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雨に濡れた路地裏。佐藤健二の意識は高熱という名の「紅蓮の浸食」によってもはや現実の輪郭をほとんど留めていなかった。
「はぁ、はぁ……。この世界の酸素がまるで鉛のように重い……。虚無の王の呪縛は大気にまで影響を及ぼすのか……?」
彼はゴミ捨て場の影に座り込み「雷神の杖(ビニール傘)」を杖にして体を支えていた。裏切りの治癒術師・田中を振り切り、
逃亡者となった彼を待っていたのは孤独な戦士にふさわしい「飢え」と「貧困」であった。
そんな追い詰められた状況の中、濡れたコンクリートの上に異質な存在が姿を現す。
「……ッ!? このプレッシャー……まさか!」
健二の瞳が驚愕に大きく見開かれる。目の前のゴミ箱の上に鎮座していたのは何の変哲もない一匹の黒猫だった。しかし
熱に浮かされた健二の視界ではそれは漆黒の体毛を逆立て、瞳に青白い燐光を宿した伝説の魔獣「フェンリル」に見えていた。
「……こんな人の営みから離れた場所に終末を告げる狼の末裔が潜んでいたとは。……クク、運命というやつか? 孤独な勇者と孤独な神獣が出会うとはな!」
健二は震える膝を叩いて立ち上がった。かつてケルベロス(近所の犬)のテイムに失敗した彼は、今度こそ真の仲間を得る好機だと確信した。彼は
ポケットを探り、いつか食べようと思って取っておいた食べかけの「ちくわ(竜肉の欠片)」を取り出した。
「案ずるな黒銀の神獣よ、俺は敵ではない。俺と共にこの腐り果てた資本主義の檻を食い破る気はないか?」
健二はちくわを差し出しながら一歩、また一歩と野良フェンリルとの間詰めを試みた。
「さあ、契約だ。俺の魂の一部を分け与えよう……」
しかし野良猫にとって目の前にいるのは「傷んだちくわを突き出してくる雨に濡れた中年男性」でしかなかった。猫は低く「シャーッ!」と
威嚇の声を上げると、軽やかな跳躍で塀の上に飛び乗ってそのまま闇夜へと消えていった。
「……待て! なぜだ、フェンリル! お前まで俺を見捨てるのか!?」
健二は必死に追いかけようとしたが高熱に侵された足がもつれ、泥水の中に激しく転倒した。そして顔を上げると
そこにはもう魔獣の気配はなかった。ただ遠くで救急車のサイレンが鳴り響き、冷たい雨が彼の頬を打つだけだった。
「なぜだ……。なぜ誰も俺の手を取ろうとしない!」
健二は泥だらけの手を見つめながら嗚咽を漏らした。ケルベロスはテイムできず、治癒術師には裏切られ、そして野良フェンリルにさえも見捨てられた。
「人とモンスター(神秘)の共存はもはや不可能なのか……。この世界が『資本主義』という名の歪んだ理に染まりすぎたせいで、
種族の壁を超えた絆さえも失われてしまったというのだな……」
彼は泥の中に落ちたちくわを拾い上げ絶望に震えた。自分は勇者だ、世界を救う者だ。それなのに誰一人として自分と同じ景色を見てはくれない。俺の
差し出す手は常に拒まれ、その言葉は虚空に消えていく。
(山岸の老魔術師よ……。貴様が封印を解いたこの世界は……あまりに孤独すぎるッ……!)
健二の脳内ではもはや「現実」と「ファンタジー」の境界は完全に消滅していた。彼にとっての孤独感は医学的な疾患ではなく、
宇宙でたった一人の「正義の保持者」になってしまったことへの実存的な悲鳴だった。
「……ふっ、いいだろう。共存が叶わぬというのなら俺は独りで果てるまでだ。だが虚無の王よ、俺が倒れる際は貴様の喉元に
この『雷神の杖』を突き立ててやる!」
健二は泥まみれのまま再びフラフラと立ち上がった。雨脚はさらに強まり彼の意識の灯火を消しにかかる。
内なる魔力の高まりは佐藤健二から「他者への希望」を奪い去った。彼は今、この巨大な都会という名のダンジョンで
誰も知ることのない「悲壮な決意」を胸に孤独な戦いへと向かおうとしていた。




