17
真冬の公園のベンチ。街灯の光が佐藤健二を冷たく照らしている。
「……クク、ハハハ。全滅か。すでに俺以外の全人類があの魔塔の軍門に降ったというのか……」
乾いた笑いが誰もいない深夜の公園に響く。戦友の村田は「ローン」という名の枷に繋がれ、ケルベロスも
未だ獄に囚われたままだ。この世界は目に見える暴力ではなく「金銭の多寡」という邪悪な呪いによって統治されている。そのあまりに
巨大で洗練された支配構造に健二は初めて「勇者」としての己の限界を感じて膝をついていた。
「おい、あんちゃん。景気が悪そうな顔してどうした?」
不意に隣のベンチから濁った声が聞こえる。健二が顔を向けるといつの間にかそこにいたのは、ワンカップの酒(低級ポーション)を煽り、
赤い顔をした初老の男だった。ボロボロのコートを羽織り無精髭を生やしたその姿は、健二の瞳には「世俗を捨てた老賢者」として映った。
「……賢者よ、俺を笑いに来たか。世界が資本主義という名の暗黒魔法に呑まれるのをただ眺めているだけしかできないこの俺を……」
「資本主義? ははっ、違いねぇ! あんちゃんも気づいたんだな、この世は『搾取』という名の巨大な歯車で回ってることによ!」
酔っ払いは空を仰ぎ熱っぽく語り始めた。
「いいか、あんちゃん。今こそ必要なのは『平等な世界』だ。私有財産という概念を取っ払い、すべての国民が等しく財産を分かち合う……。誰一人として
金に縛られず、労働の果実を共有する『理想郷』。それこそがこの世の中を変える唯一の方法――つまりは共産主義ってやつだ!」
健二は目を見開いた。
(……共産主義? ……たしかに聞いたことがある。かつて東方の巨大な帝国が強欲な資本の魔神に対抗するために編み出したとされる伝説の集団魔術!)
「金なんて紙切れに価値を持たせるから人は孤独になるんだ。すべてを公共の財産にすれば大企業もそいつらが保有するビルも、ただのコンクリートの
塊にすぎねぇ。あんちゃん、この街だって本来は万民のものなんだよ!」
健二の心に新たな希望の灯がともった。
孤独に戦う必要はなかったのだ。すべてを等しく分配し、個人の所有を否定すればあの「限度額」や「利子」といった呪いは意味をなさなくなる。
「……おお、賢者よ。貴殿の導きに感謝する。その『理想郷』さえ実現すれば俺は孤独ではないのだな?」
「おうよ。みんなで肩を組んで地上の楽園を謳歌するのさ……」
酔っ払いは満足げに笑い、ワンカップを飲み干した。だがその時、酔っ払いがポケットからスマートフォンを取り出し、
画面を確認した瞬間のことだった。男の顔から一気に「理想」の色が剥げ落ちた。
健二が横から画面を覗き見るとそこには一通の通知。
『今月の住宅ローンの引き落としが完了出来ませんでした』
「……げえっ。マジかよヤベェ、もうそんな日なのかよ……」
男は震える手で画面をスクロールした。
「あと……あとまだ15年もあんのか? くそっ、月々8万……。あと15年もあのクソったれな工場で働かなきゃならねぇのか……」
健二は急に男の背後に浮かび上がる「巨大な幻影」を目撃した。それはカード会社のビルよりも巨大でより禍々しい漆黒の時計。針はゆっくりと
男の寿命を削るように回っている。時計の盤面には血のような文字で『35年ローン(悠久たる魂の呪縛)』と刻まれていた。
「……賢者よ。貴殿の背負っているその恐ろしい『呪い』は何だ?」
「え? ……ああ、これか。いやぁ若い時にな、子供もいたしつい『自分の城』が欲しくて組んじまったんだよ。……理想郷が
どうのなんて言ったって結局、毎月の支払いに追われてりゃおしまいさ……。あんちゃんは俺みたいになるなよ! ハハ、ハハハ……」
酔っ払いは先ほどまでの熱量を失い、ただの「長年の呪いにより疲弊した老人」になってよろよろと夜の闇へ消えていった。健二は夜の公園に
再び一人取り残された。
(……そんな……そんな馬鹿な!)
共産主義という理想郷を語る賢者でさえ、その本質は「35年」という気の遠くなるような長い時を拘束された奴隷だった。自由を説く者も
施しをくれる家族も共に歩む戦友も、すべてがこの「資本主義」という名の呪縛に絡め取られている。
「……もはや人類に逃げ場はないのか?」
健二は強く拳を握った。この世界にあるすべての建物、すべての人間、すべての空気が「負債」と「利子」という名の暗黒物質で
構成されているように見えた。
「……もはや誰も信じられぬ。……俺はもはや1人の勇者ですらない。俺は……資本主義という名の『巨大な搾取構造』に囚われた
囚人の1人に過ぎなかったのだ!」
健二はベンチの上に「雷神の杖(ビニール傘)」を置き、空を仰いだ。不夜城のようなビル群の煌々とした明かりが健二の網膜を焼く。
彼はもはやカード会社を奇襲する気力さえ失っていた。いや、その目的ですら彼方へと忘却していた。なぜならば世界はすでに
健二には攻略不可能なまでに「完成」されていた。
彼は孤独に震えながら自分の中に残った最後の矜持をかき集めた。
「……ふん、いいだろう。ならばせめて俺だけでもこの世界そのものを『否定』してやる!」
狂気の底で佐藤健二は新たな「革命のシナリオ」を書き始めようとしていた。老魔術師山岸の望んだ「臨界点」は近いのか
それともまだ遥か彼方にあるのか、それはまだ誰にも分からなかった。




