト、走って。


 僕はレンを引っ張って外へ出た。


 ミカも黒瀬先輩も出る。


 最後に白石先生が扉を閉めた。


 ばたん。


 その音と同時に、器材庫の中から大きな音がした。


 じり。


 じり。


 非常ベルの音。


 まだ外には煙が出ていない。


 でも、器材庫の奥で赤い光が点滅しているのが、扉の隙間から見えた。


 スマホが一斉に震える。


> PHASE 3:火災記録再発 急上昇

> 旧体育館ルート:開放

> 雨宮レン:接近反応

> 朝倉ミカ:介入済

> 次回危険予測:

> 8/31

> 旧体育館周辺

> 煙害


 煙害。


 その文字を見たミカの顔が白くなる。


「煙」


 彼女は呟いた。


「夢と同じ」


 レンは地面に膝をついた。


 赤いヨーヨーを握りしめたまま、呼吸が浅くなっている。


「僕が」


「違う」


 ミカがすぐに言った。


「でも、僕が近づいた」


「止まった」


「声に反応した」


「でも止まった!」


 ミカはレンの前にしゃがんだ。


「レンくん、今は止まった。私たちの声で止まった。それを記録して」


 レンは顔を上げる。


 目が揺れている。


「止まった」


「うん」


「僕は、扉を開けなかった」


「うん」


「でも、火災記録は開いた」


「少し開いた。でもまだ八月三十一日じゃない」


 ミカの声は震えていた。


 それでも、レンに届くように言った。


「今なら、対策できる」


 黒瀬先輩が、閉じた器材庫の扉を見ていた。


「ここを臨時避難所にするのは中止だ」


 はっきり言った。


「候補から外す。安全そうに見えるだけで、入口だった」


 白石先生が頷いた。


「それでいい」


 黒瀬先輩は苦しそうに笑った。


「兄も、サキさんも、朝倉さんも、みんな言ってたのに。僕はまだ、ここを使えると思ってた」


「今やめたなら、前よりいいです」


 ミカが言った。


 黒瀬先輩はミカを見る。


「ありがとう」


「ただし、当日また言い出したら怒ります」


「止めてくれ」


「止めます」


 僕も言った。


「僕も止めます」


 レンがゆっくり立ち上がる。


「僕も、自分を止めます」


 まだ顔は青い。


 でも、声は戻っていた。


「姉の声が聞こえても、一人では行きません」


 その瞬間、旧体育館の中から、非常ベルがもう一度鳴った。


 じり。


 じり。


 今度は、はっきりと。


 空の下にまで響く音だった。


 ミカが僕の袖を掴む。


「これ、当日来るね」


「うん」


 僕は答えた。


「次は、煙だ」


 旧体育館の窓の隙間から、赤い光が一瞬だけ漏れた。


 火は見えない。


 煙もまだない。


 でも、三年前の火災記録は、確かに扉を叩き始めていた。


 夏の終わりまで、あと三日。


 橋でもなく。

 車道でもなく。

 今度は、煙がミカを探している。

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