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「……ふっ。今日の『深淵の排水路(下水道工事)』も無事に守り抜いたな」
夕暮れ時、漆黒のレクサスは再び都道の喧騒を滑るように走っていた。
助手席に座る佐藤健二は本革シートの沈み込むような感触に身を委ね、窓の外を流れる景色を眺めていた。一日中「聖棍(誘導灯)」を片手に
仁王立ちして虚無の退屈と戦い抜いた後の疲労感は、彼にとって「聖戦」を終えた戦士のような心地良さがあった。
静寂の車内。ふと、健二の心にこの「高級馬車」の主である村田への奇妙な関心が芽生えた。今日一日、共に命を預け合い(離れて立っていただけだが)、
この沈黙を共有した男。彼なら俺の「真実」を受け止める資格があるのではないか? そう考えた健二は意を決して口を開いた。
「……村田殿。貴公に話しておかねばならんことがある」
村田は片手でハンドルを回しながら眠そうに「あぁ? なんだよ。金の貸し借りの話なら受けねえぞ」と返した。
「そうではない。……俺の正体のことだ」
健二は声を潜め重々しく告げた。
「俺の真の名は、ケイン。……この穢れた現世を浄化し虚無の王を討つ宿命を背負った、最後の勇者だ」
車内に沈黙が流れた。レクサスの優れた静粛性がその告白の重みを不気味に強調しているかのようだった。しかし当の村田は
数秒の間を置いて至極、面倒くさそうに答えた。
「勇者ねぇ……。ま、佐藤がそう思ってんならそうなのかもな。頑張れよ」
健二は村田が自分の言葉を信じたのだと(勝手に)確信し、満足げに頷く。
「……分かってくれたか。やはり貴公はただの村人ではないと思っていた。俺の勇者としての魂が貴公という器の大きさを――」
だが村田が信号待ちで車を止め、何気なく続けた言葉が健二の心臓を氷結させた。
「でも佐藤よお。よく分かんねぇけど、自分が勇者だなんてペラペラ喋っちゃって大丈夫なのかあ? 勇者なんて魔王軍からすりゃ
一番の邪魔者だろ? そんな簡単に正体バラしたらさ……どこで誰が聞いてるか分かんねえし『アサシン』とかが押し寄せてくんじゃねえの?」
「…………ッ!!」
健二の全身から血の気が引いた。衝撃と悔恨。それは己のあまりの迂闊さから来るものであった。
(……そうだ。なんという、なんという致命的なミスを……!)
健二の脳内では村田の極めて現実的なアドバイスが響き渡っていた。老魔術師山岸にエリクサーを断たれ、全能感に酔いしれていた彼は
隠密行動の基本を忘れていたのだ。
(俺は……自ら情報をリークしたというのか!? この『伝声の魔石』が常に周囲の音を拾い、虚無の王の諜報網(SNS)に
繋がっているこの時代に! 勇者ケインの居場所が特定されれば魔王軍は総力を挙げて俺を抹殺しに来るに決まっている!)
「……なんという、なんということだ……!」
健二は震える手で慌てて車の窓を閉めきっているか確認し、それからバックミラーを覗き込んだ。後方に走る軽トラックはさっきまでは
ただの車に見えていた。だが今はどうだ? 荷台に積まれたブルーシートの下に俺を暗殺するための「魔導狙撃銃」を構えた
狙撃手が隠れているのではないか? 歩道を歩くサラリーマン。あれは本当に帰宅を急ぐ一般人か? 耳に手を当てている……。魔王軍へ報告しているのか?
『目標、黒い馬車にて拠点へと移動中』と!
「……村田殿! 速度を上げろ! すでに追手による包囲網が敷かれている!」
「はぁ? 何言ってんだよ、ここはオービスあるから法定速度守んねぇとヤベェだろ! っていうか、そんなにビビるなら最初から自分が勇者とか言うなよ」
「う、うぐ……ッ! 貴公の言う通りだ……! 俺は3年間も魔王軍の襲撃がないことで油断していた……ッ!」
健二はシートの隙間に身を沈め外から見えないように小さく丸まった。高級車の本革の香りが今は死を待つ棺桶の臭いに感じられる。村田の
何気ない「ツッコミ」は健二の世界に「追われる恐怖」という新たな燃料を投下してしまった。
(守りを固めねば……。俺の居場所が割れた以上、拠点はもはや安全ではない。……ああ、どこだ? どこなら奴らの眼から逃れられる!?)
「おい、佐藤。顔色悪いぞ、大丈夫か? さっさと事務所で報告書出して終わらせようぜ」
「報告書……。ふん、俺の行動記録を提出しろというのか……。……くっ、それがもし魔王軍に奪われたとしたら……?」
「大丈夫だって、魔王軍もそんなに暇じゃねぇよ」
事務所に到着するまでの間、健二は一秒たりとも油断しなかった。レクサスのラグジュアリーな乗り心地は、
今や「獲物を運ぶための最高級の護送車」へと変貌していた。佐藤健二はようやく「自分は魔王軍に命を狙われる存在」だということに気付き、
その狂気のステージを一段階引き上げることへ至った。
そして車を降りる際、彼は村田に「……この恩は来世で返す」とだけ言い残し、背後を十回以上振り返りながら夜の闇へと
溶け込むように走り去っていった。
「いや、生きてるうちに返せよ」
村田の冷静なツッコミが夜の闇へと虚しく響いていた。




