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「……ほう。これほどまでの威圧感。この地にこれほど強力な魔獣が封印されていたとはな」
佐藤健二は住宅街の片隅にある田中家の庭先で足を止めた。彼の視界の先には一匹の柴犬が座っている。名は「小太郎」というようだ。
普段は近所の子供たちに愛想を振りまく大人しい老犬だが、今の健二の目にはその姿は三つの首を持ち、足元から地獄の業火を噴き上げる
伝説の番犬「ケルベロス」として映っていた。
「……案ずるな冥府の守護者よ。俺には聞こえるぞ。貴様の魂がこの『絶望の鎖』に縛られ、自由を求めて咆哮しているのが!」
実際には小太郎はただ左右に揺れる健二のパーカーの紐が気になって、小さく「クゥ」と鳴いただけだ。しかし健二はその微かな声を
「次元の壁を越えて届く戦友への呼びかけ」と解釈した。「エリクサー」を断ったことによって健二の共感能力は今や異種族の言語を
理解するまでに高まっていた。
「虚無の王を討つための旅に貴様のような猛者が必要だ。この卑屈な安寧に甘んじ飼い慣らされたまま朽ち果てるのが貴様の望みか?
否、貴様はかつて神々の戦場を駆け抜けた誇り高き獣のはずだ!」
健二は慎重に、だが大胆に庭へと一歩踏み込んだ。
「今、その呪縛を解き放ってやる。俺と共に世界の果てを見に行こうではないか!」
彼は興奮のあまり震える手で小太郎の首輪に繋がれたリードの金具に手をかけた。彼にとってそれは
「神が作りし究極の封印」を解除する命懸けの儀式であった。
「……ふん。鋼鉄の冷たさを感じるな。だが、俺の『魂の熱量』で焼き切ってくれるわ!」
カチリと、安物のリードの金具が外れる音が静かな朝の住宅街に響いた。
「よし……! 立ち上がれ、冥府の番人よ! 契約は成された! 貴様の主はたった今、この俺――」
「ちょっと! あんた、うちの小太郎に何してんのよ!!」
背後から二階の窓を開けた田中夫人の鋭い叫び声が飛んできた。健二の脳内ではその声は
「聖域を監視する高位守護者の神託」に変換された。
「……ちっ、早くも見つかったか! 案ずるなケルベロス、追手は俺が食い止める! 走れ! その脚で新世界を掴むのだ!」
自由になった小太郎は健二の気迫に押されたのか、それとも単に門の外が気になったのか、勢いよく路上へと飛び出した。
「ワンワン!」と吠えながら通りがかった近所の犬を追いかけて猛ダッシュする小太郎。
「ははは! 見ろ、あの躍動を! あれこそが生命の真の姿だ!」
健二は慌てて家から飛び出してきた重厚な銀の鎧を纏った女騎士、もといエプロン姿の田中夫人の前に立ち塞がった。
「行かせぬぞ! あの魔獣の魂はすでに我と共にある! 奴を再び鎖に繋ぎたければこの俺を倒してからにしろ!」
「何言ってんの、この不審者! 警察! 誰か警察を呼んで!!」
「ほう……『法の裁き(ジャッジメント)』を召喚するつもりか。無駄なことだ、奴等は民草の揉め事には介入せぬ!」
そう言って健二は「雷神の杖(ビニール傘)」を天高く突き上げた。
「我が名はケイン! 世界を救うため地獄の番犬と契約せし者! いかなる神罰も俺の進撃を止めることはできぬ!」
言いながら高笑いを浮かべて健二はその場を後にした。その帰り道では小太郎が他所の犬を噛んだらしく、ちょっとした騒ぎになっていた。
「……ふっ、ケルベロス……自由を得て戦いに目覚めたか……。今はさらばだ、我が友よ。いつか……漆黒の戦場で、再び会おう……」
小太郎と健二。二つの運命が再び交錯する日はそう遠くないように思われた。




