28
季節はもう春とはいえ4月の太陽の光はまだ弱々しく、窓から差し込む日差しの熱はそれほど気にならなかった。佐藤健二は
聖布(レジ袋)に包んだ折れた聖剣を抱えたまま、「癒しの神殿」の待合室に座っていた。
もはや手詰まりだった。聖剣「真実の残響」はアパートの柱という名の物理障壁に敗北し、ドバイという名の最終エリアへの
渡航手段も見つからない。彼の物語は分厚いコンクリートの壁に突き当たったかのように停滞していた。
「佐藤健二さん、どうぞ~」
やる気の無さそうな看護師に呼ばれ健二は重い足取りで診察室に入った。聖剣と共に心を折られた彼は
「佐藤健二ではなく勇者ケインだ!」と、訂正するような気力すら失っていた。
診察室に入るとデスクを前にして座る老魔術師・山岸は、いつものように冷静な眼差しで健二を迎える。
「やあ、ケイン殿。聖剣を手に入れたと聞いたが調子はどうかな?」
健二は無言で袋の中から二つに折れた模造刀を取り出し、机の上に置いた。銀色の塗装が剥げた折れた木材部分の無残な姿が
淡い室内灯の光に照らされている。
「……折れてしまった。俺の込めた魔力が強すぎたのか、それともこの世界の結界が異常に強固だったのか……。いずれにしても老魔術師よ、
俺は進むべき道を見失った……。次なる神託を授けてくれ」
健二の悲痛な願いに対し山岸は折れた模造刀を一瞥しただけで済ますと、手元のバインダーを指先で軽く叩いた。
「残念だが神託の前に話しておくべき現実がある。ケイン殿、君はここ数ヶ月の『巡礼(受診)』に伴う対価を支払っていない。立て替えている
事務員からもこれ以上の未払いは看過できないとの報告が上がっている。まずは溜めている受診料を払いたまえ」
山岸のその言葉に健二の表情が驚愕と屈辱に歪む。
「……なっ?! 貴様、この期に及んで金の話をするのか?! 世界が、そして俺の魂がこれほどの危機に瀕しているというのに! 勇者であるこの俺に、
資本主義という名の『魂の呪縛』に屈しろと言うのか!!」
「屈しろとは言っていない」
山岸は事務的に眼鏡を拭き直しながら続ける。
「これは等価交換だ。私は魔術師としての知恵を授け、君は対価を支払う。それとも金銭以外に君が私に差し出せるものがあるのかい?」
健二は絶句した。考えてみれば自分には何もない。誇り高き勇者だと自称してはいるがその実、手元にあるのは折れた千円の模造刀と、
今着ている使い古したマウンテンパーカー、そして空っぽのマジックテープ式の財布だけだ。健二は必死に脳内の「アイテムボックス」を検索し、
ひねり出すようにして提案した。
「……わ、分かった。ならば俺が真心を込めて握った『おにぎり』でどうだ? 俺の全魔力を込めた、魂の糧だ。それならば黄金以上の価値があるはずだ!」
しかし山岸は一瞬の間も置かず冷淡に言い放った。
「君の握ったおにぎりなどいらん」
「…………」
「衛生面に重篤な問題がある。それに何より私は米よりもパン派だ。それに感情的な面でも君の握ったものなど不気味で食べる気がしない。金が払えないのなら、
次の神託はないものと思いなさい」
一蹴された。健二の「全魔力を込めたおにぎり」は山岸にとっては「公園で子供が作る泥団子」以下だった。健二は折れた聖剣を震える手で袋にしまい込み、
ガタガタと震えながら椅子から立ち上がる。
「……裏切ったな。貴様も結局は資本主義という名の悪魔の契約に魂を売った一人だったというわけだ!」
「好きに言いたまえ。会計を済ませないのなら君はこの神殿から追放だ」
健二は答えず、逃げるように診察室を飛び出した。呼び止める受付を無視して外に出るとまだ少し冷たい春の風が健二の頬を打った。雨の気配すらない
乾燥した空気が喉に刺さる。
健二は街路樹の根元に座り込み、日が傾いて弱々しくなった春の日差しを浴びながら、いつまでも折れた聖剣の感触を確かめていた。彼を導く光は
どこにもなく、ただ淡々と退屈な日常の景色だけが彼の周囲を流れていっていた。




