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 一人の男が白い壁に囲まれた「癒しの神殿メンタルクリニック」の待合室に座っている。佐藤健二にとって

月に一度の「巡礼(通院)」はあまり心地いいものではなかった。自身の内なる魔力を封印されるからだ。


「えーと、佐藤健二さん。……じゃなかった、勇者ケイン様。どうぞ」


 受付の女性が呼ぶ声に彼は重い腰を上げた。本名は佐藤健二だが彼は診察券の裏に『勇者ケイン』と刻んでいて、そう呼ばないと

暴れたり面倒なことになるので看護師たちはもはや慣れきったような顔で彼を招き入れているのだ。


 入室すると診察室には白衣を纏った老魔術師――山岸院長が椅子に深く腰掛けていた。


「やあ、ケイン殿。前回の『都庁決戦』以来、世界の調子はどうかな?」


 山岸院長は健二の空想を否定しない。それどころかその設定に乗っかってくる油断ならない、もとい理解のある男だ。健二は

「雷神の杖(ビニール傘)」を傍らに立てかけ、椅子に浅く腰掛けた。


「……思わぬ伏兵(警備員)の介入により虚無の王の首は獲り逃した。だが、俺の『魂のソウルランク』は確実に上がっている。最近では

天気予報ですら、古代語の詠唱に聞こえるようになってきた」


 健二は芝居掛かった身振り手振りを交えて語る。マナの奔流、アパートの隣の部屋から聞こえる隣人の呪詛、そしてコンビニの弁当に仕込まれた

微弱な毒……。彼の語る「英雄譚」は誰の目にも明らかに異常だった。山岸の隣で控えていた看護師の田中は手元のカルテを見ながら僅かに顔を顰める。


(前回よりも症状が悪化してるわ。幻聴の頻度が増えて現実との境界がさらに曖昧になってる……。これは薬の種類を増やすか、用量を上げるべき局面ね)


 しかし、健二の話を最後までまるでお伽噺を楽しむ子供のように聞いていた山岸院長は、眼鏡を指先でクイと押し上げると信じられない言葉を口にした。


「なるほど、素晴らしい。よし、ケイン殿。君の魔力がそこまで高まってきたのなら、これまで君を抑えていた『エリクサー(抗精神病薬)』を半分に減らそう」


「……なっ!?」


 声を上げたのは健二ではなく看護師の田中だった。当の健二は一瞬驚いたがすぐに不敵な笑みを浮かべる。


「ほう……。ついに俺から枷を外すというのか。この世界の崩壊だけではすまないかもしれんぞ?」


「君なら制御できるだろう。これからは自分の力でそのマナを操ってみせたまえ」


「ふっ……面白い。いいだろう、老魔術師よ。その試練受けて立とう!」


 健二は満足げに誇らしげな足取りで診察室を後にした。彼が消えた瞬間、看護師の田中は山岸院長に詰め寄る。


「先生! 本気ですか!? 佐藤さんの症状は明らかに悪化しています。薬を減らすなんて火に油を注ぐようなものです。もし何か事件でも起こしたら……」


 山岸は健二が座っていた空の椅子を眺めながら、穏やかな声で言った。


「田中君。彼は今、自分の物語の中で最強の絶頂期にいる。薬でその物語を無理やり薄めようとしても、彼の脳はより強い刺激を求めて、さらに深い妄想で上書きするだけだ」


「だからって、何もしないつもりですか?」


「何もしないんじゃない。飽和させるんだ」


 山岸院長は立ち上がり、窓の外を見つめる。そこにはビニール傘を剣のように振り回しながら、意気揚々と歩道を進む健二の姿があった。


「彼の妄想がこれ以上膨らみ現実という壁を完全に突き破ろうとしたとき、物語は『完結』に向かうだろう。薬で抑えるのではなく、あえて覚醒させることで

彼自身の精神を『臨界点』へと導く……」


 山岸はどこか楽しげに、それでいて冷徹な眼差しで独りごちた。


「これはいわゆる『攻めの医療』だよ、田中君。毒を以て毒を制す。彼が自らの妄想の重みに耐えきれず、脳が『もうこれ以上は無理だ!』と、悲鳴を上げて

逆に過酷な現実へと逃げ込みたくなる瞬間を、意図的に作り出すのさ」


「深いお考えがあってのことなのですね……」


 田中は山岸の慧眼に背筋に冷たいものが走るのを感じる。しかしそれは医療というよりも、一人の人間を極限まで追い詰めるための実験のようにも思えた。


「……ですが、もし彼が現実へと戻ってこられなかったら?」


 田中の質問に、山岸院長は振り向かずに答える。


「その時は彼にとっての『ハッピーエンド』だったと思うしかないね。勇者のままでいられるのなら、ただの中年男性として生きるよりよほど救いがあるだろう?」


 窓の外では夕日に照らされた佐藤健二が横断歩道の白い線を「浮遊する足場」だと思い込み、必死にジャンプして渡っていた。

 その姿は狂気そのものだったが、同時にこの偽りの世界の中で誰よりも輝いて見えた。


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