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「癒しの神殿」の待合室に座る佐藤健二の周囲には、もはや隠しきれないほどの「魔力(狂気)」が渦巻いていた。
山岸院長によって「エリクサー」を半分に減らされてから二週間。健二の瞳は爛々と輝き、世界はかつてないほどの
色彩に満ち溢れている。彼は「雷神の杖(ビニール傘)」を膝に置き、静かに自分の順番を待っていた。
「……勇者ケイン様、中へどうぞ」
診察室に入ると老魔術師――山岸院長は、いつものように穏やかな微笑みを浮かべて健二を迎えた。
「やあ、ケイン殿。一段と精悍な顔つきになったな。……貴公の冒険の続きを聞かせてもらおうか?」
健二は黙って椅子に深く腰掛け、朗々と語り始める。
「……まずは『聖域』での一件だ。俺は漆黒の重装騎士を追っていたが、そこで魔王軍の刺客、影の処刑人と遭遇した。奴は精神干渉魔法を仕掛けてきたが、
俺は『融和の呪文(挨拶)』を先制で叩き込み、奴の機先を制した」
山岸は「なるほど」と言って頷き、手元のカルテを一切見ずに健二の瞳をじっと見つめる。
「ふむ……。それでどうなったんだい?」
「さらに俺は冥府の番犬ケルベロスとの契約に成功した。鎖を解き放ち奴を真の戦場へと誘ったのだ。途中、高位守護者の妨害に遭いそうになったが
私の優れた弁舌によって論破した。だが、これもすべて世界の理を知るための試練に過ぎんがな!」
健二の話は止まらない。15円になったうまい棒が告げる資本主義の終焉、それらの話はもはや支離滅裂な妄想の域を超え、
1つの完成された「叙事詩」として診察室を支配していた。
しかし、山岸院長は健二の無駄に誇張された壮大な話を遮ることなく、時折「なるほど」「それで?」と言って話を促すだけだった。そして健二が
語り終えると、院長は満足げに深く息を吐いた。
「素晴らしい。君の中で世界がこれほどまでに再構築されているとは。君の魂はもはや既存の枠組みには収まりきらないところまで来ているようだ」
老魔術師山岸はペンを走らせ、次に医療従事者としては信じられない指示を出した。
「……よし。君の自己制御能力は極限まで高まっている。この調子ならもはや『エリクサー(抗精神病薬)』など必要ない」
「……えっ?!」
看護師の田中は思わず声を上げそうになり口を手で押さえた。この患者さんはどう見てもおかしいのに薬を出さないの? それはもう
治療を放棄したに等しいのでは?
しかし困惑する田中をよそに健二は立ち上がり、誇らしげに胸を張った。
「老魔術師よ、賢明な判断だ。枷が軽くなれば俺の魔力は真の覚醒を迎えるだろう。次に来る時は虚無の王の首を持ってくることになるかもしれんぞ?」
「ふふ、期待しているよ。勇者ケイン殿」
そう言って健二が意気揚々と診察室を出ていくと、田中はたまらず山岸院長に詰め寄った。
「先生! どういうことですか!? 彼は明らかにおかしいです! 薬を飲まなければ何か事件を起こす可能性がありますよ!」
興奮して詰め寄る田中をよそに山岸院長は眼鏡を外し、ゆっくりとレンズを拭きながら答えた。
「田中君。彼は今、人生で一番幸せなんだ。自分の物語が完結に向かっていることを彼は細胞レベルで感じている」
「幸せなら彼がどうなってもいいって言うんですか!? こんなのが医療と言えますか?!」
「ふっ、君はいつから私が医療行為をしていると錯覚していた?」
「……ッ!? どういうことですか?!」
「答えはじきに分かる。それまでは自分で考えてみたらどうだね?」
そう言って山岸は窓の外を歩く健二の姿を眺めた。彼は横断歩道の真ん中で見えない敵と剣を交えるようなポーズを取っている。
「私はね、彼を『こちら側』の退屈な現実に無理やり引き戻すことが唯一の正解だとは思わないんだ。彼が自らの光で燃え尽きるのを助けるのも、
一つの『救い』だと思っている。……さて、次の患者さんを呼んでくれるかな」
山岸の瞳はまるで遠くの星を見つめているかのように冷たく、そして澄んでいた。田中はすぐに返事をせず
最近見るようになった転職サイトのことを思い出していた。
(……ちょっともう疲れちゃったな)
これ以上ここにいたら、自分まで「現実」という名の地面から足が浮いてしまう。田中はそう思った。
「……失礼します」
田中は小さな声で告げると、次の患者を呼ぶ前に自分のロッカーへと向かった。そして、静かにこの「神殿」を去る決意を固めていた。
遠くの方で山岸院長の穏やかな声が、次の「迷い込んできた勇者」を優しく迎え入れるやり取りが聞こえていた。




