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薄明の空が紫から群青へと溶けゆく午前4時半。佐藤健二は地元では「裏山」と呼ばれるその場所――「静寂の霊峰」の
険しい獣道を突き進んでいた。
山岸院長によって「エリクサー」を半減された彼の視界はもはやフルハイビジョンを超えた超解像度のファンタジー世界だ。木々のざわめきは
精霊たちのささやきであり、足元に広がるシダ植物は「冒険者の歩みを阻む生きた罠」に見える。
今日の彼の目的はこの森の守護者である「黒銀の重装騎士」の捕獲だ。
「……いたぞ。あの古木、間違いなくマナが溢れ出している」
健二は樹液が染み出したクヌギの木を見つけた。彼の瞳にはその樹液が黄金に輝く「世界樹の涙」に映っている。彼は背中の
「雷神の杖(ビニール傘)」を構え、慎重に距離を詰めた。その時だった。
「――ザッ、ザッ」
背後の茂みから明らかな「生物の足音」が聞こえた。健二の脊髄を冷たい戦慄が駆け抜ける。これほどの早朝、この奥深い「聖域」に
足を踏み入れる者が自分以外にいるはずがない。
(まさか……『虚無の王』が送り込んだ刺客か!?)
彼はとっさに振り返り杖(傘)を正眼に構える。そして現れたのは灰色の「隠密装束」を纏い、首に「白い呪印の布」
を巻いた、中年の男だった。
「あ、お、おはようございます……っ!」
あまりの恐怖と動揺に勇者である彼の口から出たのは威嚇と牽制、そして相手の素性を探るための「挨拶」だった。
「……あ、おはようございます」
勇者ケインの挨拶に中年の男は短く返すと、そのまま走り去っていった。ジョギングするにしてもこんな時間にこんな場所を走る時点で謎なのだが、
健二はそれどころではなく、その場に凍りついたまま自分の心臓の音を聞いていた。
「……やってしまった」
彼はがっくりと膝をついた。
「なんという失態だ。この俺としたことが敵に自ら『融和の呪文』を唱えてしまうとは……」
だが、すぐに彼の思考は「勇者」としての防衛モードに切り替わる。
(待て。今の男……ただの村人(NPC)にしては足運びが洗練されすぎていた。あの一定のリズム、あれは呼吸を整えいつでも獲物の頸動脈を断つための
『無拍子』の歩法ではなかったか?!)
健二の脳内では今すれ違った平凡な中年男性が虚無の王直属の暗殺部隊「影の処刑人」へと書き換えられていく。
(あの『おはようございます』という返答も怪しい。あれはただの返答ではない。何らかの精神干渉魔法……もしくは呪詛返しだったに違いない!)
彼は急いで耳を塞いだ。
「危ないところだった。もしあの男の背中を追っていれば、俺は死んでいたやもしれぬ!」
ふと、クヌギの木を見るとそこには一匹のカブトムシが止まっていた。だが、今の健二にはそれが「先程の暗殺者が放った眷属」にしか見えない。
「……ふん。罠か。そうまでして俺を誘い出したいか、虚無の王め」
健二はカブトムシを捕まえるのを諦め、敢えて茂みの中へと身を隠した。
「今日の遠征はここまでだ。敵の斥候に位置を特定された以上、拠点を放棄し、転移(帰宅)せねばならん!」
健二は背後を何度も振り返り、誰もいないはずの闇に「俺を仕留めたければいつでも来い。ただし次は容赦せんぞ!」と鋭い眼光を飛ばしてから、
早歩きで山を下り始めた。
朝日が昇り街が「現実」の色に染まり始める中、佐藤健二だけは誰にも見えない「虚無の王の卑劣な罠」を回避したという高揚感に包まれていた。
その足取りはエリクサーを減らされた副作用による体の震えのせいで、どこか宙に浮いているようだった。




