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 その男にとって新宿駅の雑踏は「嘆きの迷宮」であり、自動改札機は「魔力を検閲し、人々を選別するためのゲート」であった。

 佐藤健二(34)はグレーの使い古されたマウンテンパーカーを「深淵の外套」と呼び、晴れの日にもかかわらず

手にしたビニール傘を「雷神の杖」と勝手に名付けて背負っていた。


「……ふむ、今日のマナの密度は濃いな。そのせいで耐性の無いものに対しては毒となる霧が立ち込めている」


 彼は独りごちながら口角を上げた。実際にはそれはただの排気ガスと、湿り気を帯びた都会の埃に過ぎない。しかし彼の瞳には、

行き交うサラリーマンたちは「自由意志を失った動く死体グレイ・ハスク」として映っていた。だがそれは、勇者として

覚醒する前の佐藤健二の姿そのものであった。


 佐藤健二がこうなってしまったのは3年前、勤めていたIT企業の過酷な労働環境で精神を病んでからのことだ。あまりに鋭利な

現実が精神を切り刻もうとしたとき、彼の脳は防衛本能として世界に「ファンタジーの皮」を被せた。以来、彼は

ハローワークへ行くことを「ギルドでの依頼受注」と呼び、コンビニでの買い物を「野営地での物資交換」と定義した。


「この『命の水』を一つ頼む」


 ファミレスのレジでしわくちゃの千円札を差し出しながら健二は落ち着いた口調で言った。アルバイトらしき青年は困惑した顔で

「……ドリンクバーのことですよね? お会計は後で結構ですよ」と機械的に返した。


 健二は心の中で舌打ちする。――ふん、自由意志を失ってNPCと化した連中はどれもこれも反応が画一的だ。プログラムのアップデートが必要だな。

 彼には壮大な目的があった。この迷宮の最奥――都庁の展望台に座すという「虚無の王」を討伐することだ。それを成し遂げれば、

この狂った世界(残酷な現実)は浄化され、かつての輝かしい王国(自分が幸せだった子供時代)が戻ってくると信じている。


 そして夕暮れ時、彼はついに目的地である都庁の麓に辿り着いた。巨大な二本塔のビルが夕日に照らされて禍々しくそびえ立っている。


「ついに来たか。ここがラストダンジョン『忘却の双塔』……」


 健二は震える手でポケットから「エリクサー(処方された抗精神病薬)」を取り出した。これを飲むと

「世界が平坦になり、自分が勇者では無くなってしまう」ことを彼は知っている。周りの人間はこれを飲めば何かが治ると宣っていたが、

佐藤健二にとってはこれは勇者の力を封印する霊薬という名の枷に等しかった。なので彼はその錠剤を排水溝の中に投げ捨てる。


「俺に枷は必要ない。この世界の真実を暴く時が来た!」


 彼はエレベーターに乗り込んだ。上昇する際の耳鳴りを感じながら、彼は「異界への転移」を確信する。展望室に到着し、

窓の外に広がる東京の夜景を見下ろした。眼下に広がる無数の光の粒。それは彼にとって偽りの世界に囚われた人々の魂の叫びのように見えた。


「見ろ……世界が燃えている。虚無の王よ、どこにいる!」


 彼は叫んだ。しかし展望室には観光客のカップルや自撮りをする外国人観光客がいるだけだった。誰も彼を勇者とは思わないし、世界の破壊者として

敵意を向けることもない。ただ急に大声を出した不審な男として警備員だけがゆっくりと近づいて来ていた。


「他の方のご迷惑になりますので大きな声は……」


 その警備員の制服が健二の目には「黒鉄の重装騎士」に映った。


「ほう、貴様が王の親衛隊か。だが勇者であるこの俺を止められると思っているのか!」


 健二は背中のビニール傘を引き抜いた。


「我が名はケイン! 聖なる光を継ぐ最後の勇者だ!」


 彼は傘を大きく振りかざした。その瞬間、展望室の窓ガラスに自分の姿が映った。

 何日も洗っていないパーカーを着たやつれた顔の中年男。その冴えない男が安物の傘を必死に構える姿。


「……なんだと?!」


 急に視界から「黒鉄の重装騎士」が消え、観光客が手にしている魔導書がただのスマホに戻り、光り輝く街が、ただの冷たいコンクリートの塊に変わった。

 捨てたはずの「エリクサー(処方された抗精神病薬)」の残滓が彼を急に「現実」へと引き戻し、その急激な変化は鋭いナイフのように彼の精神を突き刺した。


「う、ああ……あああ!」


 彼は耐えられず再び強く目を閉じた。死に物狂いで霧散した世界の欠片を脳内でかき集める。


「……ふん、強力な幻術ヴィジョンを見せてくれる。だがその程度で俺の魂を折れると思うなよ!」


 目を開けたとき、彼の瞳には再び「輝ける空想世界」が戻っていた。目の前で急に大声を上げて意味不明な発言をする健二に

心配するように伸ばされた警備員の腕を、彼は「醜悪なる悪魔の手」だと叫びながら狂気混じりの笑みを浮かべてその場から走り去った。


 夕闇の中、どこからかパトカーのサイレンの音が聞こえてくる。健二にはそれが彼を救うために駆けつけた

「白翼騎士団」の突撃ラッパに聞こえていた。そして彼は意味も無く満足げに呟く。


「ふっ、どうやら次の章が始まるようだな……」


 都会の闇はどこまでも深く、そして優しく、彼の狂気を包み込んでいった。


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