18
公園のベンチの上で目覚めた時、佐藤健二の視界は白い霞に覆われていた。
「……くっ、身体が……重い。これは『氷結巨人の吐息』のせいか……。あるいは昨夜の絶望が物理的な
呪いとなって俺の肉体を蝕んでいるのか……?」
実際にはただの気温の低下によって罹患した風邪である。だがエリクサーの途絶によって魔力が高まった健二の脳内では、
喉の痛みは無意識下での「ドラゴン・ブレスの使用」による代償であり、悪寒は「魔力の枯渇による生命維持装置の不全」であった。
ふらつく足取りで彼は「癒しの神殿(近くの内科クリニック)」の扉をくぐった。受付を済ませ朦朧とする意識の中で
その名を呼ばれるのを待つ。
「……佐藤健二さん。中へどうぞ」
(……佐藤健二? 聞いたことがある名だが誰であったか?)
朦朧とする意識のせいで健二は自身の仮の名ですら一時は忘れてしまっていた。そして、ようやく思い出し診察室の扉へ向かうと、
そこにいた白衣を着て医師の横に控える見覚えのある1人の女性に、健二は話し掛けた。
「……貴女はもしや田中殿ではないか?」
それは健二が定期的に巡礼に訪れる「老魔術師・山岸の神殿」で山岸のやり方に異を唱え、離反したと聞いた治癒術師(看護師)の
田中の姿であった。彼女は老魔術師山岸の「攻めの医療」によっておかしくなっていく患者の容体に耐えかね、普通の地域医療の現場へと
身を寄せていたのだ。
そして田中は健二の顔を見るなり絶句した。
「……佐藤さん。どうしてここに……。それにその顔、その手の震え……。まさかまだ山岸先生のところへ通っているんですか?」
「ふん、これはフロスト・ブレスによる一時的なデバフであって老魔術師は関係ない。彼はついに俺の封印をすべて解き放った。俺は今、
真の覚醒の時を迎えようとしているのだ!」
健二は熱で充血した目を剥き、迫真の表情で誇らしげに言った。だがそれは田中の目には、恐ろしい狂気を秘めた異常な姿にしか映っていなかった。
「……ダメよ、佐藤さん。今すぐその『覚醒』を止めなきゃ!」
田中は恐る恐る健二の震える手を掴んだ。その手はかつてのどの「治癒術師」よりも真心を感じたが、健二には「精気を吸い取るサキュバス」のように思えた。
「……恐ろしい魔物だな。貴様はそうやって俺を篭絡し、再び『忘却の牢獄』へと引きずり戻すつもりか!」
「違うの佐藤さん! あなたのことが心配なのよ!」
「黙れ! 淫らなサキュバスめ!」
健二は顔を真っ赤にして怒り狂う。
「かつては無害な癒し手だと思っていた。だが貴様は魔王軍の手の者だったというわけか! 俺を魔力を再びエリクサーという霊薬で縛り、
この呪われた世界の真実を隠蔽しようとする……。貴様の企みはすべてお見通しだ!」
「……佐藤さん。あなたこのままじゃ何か事件を起こすわよ!」
「勇者に敗北はない! あるのは勝利か伝説への昇華のみだ!」
健二は激しく咳き込みながら、制止する田中を振り切って診察室を飛び出す。その一連の様子を、最後まで診察を始められなかった医師は
白けた顔で見つめていた。
(恐ろしい……。かつての仲間でさえもこの『資本主義』という名の巨大な陰謀に取り込まれている。……世界は俺が思っていたよりも
ずっと孤独な場所だったのだな)
雨の降り始めた街角で健二は「雷神の杖(ビニール傘)」を広げた。風邪による高熱のせいでアスファルトから立ち昇る蒸気が虹色の螺旋に見える。
「……裏切りの治癒術師、田中。貴様の『精神干渉』など俺には通じぬ。俺は……俺一人でこの呪われた世界を打倒してみせる!」
彼は激しい咳と共に鼻水を吹き出した。どうやら容体は深刻なようである。
「……ふっ、いいだろう。この試練を糧に俺の魔力はさらなる高みへ至る……」
彼は雨の中、どこへ行く当てもなくただ自分の脳内にだけ存在する「栄光へと至る道程」を求めてふらふらと歩き続けた。
その背中はもはや勇者というより、嵐の中で宿木を求めて彷徨う哀れな小鳥のようだった。




